S01-P09 「証拠なら全て記録してあります」——記録魔法しか取り柄がないと捨てられた令嬢、婚約破棄の場で三年分の不正を読み上げる

第1話: 「証拠なら全て記録してあります」——記録魔法しか取り柄がないと捨てられた令嬢、婚約破棄の場で三年分の不正を読み上げる

第1アーク · 8,459文字 · final

「お前との婚約は、今日をもって破棄する」

王都大広間に、ヴィクトル・フォン・ブラントの声が響いた。

金髪を整え、自信に満ちた青い目を光らせた侯爵家の嫡男は、百名を超える貴族たちの前で高らかに宣言した。その横顔には一片の躊躇(ちゅうちょ)もない。魔法灯が並ぶ大広間は秋の夕暮れの陽を受けて金色に輝き、磨かれた大理石の床にヴィクトルの長い影が伸びていた。

「理由をお聞きしても?」

アネット・フォン・シュレーダーは静かに問うた。銀灰色の髪が燭台の灯りを受けて鈍く光る。淡い(あお)の瞳には、動揺の色は一切なかった。

「理由だと?」

ヴィクトルは鼻で笑った。

「お前の魔法は記録(レコード)。見たものを覚えるだけの、戦えない魔法だ。侯爵家の嫁には相応しくない。——俺にはもっと、華のある女が必要なんだ」

広間にくすくすと笑い声が広がった。記録魔法。固有魔法の中で最も軽視される部類。剣も魔法も使えない——ただ覚えるだけの、地味な力。

「三年間、お前が俺の役に立ったことが一度でもあったか?」

ヴィクトルは観衆に向かって両手を広げた。演説のように。

「ない。一度もだ。記録しか取り柄のない女を、これ以上傍に置く意味はない」

貴族たちの間から同情のため息が漏れた。ただし、それはアネットに対してではなく——ヴィクトルの「我慢」に対してだった。伯爵家ごときの令嬢を三年も婚約者にしてやったのだから、十分に慈悲深いではないか。そんな空気が広間を支配していた。

アネットは背筋を伸ばしたまま、微かに頷いた。

「……承知いたしました」

広間がほっとした空気に包まれた。泣きもせず、取り乱しもしない。さすが記録魔法の持ち主、感情も地味だ——そんな囁きが聞こえた。

「ただ」

アネットは一歩前に出た。

「最後に一つだけ、よろしいでしょうか」


ヴィクトルは面倒そうに顎をしゃくった。

「手短にしろ」

「はい。手短に済ませます」

アネットは一度目を閉じた。淡い碧の瞳が開いたとき、その目の奥で何かが静かに回り始めた。記録魔法の再生。三年分の記憶が、整然と並ぶ。

「王暦三百十二年、四月十七日。侯爵家執務室にて」

突然始まった日付の読み上げに、広間が少しざわついた。

「ヴィクトル様は騎士団運営費として国庫から受領した金貨三百枚のうち、八十枚を個人金庫に移動されました。帳簿には『訓練用具の購入』と記載されておりますが、該当する購入記録は存在しません」

広間が静まった。

ヴィクトルの目が見開かれた。

ヴィクトルの笑みが凍った。周囲の貴族たちも、聞き間違いではないかという顔をしている。

「……何を言っている」

「記録にございます」

アネットの声は変わらなかった。淡々と、冷静に、感情を一切交えずに事実を述べる。それが記録魔法の作法だ。記録は感情で歪めてはならない。日付と数字と発言。それだけを、正確に。

「同年五月九日。王都裏通りの賭博場『赤い月亭』にて。ヴィクトル様は金貨五十枚を賭けに使われました。お言葉を再現いたします——『俺の金だ、どう使おうが構わないだろう』」

ヴィクトルの表情がわずかに揺れた。まだ余裕がある。まだ「でたらめだ」と言えると思っている。

「同年五月二十二日。同じ『赤い月亭』にて。負けが込み、さらに金貨三十枚を追加。お連れの方に——侯爵家家令のグスタフ氏に——こうおっしゃいました。『帳簿は任せた。いつも通りやれ』」

