秋の風が窓を揺らした日だった。庭の楓が色づき始め、朝の空気がひんやりと肌を刺す季節。
その日届いた封書には、王室裁判所の紋章が押されていた。
蝋の封を切る指先が、かすかに震えた。裁判所からの書状など、エルンスト公爵家には縁のないものだ。何かの間違いだろう——そう思いながら開いた中身は、私の世界を根底から覆すものだった。
——横領の件に関する証人召喚状。
被告人の名は、ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム。
私の、婚約者だった。
書状には分厚い添付書類がついていた。
証拠の写しだという。裁判所が関係者に開示する、事件の概要。
最初は意味がわからなかった。ヴィクトルが横領? 何を? 誰から?
読み進めるうちに、指先の震えが手首まで伝わった。
購入記録。日付。品目。金額。そして——出処。
宝飾品。書籍。織物。一つ一つの品に、購入日と店名が記されている。そしてそのすべてに、対応する横領元が併記されていた。
ヴァレンシュタイン侯爵家。
ヴィクトルの婚約者だった——いえ、婚約者だったと聞いていた令嬢の、実家。ヴィクトルは婚約者の立場を利用し、侯爵家の資金を「贈答費」の名目で引き出していたのだ。
翡翠のイヤリング。——三月十二日購入。代金はヴァレンシュタイン家の贈答費名目で支出。
異国の絹のスカーフ。——七月三日購入。同上。
ラウレンティウスの詩集初版本。——十月十八日購入。同上。
全部。
全部、覚えている。
あの翡翠のイヤリングは、私の十八歳の誕生日に贈られたものだ。「君の瞳の色に似ていたから」と、少し照れたように笑って。
あのスカーフは、夏の終わりに「商人の知り合いに頼んで取り寄せた」と渡されたものだ。私が好きな深緑色で、肌触りが柔らかくて、とても気に入って。
あの詩集は——私が一番大切にしていた贈り物だ。「古書店で偶然見つけたんだ」と、嬉しそうに差し出してくれた。ラウレンティウスが好きだと話したのは、たった一度だけだったのに。覚えていてくれたんだと、胸が熱くなった。
——全部、嘘だった。
偶然ではない。心がこもっていたのでもない。別の令嬢の家から盗んだ金で買って、さも自分の真心であるかのように渡していた。
書類が手から滑り落ちた。
私は長い間、自室の椅子に座ったまま動けなかった。
ヴィクトルと出会ったのは、王立学園二年目の春だった。
公爵令嬢である私には、入学した時から多くの令息が近づいてきた。社交辞令の仮面をかぶった求婚者たち。彼らの目は例外なく、私ではなく「エルンスト公爵家の一人娘」を見ていた。
それを責める気はない。貴族社会とはそういうものだ。家と家の結びつき。領地と財の統合。恋愛は二の次、三の次。私自身、そう教えられて育った。
だから——期待していなかった。誰かが私自身を見てくれることなど。
「失礼、この席は空いていますか」
図書室の片隅。ラウレンティウスの詩集を読んでいた私に声をかけてきたのが、ヴィクトルだった。
金髪に青い目。整った顔立ちだけれど、それだけなら学園にはいくらでもいる。彼が他と違ったのは、最初から自分の身分を隠さなかったことだ。
「レーヴェンハイム子爵家のヴィクトルです。——ええ、子爵家です。公爵令嬢に声をかけるような身分ではないのは承知しています」
苦笑交じりに、けれど卑屈ではなく。
「でも、ラウレンティウスを読んでいる方を見かけて、つい。あの詩人の作品を手に取る人は珍しいので」
「あら、あなたもお読みに?」
「ええ。『冬の庭園』が特に好きで」
——それが始まりだった。
ヴィクトルは聡明だった。文学を語る時の目は生き生きとして、権威や家格とは無縁の純粋な知識欲が滲んでいた。少なくとも、私にはそう見えた。
数日後に再び図書室で会った時、彼は言った。
「正直に申し上げます。僕はあなたに惹かれています」
唐突な告白に目を瞬いた私に、彼は続けた。
「家格が違いすぎることはわかっています。僕は子爵家の息子で、あなたは公爵家の令嬢だ。普通なら話にもならない。でも——僕は家の名前ではなく、あなた自身に惹かれたんです。それだけは嘘ではありません」
