S01-P13 「お前の代わりはいくらでもいる」と笑った婚約者が、翌日から報告書一枚書けなくなった件

第1話: 「お前の代わりはいくらでもいる」と笑った婚約者が、翌日から報告書一枚書けなくなった件

第1アーク · 13,042文字 · final

——書けない。

一文字も、書けない。

アルベルト・フォン・ヴィンターハルト伯爵嫡男は、白紙の羊皮紙を前に、ペンを握る手が震えていることに気づいた。

インク壺の中身は満ちている。羽根ペンの先も研いだばかりだ。執務室の窓からは柔らかな朝の光が差し込み、机上を照らしている。条件は何一つ変わらない。

変わったのは——たった一つだけ。

昨日まで隣にいた、地味な栗色の髪の娘がいなくなった。それだけだ。

たった、それだけのはずだった。

「ヴィンターハルト」

扉を叩く音と共に、低い声が響いた。

グスタフ・フォン・アーレンベルク侯爵。政務官僚を束ねる上司であり、王宮において最も怒らせてはいけない人物の一人だ。

「今日の報告書はまだか。期限は正午だぞ」

「も、申し訳ございません。あと少し——」

アルベルトは咄嗟に、白紙の羊皮紙を腕で隠した。

グスタフ侯爵の冷たい視線が、一瞬だけ机の上を走る。

「……正午までだ。遅れるな」

扉が閉まる。

アルベルトは額の汗を拭い、もう一度ペンを取った。

——昨日まで。昨日まで、僕は完璧だったのに。

いったい何が変わったのか。

答えは分かっている。分かっているが——認めたくなかった。

時計の針を、二年前に巻き戻す。


二年前。

私——リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルトは、信じられない気持ちで、目の前の青年を見上げていた。

「婚約を、申し込みたい」

ヴィンターハルト伯爵家の嫡男、アルベルト様。金色の髪と澄んだ青い瞳。社交界で「貴公子」と囁かれるその人が、まさか私のような地味な子爵令嬢に婚約を申し込んでくるなんて。

