雨の匂いがする。
王宮薬師工房の窓から、灰色の空を見上げた。秋の冷たい雨が、王都の石畳を暗く濡らしている。中庭の楓が色づき始めていた。
乳鉢を回す手を止めて、窓の外に目を凝らす。王宮の正門前、雨に打たれて立ち尽くしている人影がある。ぼろぼろの外套。項垂れた肩。かつて見栄えだけは良かった金髪が、雨に張りついて顔を隠している。
知っている人だった。三ヶ月前の、婚約者。
「ナターリア」
背後から低い声がした。騎士団長ヴォルフ・シュタイナーだ。銀灰の短髪に鋭い目つき。大柄な体躯を工房の入口に収めきれず、肩が扉枠に触れている。
「午後の分の傷薬、まだかかるか」
「あと半刻ほどです。乾燥が甘いと効きが落ちますので」
「急かしたわけじゃない。腕のいい薬師は待つ価値がある」
ヴォルフが笑った。鋭い目つきが一変して、不器用な温かさが覗く。この人は笑うと印象がまるで違う。
窓の外にもう一度、視線を向けた。雨の中の人影は、まだ動かない。
三ヶ月前。あの人は言った。
——「地味なお前より、伯爵令嬢がふさわしい」
夏の盛りだった。騎士団の詰所は、いつもより騒がしかった。
「聞いたか? ルドガーの奴、伯爵令嬢と結婚するらしい」
「マジかよ。あの地味な薬師の嬢ちゃんはどうすんだ」
「捨てたんだろ。伯爵家の令嬢と薬師じゃ、格が違うってことだな」
私が薬箱を抱えて詰所に入ったとき、会話が止まった。気まずい沈黙。騎士たちが目を逸らす。
知っていた。噂は昨日から耳に入っていた。
奥の長椅子にルドガーが座っていた。精悍な顔立ちに自信たっぷりの笑み。その隣に、見覚えのない金髪巻き毛の女性が腕を絡ませている。
「ああ、ナターリア。ちょうどいい。紹介するよ。イレーネ・フォン・ヴァイス。伯爵令嬢だ」
イレーネが薔薇色のドレスを揺らして微笑んだ。完璧な笑顔。完璧な所作。私の地味な茶髪と薬草の匂いが染みついた手とは、何もかも違う。
「まあ、あなたが例の薬師さん? ルドガー様がいつもお世話になっていたとか」
お世話。そう、お世話だった。毎朝薬を届けた。傷薬だけじゃない。二日酔いの薬、筋肉痛の湿布、喉の痛み止め。騎士の生活は体への負担が大きい。ルドガーはそれを当然のように受け取っていた。
「ナターリア。悪いが、婚約は白紙にさせてくれ」
ルドガーが立ち上がった。詰所の全員が聞いている。わざとだ。私が泣いて縋る姿を、みんなの前で見せたいのだろう。「地味な薬師を捨てて伯爵令嬢を選んだ男」という物語の、華やかな主役でいたいのだ。
「イレーネと結婚する。——お前には感謝してるが、俺にはもっとふさわしい人がいた。わかるだろ?」
詰所が静まり返った。
私は薬箱を長机に置いた。中身を確認する。傷薬が六つ、解熱薬が三つ、湿布が十二枚。数を数えると落ち着く。昔からそうだ。数字は嘘をつかない。感情が揺れても、六は六だし、三は三だ。
「わかりました」
泣かなかった。怒りもしなかった。ただ、薬箱の中身を数え直した。
「明日から届ける薬が一人分減りますね。ルドガーさんの分は、どなたに引き継ぎましょうか」
ルドガーが一瞬、面食らった顔をした。泣くと思っていたのだろう。縋りつくと期待していたのだろう。
「……それだけか?」
「ええ。それだけです」
薬箱を閉じた。騎士たちの前を通り過ぎるとき、何人かが小さく頭を下げた。同情ではない。彼らは知っている。毎朝欠かさず届く薬の、その正確さと確かさを。
詰所の扉を閉めた。廊下に出て、三歩歩いて、立ち止まった。
壁に手をついた。
——泣かない。泣いたら、あの人の物語の中で「捨てられて泣いた地味な薬師」になってしまう。
それだけは、嫌だった。
深く息を吸った。薬草の匂い。自分の手に染みついた、仕事の匂い。
この匂いは消えない。ルドガーがいなくなっても、明日も薬を作る。明後日も。そのことだけが、今は確かだった。
一週間後。
ルドガーとイレーネの結婚式は盛大だった。伯爵家の邸宅で催された披露宴には王都の名士が顔を揃え、花と音楽と笑い声に溢れていたと聞く。
