手紙は、いつも同じ書き出しで始まる。
——拝啓、ヴェンデル様。辺境の冬は今年も長いですが、お元気でいらっしゃいますか。
七年間、一度も返事をもらえなかった書き出し。
それを最後に書いたのは、三日前のことだった。
王都、クロイツ侯爵邸の応接間。
蝋燭の灯りに照らされた豪奢な部屋の中で、リゼット・フォン・ノルトハイムは背筋をまっすぐに伸ばして座っていた。インクで少し汚れた指先を、膝の上で組んでいる。辺境から三日かけて馬車に揺られてきた疲れは、顔には出さなかった。
向かいに座る金髪碧眼の青年——婚約者のヴェンデル・フォン・クロイツは、書類を広げたまま、リゼットの方を見もせずに言った。
「この婚約は本日をもって解消する」
声に感情はなかった。不要になった書類を処分するときの事務的な口調。
「正直に言おう。お前に書く手紙などない。顔も覚えていなかった」
七年。毎月一通、欠かさず送り続けた手紙。合計八十四通。ヴェンデルはその一通も開封していなかったのだろう。使用人に渡して、書庫のどこかに積んであるに違いない。
リゼットは泣かなかった。
「……承知いたしました」
静かに立ち上がり、懐から一通の手紙を取り出した。封蝋を施した、いつもと同じ体裁の手紙。テーブルの上に、ことりと置く。
「これが最後の手紙です。——ただし、あなた宛ではありませんけれど」
ヴェンデルが初めてリゼットの顔を見た。困惑が浮かんでいた。十七歳の辺境伯令嬢の顔を、この七年で初めてまともに見たはずだ。しかしリゼットはもう振り返らなかった。
応接間を出る。長い廊下を歩く。壁に飾られた絵画も、磨かれた大理石の床も、リゼットの目には入らなかった。侯爵邸の正門をくぐる。
王都の空を見上げた。星は、辺境ほど見えない。
七年前のことだ。
十歳のリゼットは、父の書斎で婚約の知らせを聞いた。
「王都の侯爵家と、縁組みが決まった」
父アルノルト・フォン・ノルトハイムは、椅子に深く腰かけたまま低い声で言った。大きな手が、不器用に膝を叩いている。娘に何と言えばいいか分からないときの癖だった。
「辺境と王都の架け橋になる。大事な婚約だ」
「はい、お父様」
リゼットは素直に頷いた。辺境伯の一人娘として、いつか政略婚約があることは分かっていた。
その夜、リゼットは初めての手紙を書いた。
——はじめまして、リゼットです。辺境の冬はとても寒いですが、星がとてもきれいです。いつか、あなたにも見せたいです。
手紙を出した。一ヶ月待った。返事は来なかった。
二ヶ月。三ヶ月。半年。
返事は来なかった。
それでもリゼットは書き続けた。辺境の春の花のこと。夏の短い陽光のこと。秋の森の色のこと。冬の星座のこと。毎月一日になると机に向かい、インク壺を開け、丁寧に文字を綴った。
最初の頃は「ヴェンデル様はどんな方なのだろう」と想像しながら書いた。きっと立派な方だろう。王都の侯爵家のお坊ちゃまだもの。剣術も学問もお出来になるのだろう。——そんな想像は、返事が来ないことで少しずつ薄れていった。
代わりに残ったのは、手紙を書くこと自体の喜びだった。
きっと忙しいのだろう、と自分に言い聞かせた。
十歳の少女は、手紙を書くのが好きだった。文章にすると、頭の中が整理される。感情が落ち着く。目の前の景色が、言葉になった途端に輪郭を持つ。それは不思議な感覚だった——まるで、どこか別の場所で、ずっと文章を書いていたかのような。
父は何も言わなかった。ただ、毎月一日にリゼットがインク壺を開けると、黙って新しい便箋を机に置いてくれた。
十二歳になった年、リゼットは辺境の森で異変に気づいた。
魔物の巣が、例年より南に下りてきている。渡り鳥の経路が変わった。北の川の水量が減っている。それだけではない。国境沿いの村から来る行商人の数が半分に減った。冬の到来が年々早まっている。
