——書けない。
一文字も、書けない。
アルベルト・フォン・ヴィンターハルト伯爵嫡男は、白紙の羊皮紙を前に、ペンを握る手が震えていることに気づいた。
インク壺の中身は満ちている。羽根ペンの先も研いだばかりだ。執務室の窓からは柔らかな朝の光が差し込み、机上を照らしている。条件は何一つ変わらない。
変わったのは——たった一つだけ。
昨日まで隣にいた、地味な栗色の髪の娘がいなくなった。それだけだ。
たった、それだけのはずだった。
「ヴィンターハルト」
扉を叩く音と共に、低い声が響いた。
グスタフ・フォン・アーレンベルク侯爵。政務官僚を束ねる上司であり、王宮において最も怒らせてはいけない人物の一人だ。
「今日の報告書はまだか。期限は正午だぞ」
「も、申し訳ございません。あと少し——」
アルベルトは咄嗟に、白紙の羊皮紙を腕で隠した。
グスタフ侯爵の冷たい視線が、一瞬だけ机の上を走る。
「……正午までだ。遅れるな」
扉が閉まる。
アルベルトは額の汗を拭い、もう一度ペンを取った。
——昨日まで。昨日まで、僕は完璧だったのに。
いったい何が変わったのか。
答えは分かっている。分かっているが——認めたくなかった。
時計の針を、二年前に巻き戻す。
二年前。
私——リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルトは、信じられない気持ちで、目の前の青年を見上げていた。
「婚約を、申し込みたい」
ヴィンターハルト伯爵家の嫡男、アルベルト様。金色の髪と澄んだ青い瞳。社交界で「貴公子」と囁かれるその人が、まさか私のような地味な子爵令嬢に婚約を申し込んでくるなんて。
「……私、で、よろしいのですか?」
声が震えた。鏡を見なくても分かる。私は華やかさのかけらもない娘だ。
栗色の髪をいつも後ろで結んでいるだけ。灰色の目は読書のしすぎで疲れていて、眼鏡がなければ何も見えない。右手の人差し指と中指にはインクの染みがこびりついている。
社交界の令嬢たちが纏うような、きらびやかなドレスも持っていない。
「もちろんだよ」
アルベルト様は、太陽のような笑顔で頷いた。
「君の書いた詩を読んだんだ。地方誌に載っていたものだけど——素晴らしかった。あんな文章を書ける人は、そういない」
胸が熱くなった。
十五歳の時に書いた詩。あれが唯一、私が「自分」として世に出した言葉だった。誰かがあの詩を読んでくれていた。しかもそれを、褒めてくれた。
「ありがとう、ございます……」
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
——あの時の私は、まだ知らなかった。あの笑顔の裏に、何があったのかを。
婚約から一ヶ月が過ぎた頃だった。
「リーゼロッテ、少し頼みがあるんだが」
アルベルト様は執務室に私を呼び出して、一枚の羊皮紙を差し出した。
「今度の政務報告なんだけど……君の文章力を、少しだけ借りたくて」
「政務報告、ですか?」
「ああ。僕は剣術は得意なんだが、どうも文章を書くのが苦手でね。君の文章は分かりやすくて美しい。少しだけ手伝ってくれないか?」
少しだけ。
そう言われて、断れる娘ではなかった。
「わ、分かりました。……少しだけなら」
アルベルト様は安堵したように笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
あの時すでに、私はアルベルト様に恋をしていたのだと思う。
詩を褒めてくれた人。「君の文章は美しい」と言ってくれた、たった一人の人。私の取り柄を、取り柄として認めてくれた人。
だから——「少しだけ」を断れるはずがなかった。
——「少しだけ」は、永遠に終わらなかった。
毎朝、アルベルト様が口述する。
「今日の巡察で……えーと……特に問題はなかった、みたいな? 治安も、まあ大丈夫だったし。あとは……ああ、なんか市場の値段が上がってたかも」
私はそれを聞きながら、ペンを走らせる。
『本日実施せし王都南区の定期巡察において、異状は認められず。治安状況は良好に維持されている。なお、中央市場における一部品目の価格上昇が確認された。主因は西方街道の降雨による輸送遅延と推察され、近日中の正常化が見込まれる。詳細は別紙にて報告する』