私は工房にいた。騎士団の発注が増えていた。国境付近の魔獣が活発化し、出動が続いている。傷薬の需要が跳ね上がり、一人で捌ききれない量の注文が積み上がっていた。
夏の暑さの中、夜遅くまで乳鉢を回し、薬草を煮詰め、瓶に詰める。指先がひび割れても手を止めない。品質を落とすわけにはいかない。騎士たちの体は、私の薬で守られている。
一ヶ月目。
その騎士が担ぎ込まれたのは、深夜だった。
「薬師殿! 毒にやられた! 顔が紫色で、息が——」
若い騎士二人が、意識のない仲間を工房の寝台に横たえた。顔面が紫がかり、呼吸は浅く速い。左腕に深い牙傷があり、傷口の周囲が黒く変色している。
「国境の蒼鱗蜥蜴に噛まれたんです。解毒薬を使ったんですが、全然効かなくて——」
脈を取った。速い。体温が異常に高い。通常の蜥蜴毒なら解毒薬で足りるはずだ。傷口の黒変。頬の紫。この組み合わせは——。
頭の奥で、何かが引っかかった。夢で見たような、どこかで読んだような記憶の断片。蜥蜴毒の成分は——血液を凝固させるタイプではなく、むしろ逆だ。血を溶かす。だとすれば、凝固を促す薬草と組み合わせなければ——。
いつからこんな知識があるのか、自分でもわからない。ただ、手が動く。頭の中の「正解」が、薬草の名前と配合を指し示す。
「白朮の根を四つ、鬼灯の実を二つ。それから——蒼銀花、ありますか」
「蒼銀花は高価です。在庫は三本しか——」
「一本で足ります。煮出す温度が肝心です。必ず八十度で止めてください。沸騰させたら成分が壊れます」
若い騎士が走った。私は鍋に火をかけ、白朮を刻み始めた。手が震えていないことに、自分で驚いた。
八十度。なぜその数字がわかるのか。この世界の温度計は大雑把で、水の沸点と体温くらいしか目安がない。けれど私の指は知っている。鍋の縁に触れれば「今これくらい」と感じ取れる。いつからか——いや、物心ついた頃から、ずっとそうだった。
蒼銀花を投入した。淡い銀色の光が液面に広がり、すぐに消える。この一瞬が抽出の合図だ。鍋を火から下ろし、濾して、冷ます。
解毒薬を騎士の口に含ませた。
一分。二分。三分。
紫色の顔に、赤みが戻り始めた。黒変していた傷口の色が薄くなる。呼吸が深くなった。
「……効いてる。効いてます!」
若い騎士が声を上げた。もう一人が泣きそうな顔で私を見ている。
「朝まで経過を見ます。二人は休んでください」
「ありがとうございます、薬師殿! 本当に——」
「お礼は回復してからで」
夜明けまで、寝台の横で脈を取り続けた。朝日が差し込む頃、騎士の顔色は完全に正常に戻っていた。
入り口に人の気配がした。ヴォルフだった。
「報告を受けた。蒼鱗蜥蜴の毒を解いたと」
「ええ。少し珍しい毒でしたが」
「少し珍しい、で済む話ではない」
ヴォルフが寝台の騎士を見下ろし、それから私を見た。
「王宮の薬師長に同じ症例を聞いた。あの毒を解けた薬師は、過去五十年で二人だけだと。——お前は三人目だ」
「たまたま、配合が浮かんだだけです」
嘘ではない。本当に「浮かんだ」のだ。どこから来た知識かはわからない。けれどそれが正しいと、手が知っていた。
ヴォルフがしばらく黙って私を見ていた。何かを計るような視線。だが義母のヘルミーネのような値踏みではない。純粋に、能力を見ている目だった。
「ナターリア。王宮薬師の枠に空きが出る。推薦したいが、受けるか」
手が止まった。王宮薬師。騎士と同格の待遇。街の薬師が一足飛びに就ける地位ではない。
「……私は平民の薬師です。王宮の方々が認めるとは——」
「俺は実力で判断する。お前の薬は、昨夜も一人の命を救った。肩書きも生まれも関係ない。——必要なのは腕だけだ」
簡潔で率直な言葉だった。飾りがない。ルドガーの甘い言葉とは違う。だからこそ、嘘がないとわかった。
「……お受けします」
その頃、ルドガーの生活は崩壊し始めていた。
結婚式の翌週。イレーネの実家から「祝いの品」ではなく「督促状」が届いた。
伯爵家の見栄の裏には、莫大な借金があった。領地の収入は利払いにすら足りず、イレーネの華やかなドレスも宝石も、すべて借金で賄われていた。ルドガーの騎士の給金など、伯爵家の借金の利息にも満たない。