それぞれは些細な変化だった。しかしリゼットの頭の中で、断片的な情報がつながっていく。前世の記憶かもしれない何かが、情報を整理し、全体像を描き出す。数字と事実を並べると、見えない線が浮かぶ。あちら側の国で何か大きな動きがある——その動きが、生態系を押し出しているのだ。
——北方の隣国で、何かが起きている。大きな何かが、動き出そうとしている。
辺境伯の娘がそう訴えたところで、誰が耳を傾けるだろう。王都の貴族たちは辺境を「田舎」としか見ていない。父は信じてくれたが、宮廷に届ける手段がなかった。正式な報告書を出しても「十二歳の小娘の戯言」で片付けられるだけだ。
リゼットは考えた。考えて、考えて——一つの方法を思いついた。
毎月、婚約者に手紙を書いている。その手紙に、情報を織り込めばいい。
暗号を編み出した。文面は婚約者への日常の手紙。しかし各段落の三文字目を拾うと、辺境の情報報告が浮かび上がる仕組みだった。
たとえば——
——今日は朝から雪が降りました。『ま』ものの群れが村の近くまで来ましたが、騎士様たちが追い払ってくださいました。
何気ない日常の報告。しかし段落の頭文字と特定位置の文字を組み合わせると、魔物の出現座標と移動方向が読み取れる。
文章を書くのは得意だった。二重の意味を持つ文面を紡ぐことは、前世の感覚がそのまま活きた。自然な手紙として読んでも不審に思われず、暗号を知る者が読めば正確な情報が得られる——その精度を、リゼットは毎月磨き上げていった。
宛先だけを変えた。婚約者の侯爵邸ではなく、王都の情報網を経由して、王国軍の情報部門へ届くように。外見はヴェンデル宛の手紙そのもの。しかし配達経路の途中で、別の手に渡る仕組み。
父アルノルトは、娘の変化に気づいていた。手紙の配達経路が変わったことにも。ある日、リゼットが領の配達人に手紙を渡す前に、父が書斎に呼んだ。
「……お父様、あの」
「ああ」
それだけだった。父は何も聞かなかった。ただ、翌月から、手紙の配達には辺境伯家の信頼できる騎士が同行するようになった。黙って配達経路の安全を確保してくれたのだ。
リゼットはその夜、手紙の末尾にそっと一行を加えた。
——お父様、ありがとう。
暗号ではない、ただの一行。誰に届くわけでもない。けれど書かずにはいられなかった。
三年間、報告を送り続けた。反応はなかった。
ヴェンデルからも。情報部からも。
リゼットは手紙を書き続けた。返事がなくても、この情報は誰かの役に立つかもしれない。そう信じて、毎月、辺境の変化を暗号に織り込んだ。時には「もう意味がないのでは」と思う夜もあった。暗号を織り込む労力は小さくない。寝台の上で天井を見上げて、辞めようかと考えた。でも翌朝になると、また机に向かっていた。辺境の変化は止まらないから。書かないわけにはいかなかった。
十五歳の春。
見慣れない封蝋の手紙が届いた。
銀灰色の蝋に、王家の紋章。
指が震えた。封を切る。
——あなたの報告は、王国にとって極めて重要です。三年分の分析を精査しましたが、その精度は我が情報部の分析官を上回るものでした。引き続き、お願いいたします。——E
短い文面。署名はイニシャルのみ。飾りのない、実直な筆跡。
しかしリゼットは、その一通を何度も読み返した。便箋を光にかざし、インクの筆圧を指で辿った。
読んでくれていた人が、いた。
三年間、暗い水の底に手紙を投げ込むような気持ちだった。届いているのかどうかも分からず、ただ書き続けていた。その手紙が——ちゃんと、誰かの手の中にあった。
涙は出なかった。代わりに、次の手紙を書き始めた。いつもより少しだけ、丁寧に。
それからの二年間で、やり取りは変わっていった。
エーリヒ——第一王子にして王国軍情報部門の統括者——からの返信は、最初は業務的だった。「報告を確認しました」「北東部の情報を補完してください」「次回より獣道の変化も含めてほしい」。短く、的確で、感情がなかった。