「……私、で、よろしいのですか?」

声が震えた。鏡を見なくても分かる。私は華やかさのかけらもない娘だ。

栗色の髪をいつも後ろで結んでいるだけ。灰色の目は読書のしすぎで疲れていて、眼鏡がなければ何も見えない。右手の人差し指と中指にはインクの染みがこびりついている。

社交界の令嬢たちが纏うような、きらびやかなドレスも持っていない。

「もちろんだよ」

アルベルト様は、太陽のような笑顔で頷いた。

「君の書いた詩を読んだんだ。地方誌に載っていたものだけど——素晴らしかった。あんな文章を書ける人は、そういない」

胸が熱くなった。

十五歳の時に書いた詩。あれが唯一、私が「自分」として世に出した言葉だった。誰かがあの詩を読んでくれていた。しかもそれを、褒めてくれた。

「ありがとう、ございます……」

嬉しかった。

本当に、嬉しかった。

——あの時の私は、まだ知らなかった。あの笑顔の裏に、何があったのかを。


婚約から一ヶ月が過ぎた頃だった。

「リーゼロッテ、少し頼みがあるんだが」

アルベルト様は執務室に私を呼び出して、一枚の羊皮紙を差し出した。

「今度の政務報告なんだけど……君の文章力を、少しだけ借りたくて」

「政務報告、ですか?」

「ああ。僕は剣術は得意なんだが、どうも文章を書くのが苦手でね。君の文章は分かりやすくて美しい。少しだけ手伝ってくれないか?」

少しだけ。

そう言われて、断れる娘ではなかった。

「わ、分かりました。……少しだけなら」

アルベルト様は安堵したように笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。

あの時すでに、私はアルベルト様に恋をしていたのだと思う。

詩を褒めてくれた人。「君の文章は美しい」と言ってくれた、たった一人の人。私の取り(とりえ)を、取り柄として認めてくれた人。

だから——「少しだけ」を断れるはずがなかった。

——「少しだけ」は、永遠に終わらなかった。


毎朝、アルベルト様が口述する。

「今日の巡察で……えーと……特に問題はなかった、みたいな? 治安も、まあ大丈夫だったし。あとは……ああ、なんか市場の値段が上がってたかも」

私はそれを聞きながら、ペンを走らせる。

『本日実施せし王都南区の定期巡察において、異状は認められず。治安状況は良好に維持されている。なお、中央市場における一部品目の価格上昇が確認された。主因は西方街道の降雨による輸送遅延と推察され、近日中の正常化が見込まれる。詳細は別紙にて報告する』

「……うん。さすがだね、リーゼロッテ。僕が言いたかったのは、まさにこういうことだよ」

アルベルト様はにっこりと笑って、羊皮紙を受け取る。

翌日、グスタフ侯爵から評価が届いた。

「素晴らしい報告書だ。簡潔にして要点を押さえ、原因分析まで含まれている。ヴィンターハルト、君はなかなか見所がある」

「ありがとうございます、侯爵閣下」

アルベルト様は恭しく頭を下げた。その横顔に、一瞬——ほんの一瞬だけ、口角が歪むのを見た気がした。

気のせいだと思った。


政務報告だけではなかった。

外交書簡。上奏文。演説原稿。挨拶状。祝辞。弔辞。季節の挨拶。

気がつけば、アルベルト様の名前で出る文書の全てを、私が書いていた。

外交書簡では、相手国の慣習に合わせた敬語の使い分けが必要だった。北方同盟の使節には簡潔な武人の礼で。東方の交易都市には華麗な修辞を添えて。同じ「敬意」を表すにも、相手によって言葉の形が変わる。

上奏文には、格式に則った定型と、その中で意見を通す微妙な言い回しが求められた。王に直訴するなら控えめに、しかし確実に要点が伝わるように。一語の選び方で結果が変わる、繊細な仕事だった。

演説原稿は、聴衆の心を動かすための緩急が必要だった。最初の一文で注意を引き、中盤で論理を積み上げ、最後に感情で締める。アルベルト様の声は通りが良かったから、短い文を多用して歯切れよくした。

どれも、私には書けた。

書くことだけが、私の取り(とりえ)だったから。

夜遅くまで机に向かい、翌朝にはアルベルト様の机の上に原稿を置いておく。目覚めた彼がそれを読み、自分のものとして提出する。

その繰り返し。

一度だけ、アルベルト様に聞いたことがある。

「あの……アルベルト様は、ご自分で書こうとは思われないのですか?」

「僕が書くより君が書いた方がいいだろう? 適材適所さ」

そう言って笑った顔には、悪意はなかった。

悪意がないことが——一番、残酷だった。

それでも、私は書き続けた。

アルベルト様の役に立てている。その事実だけが、私の居場所だった。華やかさもなく、社交術もなく、容姿も並以下の私が、この人の隣にいていい理由——それは「書けること」しかなかった。

