S01-P01 「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件

第1話: 「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件

第1アーク · 8,119文字 · draft

秋の王都は、黄金色の並木道が美しい。

馬車の行き交う大通りを、私はセドリック様と二人で歩いていた。王族がこうして気軽に散策するのは本来好ましくないのだけれど、護衛を少し離れた位置につけ、時折こうして「普通の夫婦」のように街を歩くのが、私たちのささやかな楽しみだった。

「カタリナ、あの店に新しい紅茶が入ったそうだ。帰りに寄ろうか」

「ええ、ぜひ。セドリック様がお好きなダージリンの新茶があるかもしれませんわ」

穏やかな午後だった。
 二年前に結婚してから、こんな日常が当たり前になった。かつての私には想像もできなかった、温かくて、静かで——何より、対等な日々。

その平穏を破ったのは、一つの声だった。

「——カタリナ」

低く、かすれた声。
 聞き覚えがあるような、ないような。

振り向くと、そこに立っていたのは一人の男だった。
 汚れた外套(がいとう)(まと)い、頬はこけ、かつて艶やかだったはずの金髪は色褪せて乱れている。青い瞳だけが、異様な光を帯びていた。

「カタリナ……僕だ。僕を、覚えているか」

セドリック様の手が、私の手をそっと握り直す。護衛が一歩前に出ようとするのを、私は目で制した。

男を見つめる。
 ——ああ。

「あら、どなたでしたっけ?」

私は微笑んだ。五年の歳月は人をここまで変えるのかと、少し驚きながら。

「僕だ! ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム——いや、もう姓は名乗れないが……頼む、カタリナ。話を聞いてくれ」

ヴィクトル。
 ああ、そうだ。その名前。かつて私の婚約者だった男。私を「道具」と呼んだ男。

「……ああ、思い出しました」

私は変わらず微笑んだまま、小さく頷いた。

「お久しぶりですね。随分とお変わりになられて」

あの日のことを、思い出す。
 五年前——卒業式の、夜のこと。


王立学園の卒業記念舞踏会。
 シャンデリアの光が広間を華やかに照らし、若い貴族たちが晴れやかな顔で語り合っていた。三年間の学園生活の最後を飾る、最も華やかな夜。

私はいつものように、ヴィクトル様の隣に立っていた。
 淡い青紫のドレス。髪はきちんと結い上げて。完璧な侯爵令嬢として、完璧な婚約者として。

ヴィクトル様は相変わらず社交的で、誰とでも朗らかに言葉を交わしていた。端正な顔立ち、爽やかな笑顔、隙のない立ち振る舞い。学園一の好青年と評されるのも頷ける——表の顔だけを見れば、の話だけれど。

「みんな、少し聞いてくれ」

突然、ヴィクトルが広間の中央で声を上げた。
 周囲の会話が止まり、視線が集まる。

——ああ、来た。

私の心は、凪いでいた。

「僕は今日、一つ報告がある」

ヴィクトルは私の方を向いた。その唇には、完璧な微笑み。けれどその目の奥には、隠しきれない愉悦があった。他人を踏みにじることに快感を覚える人間特有の、あの光。

私は知っている。ずっと前から。

「カタリナ。君との婚約を、今日をもって解消する」

広間にどよめきが走った。
 令嬢たちが息を呑み、令息たちが眉をひそめる。衆人環視の中での婚約破棄——それがどれほどの侮辱であるか、この場にいる誰もが理解していた。

「ヴィクトル様……?」

私は驚いたふりをした。目を見開き、一歩後ずさる。完璧な演技だった——いえ、そう見えるように練習していたのだから当然だ。

「悪く思わないでくれ」

ヴィクトルは両手を広げ、芝居がかった仕草で言った。

「正直に言おう。お前は——僕が公爵令嬢に近づくための道具だったんだ」

沈黙が、落ちた。

「侯爵家の婚約者という肩書きは便利だった。お前の人脈も、お前の家の資産も。全部、僕がマルガレーテ嬢に近づくための足がかりだ。感謝しているよ、カタリナ」

彼の隣に、一人の令嬢が進み出た。エルンスト公爵家のマルガレーテ嬢。豊かな栗色の髪、翡翠の瞳。確かに美しい人だ。彼女は少しばかり居心地が悪そうに——けれど誇らしげに、ヴィクトルの腕に手を添えた。