しかし、少しずつ変化が始まった。
リゼットの手紙には、暗号の情報報告だけでなく、辺境の日々を綴る「私信」の部分がある。星空のこと。季節の花のこと。領民の暮らしのこと。暗号部分を書き終えた後、ペンが止まらずにそのまま書いてしまう日常の断片。それはリゼットにとって、息継ぎのようなものだった。
ある日の返信に、一行が加わっていた。
——北の星空の話、楽しみにしています。
リゼットはその一行を、何度も指でなぞった。
次の手紙で書いた。
——今夜の星空は、きっとあなたの窓からは見えない色をしています。北の空だけに咲く、冬の冠座がとてもきれいでした。
返信。
——王都からは同じ星座が見えます。しかし、あなたの空の方が美しいのでしょう。いつか見てみたいと思います。
手紙越しの、静かな往復。暗号と私信が入り混じる、奇妙で、かけがえのない文通。
春には高山植物の名前を書いた。エーデルワイスが岩場に咲いたこと。名前のわからない青い花を見つけたこと。押し花にして手紙に挟もうとしたが、花びらが潰れてしまって断念したこと。エーリヒはそれを「名前がわかったら教えてほしい」と返した。
夏には辺境の祭りの話を書いた。領民たちが短い陽光を惜しんで夜通し踊ること。子どもたちが松明を持って丘を走ること。リゼットも一緒に踊ったこと。エーリヒは「王都の祝宴より、ずっと楽しそうだ」と返した。
秋には紅葉の色を言葉で描いた。辺境の紅葉は王都のそれとは違い、針葉樹の深い緑の中に、一筋だけ赤が走る。その鮮烈さを手紙に閉じ込めようとして、言葉が足りないもどかしさを正直に書いた。エーリヒは「あなたの言葉で十分に見えました」と返した。
冬にはまた、星空の話を。
同じ星を、違う空から見ている。会ったこともない二人が、同じ星座を見上げている。そのことが、不思議に胸を温めた。
手紙の中で、エーリヒの口調は少しずつ変わっていった。「ノルトハイム殿」が「あなた」になり、業務報告への返答に「ご自愛ください」の一語が添えられるようになった。リゼットもまた、暗号部分の後に書く私信が、月を追うごとに長くなっていった。
七年間。八十四通。
ヴェンデルからの返事は、最後まで一通もなかった。
でも、もう寂しくなかった。
婚約破棄の夜。
王都の安宿の、硬い椅子に座って、リゼットは窓の外を見ていた。
星が、見えない。王都の空は明るすぎて、辺境の星座がどこにあるのかわからなかった。
今日、テーブルに置いてきた「最後の手紙」——あれは暗号で書かれた最終報告書だった。七年間の情報分析の集大成。北方の動きの全体像。次に起こりうる侵攻の規模と時期の予測。ヴェンデルには読めない。読む気もないだろう。いずれ情報部の人間が回収する。
これで、手紙の仕事は終わりだ。
婚約が解消された以上、「婚約者への手紙」という偽装は使えない。七年間続いた情報提供は、今日で終わる。
——エーリヒ様への最後の手紙は、朝のうちに出した。
任務完了の報告。七年分の感謝。辺境に戻ること。そして最後に一行だけ、私信を添えた。
——あなたの空にも、いつか北の星が見えますように。
書き終えたとき、ペンを置く手が重かった。これが最後の手紙だと思うと、指がもう少しだけ書いていたいと訴えていた。
リゼットは自分の手を見つめた。インクで汚れた指先。七年間、この手で手紙を書き続けた。爪の横にインクが染みついて、いくら洗っても取れない。十歳の頃は気にしていたけれど、いつの間にか勲章のように思えるようになっていた。
「……これで良かった」
声に出して言ってみた。
本当に?
あの花の名前、結局わからなかったな。青い花。名前がわかったら教えると約束したのに。
涙は出なかった。泣くほどの期待を、最初から持っていなかったから。
——本当に?