広間の隅で、白髪の男がびくりと肩を震わせた。

広間の空気が変わった。

くすくすと笑っていた貴族たちの顔が、一人、また一人と強張っていく。賭博場。軍事費の横領。侯爵家の嫡男が。

「同年六月十四日。侯爵家の晩餐にて。ヴィクトル様は私に向かっておっしゃいました——『お前は黙って座っていればいい。どうせ記録しかできないのだから』」

広間に沈黙が落ちた。横領の話ではない。婚約者への言葉だ。居心地の悪い沈黙。

「……その通りにいたしました。黙って座って、記録しておりました」

アネットの声に初めて、微かな皮肉が混じった。しかしすぐに表情を戻し、事務的な口調に戻る。

「同年七月二十三日。侯爵家の書庫にて。ヴィクトル様は帳簿の数字を書き換えるよう、会計士のトーマス・ハーゲン氏に指示されました。『端数を合わせろ。誰も気づかない』——これが原文でございます」

「黙れ!」

ヴィクトルが叫んだ。声が裏返っていた。顔が赤い。整えた金髪が乱れている。

「でたらめだ! お前の記録なんぞ——」

「記録魔法の証言は、王宮裁判において法的証拠として採用されます」

アネットの声は揺るがない。

「レコルディア王国法典第三章第十七条。『記録(レコード)保持者の証言は、日時・場所・発言内容について法的証拠能力を有する』。ヴィクトル様もご存知かと思いますが——あるいは、ご存知なかったのでしょうか」

広間が凍りついた。

ヴィクトルは記録魔法を「ただ覚えるだけの地味な力」だと思っていた。戦えない。華がない。無価値だと。しかし彼は一つ見落としていた。記録は——証拠になるのだ。


「王暦三百十二年、九月三日」

アネットは止まらなかった。

「侯爵家の離れにて、ヴィクトル様はエリーゼ嬢と密会されました。その際の会話を再現いたします。『アネットか? あんな記録女、政略上の飾りだ。婚約が切れたら捨てる。心配するな』」

広間のどこかで、女性の悲鳴のような声が上がった。名前を呼ばれたエリーゼ——どこぞの男爵令嬢だろう——が顔を真っ白にして椅子から立ち上がりかけた。

「同年十一月。十二月。翌年の一月から三月にかけて——」

アネットは淡々と、しかし正確に、横領の明細を読み上げ続けた。日付。金額。帳簿の改竄箇所。共犯者の名前。密会の会話。全てが一字一句、記録されていた。

三年間。千九十五日。

ヴィクトルの傍にいた千九十五日間、アネットは一度も見逃さなかった。一度も忘れなかった。記録魔法はそういう力だ。見たものを、聞いたものを、完全に保存する。消去しない限り、永遠に。

ヴィクトルがアネットを「無能」と笑っていた三年間——アネットは静かに、一日も休まず、証拠を積み上げていた。

婚約者の食卓での雑談。書斎で漏れ聞こえる共犯者との会話。帳簿を覗き見たときの数字の不一致。夜会で交わされる賄賂の約束。全てが記録の中に、日付と時刻とともに眠っている。

アネットにとって、この三年間は地獄だった。愛されていないことは早くから分かっていた。「記録女」「地味な婚約者」——ヴィクトルが陰でそう呼んでいることも、記録にある。それでも耐えた。証拠が揃うまで。今日この日のために。

「王暦三百十三年——二年目に入りますと、横領の規模は拡大しております」

アネットは一息ついた。広間の貴族たちは身じろぎもしない。誰もが次の言葉を待っている。

「四月から六月の軍事費横領は合計金貨四百二十枚。このうち二百枚が賭博に、百五十枚が愛人への贈答品に、七十枚が——」

「やめろ!」

ヴィクトルが玉座の前の台を拳で叩いた。

「やめろ、アネット!」

名前で呼んだ。焦っている。追い詰められたとき、ヴィクトルは「お前」ではなく名前を呼ぶ。それも記録にある。

「お前の記録なんか信じる者がいるか! 伯爵家の小娘の作り話だ!」

アネットは初めて、小さく微笑んだ。

「作り話かどうかは——」

視線を広間の隅に向けた。

「——確認していただける方が、いらっしゃるようですが」


広間の最後列で、一人の男が静かに立ち上がった。

黒髪。鉄灰色の目。痩身長身。手には帳面とペンを持っている。その胸元に光る紋章——王宮監察局の徽章(きしょう)