「……うん。さすがだね、リーゼロッテ。僕が言いたかったのは、まさにこういうことだよ」
アルベルト様はにっこりと笑って、羊皮紙を受け取る。
翌日、グスタフ侯爵から評価が届いた。
「素晴らしい報告書だ。簡潔にして要点を押さえ、原因分析まで含まれている。ヴィンターハルト、君はなかなか見所がある」
「ありがとうございます、侯爵閣下」
アルベルト様は恭しく頭を下げた。その横顔に、一瞬——ほんの一瞬だけ、口角が歪むのを見た気がした。
気のせいだと思った。
政務報告だけではなかった。
外交書簡。上奏文。演説原稿。挨拶状。祝辞。弔辞。季節の挨拶。
気がつけば、アルベルト様の名前で出る文書の全てを、私が書いていた。
外交書簡では、相手国の慣習に合わせた敬語の使い分けが必要だった。北方同盟の使節には簡潔な武人の礼で。東方の交易都市には華麗な修辞を添えて。同じ「敬意」を表すにも、相手によって言葉の形が変わる。
上奏文には、格式に則った定型と、その中で意見を通す微妙な言い回しが求められた。王に直訴するなら控えめに、しかし確実に要点が伝わるように。一語の選び方で結果が変わる、繊細な仕事だった。
演説原稿は、聴衆の心を動かすための緩急が必要だった。最初の一文で注意を引き、中盤で論理を積み上げ、最後に感情で締める。アルベルト様の声は通りが良かったから、短い文を多用して歯切れよくした。
どれも、私には書けた。
書くことだけが、私の取り柄だったから。
夜遅くまで机に向かい、翌朝にはアルベルト様の机の上に原稿を置いておく。目覚めた彼がそれを読み、自分のものとして提出する。
その繰り返し。
一度だけ、アルベルト様に聞いたことがある。
「あの……アルベルト様は、ご自分で書こうとは思われないのですか?」
「僕が書くより君が書いた方がいいだろう? 適材適所さ」
そう言って笑った顔には、悪意はなかった。
悪意がないことが——一番、残酷だった。
それでも、私は書き続けた。
アルベルト様の役に立てている。その事実だけが、私の居場所だった。華やかさもなく、社交術もなく、容姿も並以下の私が、この人の隣にいていい理由——それは「書けること」しかなかった。
もし書くことすら求められなくなったら。
その恐怖が、毎晩、胸の奥で小さく疼いていた。
だから完璧であろうとした。一文字の誤りもなく、一行の隙もなく。この文章だけは、誰にも代われないものであるように。
——皮肉なことに、完璧であればあるほど、アルベルト様は気づかなくなった。水や空気のように当たり前のものには、人は感謝しない。
アルベルト様の名声は、日に日に高まっていった。
「文武両道の貴公子」
社交界でそう称えられるアルベルト様の隣に、いつも私はいた。
——ただし、誰の目にも映らない場所に。
「ねえ、あの地味な方がヴィンターハルト様の婚約者ですって?」
「まあ。もっと華やかな方がお似合いなのに」
「お可哀想に。きっと家同士の取り決めで仕方なく……」
舞踏会の片隅で、扇の陰に隠れた囁き声が聞こえる。
聞こえないふりをした。聞こえないふりをして、私は手元のメモ帳に、明日の演説原稿の構成を書き続けた。
——私の価値は、文章を書くことにしかないから。
だからせめて、この文章だけは完璧であろうと。そうすれば、アルベルト様の隣にいる意味がある。
そう思い込むしかなかった。
ある夜、社交界の宴から帰った後。
アルベルト様の隣を歩きながら、馬車の中でふと思った。
今日もまた、誰にも声をかけられなかった。アルベルト様には何人もの令嬢が微笑みかけ、紳士たちが握手を求めたけれど——その隣にいる私には、誰も目を向けなかった。
透明人間。
それが、社交界における私の正体だった。
帰宅して、机に向かう。明日の上奏文を仕上げなければ。
ペンを取ると、不思議と心が凪いだ。言葉を紡いでいる間だけは、「地味」とか「華がない」とか、そういう雑音が消える。
白い紙の上では、私は自由だった。
エリザベート・フォン・シュトラウス侯爵令嬢が社交界に現れたのは、婚約から一年半が過ぎた頃だった。
プラチナブロンドの髪。エメラルドグリーンの瞳。すらりとした長身に、最新流行のドレスを完璧に着こなす姿。