「僕とマルガレーテ嬢は、正式に婚約した。こちらが本当の相手だ」

周囲からは驚愕と、それから私への同情の視線。
 哀れなカタリナ。道具として使い捨てられた侯爵令嬢。

——ふふ。

私は唇の端を持ち上げた。

「そうでしたか」

静かに、穏やかに。いつもの微笑みを浮かべて。

「それはおめでとうございます。どうぞ、お幸せに」

深く、優雅にお辞儀をした。
 一滴の涙もこぼさず。声も震えず。

ヴィクトルの目に、一瞬だけ戸惑いが()ぎったのを、私は見逃さなかった。泣きじゃくる姿を期待していたのだろう。すがりつく私を振り払う場面を想像していたのだろう。

残念。あなたの筋書き通りにはいきませんよ。

踵を返し、広間を出る。
 背後でどよめきが続いていたが、振り返らなかった。

廊下に出て、一人になって。
 ようやく、小さく息を吐いた。

——ようやく。ようやく言ってくれましたね、ヴィクトル。

「道具だった」。その言葉を、あなた自身の口から聞きたかった。

かつて好きだった人だから。十五歳の私が頬を赤くして見上げた人だから。その人が本当に、私を人として見ていなかったのか——自分の耳で確かめたかった。

確認できた。

だから、もう迷わない。

「これで——遠慮なく、動けます」

私は微笑んだ。今度は誰に見せるためでもなく。


話は少し(さかのぼ)る。

ヴィクトルの正体に気づいたのは、卒業式の一年前——学園二年目の冬のことだった。

きっかけは、実家の帳簿。
 侯爵家の令嬢として財務の基礎を学んでいた私は、休暇で実家に戻った折、ある不審な項目に目を留めた。

「贈答品費用……?」

ヴィクトル様経由の支出が、異様に膨らんでいた。
 社交のための贈答品——名目はそうなっている。けれど、金額が合わない。侯爵家の格式に見合う贈答にしても、あまりに多すぎる。

最初は何かの間違いだと思った。
 ヴィクトル様を疑いたくなかった、というのが正直なところだ。まだあの頃の私は——ほんの少しだけ、彼を信じたい気持ちが残っていたから。

けれど数字は嘘をつかない。

私は信頼できる密偵を雇った。父の古い友人が紹介してくれた、腕利きの情報屋だ。表向きは商人をしているその人物に、ヴィクトルの行動を調べてほしいと依頼した。

結果は——想像以上だった。

ヴィクトルは私の家から引き出した資産を、公爵令嬢マルガレーテへの贈り物に流用していた。高価な宝飾品、珍しい書籍、異国の織物。全てカタリナの家の金で、別の女性の歓心を買っていた。

それだけではない。
 ヴィクトルはマルガレーテ嬢と定期的に密会していた。学園の裏庭、王都の高級料理店、郊外の別邸。密偵が持ち帰った報告書には、日時と場所が克明に記されていた。

「……そう」

報告を受けた夜、私は一人、自室で帳簿を開いた。
 横領の額を一つずつ洗い出し、証拠を整理した。感情を殺して、数字と向き合った。

泣きたくなかった、と言えば嘘になる。
 好きだった人だ。初めての婚約者だ。十五歳の私が夢見た未来が、帳簿の上で崩れていくのを見るのは——それなりに、堪えた。

けれど泣いている暇はなかった。

泣けば、負ける。
 感情に溺れれば、判断を誤る。
 私がすべきことは涙を流すことではなく、証拠を揃えることだった。

一年をかけた。
 帳簿の不正。密会の記録。横領の金の流れ。ヴィクトルの本当の目的。全てを完璧に裏付ける証拠を揃えるのに、まるまる一年。

そしてその証拠を——私は第二王子セドリック殿下にお渡しした。

セドリック殿下を選んだのには理由がある。殿下は学園時代から不正を嫌う方として知られていた。権力に媚びず、正義を重んじる。何より——証拠を握り潰すような方ではない。

