「あなたの代わりなんて、いくらでもいるのよ」
義母——ヒルデガルド・フォン・グラーフは、ティーカップを優雅に傾けながらそう言った。まるで明日の天気でも語るかのような、何の感慨もない声だった。
午後の陽光が差し込むサロンで、私は帳簿を抱えたまま立ち尽くしていた。今月の領地収支報告のために来たのだ。先月の貿易黒字が過去最高を更新したこと、東方商会との新規取引で年間二百万リオンの増収が見込めること、使用人の配置改善で人件費を一割削減できたこと——報告したいことは山ほどあった。
けれど義母の興味は、そんなものにはない。
「ルドヴィクにはもっとふさわしい女性がいるの。あの子もようやく本気の相手を見つけたのだから、あなたにはそろそろ身を引いてもらわないと」
ふさわしい女性。それはつまり、夫の最新の愛人のことだろう。三ヶ月に一度は変わる「本気の相手」の、今月版。
ああ、とうとう来たか。
私は心の中でそう思った。驚きはなかった。むしろ——遅すぎたくらいだ。
「お義母様。一つだけ確認させてください」
「何かしら」
「私の代わりは、本当に見つかるのですね?」
義母は鼻で笑った。
「当たり前でしょう。あなたがやっていた程度の家事仕事、誰にでもできるわ」
家事仕事。
年間予算四千万リオンの領地経営を、家事仕事。
「左様でございますか」
私は静かに微笑んだ。
私、エレナ・フォン・グラーフ——旧姓ベルティーニは、十年前にこの公爵家に嫁いだ。
十八歳だった。
ベルティーニ伯爵家の次女。姉が家督を継ぐため、私は政略結婚の駒として差し出された。相手はグラーフ公爵家の嫡男、ルドヴィク。金髪碧眼の完璧な貴公子——少なくとも見た目だけは。
初夜。
夫は私の部屋には来なかった。
後で使用人から聞いた。夫はその夜、王都の愛人のもとにいたのだと。
涙は出なかった。期待していなかったから。政略結婚に愛を求めるほど、私は愚かではない。
ただ、仕事はあった。
嫁いで最初の朝、公爵家の帳簿を見て私は目眩がした。
——滅茶苦茶だ。
収入と支出の帳尻が合わない。税の計算は三年分溜まっている。商会との取引記録は紛失。使用人の給与台帳すら存在しない。先代公爵が亡くなってからの二年間、文字通り誰一人として帳簿に触れていなかったのだ。
「これを、誰が管理しているのですか」
私の問いに、老家令のハインツは疲れた顔で答えた。
「……以前は先代公爵がやっておりましたが、亡くなられてからは誰も。若様はお忙しく、太夫人もご興味がおありでなく……」
忙しい。社交と愛人に。
興味がない。茶会と見栄以外に。
領地を回す者が、誰一人いなかったのだ。
だから、私がやった。
帳簿を一から作り直した。複式簿記の形式を導入し、全ての収支を項目別に分類した。未払いの税を計算し、王都の税務局に分割納付の嘆願書を送った。三日三晩かけて書いた嘆願書は認められ、延滞金の一部を免除してもらえた。
商会との取引条件を一件一件見直した。前任者——つまり誰もいなかった時代——の慣行で、相場より二割も高い価格で仕入れていた品がいくつもあった。私はそれを是正し、仕入れ値を一割二分下げた。
使用人の配置を最適化した。厨房に七人もいるのに庭師が一人しかいない。客間の清掃係が三人いるのに経理補助はゼロ。全てを洗い出し、適材適所に配置し直し、無駄な出費を削った。
一年目で赤字を止めた。
三年目で黒字に転換した。
五年目で領地の収益は倍になった。
誰も気づかなかった。
「公爵夫人の仕事は社交でしょう? 帳簿なんて家政婦にやらせなさい」
義母はいつもそう言った。けれど家政婦を雇う予算すら、義母の月に三度の茶会——一回あたり金貨五枚の出費——に消えていくのだ。年間で金貨百八十枚。領民の生活改善に回せば、三つの村に井戸が掘れる額だった。