もし書くことすら求められなくなったら。

その恐怖が、毎晩、胸の奥で小さく(うず)いていた。

だから完璧であろうとした。一文字の誤りもなく、一行の隙もなく。この文章だけは、誰にも代われないものであるように。

——皮肉なことに、完璧であればあるほど、アルベルト様は気づかなくなった。水や空気のように当たり前のものには、人は感謝しない。

アルベルト様の名声は、日に日に高まっていった。

「文武両道の貴公子」

社交界でそう称えられるアルベルト様の隣に、いつも私はいた。

——ただし、誰の目にも映らない場所に。

「ねえ、あの地味な方がヴィンターハルト様の婚約者ですって?」
「まあ。もっと華やかな方がお似合いなのに」
「お可哀想に。きっと家同士の取り決めで仕方なく……」

舞踏会(ぶとうかい)の片隅で、扇の陰に隠れた囁き声が聞こえる。

聞こえないふりをした。聞こえないふりをして、私は手元のメモ帳に、明日の演説原稿の構成を書き続けた。

——私の価値は、文章を書くことにしかないから。

だからせめて、この文章だけは完璧であろうと。そうすれば、アルベルト様の隣にいる意味がある。

そう思い込むしかなかった。


ある夜、社交界の宴から帰った後。

アルベルト様の隣を歩きながら、馬車の中でふと思った。

今日もまた、誰にも声をかけられなかった。アルベルト様には何人もの令嬢が微笑みかけ、紳士たちが握手を求めたけれど——その隣にいる私には、誰も目を向けなかった。

透明人間。

それが、社交界における私の正体だった。

帰宅して、机に向かう。明日の上奏文を仕上げなければ。

ペンを取ると、不思議と心が凪いだ。言葉を紡いでいる間だけは、「地味」とか「華がない」とか、そういう雑音が消える。

白い紙の上では、私は自由だった。


エリザベート・フォン・シュトラウス侯爵令嬢が社交界に現れたのは、婚約から一年半が過ぎた頃だった。

プラチナブロンドの髪。エメラルドグリーンの瞳。すらりとした長身に、最新流行のドレスを完璧に着こなす姿。

舞踏会の扉が開いた瞬間、会場の空気が変わった。

「……なんて美しい方」

それは社交界の誰もが抱いた感想だった。そして——アルベルト様も、例外ではなかった。

私は見ていた。

彼の青い瞳が、エリザベート様を捉えた瞬間を。

その瞳に浮かんだ光の色が、私に向けられたことのないものだったことを。

「リーゼロッテ」

「はい」

「……いや、なんでもない」

その日から、アルベルト様は舞踏会のたびにエリザベート様の姿を目で追うようになった。

私への態度も、少しずつ変わっていった。「さすがだね」と言ってくれた笑顔が減り、原稿を受け取る手が事務的になっていく。

「ああ、ありがとう。置いておいてくれ」

振り返りもせず、そう言うだけ。

——ああ、終わるんだな。

そう悟ったのは、いつだっただろう。

でも、終わるその日まで、私はペンを動かし続けた。それしか、できなかったから。


王都の大舞踏会。一年で最も華やかな夜。

シャンデリアの光が、広間を黄金色に染めている。貴族たちが着飾り、音楽が流れ、笑い声が響く。

その中央で——アルベルト様は、衆人環視の中で宣言した。

「リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。本日をもって、我々の婚約を解消する」

会場が、静まり返った。

シャンデリアの蝋燭が一つ、ぱちりと爆ぜた音が、やけに大きく聞こえた。

「……どう、して」

声が震えた。分かっていた。分かっていたけれど——いざ言葉にされると、胸の奥が、ぎゅうと潰されるように痛んだ。

「君は地味すぎる」

アルベルト様は言った。まるで天気の話でもするような、軽い口調で。

「僕には——社交界の花形が相応しいんだ」

その隣に、エリザベート様が歩み出た。プラチナブロンドの髪が揺れ、エメラルドの瞳が優雅に細められる。完璧な微笑。完璧な佇まい。

私の持たないもの全てを、彼女は持っていた。

「君は便利だったよ、リーゼロッテ」

アルベルト様は続けた。

「文章を書くのが得意だったから。助かった」

——便利だった。

その一言が、二年間の全てを要約していた。

「でも」

アルベルト様は笑った。同情も、後悔も、何一つ含まない——空っぽの笑顔で。

「それだけだ。お前の代わりはいくらでもいる」

——お前。