それだけは嘘ではない、と言った。
——今思えば、あの言い方自体が巧みだった。「嘘ではない」と強調することで、かえって誠実さを演出していた。
けれど、あの時の私には効いた。
家格ではなく自分自身を見てくれる人。求婚者たちの中で、初めて「マルガレーテ」を見てくれた人。そう思ってしまった。
ヴィクトルには婚約者がいた。ヴァレンシュタイン侯爵家のカタリナ嬢。
そのことを知った時、私は身を引くべきだと思った。婚約者のいる方と親しくするのは、公爵令嬢として——いいえ、人として、道に外れている。
けれどヴィクトルは、まるでこちらの葛藤を見透かしたように言った。
「カタリナとの婚約は、家同士の取り決めです。僕たちの間に心の通い合いはありません。——彼女もそれはわかっていると思います。お互いに義務で付き合っているだけだ」
「それでも、婚約は婚約でしょう?」
「ええ。だから僕は、きちんと手順を踏むつもりです。カタリナにも、僕の家にも、正式に話をして。不義理はしたくない」
正式に話をする。不義理はしたくない。
——なんて誠実な人だろう、と私は思った。
隠し事をせず、婚約者がいることを正直に打ち明け、正しい手順で進めようとしている。家格の差を自覚しながらも、怯まずに向き合ってくれている。
今となっては、全てが計算だったとわかる。
婚約者の存在を自ら明かしたのは、後から発覚するよりも先に「誠実さ」を印象づけるためだ。「正式に話をする」と言ったのは、私の良心を安心させるためだ。全ての言葉が、公爵令嬢の心を掴むために設計されていた。
でも、あの頃の私は——恋をしていた。
生まれて初めての恋だった。
父に話した時のことは、今でもはっきり覚えている。
「レーヴェンハイム子爵家の息子だと?」
執務室の椅子に深く腰かけた父は、眉間に深い皺を刻んだ。
「家格が違いすぎる。公爵家の婿に子爵家の息子など、前例がない」
「前例がないだけで、禁じられてはいません」
「マルガレーテ」
父の声が低くなった。
「婚約者がいる男だそうだな。ヴァレンシュタイン侯爵家の令嬢と」
「ご存じでしたの」
「知らぬわけがなかろう。——そんな男が、婚約者を差し置いて公爵家の娘に近づく。何が目的だと思う?」
「目的などありません。彼は誠実な方です。家格で人を判断するのは間違いです」
私は初めて、父に強く反論した。十八年間、一度も。
父は黙って私を見つめた。怒っているのか、失望しているのか、その表情からは読み取れなかった。
「……わかった。だが、調べさせてもらう」
父は独自にヴィクトルの身辺を調査させた。けれど結果は——何も出なかった。ヴィクトルの表の顔は完璧だったのだ。学園では評判の好青年。成績は優秀。対人関係に問題なし。子爵家の財政もさほど困窮しているようには見えない。
尻尾を掴めなかった父は、渋々ながら婚約を認めた。
母が間に入ってくれたことも大きかった。「あの子が初めて自分の意志で選んだのよ」と、父を説得してくれた。
——お父様。あなたは正しかった。
裁判所の書類を読みながら、私は心の中で父に謝った。家格で人を判断するなと言ったのは私だ。前例がないだけだと言ったのも私だ。父の懸念は正しくて、私の理想主義は間違っていた。
いいえ——理想主義が間違っていたのではない。理想に目が眩んで、現実を見なかった私が間違っていた。
贈り物のことを、思い出す。
贈り物の中で、一番大切にしていたのは、あの詩集だった。ラウレンティウスの『冬の庭園』初版本。
「偶然、古書店で見つけたんだ」
ヴィクトルは少し照れたように差し出した。革の装丁は年季が入っているが状態は良く、中の紙は黄ばみながらも文字はくっきりと残っている。
「高価なものではないですか? 受け取れません」
「古書だから、値段はそこまでじゃないよ。それに——君が喜んでくれるなら、それだけで十分だ」
嬉しかった。
私が好きな詩人を覚えていてくれたこと。わざわざ探してくれたこと。「値段より気持ちだ」と言ってくれたこと。
私はその夜、日記にこう書いた。