「王宮監察官、カイル・ヴェーバーです」

低く、事務的な声が広間に響いた。必要なことしか言わない、簡潔な声。貴族たちがどよめいた。

「監察官だと——?」

「ブラント侯爵家の軍事費運用について、監察局は半年前から調査を進めておりました。しかし帳簿は巧妙に改竄されており、決定的な証拠を得ることができずにいた」

カイルの鉄灰色の目がアネットに向いた。

「——アネット嬢。続けてください」

その一言で、広間の空気が決定的に変わった。

これは婚約破棄の場ではなくなった。公開裁判だ。

ヴィクトルの顔から血の気が引いた。広間の中で、共犯者として名前を読み上げられた会計士トーマスが、音もなく席を立とうとした。しかし出口には既に、監察局の人間が立っていた。カイルは半年前から準備していたのだ。証拠さえあれば——その「証拠」を、記録魔法の少女が三年分持っていた。

「では——続けさせていただきます」

アネットは一度だけ、カイルに小さく頭を下げた。そして再び目を閉じ、記録を再生した。

「王暦三百十三年、七月八日。ヴィクトル様は侯爵家の書庫にて、騎士団副団長ルートヴィヒ・マイヤー氏と以下の会話をされました——」

ルートヴィヒが椅子から転げ落ちた。

「八月十五日。会計士トーマス・ハーゲン氏は改竄済みの帳簿を監察局に提出。その際の発言——『これで辻褄が合う。監察局の連中は数字しか見ない。騙すのは簡単だ』」

トーマスの足が止まった。出口に立つ監察局員が、静かに道を塞いでいた。

「九月。十月。十一月——」

アネットの声は淡々と続いた。感情を込めない。事実を述べるだけ。それが記録魔法の正しい使い方だった。

そして三年目——王暦三百十四年の記録に入ったとき、広間はもはや完全な沈黙だった。

三年分の不正が、白日の下に晒されていく。金額の総計は金貨二千枚を超えた。軍事費の横領。帳簿の改竄。共犯者への報酬。贈賄。賭博。愛人への貢ぎ。全てが日付と場所と発言者付きで、一字の曖昧さもなく読み上げられた。

貴族たちの中には、ヴィクトルと取引のあった者もいたのだろう。何人かの顔が、記録が進むにつれて青ざめていった。

ヴィクトルは最初は怒鳴った。「黙れ!」「嘘だ!」「この女を黙らせろ!」

次に脅した。「伯爵家ごと潰してやる!」「お前の父親の地位も——」

やがて懇願した。「アネット……頼む、やめてくれ……俺が悪かった……」

アネットは一度も止まらなかった。記録は事実だ。事実に同情は不要だ。

最後にはヴィクトルは黙った。金髪の美丈夫は、広間の床に膝をついて俯いていた。自信に満ちていた青い目は虚ろで、震える指が床の冷たい石を掻いていた。


「——以上が、三年分の記録の概要でございます」

アネットは静かに読み上げを終えた。広間は墓場のように静まり返っていた。

「正確な明細は、全百四十七件。本日は概要のみを申し上げました。必要であれば全件、一字一句、お読み上げいたします」

誰も口を開かなかった。広間を支配しているのは恐怖だった。記録魔法の恐ろしさを、この場にいる全員が初めて理解した。見ていた。聞いていた。全てを。三年間、一日も休まずに。この華奢(きゃしゃ)な銀灰色の少女が、ただ黙って——全てを記録していた。

カイルが歩み出た。帳面に何かを書き留めながら、アネットの前に立つ。

「アネット嬢。百四十七件の記録を、監察局に正式に提出いただけますか」

「はい。いつでも」

「記録の再生に際し、日時の誤差はどの程度ですか」

「ございません。記録魔法は見聞きしたものを完全に保存いたします。日付・時刻ともに正確です」

カイルが頷いた。帳面を閉じ、広間全体を見渡した。

「ブラント侯爵家嫡男ヴィクトル・フォン・ブラント、並びに共犯者として名前の挙がった者に対し、王宮監察局は本日付で正式な捜査を開始します。——本件はこのまま、王宮法廷に移送いたします」