夫は——ルドヴィク様は、年に数回、思い出したように私のもとに来た。
「君が家のことをやってくれているんだろう? 助かるよ」
それだけ。領地の収益が倍になったことも、商会との新規取引を十五件開拓したことも、隣領との境界紛争を三度の交渉で解決したことも。何一つ知らない。知ろうともしない。
「家のこと」——その一言で、私の十年は片づけられた。
十年間、一度も感謝されなかった。
十年間、一度も名前を呼ばれなかった。いつも「君」か「うちの妻」。
十年間、一度も——
いい。もう十分だ。
義母の言葉を聞いて、私は懐から一通の書類を取り出した。
離縁届。
三ヶ月前から用意していたものだ。必要な書類は全て揃えてある。私の署名も、実家の同意書も、離縁理由書も。配偶者の不貞を理由とする正式な離縁申請。証拠書類も十分すぎるほど添えてある——夫の愛人への支出記録は全て帳簿に残っていた。あとはルドヴィク様の署名だけ。
帳簿を閉じた。この帳簿を閉じるのは、これが最後になる。
「では——代わりの方にお任せください」
義母の顔から血の気が引いた。
「な——何を言っているの?」
「離縁届でございます。お義母様のおっしゃる通り、私の代わりはいくらでもいるのでしょう? でしたら、私がいる必要はございませんね」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! あなた——」
「お待ちする理由がございません」
私は深く一礼した。十年間、何千回と繰り返した完璧な礼。
「十年間、お世話になりました」
本音を言えば——お世話をしていたのは私の方だけれど。
ルドヴィク様の署名は、意外なほどあっさり手に入った。
「離縁? ああ、まあ……仕方ないか」
彼は書類にろくに目を通さず、流れるような字でサインした。隣には最新の愛人——リリアーナとかいう男爵令嬢がいて、甘ったるい香水の匂いがサロンに漂っていた。
「母上がああ言ったんだろう? 悪いね、エレナ。でも僕たちも、そろそろけじめをつけないと」
けじめ。
十年間、何のけじめもつけなかったあなたが。
ルドヴィク様は窓の外を見ながら、どこか芝居がかった口調で続けた。
「まあ、君には感謝しているよ。家のことを色々やってくれたし。慰謝料は……そうだな、金貨五十枚くらいでどうだ?」
金貨五十枚。私が十年間で公爵領にもたらした増収は、累計で二億リオンを超える。金貨に換算すれば二万枚以上。その対価が五十枚。
(……まあ、いいでしょう。この方に数字の話をしても意味がありませんし)
「お気持ちだけで結構です。では、これで」
「あ、うん。元気でね」
元気でね。
十年の結婚生活の最後が、それだった。
私は公爵家の門を出た。振り返らなかった。
手荷物は一つだけ。小さな革の鞄。中には着替えと、十年間つけ続けた帳簿の写し——私の頭の中に全てあるから本当は必要ない——と、少額の蓄えが入っていた。公爵家の財布からは一銭も持ち出していない。私が使ったのは、実家から持参した嫁入り資金の残りだけだ。
空は、よく晴れていた。
(十年分の青空を、やっと見上げた気がする)
私は馬車を一台雇い、南の辺境を目指した。
辺境の交易都市ヴァイスに着いたのは、離縁から十日後のことだった。
王都から馬車で五日。決して近くはない。けれど私がこの町を選んだのには明確な理由がある。
ヴァイスは東西の交易路が交差する要衝だ。東方からの香辛料、南方からの絹織物、北方の毛皮——あらゆる商品がこの町を通過する。にもかかわらず、ここを拠点とする大規模商会は存在しない。王都の大商会は「辺境の田舎町」と見向きもしないし、地元の商人は小規模な仲介業にとどまっている。
——つまり、商機がある。