『ヴィクトル様から詩集をいただいた。ラウレンティウスの初版本。好きだと話したのは一度きりだったのに、覚えていてくださった。この人は——本当に、私を見てくれている。』
裁判所の書類には、こう記されていた。
『十月十八日。ラウレンティウス著『冬の庭園』初版本。王都ハイデン通り古書店にて購入。代金十二金貨。原資:ヴァレンシュタイン侯爵家名義の贈答費勘定より流用。』
十二金貨。
「値段はそこまでじゃない」——嘘だった。十二金貨は平民の年収に匹敵する。そしてその金は、彼のものではなかった。
翡翠のイヤリング。誕生日に贈られた、翡翠の雫型。
「君の目に似ていたから」
——代金四十金貨。ヴァレンシュタイン家の資産より流用。
異国の絹のスカーフ。深緑色の、滑らかな手触り。
「商人の知り合いに頼んで取り寄せた」
——代金十八金貨。同上。
銀細工のブローチ。小さな鈴蘭をかたどった繊細な細工。
「鈴蘭の花言葉は『再び幸せが訪れる』だそうだ」
——代金八金貨。同上。
一つ残らず。一つ残らず、盗んだ金で買われたものだった。
私が喜ぶたびに、どこかで誰かが奪われていた。私が日記に幸福を綴るたびに、帳簿の上で誰かの資産が削られていた。
ヴィクトルはいつも贈り物に小さなエピソードを添えた。「偶然見つけた」「君に似合うと思って」「知り合いに頼んだ」——全て作り話だ。作り話で心を掴む技術に、彼は長けていた。
そしてその技術を、私は「誠実さ」と呼んでいた。
卒業式の夜のことを思い出す。
舞踏会の広間。シャンデリアの光の下で、ヴィクトルが声を上げた。
「みんな、少し聞いてくれ」
私は彼の隣に立っていた。これからヴィクトルがカタリナ嬢との婚約解消を正式に発表し、私との婚約を宣言する——そう聞かされていた。「卒業を機に、全てをきちんとする」と。
「カタリナ。君との婚約を、今日をもって解消する」
広間がどよめいた。
「お前は——僕が公爵令嬢に近づくための道具だったんだ」
道具。
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが引っかかった。小さな棘のような違和感。
けれどそれは一瞬のことで、すぐにヴィクトルが私の方を向いて手を差し出した。
「僕とマルガレーテ嬢は、正式に婚約した。こちらが本当の相手だ」
私は彼の腕に手を添えた。少しばかり居心地が悪かった。衆人環視の中で婚約破棄を宣言するなど、もっと穏やかな方法があったのではないかと思ったからだ。
でも——それ以上に、カタリナ嬢の反応が気になった。
彼女は泣かなかった。取り乱しもしなかった。
「そうでしたか。では、お幸せに」
深く、優雅にお辞儀をして。微笑みさえ浮かべて。
……あれは、ただの強がりではなかった。今ならわかる。
あの微笑みの裏に何があったのか。一年かけて証拠を集め、この瞬間を待っていた女性の——静かな覚悟が、あったのだ。
でもあの時の私は、何も知らなかった。
「これでようやく正式に」と安堵していた自分が、今は恥ずかしくてたまらない。
書類を読み終えた私は、長い間、自室で座っていた。
泣きたかったのだと思う。でも涙は出なかった。出る前に、別の感情が押し寄せてきた。
怒り——ではない。
自分への、深い失望だ。
ヴィクトルに騙されたことが悔しいのではない。いや、悔しくないと言えば嘘になるけれど、それよりもずっと大きな感情がある。
私は——知ろうとしなかった。
ヴィクトルの言葉を信じた。「家同士の取り決め」「心は通っていない」——それを鵜呑みにした。カタリナ嬢の側の話を、一度も聞かなかった。
彼女は本当に心が通っていなかったのか。本当に「義務で付き合っていただけ」だったのか。それを確かめもせず、ヴィクトルの言葉だけで「そうなのだろう」と決めつけた。
公爵令嬢として、人として、私は何をしていたのだろう。
自分が恋をしている相手の言葉だけを信じて、もう一人の当事者の声を聞かなかった。父の懸念を「家格で人を判断するな」と一蹴した。自分は正しいと信じて疑わなかった。
——聡明? 分別がある?