「ルドガー様。今月の仕立て屋への支払いがまだですわ。あと、来月の夜会のドレスも新調しなくては」
「イレーネ、今月は厳しい。少し控えてくれないか」
「控える? 伯爵令嬢の妻がみすぼらしい格好をしていたら、あなたの評判にも関わりますわよ?」
イレーネは一切譲らなかった。生まれてからずっと「伯爵令嬢」として生きてきた彼女にとって、生活水準を下げることは存在の否定に等しい。
借金取りが騎士団の詰所まで押しかけてきた。「ハイネ殿のご妻君のお父上の借金の件ですが」。詰所が凍りついた。
騎士団は実力と規律の組織だ。私生活の借金問題は、昇進の致命傷になる。中隊長候補の肩書きが、静かに消えた。
二ヶ月目。
王宮薬師工房での日々は、街の工房とは別世界だった。
設備が違う。薬草の質が違う。そして何より、求められる水準が違う。騎士団全体の傷薬、王族の常備薬、外交用の贈答薬まで。失敗は許されない。
だが、私にはある種の直感があった。
薬草を手に取ると、最適な配合が「見える」。煮出す温度を二度変えるだけで効能が倍になる組み合わせが「浮かぶ」。まるで、どこか遠い場所で何年もかけて学んだことを、夢の中で思い出すように。
この力がどこから来るのか、いくら考えてもわからない。前世というものがあるなら——そんな馬鹿なことを、時々思う。ただ、確かなのは、この知識が人を救えるということだ。理由はわからなくても、使わない理由にはならない。
国境の魔獣が活発化し、出動が相次いでいた。戦場では一刻を争う。傷薬を瓶から出して塗る余裕さえない場面がある。
そこで私は携帯用の薬包を考案した。薄い紙に粉末状の薬を密封し、片手で破いて傷口に振りかけるだけで効果が出る。水も要らない。鎧の隙間に三つ四つ忍ばせておけるほど小さい。
試作品をヴォルフに渡したのは、次の出動の前夜だった。
「これは?」
「携帯用の傷薬です。片手で開封できます。鎧の内側に入る大きさにしました」
ヴォルフが薬包を手に取り、革手袋のまま端を引いた。ぱきり、と小気味よく破れて、白い粉末が覗いた。
「……よく考えたな。戦場で瓶を開ける余裕はない。これなら片腕を負傷していても使える」
「効能は瓶の傷薬と同等です。ただ、密封から三日で効果が落ちるので、出動前に新しいものを渡します」
「三日保つなら十分だ。国境往復は二日で済む」
ヴォルフが薬包をじっと見つめ、それからふっと笑った。
「お前は、騎士が戦場で何に困っているか、わかっているんだな」
「薬を届けているだけでは足りません。届けた薬が、使える状況で、使える形でなければ」
「……その通りだ」
ヴォルフが頷いた。深い頷きだった。
翌日の出動に、薬包を三十人分持たせた。帰還した騎士たちの報告は、予想以上だった。七人が実際に薬包を使い、うち二人は片腕の負傷中だった。全員が「瓶だったら使えなかった」と口を揃えた。
騎士たちの間で「ナターリアの薬包」と呼ばれ始めたのは、その週のことだった。
ルドガーの状況は、さらに悪化していた。
二ヶ月目の終わり。任務中に魔獣から受けた傷が、なかなか治らなかった。かつてナターリアが毎朝届けていた傷薬はもうない。詰所に配られる共用の薬は効きが遅い。王宮薬師工房の上質な薬は騎士団長の指示で優先度の高い前線部隊に回されており、ルドガーのような問題を抱えた騎士は後回しだった。
「なあ、薬を分けてくれないか。傷が塞がらないんだ」
「悪いな、ルドガー。俺の分はもうない。ナターリアの薬包は前線組だけだ」
ナターリアの名前を聞くたび、胸がざわついた。あの地味な薬師が王宮薬師になった。騎士たちが口々にその腕を褒めている。「ナターリアの薬は効きが違う」「あの薬包のおかげで助かった」。
三ヶ月前、詰所で「地味な薬師」と呼ばれていた女が、今では「命の恩人」と呼ばれている。
三ヶ月目。
「もう我慢できませんわ。稼ぎの少ない騎士など、私にはふさわしくありませんの」