公爵家時代、東方の香辛料を扱うベーレンス商会との交渉を担当していた私は知っている。この町を経由する香辛料ルートは、王都経由より二割も安い。なのに辺境の商人たちはその事実に気づいていない。王都の大商会が情報を独占しているからだ。
私にはその情報がある。十年間、王都の商会と直接交渉してきたのだから。
実家のベルティーニ伯爵家に手紙を送り、開業資金として金貨百枚を借りた。姉は二つ返事で応じてくれた。
「あんたがやるなら間違いないわ。利子は要らないけど、儲かったらうちにも卸してね」
「利子は年五分でお返しします。帳簿上、無利子の借入は贈与と見なされますから」
「……あんたは本当にそういうところ、変わらないわね」
頼もしい姉だ。
ヴァイスの商業組合に登録し、大通りから一本入った路地に小さな店舗を借りた。家賃は月に銀貨十五枚。安くはないが、倉庫付きで立地は悪くない。
看板には「ベルティーニ商会」と書いた。
嫁ぎ先の名前ではなく、生まれた家の名前。これは私の商会だ。
開業届を出し、帳簿を用意し、商品棚を整え、倉庫の湿度管理を確認した。全て自分の手で。公爵家では使用人に指示を出す立場だったが、今は一人だ。
けれど、不思議と心は軽かった。
開業初日の客は、三人だけだった。
それでいい。
私は焦らなかった。十年間の領地経営で学んだことがある。信用は一日では築けない。けれど確実な仕事を積み重ねれば、必ず広がる。
まず手をつけたのは、辺境の商人たちが見落としている取引ルートの開拓だった。
公爵領時代、私は王都の大商会から地方の零細商人まで、ありとあらゆる取引先と交渉した。その全てが、私の頭の中にある。誰が何を扱い、いくらで売り、どの季節に在庫が余り、どんな条件なら首を縦に振るか。十年間の交渉で培った「商人の顔」を、何百人分も覚えている。
最初の仕入れは東方の香辛料——黒胡椒と肉桂だった。
ベーレンス商会の東方支部長、グスタフ老人に手紙を送った。「グラーフ公爵領のエレナです。独立して商会を始めました」と。返事は三日で届いた。
「あんたか! あんたが辞めたって聞いて、もう公爵家とは取引しないつもりだったんだ。新しい商会? 喜んで卸すよ。あんたとの取引は気持ちがいい。帳簿がきちんとしてるし、支払いが早い」
信用。十年間かけて築いたもの。それは公爵家ではなく、私個人に紐づいていた。
仕入れた香辛料を、ヴァイスの市場相場より一割安く売った。品質は確か、量目は正確、帳簿は明瞭。
「お言葉ですが、この品の適正価格は銀貨十二枚です。王都のザンクト商会では銀貨十枚で卸していますから、輸送費を含めても十二枚が妥当かと。現在の市場価格である銀貨十五枚は、情報の非対称性による上乗せです」
取引先の商人が目を丸くした。
「な——なぜ王都の卸値をご存じで? あんた、本当にただの商人か?」
「以前、少し取引がありましたので」
少し、ではない。年間二千万リオンの取引を五年間。けれどそんなことは言わない。
数字は嘘をつかない。私が提示する価格は常に根拠があり、公正で、双方にとって利益がある。それが伝われば、信用は自然と積み上がる。
二週間後。「ベルティーニ商会は値段が正直だ」という評判が広がり始めた。
一ヶ月目。取引先が十二に増えた。売上は金貨八十枚。利益率は一割二分。開業資金の回収見込みは十ヶ月——これは当初の計画より二ヶ月早い。
二ヶ月目。東方香辛料の独占仕入れルートを確保した。加えて、南方の絹織物の取り次ぎも始めた。売上は金貨二百枚を超えた。従業員を三人雇った。
三ヶ月目。ベルティーニ商会はヴァイスで最も取引高の多い商会になっていた。
「エレナさん、どうしてそんなに商売がうまいんですか?」
雇い入れた店員のマルタが、目を輝かせて訊いた。明るい赤毛の、よく気のつく娘だ。
「うまくなんてありませんよ。ただ——十年間、毎日帳簿をつけていただけです」