笑ってしまう。社交界ではそう評されていたけれど、実態はこの有様だ。恋に浮かれた小娘が、初めての恋に目が眩んで、巧みな嘘に転がされていただけだ。
私は立ち上がった。
泣いている場合ではなかった。
やるべきことは二つある。
一つ目は、すぐに済んだ。
ヴィクトルとの婚約を破棄した。
婚約解消の書状を認めるとき、宛名を「ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム殿」と書いた。もう「様」をつける気にはなれなかった。
使いの者にその書状を持たせ、レーヴェンハイム子爵家に送った。理由は記さなかった。裁判所の書類が全てを語っている。
母が心配そうに私の部屋を訪ねてきた。
「マルガレーテ……大丈夫?」
「ええ、大丈夫です、お母様。——お父様に、申し訳なかったとお伝えください」
母は何も言わず、私を抱きしめた。
父は——何も言わなかった。「だから言ったのに」とは、一言も。
夕食の席で、父はただ一言だけ言った。
「お前は間違えた。だが、間違えた後の判断は正しい」
その言葉が、何より堪えた。
二つ目は——もっと難しかった。
カタリナ・フォン・ヴァレンシュタイン嬢のもとを訪ねること。
訪問を申し入れる手紙を書くのに、三日かかった。何を書いても軽すぎる気がした。何度も書き直して、最後は簡素にこう記した。
『お時間をいただけないでしょうか。直接、お話ししたいことがあります。——マルガレーテ・フォン・エルンスト』
返事は翌日届いた。短い一文。
『お待ちしております。——カタリナ・フォン・ヴァレンシュタイン』
カタリナ嬢の屋敷を訪ねた日は、秋晴れだった。
客間に通されると、彼女はすでに椅子に座って待っていた。黒髪を結い上げ、紫紺の瞳に穏やかな光を湛えて。
——美しい人だ、と思った。
けれどそれ以上に、強い人だと思った。ヴィクトルに「道具」と呼ばれ、衆人環視の中で捨てられ、それでも微笑んでいた人。一年かけて証拠を集め、正当な手続きで告発した人。
私が恋に浮かれている間、この人は一人で戦っていた。
「マルガレーテ様。ようこそいらっしゃいました。——お茶はいかがですか?」
穏やかな声だった。恨みも怒りも感じさせない、透明な声。
それが余計に辛かった。
「お茶は……結構です。長居するつもりはありません」
私は立ったまま、深く頭を下げた。
「ヴァレンシュタイン嬢。——本当に、申し訳なかった」
言葉が震えた。
「私は……何も知らなかった。あの贈り物が、あなたの家から奪われたもので買われていたなんて。ヴィクトルの言葉を信じて、あなたの側の話を聞こうともしなかった。私は——」
「顔を上げてください、マルガレーテ様」
カタリナ嬢の声は変わらず穏やかだった。
顔を上げると、彼女は微笑んでいた。あの卒業式の夜と同じ、静かな微笑み。けれど今は、そこに温かみがあった。
「あなたが謝ることではありませんわ、マルガレーテ様。あなたも被害者です」
「それでも」
「それでも、こうして訪ねてきてくださった。それだけで——十分ですわ」
彼女は一拍置いて、続けた。
「恨むべきは、私たち二人を利用した人です。あなたではありません」
私は何度か瞬きをした。涙を堪えるためだ。
この人は——器が違う。
道具と呼ばれ、資産を奪われ、衆人環視で恥をかかされた。それだけのことをされて、なお私を「被害者」と呼んでくれる。
私は頭を下げたまま、言葉を探した。謝罪だけでは足りない。でも、それ以外に私に何ができるというのだろう。
「……贈り物を、お返しすることはできません。裁判所に証拠品として提出する手はずですので」
「ええ、存じていますわ」
「ですが——せめて、あの品々の対価は。エルンスト家から、ヴァレンシュタイン家に」
「それも不要ですわ」
カタリナ嬢は静かに首を振った。
「横領された資産は、裁判の判決で正式に返還されます。あなたが負い目を感じる必要はありません」
全て——もう手続きが済んでいるのだ。証拠の収集も、告発も、裁判の申し立ても。この人は一年前から、一人で全てを整えていた。
私がヴィクトルの贈り物に頬を染めていた頃、この人は泣きたい夜を堪えて帳簿と向き合っていた。その事実が、胸の奥を鋭く抉った。
沈黙の中で、ふと気づいた。テーブルの上に、一冊の詩集が置かれていた。見覚えのある革の装丁——ラウレンティウスの『冬の庭園』。カタリナ嬢の家にもあるのだ。
「……あの詩人が、お好きなのですか」
「ええ。『冬の庭園』は特に」
カタリナ嬢の紫紺の瞳が、かすかに揺れた。
「ヴィクトル様が最初に私に贈ったのも、ラウレンティウスの詩集でした。——その時はまだ、自分のお金で買ってくださったのだと思いますけれど」
胸が痛んだ。ヴィクトルは、カタリナ嬢の好みを知っていた。いいえ——知っていたから、同じ趣味を持つ私にも使えると踏んだのだろう。
「……一つだけ、聞いてもよろしいですか」
「ええ」