舞踏会の扉が開いた瞬間、会場の空気が変わった。
「……なんて美しい方」
それは社交界の誰もが抱いた感想だった。そして——アルベルト様も、例外ではなかった。
私は見ていた。
彼の青い瞳が、エリザベート様を捉えた瞬間を。
その瞳に浮かんだ光の色が、私に向けられたことのないものだったことを。
「リーゼロッテ」
「はい」
「……いや、なんでもない」
その日から、アルベルト様は舞踏会のたびにエリザベート様の姿を目で追うようになった。
私への態度も、少しずつ変わっていった。「さすがだね」と言ってくれた笑顔が減り、原稿を受け取る手が事務的になっていく。
「ああ、ありがとう。置いておいてくれ」
振り返りもせず、そう言うだけ。
——ああ、終わるんだな。
そう悟ったのは、いつだっただろう。
でも、終わるその日まで、私はペンを動かし続けた。それしか、できなかったから。
王都の大舞踏会。一年で最も華やかな夜。
シャンデリアの光が、広間を黄金色に染めている。貴族たちが着飾り、音楽が流れ、笑い声が響く。
その中央で——アルベルト様は、衆人環視の中で宣言した。
「リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。本日をもって、我々の婚約を解消する」
会場が、静まり返った。
シャンデリアの蝋燭が一つ、ぱちりと爆ぜた音が、やけに大きく聞こえた。
「……どう、して」
声が震えた。分かっていた。分かっていたけれど——いざ言葉にされると、胸の奥が、ぎゅうと潰されるように痛んだ。
「君は地味すぎる」
アルベルト様は言った。まるで天気の話でもするような、軽い口調で。
「僕には——社交界の花形が相応しいんだ」
その隣に、エリザベート様が歩み出た。プラチナブロンドの髪が揺れ、エメラルドの瞳が優雅に細められる。完璧な微笑。完璧な佇まい。
私の持たないもの全てを、彼女は持っていた。
「君は便利だったよ、リーゼロッテ」
アルベルト様は続けた。
「文章を書くのが得意だったから。助かった」
——便利だった。
その一言が、二年間の全てを要約していた。
「でも」
アルベルト様は笑った。同情も、後悔も、何一つ含まない——空っぽの笑顔で。
「それだけだ。お前の代わりはいくらでもいる」
——お前。
いつの間にか、「君」ですらなくなっていた。
会場にざわめきが広がった。
扇で口元を隠す令嬢たち。眉をひそめる紳士たち。「可哀想に」「あんな言い方をしなくても」という囁きが、波紋のように広がっていく。
私は——泣かなかった。
泣きたかった。膝から崩れ落ちて、声を上げて泣きたかった。
でも、泣かなかった。
だって私には、まだ右手がある。インク染みのついた、この指がある。
この手で書いてきた言葉が、私の全てだった。二年間、他人の名前で飛ばしてきた——私の翼だった。
「……そうですか」
驚くほど静かな声が出た。
「ならばもう——あなたの言葉は書きません」
アルベルト様が一瞬、怪訝な顔をした。その意味が分かっていない顔だった。
当然だ。あなたは何も分かっていなかった。最初から——最後まで。
「お世話になりました、アルベルト様」
私は深く一礼して、背を向けた。
会場を横切る。百もの視線が突き刺さる。同情の目。嘲笑の目。好奇の目。
足が震えた。膝が笑った。でも——歩いた。一歩、また一歩。背筋を伸ばして。
大扉を押し開ける。夜風が頬を撫でた。
振り返らなかった。
——私の目には、涙ではなく、決意の光があった。
もう、誰かの代わりはしない。
これからは、私の名前で——私の言葉を書く。
さて。
ここからは——アルベルト様の、いえ、アルベルトの話だ。
後から人づてに聞いた話や、社交界で広まった噂を繋ぎ合わせて、私なりに再構成したものだ。多少の脚色はご容赦いただきたい。
婚約破棄の翌日。冒頭の場面に戻る。
白紙の羊皮紙を前に、ペンを握る手が震えているあの男の元に、期限は容赦なく迫っていた。
正午。
アルベルトは執務室の机にしがみつき、必死にペンを動かした。
「……今日の、えーと、巡察において……問題は、なかった。治安は……治安は……良い? 感じだった?」
書いては消し、書いては消した。