毎日。雨の日も、熱が出た日も、夫の愛人が屋敷に来た日も。来客用の上等な菓子を愛人に振る舞う費用を帳簿に記入しながら、奥歯を噛みしめた日も。
その十年間は無駄ではなかった。
クラウス・フォン・ヴァイス辺境伯が商会に現れたのは、開業二ヶ月目のことだった。
辺境伯——この町の領主だ。噂では寡黙で不愛想、社交嫌いで舞踏会にも顔を出さない変わり者。だが領民からの信頼は厚く、辺境の治安は王国でも随一だという。
「ベルティーニ商会の主人は?」
低い声だった。大柄で、日に焼けた肌。質素な外套を羽織り、腰に実用的な剣を佩いている。社交界の貴公子とは対極にある、見るからに実務家の風貌だ。
ルドヴィク様とは何もかもが違う。
「私でございます。エレナ・ベルティーニと申します」
「……帳簿を見せてもらえるか」
唐突な申し出だった。だが領主が領内の商会を監査するのは、正当な権限の行使だ。むしろ自ら出向いて確認するあたり、実務に真摯な人なのだろう。
「もちろんです。どうぞ」
私は帳簿を差し出した。何も隠すことはない。数字は全て正確で、取引は全て正当だ。
クラウス様は帳簿を一頁、一頁、丁寧にめくった。その目の動きで分かる。この方は帳簿が読める。数字の意味を理解している。
長い沈黙があった。
「……完璧だ」
そう、一言だけ言った。
「仕入れ値、売価、利益率、在庫回転率。季節変動まで織り込んだ価格設定。これほど精緻な帳簿は、王都の大商会でも見たことがない」
「恐れ入ります。帳簿は商会の基本ですから」
「いや」
クラウス様は帳簿を閉じ、まっすぐに私を見た。深い灰色の目だった。
「これは基本ではない。長年の実務経験がなければ、こうはならない。しかも独学ではない……どこかの領地経営に関わっていたな」
胸が、少しだけ熱くなった。
十年間、誰にも認められなかった仕事を、この人は帳簿一冊で見抜いた。
「……ええ。以前、少し」
クラウス様はそれ以上は訊かなかった。詮索しない人らしい。
「領の特産品——羊毛と蜂蜜の取引を任せたい。今の仲介業者は帳簿が雑で信用できん。条件は後日詰めるが、興味はあるか」
「もちろんでございます。取引条件の叩き台を三日以内にご用意します。羊毛は等級別の価格表、蜂蜜は季節変動を考慮した年間契約をご提案したいのですが」
クラウス様の眉が僅かに上がった。驚いているのだ。即座に具体的な提案が出てくることに。
「……三日後に来る」
こうして辺境伯領の特産品——良質な羊毛と蜂蜜の取引を、ベルティーニ商会が一手に担うことになった。
三日後に提出した提案書は、その場で承認された。クラウス様は提案書の数字を一つ一つ確認し、二箇所だけ修正を求めた。いずれも的確な指摘だった。
「蜂蜜の冬季価格がやや低い。ヴァイスの冬は長い。需要が上がる」
「おっしゃる通りです。失礼しました。冬季は一割増しに修正いたします」
「それでいい」
クラウス様は月に二度ほど商会に顔を出すようになった。いつも帳簿の話か、取引の相談か、領地経営の数字の話だ。世間話はしない。天気の話もしない。ただ数字と事実だけを、淡々と交わす。
不思議と、それが心地よかった。
公爵家では、数字の話ができる相手が一人もいなかった。義母に決算報告をすれば「そんな細かい話はいいから、茶会の予算を増やしなさい」と言われた。夫に交渉結果を伝えれば「ああ、任せるよ」の一言で終わった。
クラウス様は違う。数字を見て、考え、正確な質問をする。
ある日、取引の打ち合わせの帰り際に、クラウス様が言った。
「ベルティーニ殿」
「はい」
「この町に来てくれたことを、感謝している」
それだけ言って、不器用に頷いて去っていった。
——ああ。
感謝という言葉を、こんなに久しぶりに聞いた。
十年ぶりかもしれない。
目の奥が少しだけ熱くなったのは、きっと夕日のせいだ。