「あの夜——卒業式の舞踏会で。あなたは泣かなかった。微笑んでいた。あれは……」
カタリナ嬢はほんの一瞬、目を伏せた。
「……全部、知っていましたの」
「えっ?」
「一年前から。ヴィクトル様の本当の目的も、横領のことも。全て調べて、証拠を揃えて、然るべき方にお渡しして。あとは——ヴィクトル様ご自身の口から聞くのを、待っていただけです」
全部、知っていた。
一年前から。
私がヴィクトルの贈り物に喜んでいた頃、カタリナ嬢は密偵を使って証拠を集めていた。私が日記に幸福を綴っていた頃、彼女は帳簿と向き合って不正を洗い出していた。
「なぜ……もっと早く告発しなかったのですか」
「彼の口から聞きたかったのです。本当に私を道具としか見ていなかったのかどうか」
その声に、かすかな——ほんのかすかな、痛みが滲んだ。
「かつて好きだった人ですから。……確かめたかったのです」
好きだった人。
カタリナ嬢もまた、ヴィクトルを好きだったのだ。「心は通っていない」「義務で付き合っている」——ヴィクトルの嘘を、私はそのまま信じていた。
「……ごめんなさい」
声が掠れた。
「本当に、ごめんなさい。私は——あなたのことを、何も考えていなかった」
カタリナ嬢は微笑みを崩さなかった。
「もう終わったことですわ。——どうか、お気になさらず」
それきり、沈黙が落ちた。秋の陽射しが窓から差し込んで、客間の床に金色の四角を描いていた。
「……お茶を」
「はい?」
「先ほどのお茶、いただいてもよろしいですか」
カタリナ嬢は少し驚いたような顔をして、それから——初めて、仮面ではない笑みを浮かべた。
「もちろんですわ」
帰りの馬車の中で、私は膝の上に置いた手をじっと見つめていた。
ヴィクトルの贈り物は全て、部屋の一角に箱にまとめてある。裁判所に証拠品として提出する手はずだ。あの翡翠のイヤリングも、詩集も、スカーフも、ブローチも。一つ残らず。
手元に残るものは何もない。ヴィクトルとの日々が夢だったかのように、物質的な痕跡は全て消える。
けれど——記憶は消えない。
私が信じたものが嘘だったという記憶。父の言葉を退けた記憶。カタリナ嬢の声を聞かなかった記憶。そして今日、あの人が微笑みながら許してくれた記憶。
馬車が石畳の上を揺れる。
窓の外には秋の王都が広がっていた。黄金色の並木道が、夕陽に照らされて燃えるように美しい。
——カタリナ嬢は言った。「もう終わったことですわ」と。
でも私にとっては、ここから始まるのだと思う。
もう、誰かの用意した言葉を鵜呑みにはしない。「君のために」「心がこもっている」「正直に言う」——甘い言葉の裏に何があるのか、自分の目で確かめる。
人を見る目がなかったのなら、これから養えばいい。間違えたのなら、同じ間違いを繰り返さなければいい。
それが——私にできる、唯一の償いだ。
日記の最後のページに、こう書くつもりだ。
『私は知らなかった。知ろうとしなかった。でも、もう知っている。——これからは、自分の目で見る。自分の足で確かめる。誰の言葉も、鵜呑みにはしない。
二度と同じ過ちは犯さない。
この秋の陽射しを、私は忘れない。』
後日——冬の夜会で、私はカタリナ嬢と再会した。
彼女は第二王子セドリック殿下の隣に立っていた。穏やかに、けれど確かな輝きを纏って。
目が合った瞬間、カタリナ嬢がかすかに微笑んだ。あの秋の日と同じ——でも今度は、痛みのない、透き通った微笑みだった。
私も微笑みを返した。
言葉は交わさなかった。でも——それで十分だった。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この作品は「『お前は道具だった』と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件」の番外編です。本編ではほんの数行しか描かれなかったマルガレーテ嬢——「騙された公爵令嬢」の側から、あの事件を描き直してみました。
なぜ聡明な公爵令嬢が、格下で婚約者のいる男を受け入れたのか。答えは単純で、初恋だったから。ヴィクトルは巧みで、マルガレーテは恋愛に不慣れで、その組み合わせが悲劇を生んだ。父親の反対を押し切ったのも、マルガレーテにとって初めての「自分の意志」だったからこそ、引くに引けなかった。
カタリナとマルガレーテ、二人の令嬢がそれぞれの形でヴィクトルに利用された。でも二人とも、最後には自分の足で立った。そこが書きたかったところです。
本編をまだお読みでない方は、ぜひそちらもどうぞ。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 本編
・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】
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