イレーネが離婚届を突きつけた。表は上品な令嬢言葉。だがその目は冷たく、計算し尽くされていた。利用価値がなくなった男を、一秒も惜しまず切り捨てる冷酷さ。
「待ってくれ、イレーネ! 俺たちはまだ——」
「『まだ』? 何が『まだ』ですの? お金もない。地位もない。将来性もない。私があなたのそばにいる理由が、一つでもございまして?」
沈黙。
イレーネは背を向けた。金髪が揺れる。三ヶ月前、あの金髪に目が眩んだ。今はもう、振り返りもしない。
「せめて、持参金を——」
「持参金? 最初からゼロですわよ。お気づきではなかったの? まあ、数字に弱い方ですものね」
扉が閉まった。
ルドガーは独りになった。三ヶ月前には婚約者がいて、昇進の見込みがあり、仲間がいた。今は全部ない。借金だけが残っている。
除隊勧告が届いたのは、その三日後だった。
あの日、詰所で薬箱を置いて「明日から一人分減りますね」と言った女の顔が、ふいに浮かんだ。
秋風が立ち始めた頃。王宮薬師の任命書が正式に下りた。
ヴォルフが任命書を持って工房にやってきた。
「おめでとう、ナターリア」
「ありがとうございます、団長」
「ヴォルフでいい。工房の外では」
少し驚いた。騎士団長が名前で呼べと言うのは、信頼の証だ。
「……ヴォルフ様」
「『様』は要らん」
「では、ヴォルフさん」
「……まあ、いい」
ヴォルフが苦笑した。笑うと本当に印象が変わる。鋭い目つきが柔らかくなって、大きな手が所在なさそうに首の後ろを掻く。
それから、ヴォルフは少し言いにくそうに口を開いた。
「先日の国境戦だが、お前の薬包がなければ三人は失っていた」
「薬が役に立ったなら、それだけで」
「薬だけじゃない」
ヴォルフが私を見た。いつもの鋭い目。でもその奥に、鋭さとは違う何かが光っている。
「あの夜——蒼鱗蜥蜴の毒を解いた夜。お前は朝まで一人で騎士の脈を取っていた。誰に頼まれたわけでもなく」
「当然のことです。私が調合した薬の経過は、私が見届けないと」
「当然だと思えること自体が、当然じゃないんだ。——お前は、多くの命を救っている。俺はそのことを、ちゃんと言葉にしておきたかった」
胸の奥が温かくなった。
ルドガーは一度も、私の薬のことを褒めなかった。「いつもの」と受け取るだけで、中身を確認したこともない。三年間、毎朝薬を届けた。三年間、一度も「ありがとう」と言われなかった。
この人は違う。薬の効能を理解し、戦場での価値を知り、作り手への敬意を言葉にする。
「地味な仕事ですから」
「地味?」
ヴォルフが眉を上げた。
「地味なものか。お前の仕事は派手な剣技より、ずっと多くの人間を生かしている。——地味だと言った奴がいるなら、そいつの目が節穴だ」
不意に、目の奥が熱くなった。
三ヶ月前、同じ言葉を——「地味」を——突きつけられて泣かなかった。泣くほどの価値がないと思ったから。
でも今、「地味じゃない」と言ってもらえて、こんなに胸が痛い。
泣きそうになった。泣かなかった。でも今度は、堪えた理由が違う。嬉しかったから、泣くのがもったいなかった。
そして——今日。
雨の王宮。窓の外に、ぼろぼろの元騎士が立っている。
工房を出ると、ヴォルフがついてきた。何も言わないが、背中の気配でわかる。
王宮の正門。雨は止まない。
ルドガーが顔を上げた。三ヶ月前の精悍な顔は見る影もない。頬がこけ、髭は伸び放題、騎士の紋章は外套から消えていた。除隊されたのだと、すぐにわかった。
「ナターリア」
掠れた声だった。かつて詰所で大声で婚約破棄を宣言した、あの自信に満ちた声はどこにもない。
「……頼む。やり直してくれ。俺が間違っていた。お前の——お前の価値が、わからなかった」
雨が彼の頬を伝っている。涙なのか雨なのか、もう区別がつかない。
三ヶ月前、私は泣かなかった。
今も泣かない。でも理由が違う。
あの日は、泣くほどの価値がないと思ったから。
今日は、泣く必要がないから。
「ルドガーさん」
私は穏やかに言った。
「ええ、知ってます。でも、もう関係のない話ですね」
「関係ない、だと? 三年も一緒にいたじゃないか! 俺のために毎朝薬を——」