ベルティーニ商会が順調に成長する一方で、ある噂が辺境にも届くようになった。
「グラーフ公爵領が大変なことになっているらしい」
取引先の商人が、世間話のように言った。
「帳簿が全く合わなくなって、商会との取引が次々と破綻しているそうだ。税金も滞納。王都から監査官が入ったとか」
「まあ。それは大変ですね」
私は微笑んで、手元の帳簿に目を戻した。
(三ヶ月で破綻——予想より少し早かったですね。半年は保つかと思っていましたが。予備費を多めに確保しておいたのに、あの分はどこに消えたのかしら。……愛人の宝石代ですね、きっと)
無理もない。あの公爵家には、帳簿をつけられる人間が一人もいないのだ。
私が十年かけて構築した取引ネットワーク、信用、経営のノウハウ。それは全て私の頭の中にあった。引き継ぎ書なんて作っていない。だって——誰も「引き継ぎ」を想定していなかったから。「代わりはいくらでもいる」と言っていた人たちが。
後から聞いた話を総合すると、崩壊の過程はこうだったらしい。
一ヶ月目。帳簿が合わなくなった。当然だ。帳簿のつけ方を知る者がいない。義母が慌てて雇った「経理ができる」という触れ込みの使用人は、私が導入した複式簿記の帳簿を見て「こんな形式は初めて見ます」と匙を投げた。
(基本なのですけれど)
二ヶ月目。大口取引先のザンクト商会が取引停止を通告した。あの商会は信用を重んじる。帳簿も出せない、納期も守れない、品質管理もできない相手とは取引しない。当然だ。それに続いて、ベーレンス商会も手を引いた。グスタフ老人から手紙が来た。「あの公爵家はもう駄目だ。あんたがいなくなった時点で、こうなるのは分かっていた」と。
三ヶ月目。領民への給付金が遅延した。使用人の給与も二ヶ月分未払い。優秀な使用人から順に辞めていった。そして王都に直訴状が送られ、王家の監査官が入り、グラーフ公爵領は事実上の管財状態に置かれた。
全て、予想通りだった。
十年間、私一人が回していたものを、「代わりはいくらでもいる」の一言で切り捨てた結果。
義母が連れてきた愛人——リリアーナ嬢は、帳簿の「帳」の字も書けなかったそうだ。社交と舞踏と甘い言葉は得意でも、数字の前では全く無力だった。
代わりはいくらでもいる、と。
——いなかったようですね。
彼が来たのは、公爵家が破綻してから二週間後のことだった。
午後の日差しが商会の窓から差し込む、穏やかな日だった。私は新しい取引先への提案書を書いていた。東方からの絹織物ルート。これが成功すれば、商会の売上はさらに三割伸びる。ちょうど計算が乗ってきたところだった。
「エレナ」
聞き覚えのある声に、ペンが止まった。
顔を上げると、そこにルドヴィク——いえ、グラーフ公爵が立っていた。
変わり果てていた。
かつて社交界の華と謳われた金髪は乱れ、頬はこけ、目の下には深い隈がある。仕立ての良かった上着は皺だらけで、靴には泥がついたままだった。そもそも——王都から辺境まで、この人が自分で馬車を手配して来たこと自体が驚きだ。今まで旅の手配は全て私がやっていたのだから。
「……グラーフ公爵。これはご足労いただきまして」
私は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。取引先の来客に対するのと同じ、礼儀正しい対応で。
「どうぞ、お掛けください。お茶をお入れしますね」
「お茶なんていい!」
グラーフ公爵は声を荒らげた。が、すぐに肩を落とした。この人はいつもそうだ。瞬間的に感情を爆発させて、すぐに萎む。十年間、何度も見た光景。
「……すまない。エレナ、頼みがあるんだ」
「エレナ、とお呼びになるのはお控えください。私はもうグラーフ家の人間ではございません。ベルティーニ商会の主人、エレナ・ベルティーニです」