ヴィクトルが顔を上げた。青い目は充血し、唇は震えていた。

「……待て。待ってくれ。俺は侯爵家の——」

「侯爵家の嫡男であることは、横領の免罪符にはなりません」

カイルの声は鋼のように冷たかった。

「レコルディア王国法典第七章。国庫資金の横領は大罪。爵位剥奪および財産没収の対象です」

ヴィクトルの目がアネットに向いた。怒りと、恐怖と、信じられないという感情がない交ぜになった目。

「お前——お前、最初からこのつもりで……!」

アネットは答えなかった。答える必要がなかった。

三年間、ヴィクトルの傍にいたのは愛のためではなかった。少なくとも、途中からは。不正に気づいた日から、アネットは一つの決意を固めていた。証拠が十分に揃うまで、黙って記録し続ける。婚約者という立場は、最も近くで不正を観察できる特等席だった。

婚約破棄は、想定の範囲内だった。むしろ、待っていた。

いつ切り出されてもいいように、準備は整えてあった。記録はとうに十分な量が揃っていた。しかし婚約者の立場から自ら告発すれば「裏切り」と見なされる。婚約が解消された瞬間——その瞬間だけが、記録を読み上げる正当な機会だった。

ヴィクトルが「お前の魔法は無価値だ」と言ってくれたおかげで、なおさら好都合だった。無価値だと言われた魔法が何を記録していたか——教えてあげる必要があった。

三年間、笑われ、蔑まれ、「記録女」と陰口を叩かれた。それでもアネットは記録を止めなかった。この日のために。この瞬間のために。


三日後。王宮法廷での審理は迅速だった。

アネットは法廷でも淡々と記録を読み上げた。裁判官が「三百十二年七月の件をもう一度」と求めれば、一字の違いもなく同じ内容を再生した。弁護側が「記憶違いではないか」と異議を唱えれば、「記録魔法は記憶ではなく保存です。違いはございません」と返した。法廷は沈黙した。

記録は全件が証拠として採用された。記録魔法の証言は日時付き・改竄不可能であり、帳簿の残存箇所と照合した結果、全てが一致した。

ヴィクトル・フォン・ブラントは爵位を剥奪され、全財産を没収された。横領した金貨二千枚超の弁済命令。投獄は免れたが、それは侯爵家当主——ヴィクトルの父が全財産を投げ打って弁済に応じたからに過ぎない。

共犯の会計士トーマスは投獄。騎士団副団長ルートヴィヒは軍籍剥奪と禁固三年。家令グスタフは侯爵家を追放された。

ブラント侯爵家は当主が公の場で謝罪し、嫡男の罪を認めた。名門侯爵家の名声は地に落ちた。

広間で婚約破棄を宣言した日から、たった三日で——ヴィクトルは全てを失った。

「記録しか取り柄がない」と笑った相手に、記録で全てを奪われた。

因果応報という言葉を、これほど正確に体現した事例もないだろう。

後に伝え聞いた話では、ヴィクトルは実家の離れに幽閉され、来客にも会えない身になったという。かつて「俺の金だ」と豪語した男には、もう金貨一枚すら残されていなかった。

社交界では「記録魔法の断罪」と呼ばれるこの事件は、貴族たちの間に大きな衝撃を与えた。不正を働いている者たちは震え上がり、記録魔法の持ち主を傍に近づけまいとした。逆に言えば——記録魔法は、それだけ「恐ろしい力」だと認められたのだ。無価値どころか、最も恐れられる魔法に。