「毎朝届けた薬を、一度でも『ありがとう』と言ってくださいましたか?」
ルドガーが口を開き、閉じた。
「一度でも中身を確認してくださいましたか? あの薬がどれだけ手間のかかるものか、聞いてくださったことは?」
沈黙。
「あなたが欲しいのは『私』ではありません。『便利な薬師』です。三ヶ月前から——いえ、最初から、何も変わっていない」
背後で、重い靴音が鳴った。
「彼女に用があるなら、まず俺を通せ」
ヴォルフが前に出た。銀灰の髪が雨に濡れている。大きな背中が、私を雨から遮った。
「騎士団長……」
ルドガーの顔から最後の色が消えた。かつての上官。かつての昇進を握っていた人。その人が、自分が捨てた「地味な薬師」の横に立っている。
「ルドガー。お前は自分で選んだ。その結果も、自分で引き受けろ」
ヴォルフの声は冷たくはなかった。ただ、とても静かだった。
「ナターリアは王宮薬師だ。この国の騎士を守る薬を作っている。——お前が『地味』と呼んだ仕事は、お前の剣より多くの命を救っている」
ルドガーが一歩退いた。反論の言葉を探しているようだった。けれど、言い返せる根拠が何もないことに、自分で気づいたのだろう。肩から力が抜けた。
「……ああ。そうか。そう、だよな……」
背を向けた。項垂れた肩が雨に揺れる。三ヶ月前、私がこの門をくぐったときの自分と同じ姿。ただし、違いがひとつ。
私は前を向いていた。彼は、下を向いている。
王宮に戻る廊下。ヴォルフが隣を歩いている。
「……濡れたな。風邪を引くぞ」
「薬師が風邪を引いたら格好がつきませんね」
「引いたら俺が看病する」
足が止まった。
ヴォルフも止まった。少し耳が赤い。
「……今のは、その。団長としての責任感から——」
「ヴォルフさん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
ヴォルフが黙った。それから、不器用に笑った。
「お前の薬の礼を言うのは、俺の方だ。——ずっと」
工房に戻った。乳鉢がそのまま置いてある。午後の傷薬の続きを仕上げなくては。
手を洗い、薬草を量り、乳鉢を回す。いつも通りの手順。いつも通りの匂い。変わらない日常。
でも、少しだけ変わったことがある。
工房の入口に、大きな影が座り込んだ。ヴォルフが椅子を引いてきて、報告書を広げている。
「邪魔はしない。ただ、報告書を書く場所がほしかっただけだ」
「執務室があるでしょう」
「あそこは薬草の匂いがしない」
思わず笑った。声に出して。
三ヶ月ぶりだった。声を出して笑ったのは。
乳鉢を回す。薬草が砕ける音。窓から差し込む、秋雨上がりの薄い光。
「地味な薬師」のままでいい。この手で薬を作り、この場所で人を救い、この人の隣で笑えるなら。
それは、華やかな伯爵令嬢にも買えないものだから。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今作のテーマは「立場逆転」——捨てた側と捨てられた側が、たった3ヶ月で完全にひっくり返る話です。
ルドガーが悪い奴かというと、そこまで悪意のある人間じゃないんですよね。ただ、目の前の華やかさに飛びついて、地道に自分を支えてくれていた人の価値が見えなかった。現実にもいそうな、そういう「普通の愚かさ」を書きたかったんです。
一番気に入っているのは、ナターリアの「泣かない理由」が変化するところ。最初は「泣くほどの価値がないから」泣かなくて、最後は「泣く必要がないから」泣かない。同じ「泣かない」でも、中身が全然違う。
ナターリアの「不思議な知識」については——まあ、なろうですから。きっと前世で薬学を学んでいたんでしょう。でも大事なのは知識の出所じゃなくて、それを使って誰かを救おうとする彼女自身の意志だと思います。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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