「あ、ああ……そうだったな」
公爵は椅子に崩れるように座った。背中が丸い。社交界で常に背筋を伸ばしていた面影はなかった。
「エレナ——いや、ベルティーニ殿。戻ってきてくれないか。公爵家に」
やはり。
私は穏やかに微笑んだ。
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「理由……全部だよ! 帳簿は合わない、商会は取引を切ってくる、税金は滞納、領民は怒ってる——何もかもうまくいかないんだ!」
「はい」
「母上が連れてきた管財人とやらも、お手上げだと言っている。君が作った帳簿の仕組みが複雑すぎて誰にも読めないって——」
「複雑、ですか」
(複式簿記の基本ですけれど。この国の商業学校で一年目に習う内容です)
「リリアーナも——あの子は帳簿なんか分からないし、使用人ともうまくいかないし——」
「リリアーナ様。確か、私の代わりにふさわしい方でしたね」
公爵が言葉に詰まった。
「とにかく、君がいないとダメなんだ。戻ってきてくれ。条件は何でもいい。愛人とも別れる。母上にも謝らせる。だから——」
「愛人と別れる、ですか。それはリリアーナ様がお気の毒ですね。確か、本気の相手だとおっしゃっていたのに」
「それは……母上が勝手に……」
私は静かにお茶を淹れた。丁寧に。急がず。公爵家時代に何千回と繰り返した所作で。
カップを公爵の前に置き、自分も対面に座った。
「グラーフ公爵」
「……なんだ」
「お断りいたします」
一瞬、公爵の顔が凍りついた。
「え——」
「お断りいたします、と申し上げました」
「ど、どうして! 条件は何でも——」
「条件の問題ではございません」
私はお茶を一口飲んだ。温かい。この商会で飲むお茶は、いつも温かい。公爵家のサロンでは、いつも冷めたお茶しか飲めなかった。義母が先に飲み終わるまで、手をつけることを許されなかったから。
「十年間——」
静かに、しかしはっきりと。
「十年間、私は公爵家のために働きました」
「ああ、だからこそ——」
「帳簿をつけました。年間予算を組み、収支を管理し、四半期ごとに決算を出しました」
「う、うん」
「商会との交渉を行いました。ザンクト商会、ベーレンス商会、リヒター商会、バウアー商会——全ての取引先と、私が条件を詰めました。年間十五件以上の交渉を、十年間」
「そう、だったのか……」
「使用人八十七名の管理をしました。給与計算、配置転換、採用と解雇。全て私が判断しました。ハインツが腰を悪くした時の代理も、新人教育の手順書作りも」
「……」
「領民からの陳情に対応しました。税に関する問い合わせに回答しました。隣領との境界紛争を、三度の交渉で解決しました。二度目は夜通しの交渉でした」
公爵の顔が蒼白になっていく。
「それだけではありません。水路の改修計画を立案し、農地の輪作スケジュールを組み、飢饉に備えた備蓄制度を導入しました。公爵領の収益を十年で二倍にしたのは、私です。年間四千万リオンの予算を、一人で管理していました」
「……知らなかった」
「ええ。ご存じなかったでしょうね」
私は微笑んだ。怒りではない。呆れでもない。ただ——事実を述べているだけだ。
「それら全てを、お義母様——公爵太夫人は『家政婦の仕事』とお呼びでした。そして『あなたの代わりなんていくらでもいる』と」
公爵はうなだれた。
「母上が……悪かった。僕も悪かった。だから——」
「いいえ、謝罪は結構です。十年分の謝罪を今さらいただいても、使い道がございませんので」
私はカップを置いた。
「その代わり、一つお願いがございます」
「な、何でも!」
「十年分の未払い給金を、請求させていただきますね」
公爵が目を見開いた。
「み、未払い……?」
「はい。私がこなしていた業務を市場価格で算定いたしました」