宿の窓から見える王都の灯りは、温かいのに冷たかった。辺境の冬の方がずっと寒いのに、あの星空の下の方が温かかった。手紙を書く机があって、返事を待つ楽しみがあって。
明日、辺境に帰ろう。帰れば、またあの星空が見える。
ただ、もう誰にもそのことを書けないだけだ。
眠れない夜だった。
翌朝。
荷物をまとめて宿を出ようとしたとき、階下が騒がしくなった。
「ノルトハイムのリゼット嬢はこちらにおられますか!」
王宮の紋章をつけた使者だった。
「第一王子エーリヒ殿下からのお手紙をお預かりしております」
差し出された封筒。見慣れた銀灰色の封蝋。
しかし、いつもの業務用の薄い封筒ではなかった。厚い上質の便箋に、直筆の宛名。「ノルトハイム辺境伯令嬢、リゼット殿へ」——公務の書式ではない、個人的な手紙だった。
指が震えた。十五歳のあの日と同じように。
封を切る。
——リゼット嬢。
初めて、名前で呼ばれていた。「あなた」でも「ノルトハイム殿」でもなく。
——七年間、ありがとう。あなたの手紙がなければ、この王国は盲目のままでした。辺境の異変も、隣国の動きも、大規模侵攻の前兆も——全てはあなたの目と筆が教えてくれたものです。
——しかし、感謝を伝えたいのはそれだけではありません。
——あなたの書いた北の花の名前を、私は全て覚えています。エーデルワイス。リンドウ。アルペンローゼ。氷の花。あなたが見つけた名もない青い花。
——あなたの見た星空を、私はいつも想像していました。王都の濁った空から見る星座が、あなたの描写を読むと別の輝きを帯びるのです。
——正直に告白します。あなたの手紙が届くのを、毎月待っていました。暗号を読み解くよりも先に、末尾の私信を読んでいました。あなたが見つけた花のこと、領民の子どもたちのこと、雪解けの音のこと。あなたの言葉で綴られた辺境の世界は、私の知らない、しかしいつか行きたいと願う場所でした。
——手紙の中のあなたに、ずっと会いたかった。
文字が滲んだ。
リゼットの目から涙が零れていた。
七年間、泣かなかった。婚約者に無視されても。満座の前で破棄を告げられても。昨夜、一人で眠れない夜を過ごしても。
たった一通の手紙で、涙が止まらなくなった。
最後の一行を読んだ。
——迎えに行く。
手紙を胸に抱きしめた。声もなく泣いた。安宿の薄い壁の向こうで誰かが歩く音がして、それすら今は温かく聞こえた。
届かなかった手紙なんて、最初から一通もなかったのだ。
後日——。
リゼットの情報分析が正しかったことは、すぐに証明された。
北方から大規模な魔物の侵攻が始まった。国境を越え、辺境の村々に向けて数千の魔物が押し寄せた。過去百年で最大の侵攻だった。
しかし王国軍の対応は驚くほど迅速だった。七年分のリゼットの報告に基づき、侵攻パターンが予測されていた。防衛線の配置も、物資の備蓄も、住民の避難経路も、全てが彼女の分析通りに準備されていた。王国軍は侵攻のわずか二日前に辺境への展開を完了していた。
被害は、予想の十分の一に抑えられた。
宮廷でその事実が明かされたとき、ヴェンデル・フォン・クロイツは自分の血の気が引くのを感じた。
「辺境防衛の迅速な成功は、ノルトハイム辺境伯家から七年間にわたり提供された情報に基づくものです」
国防大臣の報告を、ヴェンデルは最初、他人事のように聞いていた。
「——この情報を王国に届け続けたのは、辺境伯の令嬢、リゼット・フォン・ノルトハイム嬢です」
辺境からの手紙。毎月届いた、読みもしなかった手紙。使用人に「また来たか」と渡し、書庫の隅に積ませた八十四通の手紙。
あの手紙が、王国を救った。
正確に言えば——ヴェンデル宛ではなかったのだが。その事実は、さらにヴェンデルを打ちのめした。自分に書く手紙などなかったのではない。自分は手紙の偽装に使われていたのだ。そしてそのことにすら気づかなかった。
「あの手紙に……そんな価値が、あったのか……?」
誰も答えなかった。答える必要がなかった。
ヴェンデルは書庫に駆け込んだ。積み上げられた手紙の束を初めて手に取った。埃をかぶった封筒を一通一通、並べた。日付順に並んだ八十四通。七年間の歳月が、そこに積み重なっていた。
一番古い手紙の封を切った。