インクが羊皮紙を汚し、消した跡が黒い筋になって広がっていく。
結局、提出されたのはこういう文書だった。
『今日巡察しました。問題ないです。治安は大丈夫です。市場は値段が少し高かったかもしれません。以上です』
グスタフ侯爵の執務室に呼び出されたのは、その日の午後だった。
「ヴィンターハルト」
侯爵は、その報告書を机の上に置いた。指一本で、とん、と叩く。
「これは何だ?」
「は……報告書で、ございますが……」
「小学生の作文か?」
アルベルトは血の気が引いた。
「以前の君はこんなではなかったはずだが。『本日実施せし定期巡察において異状は認められず』——あの格調高い文体はどこへ行った?」
あの格調高い文体。
それは——私の文体だった。アルベルトの口から出た言葉を、私が磨き上げた言葉だった。
もちろん、アルベルトにそう説明できるはずもない。
「体調が……少々」
「ならば養生して出直せ。だが次は許さんぞ」
グスタフ侯爵の冷たい視線が、アルベルトの背中を貫いた。
翌日、アルベルトはエリザベートの元を訪ねた。
「エリザベート、少し頼みがあるんだ」
「何かしら、アルベルト」
エリザベートは優雅に紅茶のカップを傾けながら微笑んだ。
「次の外交書簡なんだが——手伝ってくれないか。文章を整えるのを」
エリザベートの手が止まった。
カップがソーサーに置かれる。陶器がぶつかる小さな音が、沈黙の中で響いた。
「……え?」
「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと体裁を整えるだけで——」
「私、文章なんて書けないわよ」
アルベルトは言葉を失った。
「書け……ない?」
「当たり前でしょう? 手紙は侍女に口述筆記させるものだわ。自分で書くなんて、手が汚れるじゃない」
エリザベートはくすりと笑った。冗談だと思ったのだろう。
だが、アルベルトは笑えなかった。
「……そう、か」
「ねえ、そんな暗い顔しないで。書類なんて部下にやらせればいいのよ」
部下にやらせる。
そんなことができるなら、最初からそうしている。政務報告は本人が書くのが規則だ。外交書簡に至っては、本人の筆跡でなければ無効とされる。
アルベルトは初めて理解した。
——代わりは、いなかった。
一週間後。
アルベルトは自力で外交書簡を書き上げた。
いや——書き上げたと言うべきではない。三日三晩かけて、何とか形にした、と言うべきだ。
『拝啓。元気ですか。こちらは元気です。この前の条約の件ですが、えーと、うちの国としては、まあ大丈夫というか、問題ないと思います。よろしく頼みます。敬具』
その書簡を受け取った隣国の外交官は、最初、翻訳の誤りだと思ったそうだ。
次に、侮辱だと思った。
「これは我が国を愚弄しているのか!」
外交問題に発展しかけた。
グスタフ侯爵が深夜まで謝罪の書簡——もちろん侯爵自身の手による、格調高い文章で——を書き、何とか事態を収拾した。
翌朝、アルベルトは侯爵の前に立たされた。
「ヴィンターハルト」
「はい……」
「あの書簡は何だ。『元気ですか、こちらは元気です、よろしく頼みます』——これが外交文書か? 友人への手紙ですらもう少しまともに書くぞ」
アルベルトは何も言えなかった。
「先方は、我が国が意図的に侮辱したと解釈した。私が夜通し謝罪文を書いて——ようやく事を収めた。君一人の失態で、どれだけの外交的信用が失われたか分かるか?」
分かるか、と問われても、その「信用」の重みを文章で表現してきたのは私だった。アルベルトには、そもそも「外交的信用」という概念を言語化する力すらなかった。
「君にはもう政務は任せられない」
短い一言だった。それだけで十分だった。
アルベルトは中央の花形部署から外され、記録保管庫の管理——閑職中の閑職に回された。
書庫の奥の、日の差さない小部屋。積み上げられた古い帳簿の番をするだけの仕事。文書を「書く」必要はない。ただ「保管する」だけでいい。
皮肉な話だ。文章を書けない男には——文章を守る仕事しか、残されなかった。
社交界にも噂は瞬く間に広がった。
「ヴィンターハルト伯爵家の嫡男、外交で大失態ですって」
「あの文武両道の貴公子が? 信じられないわ」