いつの間にか、「君」ですらなくなっていた。

会場にざわめきが広がった。

扇で口元を隠す令嬢たち。眉をひそめる紳士たち。「可哀想に」「あんな言い方をしなくても」という囁きが、波紋のように広がっていく。

私は——泣かなかった。

泣きたかった。膝から崩れ落ちて、声を上げて泣きたかった。

でも、泣かなかった。

だって私には、まだ右手がある。インク染みのついた、この指がある。

この手で書いてきた言葉が、私の全てだった。二年間、他人の名前で飛ばしてきた——私の翼だった。

「……そうですか」

驚くほど静かな声が出た。

「ならばもう——あなたの言葉は書きません」

アルベルト様が一瞬、怪訝な顔をした。その意味が分かっていない顔だった。

当然だ。あなたは何も分かっていなかった。最初から——最後まで。

「お世話になりました、アルベルト様」

私は深く一礼して、背を向けた。

会場を横切る。百もの視線が突き刺さる。同情の目。嘲笑の目。好奇の目。

足が震えた。膝が笑った。でも——歩いた。一歩、また一歩。背筋を伸ばして。

大扉を押し開ける。夜風が頬を撫でた。

振り返らなかった。

——私の目には、涙ではなく、決意の光があった。

もう、誰かの代わりはしない。

これからは、私の名前で——私の言葉を書く。


さて。

ここからは——アルベルト様の、いえ、アルベルトの話だ。

後から人づてに聞いた話や、社交界で広まった噂を繋ぎ合わせて、私なりに再構成したものだ。多少の脚色はご容赦いただきたい。

婚約破棄の翌日。冒頭の場面に戻る。

白紙の羊皮紙を前に、ペンを握る手が震えているあの男の元に、期限は容赦なく迫っていた。

正午。

アルベルトは執務室の机にしがみつき、必死にペンを動かした。

「……今日の、えーと、巡察において……問題は、なかった。治安は……治安は……良い? 感じだった?」

書いては消し、書いては消した。

インクが羊皮紙を汚し、消した跡が黒い筋になって広がっていく。

結局、提出されたのはこういう文書だった。

『今日巡察しました。問題ないです。治安は大丈夫です。市場は値段が少し高かったかもしれません。以上です』

グスタフ侯爵の執務室に呼び出されたのは、その日の午後だった。

「ヴィンターハルト」

侯爵は、その報告書を机の上に置いた。指一本で、とん、と叩く。

「これは何だ?」

「は……報告書で、ございますが……」

「小学生の作文か?」

アルベルトは血の気が引いた。

「以前の君はこんなではなかったはずだが。『本日実施せし定期巡察において異状は認められず』——あの格調高い文体はどこへ行った?」

あの格調高い文体。

それは——私の文体だった。アルベルトの口から出た言葉を、私が磨き上げた言葉だった。

もちろん、アルベルトにそう説明できるはずもない。

「体調が……少々」

「ならば養生して出直せ。だが次は許さんぞ」

グスタフ侯爵の冷たい視線が、アルベルトの背中を貫いた。


翌日、アルベルトはエリザベートの元を訪ねた。

「エリザベート、少し頼みがあるんだ」

「何かしら、アルベルト」

エリザベートは優雅に紅茶のカップを傾けながら微笑んだ。

「次の外交書簡なんだが——手伝ってくれないか。文章を整えるのを」

エリザベートの手が止まった。

カップがソーサーに置かれる。陶器がぶつかる小さな音が、沈黙の中で響いた。

「……え?」

「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと体裁を整えるだけで——」

「私、文章なんて書けないわよ」

アルベルトは言葉を失った。

「書け……ない?」

「当たり前でしょう? 手紙は侍女に口述筆記させるものだわ。自分で書くなんて、手が汚れるじゃない」

エリザベートはくすりと笑った。冗談だと思ったのだろう。

だが、アルベルトは笑えなかった。

「……そう、か」

「ねえ、そんな暗い顔しないで。書類なんて部下にやらせればいいのよ」

部下にやらせる。

そんなことができるなら、最初からそうしている。政務報告は本人が書くのが規則だ。外交書簡に至っては、本人の筆跡でなければ無効とされる。

アルベルトは初めて理解した。

——代わりは、いなかった。


一週間後。

アルベルトは自力で外交書簡を書き上げた。