「これは……」

証拠の束を受け取ったセドリック殿下は、しばらく無言で目を通し、それから顔を上げた。

「ヴァレンシュタイン嬢。これを集めるのに、どれだけかかった」

「一年ほどです」

「一年」

殿下は目を細めた。怒りでも同情でもない、何か——敬意に近い光が、その瞳にあった。

「君は今、怒りで震えているのに笑っている」

指摘されて初めて気づいた。私の指先が、小さく震えていたことに。

「……お見苦しいところをお見せしました」

「いいや」

セドリック殿下は静かに言った。

「証拠は確かに預かった。しかるべき手続きを取る。——だが一つ聞いてもいいか。なぜ今すぐ告発しない? 卒業を待つ理由は何だ」

「……彼の口から、聞きたいのです」

「聞きたい?」

「私が本当に道具だったのかどうか。彼自身の言葉で。——自白があれば裁判もより確実になりますし」

それは半分本当で、半分は言い訳だった。
 本当の理由は——確かめたかっただけ。かつて好きだった人が、最後の最後まで私を人として見ていなかったのかどうか。

もし万が一、ヴィクトルが思い直すなら。もし卒業式の日に彼が「すまなかった」と言うなら——。

そんなことは起きないとわかっていた。わかっていて、なお一縷(いちる)の望みを捨てきれなかった。あの頃の私は、まだどこかで。

けれど結果は、ご存じの通りだ。

「お前は道具だった」

彼はそう言って、笑った。
 一縷の望みは、あの夜、完全に消えた。


卒業式の翌日。
 ヴィクトルがマルガレーテ嬢との婚約を高らかに宣言した、まさにその翌日に——全てが動き出した。

セドリック殿下が王宮の裁判所に証拠を提出した。
 横領の帳簿。資産の流れを示す書類。密偵の報告書。一年かけて集めた証拠は、一分の隙もなかった。

ヴィクトルは弁解を試みた。
 「誤解だ」「カタリナが自分に使ってくれと言った」「侯爵家との合意の上だ」——どれ一つ、証拠の前には通用しなかった。

裁判は迅速だった。
 証拠が完璧すぎて、争う余地がなかったのだ。

判決——横領の罪により、ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイムの爵位を剥奪。財産を没収。社交界からの永久追放。

ヴィクトルの実家であるレーヴェンハイム子爵家も、監督責任を問われて連座の処分を受けた。子爵位は降格され、かつての名家は見る影もなく没落した。

そして——公爵令嬢マルガレーテ嬢も、真相を知るに至った。

マルガレーテ嬢は聡明な方だった。自分が受け取っていた贈り物の全てが、別の令嬢の家から横領された金で購入されたものだと知ったとき、彼女は蒼白になったと聞く。

「私も、利用されていたのね」

マルガレーテ嬢はヴィクトルとの婚約を即座に破棄した。
 そしてある日、私のもとを訪れた。

「ヴァレンシュタイン嬢。——本当に、申し訳なかった」

「あなたが謝ることではありませんわ、マルガレーテ様。あなたも被害者です」

「それでも」

マルガレーテ嬢は深く頭を下げた。その姿に、私は不思議と清々しいものを感じた。この方は——きちんとした人だ。騙されていたとはいえ、自分の非を認められる人だ。

「顔を上げてください。私はあなたを恨んでなどいませんよ。恨むべきは、私たち二人を利用した人です」

それきり、マルガレーテ嬢とは穏やかな関係が続いている。社交の場で顔を合わせれば微笑みを交わす程度だが——あの日交わした言葉は、お互い忘れていないと思う。

ヴィクトルの転落と入れ替わるように、私とセドリック殿下の距離は少しずつ縮まっていった。

最初は証拠の件で何度もお会いする必要があった。裁判の経過報告、追加の証言、手続きの確認。事務的なやり取りのはずだったのに——いつからか、殿下は裁判と関係のない話もしてくださるようになった。