「以前はあんなに優秀だったのに。いったい何があったのかしら」
何があったのか。
答えは簡単だ。一人の地味な娘がいなくなった。それだけのことだ。
エリザベートの反応は——予想通りだった。
「アルベルト、ごめんなさい。私、勘違いしていたみたい」
茶会の席で、優雅に微笑みながら。
「無能な殿方は——お断りよ」
二度目の婚約破棄。
今度は、アルベルトが捨てられる番だった。
空っぽの執務室。
記録保管庫の片隅に押し込められた小さな机。
アルベルトは一人、呆然と座っていた。
「……リーゼロッテ」
呟いた名前が、埃っぽい空気に吸い込まれて消えた。
「君が——全部、書いていたのか」
今更、理解が追いつく。あの完璧な報告書。あの格調高い外交書簡。あの聴衆を魅了した演説原稿。
全てが——全て、あの地味な娘の手から生まれていた。
「僕は……何もできない」
だが、その言葉を聞く者はもういなかった。
さて。
ここからは、私の話をしよう。
婚約を破棄された翌週、私は実家の自室に戻っていた。
子爵家の小さな屋敷。私に与えられた部屋は日当たりが悪く、狭い。だが窓際に机を置けば、書くには十分だった。
ペンを取る。
インク壺を開ける。
新しい羊皮紙を広げる。
二年間、毎日繰り返してきた動作だ。何一つ変わらない。
変わったのは——たった一つだけ。
書く名前が、自分のものになった。
「もう、誰かの言葉は書かない」
声に出して言った。空っぽの部屋に、自分の声が響いた。
「これからは——私の言葉を」
最初の一行を書いた。
『その少女には、声がなかった。代わりに、灰色のインクで世界を描いた——』
タイトルは「灰色の詩人」。
地味で目立たない少女が、文章の力で世界を変えていく物語。
私小説のようでいて——私自身の物語とは、少しだけ違う結末を用意した。この物語の少女は、最初から自分の名前で書く勇気を持っている。
私が持てなかった勇気を、この少女に託した。
三日で書き上げた。推敲にさらに二日。
完成した原稿を封筒に入れ——差出人の名前を書く段になって、手が止まった。
リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。
その名前を書こうとして——書けなかった。
まだ、怖かった。自分の名前で世に出ることが。「地味な令嬢」「捨てられた婚約者」——そういう肩書きがついた名前で作品を出したら、文章を正当に評価してもらえないかもしれない。
差出人の欄を空白にした。
匿名。
そうして私は、王都の文化地区にある老舗出版社——ノルトフェルト書房の投稿窓口に、原稿を届けた。
ノルトフェルト書房の編集室。
——この場面は、後にラインハルトさん自身が語ってくれたものだ。
ラインハルト・ケスラーは、未読原稿の山と格闘していた。
茶色の髪を無造作に伸ばし、眼鏡の奥の目は疲労で充血している。インク染みだらけの指で——書く人間特有の、あの染みで——次々と原稿をめくっていく。
新人の投稿原稿は、正直に言えば玉石混交だ。いや、石の方が圧倒的に多い。
だが、たまに——本当にたまに、原石が混じっている。それを見つけ出すのが、彼の仕事だった。
差出人不明の原稿を手に取ったのは、もう日が暮れかけた頃だった。
『灰色の詩人』。
最初の一行を読んだ。
二行目を読んだ。
三行目で——コーヒーカップを置いた。
一頁目を読み終える頃には、椅子に深く座り直していた。
最終頁まで、一度も目を離さなかった。
「……これは」
ラインハルトは呟いた。
「素晴らしい」
文章が美しいだけではない。構成が巧みなだけでもない。
この文章には——人の心を動かす力がある。読む者の胸の奥にある、誰にも触れさせなかった場所に、そっと手を伸ばしてくるような。
差出人欄は空白だった。
「匿名、か……」
ラインハルトはペンを取り、書房の便箋に書き始めた。
『投稿作「灰色の詩人」を拝読いたしました。ぜひ出版させてください。つきましては、一度お目にかかれませんでしょうか——』
返信先は、原稿に添えられていた私書箱の番号だけだった。
手紙を受け取った時、私は自分の目を疑った。
出版。
私の——私の名前で書いた、初めての物語を、出版したい?