いや——書き上げたと言うべきではない。三日三晩かけて、何とか形にした、と言うべきだ。

『拝啓。元気ですか。こちらは元気です。この前の条約の件ですが、えーと、うちの国としては、まあ大丈夫というか、問題ないと思います。よろしく頼みます。敬具』

その書簡を受け取った隣国の外交官は、最初、翻訳の誤りだと思ったそうだ。

次に、侮辱だと思った。

「これは我が国を愚弄しているのか!」

外交問題に発展しかけた。

グスタフ侯爵が深夜まで謝罪の書簡——もちろん侯爵自身の手による、格調高い文章で——を書き、何とか事態を収拾した。

翌朝、アルベルトは侯爵の前に立たされた。

「ヴィンターハルト」

「はい……」

「あの書簡は何だ。『元気ですか、こちらは元気です、よろしく頼みます』——これが外交文書か? 友人への手紙ですらもう少しまともに書くぞ」

アルベルトは何も言えなかった。

「先方は、我が国が意図的に侮辱したと解釈した。私が夜通し謝罪文を書いて——ようやく事を収めた。君一人の失態で、どれだけの外交的信用が失われたか分かるか?」

分かるか、と問われても、その「信用」の重みを文章で表現してきたのは私だった。アルベルトには、そもそも「外交的信用」という概念を言語化する力すらなかった。

「君にはもう政務は任せられない」

短い一言だった。それだけで十分だった。

アルベルトは中央の花形部署から外され、記録保管庫の管理——閑職中の閑職に回された。

書庫の奥の、日の差さない小部屋。積み上げられた古い帳簿の番をするだけの仕事。文書を「書く」必要はない。ただ「保管する」だけでいい。

皮肉な話だ。文章を書けない男には——文章を守る仕事しか、残されなかった。

社交界にも噂は瞬く間に広がった。

「ヴィンターハルト伯爵家の嫡男、外交で大失態ですって」

「あの文武両道の貴公子が? 信じられないわ」

「以前はあんなに優秀だったのに。いったい何があったのかしら」

何があったのか。

答えは簡単だ。一人の地味な娘がいなくなった。それだけのことだ。

エリザベートの反応は——予想通りだった。

「アルベルト、ごめんなさい。私、勘違いしていたみたい」

茶会の席で、優雅に微笑みながら。

「無能な殿方は——お断りよ」

二度目の婚約破棄。

今度は、アルベルトが捨てられる番だった。


空っぽの執務室。

記録保管庫の片隅に押し込められた小さな机。

アルベルトは一人、呆然と座っていた。

「……リーゼロッテ」

呟いた名前が、埃っぽい空気に吸い込まれて消えた。

「君が——全部、書いていたのか」

今更、理解が追いつく。あの完璧な報告書。あの格調高い外交書簡。あの聴衆を魅了した演説原稿。

全てが——全て、あの地味な娘の手から生まれていた。

「僕は……何もできない」

だが、その言葉を聞く者はもういなかった。


さて。

ここからは、私の話をしよう。

婚約を破棄された翌週、私は実家の自室に戻っていた。

子爵家の小さな屋敷。私に与えられた部屋は日当たりが悪く、狭い。だが窓際に机を置けば、書くには十分だった。

ペンを取る。

インク壺を開ける。

新しい羊皮紙を広げる。

二年間、毎日繰り返してきた動作だ。何一つ変わらない。

変わったのは——たった一つだけ。

書く名前が、自分のものになった。

「もう、誰かの言葉は書かない」

声に出して言った。空っぽの部屋に、自分の声が響いた。

「これからは——私の言葉を」

最初の一行を書いた。

『その少女には、声がなかった。代わりに、灰色のインクで世界を描いた——』

タイトルは「灰色の詩人」。

地味で目立たない少女が、文章の力で世界を変えていく物語。

私小説(ししょうせつ)のようでいて——私自身の物語とは、少しだけ違う結末を用意した。この物語の少女は、最初から自分の名前で書く勇気を持っている。

私が持てなかった勇気を、この少女に託した。

三日で書き上げた。推敲にさらに二日。

完成した原稿を封筒に入れ——差出人の名前を書く段になって、手が止まった。

リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。

その名前を書こうとして——書けなかった。

まだ、怖かった。自分の名前で世に出ることが。「地味な令嬢」「捨てられた婚約者」——そういう肩書きがついた名前で作品を出したら、文章を正当に評価してもらえないかもしれない。