私は手元の書類を広げた。実は彼が来ることは予想していた。だから既に計算は済ませてある。
「領地経営総括、金貨百枚。財務管理、金貨八十枚。商会交渉、金貨五十枚。人事管理、金貨四十枚。対外折衝、金貨三十枚。——それぞれ年額です。合計で年間金貨三百枚」
「さ、三百——」
「十年分ですから三千枚。それに複利——年率五分で利息を計算しますと——」
私は手元の紙に、すらすらと数字を書いた。十年分の帳簿を頭の中で管理してきた私にとって、この程度の計算は朝食前の準備体操のようなものだ。
「合計、金貨四千二百七十三枚と銀貨六枚になります」
公爵の顔から、最後の血の気が引いた。
「そ、そんな額——払えるわけが——」
「お支払いが難しければ、分割でも構いません。月々金貨三十六枚の百二十回払い。まあ、その前に領地が残っていればの話ですが」
「……」
公爵は何も言えなくなった。
私は立ち上がり、扉を開けた。
「本日はご来店ありがとうございました。請求書は後日、正式な書面でお送りいたしますね。公爵家の顧問弁護士宛てでよろしいですか? ……ああ、顧問弁護士の契約も打ち切られたのでしたね。では、直接お屋敷にお送りします」
「エレ——ベルティーニ殿……本当に、戻ってはくれないのか」
その声は震えていた。哀れだと思った。だが、それだけだった。十年前なら胸が痛んだかもしれない。けれど十年間かけて、その感情は帳簿の行間に挟まって、とうに乾いてしまった。
「グラーフ公爵。一つだけ、教えて差し上げます」
「……何を」
「代わりはいくらでもいる——そうおっしゃいましたね。あなたのお母様が」
「……」
「でしたら、今すぐ代わりを見つけてください。私はもう、ここにはいません」
深く一礼した。今度は公爵家の夫人としてではなく、一人の商人として。
「ごきげんよう、グラーフ公爵。どうぞお元気で」
元気でね——かつてあなたが私に言った、あの軽い言葉をお返しします。
扉が閉まる音が、静かに響いた。
それから一年が経った。
ベルティーニ商会は、辺境の小さな店舗から始まり、今では王都にも支店を構えるまでに成長していた。
従業員は二十三名。取引先は百二十を超える。東方の香辛料、辺境の羊毛と蜂蜜、西方の絹織物、北方の毛皮——あらゆる商材を扱い、確実な利益を出し続けている。姉への借金は八ヶ月で完済した。利子もきっちり払った。
「エレナさん、今期の決算書ができました」
マルタが書類を持ってきた。この一年で彼女も成長した。帳簿の基礎を教えたら、驚くほどの速さで吸収していった。
「ありがとう。……ええ、順調ですね。前期比で三割二分の増収。利益率も一割四分を維持」
「すごいですね! もう王都でも有名ですよ、うちの商会。『辺境の帳簿姫』って呼ばれてるの、知ってます?」
「帳簿姫……」
(そのあだ名はどうかと思いますけれど)
「商会の名前が有名になるのは良いことです。でも大切なのは数字よ、マルタ。利益率が安定しているかどうか。一時的な増収に浮かれて投資を焦ると、足元をすくわれます」
「あはは、エレナさんらしい」
マルタが笑って去っていく。
私も少しだけ笑った。
——この一年で、笑うことが増えた気がする。
夕方、帳簿の最終確認をしていると、来客があった。
「ベルティーニ殿」
クラウス様だった。手には小さな包みを持っている。
「辺境伯。今日は帳簿の確認日ではありませんが」
「ああ。今日は……別件だ」
珍しく歯切れが悪い。普段は用件を端的に述べる人なのに。
「これを」
差し出された包みを開けると、万年筆が入っていた。深い藍色の軸に、控えめな金の装飾。華美ではないが、手に馴染む確かな作り。
「……これは」
「南方の工房で作らせた。良い帳簿には良い筆が要ると思っただけだ」
そっぽを向いて言うクラウス様の耳が、少しだけ赤い。