震える手で返事を書いた。匿名のまま出版することを条件に、承諾した。
「灰色の詩人」は、翌月、ノルトフェルト書房から刊行された。
著者名は「無銘」。
初版は控えめな部数だった。新人の、しかも匿名の作品だ。ラインハルトさんは「内容に自信はある」と言ってくれたが、売れるかどうかは別の話だと。
それが——王都を席巻した。
最初に火がついたのは、文芸愛好家たちの間だった。
「この作者は誰だ? 文章力が尋常ではない」
口コミが広がり、書店に問い合わせが殺到した。
「まるで詩を読んでいるような文章だ」
「しかし詩ではない。物語としての構成も見事だ」
「続きが読みたい。次回作はいつ出るんだ?」
書店に行列ができた。文芸誌がこぞって書評を載せた。増刷に次ぐ増刷。
ラインハルトさんから届く手紙の文面が、回を追うごとに興奮を帯びていく。
『第三刷が決定しました。こんなに早い増刷は、当書房でも十年ぶりです』
私は自室の窓から街を見下ろしながら、信じられない思いだった。
これまで書いた言葉は、全てアルベルトの名前で世に出ていた。報告書も、外交書簡も、演説原稿も。誰一人、それが私の文章だとは知らなかった。
だけど今——今度は「誰が書いたのか」を、みんなが知りたがっている。
筆致が同じだから、作者は一人のはずだと分析する評論家もいた。文体の癖を調べ上げ、「おそらく貴族階級の教育を受けた女性」と推測する者もいた。
私はそれを読みながら、少しだけ笑った。
——ええ、その通りです。地味で目立たない、子爵家の次女ですよ。
続編の依頼に応え、次々と作品を発表した。「灰色の詩人」は三巻まで出版され、そのどれもが版を重ねた。王宮の侍女たちの間でも回し読みされているという噂が、ラインハルトさんの手紙に添えられていた。
ある日、ラインハルトさんが——いつの間にか、私は「さん」で呼ぶようになっていた——手紙ではなく、直接訪ねてきた。
初めて対面した時、お互いにインク染みだらけの手を見て、同時に苦笑した。
「書く人ですね」
「お互い様です」
それが、最初の挨拶だった。
ラインハルトさんは穏やかな人だった。茶色の眼鏡の奥の目は誠実で、文学の話になると子供のように目を輝かせた。
アルベルト様とは——いえ、比べること自体が間違いだ。
「お願いがあるのです」
三杯目の紅茶を注ぎ終えた頃、ラインハルトさんは切り出した。
「匿名ではもったいない。あなたの名前で出しませんか?」
カップを持つ手が、止まった。
「私の、名前で……?」
「ええ。『無銘』のままでは、あなたの言葉があなたのものとして認められない。それは——とても、もったいないことです」
もったいない。
私の言葉が、私のものとして——。
「でも……私は、地味な子爵令嬢で……婚約を破棄された、取り柄のない……」
「取り柄がない?」
ラインハルトさんは、穏やかに、しかしはっきりと首を振った。
「あなたの言葉は、読む人の心を動かす力があります。それは、他の誰にも代われない才能です」
他の誰にも、代われない。
——「代わりはいくらでもいる」と言った人がいた。
——「代われない」と言ってくれる人が、ここにいる。
涙が、頬を伝った。
止められなかった。止めようとも思わなかった。
「……はい」
声が震えた。でも、今度の震えは恐怖ではなかった。
「自分の名前で、出します」
翌日、私は羽根ペンを握った。
新しい原稿用の紙に、著者名を書いた。
リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。
インクが乾くのを待つ。その数秒が、永遠のように長かった。
——でも、もう消さない。
「灰色の詩人 特装版」——著者名: リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。
それが書店に並んだ日、社交界は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