「カタリナ嬢。今日は裁判の話ではなく、一つ聞いていいか」

「はい、何でしょう」

「好きな花はあるか」

「……は?」

「いや、庭園の花を植え替えようと思ってな。参考に」

あまりに唐突で、思わず噴き出してしまった。殿下は少し耳を赤くして、不器用に目を逸らした。

——ああ。この方は、嘘がつけない人だ。

ヴィクトルとは正反対だった。
 甘い言葉を囁くわけでもなく、大げさな贈り物をするわけでもなく。ただ不器用に、正直に、真正面から向き合ってくれる人。

「すずらんが好きです」

「すずらん」

「小さくて、目立たなくて。でも芯が強い花です」

殿下は黙って頷いた。
 次にお会いしたとき、殿下の庭園の一角に、すずらんが植えられていた。何も言わず、当然のように。

卒業から二年後、セドリック殿下は正式に求婚してくださった。

「君を道具として見たことは、一度もない。これからも、決してない。——僕と共に歩いてくれるか」

あの日、初めて——本当に初めて、私は人前で涙を見せそうになった。

「……はい。喜んで」

こうして私はセドリック殿下の妻となり、今は王子妃として穏やかに暮らしている。

復讐がしたかったわけではない。
 ヴィクトルを陥れたかったわけでもない。
 ただ、正しいことをしただけだ。不正を不正として告発し、証拠を然るべき場所に渡しただけだ。

結果としてヴィクトルが没落したのは——彼自身の行いの報いであって、私の企みではない。

少なくとも、私はそう思っている。


——さて。回想はここまでだ。

目の前には、五年の歳月に磨り潰された男が立っている。

かつて学園一の好青年と呼ばれたヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム。端正な顔立ちは頬がこけて影を落とし、自慢の金髪は褪せて束になり、仕立てのいい衣服の代わりに汚れた外套を纏っている。

けれど青い瞳だけが、あの頃と同じ光を帯びていた。何かを欲しがる、飢えた光。

「カタリナ……頼む。話を聞いてくれ」

「ええ、聞いていますよ」

私は微笑んだ。いつもの笑顔。仮面のように完璧な笑顔。

「僕が間違っていた」

ヴィクトルは一歩近づいた。護衛が身じろぎしたが、セドリック様が手で制した。

「あの時は若かった。愚かだった。本当に大切なものが何か、わかっていなかったんだ」

「まあ」

「君だったんだ、カタリナ。本当に愛すべきだったのは、ずっと君だった。今ならわかる。だから——もう一度、やり直してくれないか」

やり直す。

その言葉を聞いて、私の中で何かが静かに凪いだ。怒りでも悲しみでもない。ただ——とても澄んだ、冷たい水のような感情。

「やり直す?」

私は首を傾げた。

「何を、です?」

「僕たちの関係を——」

「私とあなたの間に、やり直すようなものがありましたか?」

ヴィクトルの顔が強張った。

「あなたはかつて仰いましたよね。『お前は道具だった』と。道具と使い手の間に、やり直すべき関係があるとは——私には思えないのですけれど」

「あれは、あの時は本気じゃ——」

「本気でしたよ」

静かに、けれど確信を持って言い切った。

「あの夜のあなたの目。私はよく覚えています。あれは心の底から愉しんでいる人の目でした。人を踏みにじって、それを誇らしく思っている人の目」

「違う、僕は——」

「五年前、あなたが笑いながら『道具だった』と言ったとき」

私は一拍置いた。微笑みを崩さないまま。

「私の中のあなたは、死にました」

秋風が、並木道を吹き抜けた。
 黄金色の葉が二人の間を舞い落ちる。

「今ここにいるのは、私の知らない人です。私の知っていたヴィクトル様は——存在しなかった。最初から、どこにも」

ヴィクトルの顔から血の気が引いていくのが見えた。
 それから——その表情が、ゆっくりと歪んだ。

「お前が……」

低い声。震えている。怒りか、それとも別の何かか。

「お前が、僕を嵌めたのか」

ああ、やはり。
 そう来ると思っていた。追い詰められた人間は、必ず他人のせいにする。自分が蒔いた種だとは、決して認めない。

「証拠を集めて、王子に渡して、僕を——!」

「嵌めた?」

私が言葉を返すより先に、隣からセドリック様の声が響いた。

「彼女は嵌めてなどいない」

セドリック様が一歩前に出た。穏やかだが、有無を言わさない声。王族としての威厳が、その一言に滲んでいた。

「カタリナは正当な手続きで告発しただけだ。証拠を集め、裁判所に提出し、法に委ねた。それだけのことだ」

「だけ、だと——」

「嵌めたのではない。お前が自分で墓穴を掘ったんだ」

セドリック様の言葉は静かだったが、その場の空気を完全に支配していた。

「横領をしたのはお前だ。他人の資産を流用したのもお前だ。婚約者を道具と呼んで切り捨てたのもお前だ。その全てがお前自身の選択だ。カタリナはそれを記録しただけに過ぎない」