審理が終わった夕方。王宮の回廊で、アネットは一人で歩いていた。

秋の陽が沈みかけている。回廊の窓から差し込む茜色の光が、銀灰色の髪を染めていた。三年間の緊張が解けて、少しだけ足取りが軽い。

「アネット嬢」

背後から声がした。振り返ると、カイル・ヴェーバーが帳面を片手に立っていた。

「監察官殿」

「——少し、話があるのですが」

カイルは珍しく言葉を探しているようだった。普段は必要なことしか言わない男が、視線を窓の外に逸らしている。

「先日の記録。百四十七件の証拠を、わずか三年で——しかも婚約者の立場で、一人で収集した。その胆力と判断力は、監察局の誰よりも優れている」

「お褒めに(あずか)り光栄です」

「褒めているのではなく——」

カイルが帳面を閉じた。鉄灰色の目がまっすぐにアネットを見た。

「監察局に来ませんか。記録魔法を正式に捜査に活用したい。——あなたの力が必要です」

カイルの声は事務的だった。しかしその鉄灰色の目には、事務的ではない何かがあった。敬意だ。アネットの能力に対する、純粋な敬意。

アネットは少し驚いた。記録魔法を「必要」だと言われたのは、生まれて初めてだった。

戦えない魔法。地味な魔法。無価値な魔法。そう呼ばれ続けてきた。ヴィクトルだけではない。父も、母も、社交界の誰もが、アネットの記録魔法を「残念な固有魔法」として扱った。夜会で自己紹介をすれば同情の目を向けられ、魔法学院では実技の成績が常に最下位だった。戦闘系の華やかな魔法が重宝される世界で、「ただ覚えるだけ」の力は——存在しないのと同じだった。

しかし——この三年で、アネットは知っていた。記録は力だ。正確な記録は、嘘を暴く。不正を証明する。声なき者の代わりに、事実を語る。

「……一つ、確認してもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「記録魔法を『使える』から誘っているのですか。それとも——」

カイルは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。笑うと鋭い目つきが少し柔らかくなった。

「記録魔法が使えるから——ではありません。三年間、誰にも気づかれず証拠を積み上げ続けた。追い詰められても声が震えなかった。百人の前で読み上げるとき、一度も間違えなかった。——そういう人が必要なのです」

力ではなく、人を見ている。

ヴィクトルは「記録しか取り柄がない」と言った。カイルは「そういう人が必要だ」と言った。同じ力を見て、一方は(わら)い、一方は価値を見出した。

「……お受けいたします」

声が少しだけ震えた。嬉しかったのだ。記録魔法に価値を見出してくれる場所がある。自分の力を、正しいことのために使える。三年間の暗い日々は、この日のためにあったのかもしれない。

アネットは深く一礼した。

「ただし——」

「ただし?」

「記録魔法は私の意思で使います。監察局の命令で記録の改竄や隠蔽に協力することは、いたしかねます」

カイルが今度は声を出して笑った。

「安心してください。監察局に改竄を命じる上司がいたら——」

「記録いたします」

「——そう言うと思いました」

回廊に、二人の静かな笑い声が響いた。

秋風が窓から吹き込んで、アネットの銀灰色の髪を揺らした。回廊の窓から見える王都の街並みが、夕陽に染まっている。三年間重く感じていた記録の量が、今は少しだけ軽く感じられた。

記録魔法は無価値だと言われた。戦えない、華がない、取り柄がない。

しかしアネットの記録は、侯爵家の嫡男を断罪し、軍事費の横領を暴き、共犯者を一人残らず法廷に引きずり出した。

戦えない魔法が、剣よりも鋭く——ただ一人の少女の記録が、王国の(うみ)を切り開いた。

これからは、もう一人ではない。

「——では、明日から出仕いたします。記録の準備はできております」

「……常に準備万端ですね」

「記録にございますので」

アネットは小さく微笑んだ。三年ぶりに、皮肉ではない笑みだった。

記録魔法を「無価値」と呼んだ男がいた。

記録魔法を「必要」と呼んだ男がいた。

どちらが正しかったか——それは、記録が証明した。

【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今作は「地味な力」が「最強の証拠」になる断罪ストーリーです。記録魔法——戦えない、華がない、ただ覚えるだけ。でもそれは裏を返せば「嘘をつけない、改竄できない、忘れない」ということ。法廷でこれほど強い能力はありません。

書いていていちばん気持ちよかったのは、ヴィクトルの態度の変化です。最初は鼻で笑い、次に怒鳴り、脅し、懇願し、最後は黙った。この崩れ方を丁寧に書くのが「ざまぁ」の醍醐味ですね。自分から「記録しか取り柄がない」と公言してくれたおかげで、アネットが証拠を読み上げても「でたらめだ」と言い張れない——自業自得の完成形です。

そしてカイル。彼が「記録魔法が使えるから——ではありません」と言ったシーン。ヴィクトルは力を見て嗤い、カイルは人を見て必要だと言った。同じ能力でも、見る人が変われば価値が変わる。アネットにとっては生まれて初めて「あなたが必要」と言われた瞬間で、書いていて少しうるっときました。

最後の「記録にございますので」は、この物語で一番好きな台詞です。三年ぶりの、皮肉ではない笑みとセットで。

◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。

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