「あの『無銘』の正体が、ローゼンフェルト子爵家の令嬢ですって!?」
「ヴィンターハルト伯爵家の嫡男に婚約を破棄された、あの地味な——」
最初の反応は、好意的なものばかりではなかった。
「婚約破棄の腹いせで書いた小説でしょう? 元婚約者への当てつけだわ」
「地味な令嬢が脚光を浴びたくて、スキャンダルを利用したのよ」
「そもそも本当にあの娘が書いたの? ゴーストライターがいるんじゃなくて?」
心無い言葉が、私の耳にも届いた。
——ゴーストライター。
その言葉だけは、笑えなかった。なぜなら私は確かに、ゴーストライターだったのだから。アルベルトの——影の書き手。その過去が裏返しの形で、私自身に突きつけられた。
筆を折ろうかと思った夜があった。
あの本は復讐で書いたものではない。ただ、自分の言葉を取り戻したかっただけだ。それが伝わらないなら——。
ラインハルトさんが動いたのは、その頃だった。
文芸誌に寄稿した記事の一節が、社交界にまで広まった。
『「灰色の詩人」を婚約破棄の復讐劇と矮小化する評は、作品を読んでいないか、読解力が欠如しているかのいずれかである。この物語の本質は——言葉の力を信じる一人の人間の、静かな再生の物語だ』
「ラインハルトさん、私のことで迷惑を——」
「迷惑?」
ラインハルトさんは眼鏡を拭きながら、不思議そうに首を傾げた。
「僕は事実を書いただけですよ。あなたの作品を侮辱する言説を放置する方が、編集者として恥ずかしい」
それだけ言って、何事もなかったかのように次の原稿に目を落とした。
——ああ、この人は。
同じ頃、見知らぬ人からの手紙が届いた。
『「灰色の詩人」を読みました。私もずっと、誰かの影で生きてきた人間です。あなたの物語に、救われました』
たった一通の手紙だった。でも——それだけで十分だった。
ペンを握り直した。次の作品の一行目を書いた。
それからも中傷は続いた。だが、読者からの手紙はそれを上回った。二作目、三作目と——作品の力が、色眼鏡を一枚ずつ剥がしていった。
「地味ですって? あの名作を書いた方を地味と呼ぶの?」
気づけば、評価は塗り替わっていた。
グスタフ侯爵もまた、「灰色の詩人」の愛読者だった。
著者名を見た瞬間、侯爵は全てを理解したという。
ヴィンターハルト伯爵家の嫡男が提出していた、あの格調高い報告書。簡潔にして要点を押さえ、原因分析まで含んだあの文体。
そして婚約破棄後、突然「小学生の作文」に成り果てたあの落差。
「……そういうことか」
侯爵は本を閉じ、深い溜息をついたそうだ。
アルベルトの「文武両道」は——半分が、借り物だった。
それから二年の月日が流れた。
私はノルトフェルト書房の専属作家となり、次々と作品を世に送り出した。
「灰色の詩人」シリーズの完結後は、歴史小説にも手を伸ばした。ラインハルトさんの勧めで、新人作家の原稿を読む仕事も引き受けるようになった。
かつての私のように、まだ世に出ていない才能を見つけ出すこと。それが今の私にできる、恩返しだと思った。
「リーゼロッテさん、この原稿なんですが——」
「ああ、読みました。三章の山場がとてもいいですね。ただ、二章の伏線がもう少し丁寧だと——」
「さすがですね。僕もそこが気になっていたんです」
ラインハルトさんと並んで、原稿に赤を入れる午後。インク染みだらけの指が二組、紙の上を行き交う。
ある日、遅くまで残って原稿の校正をしていた時のことだった。窓の外はとうに暗く、蝋燭の灯りだけが二人の手元を照らしていた。
「リーゼロッテさん」
「はい?」
「……手、冷えてませんか」
気がつくと、温かい紅茶のカップが、私の右手のすぐ隣に置かれていた。湯気が立ち上り、ほんのり甘い香りがする。
「蜂蜜を入れました。あなた、疲れると甘いものが欲しくなるでしょう」
いつ覚えたのだろう。私自身、そんな癖があることに気づいていなかった。
「……ありがとうございます」