ヴィクトルの唇が震えた。
 何か言い返そうとして——言葉が出てこないのだろう。反論できる材料が、何もないのだから。

「衛兵」

セドリック様が短く呼んだ。控えていた護衛が二人、すっと前に出る。

「この者を下がらせろ。王子妃に無礼を働いた」

「待ってくれ——カタリナ! カタリナ!」

衛兵に両腕を掴まれながら、ヴィクトルが叫んだ。その声はもう、かつての爽やかさの欠片もない。ただ必死で、みっともなくて——哀れだった。

「僕は変われる! やり直せるんだ! 頼む——」

私は振り返らなかった。

「——頼む」

最後の声が、秋風に溶けて消えた。


馬車の中で、私は黙っていた。

セドリック様も、しばらく何も言わなかった。
 ただ隣に座って、私の手をそっと握ってくれていた。

「……セドリック様」

「ん?」

「少し、眠いです」

「そうか」

セドリック様は私の頭をそっと自分の肩に寄せた。

「寝ていいぞ。家に着いたら起こす」

「……ありがとうございます」

嘘だ。眠いわけではない。
 ただ——顔を見られたくなかった。

頬を、涙が伝っていた。

五年間。ずっと泣かなかった。
 ヴィクトルに道具と呼ばれたあの夜も。証拠を整理しながら眠れない夜を過ごしたときも。裁判の経過を聞いたときも。

泣いたら負けだと思っていた。涙を見せたら、仮面が剥がれてしまうと。

でも、もう。

「……終わりました」

声が震えた。堪えきれなかった。

「ようやく……終わりましたわ」

セドリック様の手が、私の手を少しだけ強く握った。

「ああ。終わったよ」

静かな声。温かい手。それだけで十分だった。

涙が止まらなかった。悲しいのではない。悔しいのでもない。ヴィクトルが哀れだからでもない。

ただ——安堵していた。

五年間被り続けた仮面を、ようやく外せた。道具ではなく一人の人間として、泣くことを自分に許せた。それがただ、どうしようもなく嬉しかった。

馬車の窓の外を、黄金色の葉が流れていく。

秋の王都は、今日も美しい。

「……セドリック様」

「ん」

「すずらん、まだ咲いていますか。お庭の」

「当たり前だ。毎年咲く。来年もその先も」

「……そうですか」

私は目を閉じた。
 セドリック様の肩に寄りかかって。涙の跡が乾いていくのを感じながら。

道具ではない。
 踏み台でもない。
 この人の隣で、私は私として生きている。

それだけで——もう、十分だった。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今作は、なろうで大人気の「婚約破棄」テンプレに自分なりのアレンジを加えてみた作品です。公衆の面前で捨てられるヒロイン——でも実は一年前から全部知っていて、証拠も揃えて、あとは相手の「自白」を待っていただけ。ヴィクトルは「お前は道具だった」と笑いましたが、皮肉なことに、状況を道具として使いこなしていたのはカタリナの方だったんですよね。

一番力を入れたのは、ラストのカタリナが泣くシーンです。この涙は悲しみでも悔しさでもなく、五年間被り続けた仮面をようやく外せた「安堵」の涙。強い女性が強いまま泣ける瞬間を書けたとき、自分でもちょっとうるっと来ました。

もし反響をいただけたら、番外編も考えています。マルガレーテ視点で描く「利用されていたと知った日」の話や、ヴィクトルの転落を詳細に追う話なんかも面白いかなと。気になる方がいらっしゃったら、感想やブクマでぜひ教えてください。

◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。

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・毒が効かない体になるまで〜【断罪型】
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