「……ありがとうございます、クラウス様」
「礼には及ばない。あんたの帳簿が読みやすくなれば、俺の仕事も楽になる」
相変わらず、不器用な人だ。
でも——この不器用さが、少しだけ心地いい。数字と事実だけで繋がる関係。見栄も社交辞令もない、正直な付き合い。
「大切に使わせていただきますね」
クラウス様は小さく頷いて、帰っていった。
新しい万年筆を、そっと机の上に置いた。藍色の軸が、夕日の光を受けて静かに輝いている。
窓の外では、夕焼けがヴァイスの町を赤く染めている。
グラーフ公爵家のその後は、風の噂で聞いていた。
王家の介入により管財人が常駐。ルドヴィク・フォン・グラーフは実質的に領地の管理権を剥奪され、爵位の返上も時間の問題だという。愛人のリリアーナ嬢は公爵家に金がないと知るや、一ヶ月も経たずに去ったそうだ。「本気の相手」の末路がそれだった。義母のヒルデガルドは体調を崩し、屋敷の一室に閉じこもっているとか。
未払い給金の請求書は、先月、正式に受理された。王家の監査官が「正当な請求である」と認めたのだ。全額回収は難しいだろうが、それでいい。金額の問題ではない。あの十年間に価値があったことを、公的に認めさせること。それが目的だった。
因果応報——とは思わない。
ただ、当然の結果だ。
十年間、一人の人間が支えていたものを、その人間ごと切り捨てれば、崩壊するのは自明の理。
私はそのことを恨んではいない。
むしろ感謝しているくらいだ。あの十年間がなければ、今の私はいない。帳簿の読み方も、交渉の仕方も、人を見る目も——全て、あの理不尽な十年間が教えてくれた。
ただし。
感謝と対価は別物だ。
新しい万年筆を手に取り、帳簿を開いた。
今日も数字は正確で、取引は順調で、利益は確実に積み上がっている。
ふと、義母の声が頭をよぎった。
——「あなたの代わりなんて、いくらでもいるのよ」
私は帳簿に目を落としたまま、小さく呟いた。
「そうおっしゃっていましたね、お義母様」
ペンを走らせる。綺麗な藍色のインクが、白い紙の上に数字を刻んでいく。
「結局——十年経っても、代わりは見つからなかったようですけれど」
帳簿を閉じた。
窓の外では、明日へ続く空が広がっている。
エレナ・ベルティーニ——二十九歳。ベルティーニ商会代表。
今日も仕事は山積みだ。
でも、悪くない。
全部、私が選んだ仕事だから。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今作は「主婦の無償労働」の価値を異世界ファンタジーで描いてみたい、という想いから生まれました。家事・育児・家計管理……現実でも「やって当たり前」と見なされがちな仕事って、実はものすごい専門性と労力が必要ですよね。それを領地経営に置き換えたらどうなるか——というのがこの作品の出発点です。
エレナには王子様もチートスキルも要りません。彼女の武器は、十年間休まず帳簿をつけ続けた経験そのものです。地味だけど、それが一番強い。
書いていて一番楽しかったのは、やっぱり終盤の「十年分の未払い給金を請求させていただきますね」のシーンですね。複利計算まで即座に出してくるエレナ、書きながら「この人には絶対敵に回りたくないな……」と思いました(笑)。
もし反響をいただけたら、続きも書きたいと思っています。エレナの商会がさらに拡大する話や、クラウスとの不器用な関係がどう進展するのか……気になる方がいらっしゃれば、感想やブクマで教えてください。筆者の燃料になります。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】
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