「それと」
ラインハルトさんは少し言いよどんでから、まっすぐに私を見た。眼鏡の奥の茶色い目が、蝋燭の光を映して揺れていた。
「あなたの言葉は、僕にとっても——特別なんです。編集者としてだけではなく」
不器用な告白だった。華やかさはない。詩的な修辞もない。ただ、一語一語に嘘がなく、まっすぐで——。
ああ、と思った。これが——私の言葉を「代わりのきかないもの」として大切にしてくれる人の、言葉なのだと。
「……私も」
声が震えた。でも、今度は泣かなかった。
「私も、ラインハルトさんの言葉が、特別です」
穏やかで、静かで——私らしい恋だった。
ある秋の日。
執筆の手を休めて、窓の外を見た。
街路樹が色づき始めている。王都の大通りを、人々が行き交う。
その中に——見覚えのある金髪の男が混じっていた。
かつて太陽のように輝いていたその髪は、色褪せて見えた。背筋は曲がり、足取りは重い。すれ違う人々は、彼に目もくれない。
アルベルト・フォン・ヴィンターハルト。
記録保管庫の閑職に追いやられ、社交界からも遠ざかり——今はただ、灰色の日常を送っているという噂は聞いていた。
彼が書店の前で足を止めた。
ショーウインドウに飾られた本——「灰色の詩人 第三巻」。著者名が金箔で刻まれている。
リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。
アルベルトがその名前を見つめている横顔を、私は窓越しに見下ろしていた。
彼が本を手に取った。
表紙を撫でるように触れ、裏表紙の著者紹介を読んでいるようだった。
しばらくして——本を棚に戻した。
買わなかった。
だが、その場を立ち去る前に、もう一度だけ振り返って、表紙に刻まれた名前を見ていた。
——僕が「僕の言葉」だと信じていたものは全部、君の言葉だったんだな。
そう思っているのかもしれない。あるいは、もっと単純に——自分が何を失ったのか、今更ながら理解しただけかもしれない。
もう、どちらでもよかった。
私は窓辺から目を戻し、原稿に向き直った。
書きかけの一文があった。新作の、最初の一行。
ペンを取る。インク壺に浸す。右手の人差し指と中指の染みが、午後の光を受けて微かに光った。
あの日——舞踏会の夜、背を向けて歩き出した時、私は思った。
言葉は、私の翼だった。
二年間、他人の名前で飛ばしていた翼。誰にも気づかれず、誰の功績にもならなかった翼。
でも今、その翼は——私のものだ。
ペンが紙の上を走る。
インクが言葉になり、言葉が物語になり、物語が誰かの胸に届く。
それは——誰かの代わりではなく、私自身の証。
リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。
灰色の目の、インク染みだらけの手の、地味な子爵令嬢。
けれど——ペンを握れば、空を飛べる。
自分の名前で。自分の言葉で。
どこまでも、高く。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「代わりはいくらでもいる」——物語の中でアルベルトが放ったこの言葉は、才能を「誰でもできること」と見くびる傲慢さを象徴しています。本作では「文章力」という目に見えにくい才能に焦点を当て、それを利用されていた主人公が、自分の名前で世に出るまでの逆転劇を描きました。
リーゼロッテの強さは、復讐ではなく「自分の道を歩む」ことにあります。彼女はアルベルトを陥れようとはしません。ただ、自分の言葉を取り戻しただけ。それだけで、全てがひっくり返る。才能の本当の持ち主が誰だったのか、時間が証明してくれる——そんな物語を書きたいと思いました。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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