——拝啓、ヴェンデル様。はじめまして、リゼットです。辺境の冬はとても寒いですが、星がとてもきれいです。いつか、あなたにも見せたいです。
十歳の少女が書いた、素朴で真っ直ぐな文字。丁寧に、一画ずつ気持ちを込めて書いた跡が見えた。
ヴェンデルの手から、手紙が滑り落ちた。
もう遅い。
何もかもが、手遅れだった。
辺境。
エーリヒは兵を率いて、自ら辺境防衛に赴いた。
魔物の侵攻が収まった翌日、ノルトハイム辺境伯邸の門の前に、銀灰色の髪をした軍服の青年が立っていた。軍靴に泥がこびりついていた。鎧の上から羽織った外套の裾が焦げていた。戦場から、まっすぐここに来たのだと分かった。
リゼットは門を開けた。
手紙では何百通もやり取りした。北の花の名前を教え合い、星空の色を語り合い、辺境の風の匂いを言葉にした。
でも、顔を見るのは初めてだった。
手紙の中で想像していたのとは、少し違った。もっと厳しい顔を思い描いていた。情報部の統括者。王子。冷徹な分析者。
目の前の青年は、少し疲れた顔をしていた。でもその目は——手紙の文面と同じ、まっすぐな目をしていた。
「リゼット嬢」
「……エーリヒ、殿下」
沈黙が落ちた。手紙の中ではあんなに言葉が出てきたのに、面と向かうと何も出てこない。風が吹いた。辺境の、冷たくて澄んだ風。リゼットが手紙に何度も書いた、あの風。
エーリヒの目が、リゼットの指先に止まった。インクで少し汚れた、手紙を書く手。
「……手紙の中のあなたに、ずっと会いたかった」
リゼットの目が潤んだ。辺境訛りが、ぽろりと漏れた。
「——っ、わたし、も……ずっと、会いたかった、んだ……っ」
言葉にならなかった。七年分の想いは、一通の手紙には収まっても、声にすると溢れてしまう。丁寧語も敬語も全部どこかへ消えて、辺境の子どもの頃の言葉だけが残った。
エーリヒが一歩、近づいた。大きな手が、リゼットのインクで汚れた手をそっと取った。戦場で剣を握っていた手。なのに、手紙を扱うように丁寧に。
「これからは、暗号でなくていい」
「……はい」
「名前で書いてくれ。俺の名前で」
「……はい」
涙が零れた。今度は、嬉しくて。
エーリヒはリゼットの手を握ったまま、少し笑った。手紙の中では一度も見せなかった笑顔だった。
「あの青い花。俺の部下に植物学者がいる。名前が分かるかもしれない」
リゼットは泣きながら笑った。
「——ずっと、知りたかったんです」
門の奥から、アルノルトが黙って見ていた。大きな腕を組んで、壁に背を預けて。七年間、娘の手紙を守り続けた父。その目が、少し潤んでいた。
「……ああ。あれなら、悪くない」
誰にも聞こえない声で、父は呟いた。
夜。
リゼットは、新しい手紙を書き始めた。
暗号はない。情報報告もない。
ただ、伝えたい言葉を、伝えたい人に。
——拝啓、エーリヒ様。今夜の辺境の星空は、とてもきれいです。
ペンが止まった。書き出しを見つめる。七年間、八十四通の手紙を書いてきた。そのどれよりもこの一通が難しくて、どれよりも幸せだった。
——あなたにも、きっと見せたいです。もう暗号なんて使わなくても、あなたに届くから。
インクで汚れた指先が、便箋の上を走る。窓の外では、辺境の星が変わらず瞬いていた。
届かない手紙は、もうない。
届けたい人に、届けたい言葉を。
それが、リゼット・フォン・ノルトハイムの、新しい手紙の始まりだった。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この作品は「知略型」と「溺愛型」の融合です。手紙に暗号を織り込んで王国を守る——というのが知略の部分。でも本当に書きたかったのは、手紙の中の「私信」の部分。花の名前、星空の色、辺境の風。七年間の手紙に込められた、言葉にならない想い。
ヴェンデルが最後に封を切った手紙の書き出しが「拝啓、ヴェンデル様」であること。その名前が自分だと分かった瞬間の彼の気持ちを想像していただけたら。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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