差出人の欄を空白にした。

匿名。

そうして私は、王都の文化地区にある老舗出版社——ノルトフェルト書房の投稿窓口に、原稿を届けた。


ノルトフェルト書房の編集室。

——この場面は、後にラインハルトさん自身が語ってくれたものだ。

ラインハルト・ケスラーは、未読原稿の山と格闘していた。

茶色の髪を無造作に伸ばし、眼鏡の奥の目は疲労で充血している。インク染みだらけの指で——書く人間(にんげん)特有の、あの染みで——次々と原稿をめくっていく。

新人の投稿原稿は、正直に言えば玉石混交だ。いや、石の方が圧倒的に多い。

だが、たまに——本当にたまに、原石が混じっている。それを見つけ出すのが、彼の仕事だった。

差出人不明の原稿を手に取ったのは、もう日が暮れかけた頃だった。

『灰色の詩人』。

最初の一行を読んだ。

二行目を読んだ。

三行目で——コーヒーカップを置いた。

一頁目を読み終える頃には、椅子に深く座り直していた。

最終頁まで、一度も目を離さなかった。

「……これは」

ラインハルトは呟いた。

「素晴らしい」

文章が美しいだけではない。構成が巧みなだけでもない。

この文章には——人の心を動かす力がある。読む者の胸の奥にある、誰にも触れさせなかった場所に、そっと手を伸ばしてくるような。

差出人欄は空白だった。

「匿名、か……」

ラインハルトはペンを取り、書房の便箋に書き始めた。

『投稿作「灰色の詩人」を拝読いたしました。ぜひ出版させてください。つきましては、一度お目にかかれませんでしょうか——』

返信先は、原稿に添えられていた私書箱の番号だけだった。


手紙を受け取った時、私は自分の目を疑った。

出版。

私の——私の名前で書いた、初めての物語を、出版したい?

震える手で返事を書いた。匿名のまま出版することを条件に、承諾した。

「灰色の詩人」は、翌月、ノルトフェルト書房から刊行された。

著者名は「無銘(むめい)」。

初版は控えめな部数だった。新人の、しかも匿名の作品だ。ラインハルトさんは「内容に自信はある」と言ってくれたが、売れるかどうかは別の話だと。

それが——王都を席巻した。

最初に火がついたのは、文芸愛好家たちの間だった。

「この作者は誰だ? 文章力が尋常ではない」

口コミが広がり、書店に問い合わせが殺到した。

「まるで詩を読んでいるような文章だ」

「しかし詩ではない。物語としての構成も見事だ」

「続きが読みたい。次回作はいつ出るんだ?」

書店に行列ができた。文芸誌がこぞって書評を載せた。増刷に次ぐ増刷。

ラインハルトさんから届く手紙の文面が、回を追うごとに興奮を帯びていく。

『第三刷が決定しました。こんなに早い増刷は、当書房でも十年ぶりです』

私は自室の窓から街を見下ろしながら、信じられない思いだった。

これまで書いた言葉は、全てアルベルトの名前で世に出ていた。報告書も、外交書簡も、演説原稿も。誰一人、それが私の文章だとは知らなかった。

だけど今——今度は「誰が書いたのか」を、みんなが知りたがっている。

筆致が同じだから、作者は一人のはずだと分析する評論家もいた。文体の癖を調べ上げ、「おそらく貴族階級の教育を受けた女性」と推測する者もいた。

私はそれを読みながら、少しだけ笑った。

——ええ、その通りです。地味で目立たない、子爵家の次女ですよ。

続編の依頼に応え、次々と作品を発表した。「灰色の詩人」は三巻まで出版され、そのどれもが版を重ねた。王宮の侍女たちの間でも回し読みされているという噂が、ラインハルトさんの手紙に添えられていた。


ある日、ラインハルトさんが——いつの間にか、私は「さん」で呼ぶようになっていた——手紙ではなく、直接訪ねてきた。

初めて対面した時、お互いにインク染みだらけの手を見て、同時に苦笑した。

「書く人ですね」

「お互い様です」

それが、最初の挨拶だった。

ラインハルトさんは穏やかな人だった。茶色の眼鏡の奥の目は誠実で、文学の話になると子供のように目を輝かせた。

アルベルト様とは——いえ、比べること自体が間違いだ。

「お願いがあるのです」

三杯目の紅茶を注ぎ終えた頃、ラインハルトさんは切り出した。

「匿名ではもったいない。あなたの名前で出しませんか?」

カップを持つ手が、止まった。

「私の、名前で……?」

「ええ。『無銘』のままでは、あなたの言葉があなたのものとして認められない。それは——とても、もったいないことです」

もったいない。

私の言葉が、私のものとして——。

「でも……私は、地味な子爵令嬢で……婚約を破棄された、取り柄のない……」

「取り柄がない?」

ラインハルトさんは、穏やかに、しかしはっきりと首を振った。

「あなたの言葉は、読む人の心を動かす力があります。それは、他の誰にも代われない才能です」

他の誰にも、代われない。

——「代わりはいくらでもいる」と言った人がいた。

——「代われない」と言ってくれる人が、ここにいる。

涙が、頬を伝った。

止められなかった。止めようとも思わなかった。

「……はい」

声が震えた。でも、今度の震えは恐怖ではなかった。

「自分の名前で、出します」


翌日、私は羽根ペンを握った。

新しい原稿用の紙に、著者名を書いた。

リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。

インクが乾くのを待つ。その数秒が、永遠のように長かった。

——でも、もう消さない。

「灰色の詩人 特装版」——著者名: リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。

それが書店に並んだ日、社交界は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

「あの『無銘』の正体が、ローゼンフェルト子爵家の令嬢ですって!?」

「ヴィンターハルト伯爵家の嫡男に婚約を破棄された、あの地味な——」

最初の反応は、好意的なものばかりではなかった。

「婚約破棄の腹いせで書いた小説でしょう? 元婚約者への当てつけだわ」

「地味な令嬢が脚光を浴びたくて、スキャンダルを利用したのよ」

「そもそも本当にあの娘が書いたの? ゴーストライターがいるんじゃなくて?」

心無い言葉が、私の耳にも届いた。

——ゴーストライター。

その言葉だけは、笑えなかった。なぜなら私は確かに、ゴーストライターだったのだから。アルベルトの——影の書き手。その過去が裏返しの形で、私自身に突きつけられた。

筆を折ろうかと思った夜があった。

あの本は復讐で書いたものではない。ただ、自分の言葉を取り戻したかっただけだ。それが伝わらないなら——。

ラインハルトさんが動いたのは、その頃だった。

文芸誌に寄稿した記事の一節が、社交界にまで広まった。

『「灰色の詩人」を婚約破棄の復讐劇と矮小化する評は、作品を読んでいないか、読解力が欠如しているかのいずれかである。この物語の本質は——言葉の力を信じる一人の人間の、静かな再生の物語だ』

「ラインハルトさん、私のことで迷惑を——」

「迷惑?」

ラインハルトさんは眼鏡を拭きながら、不思議そうに首を傾げた。

「僕は事実を書いただけですよ。あなたの作品を侮辱する言説を放置する方が、編集者として恥ずかしい」

それだけ言って、何事もなかったかのように次の原稿に目を落とした。

——ああ、この人は。

同じ頃、見知らぬ人からの手紙が届いた。

『「灰色の詩人」を読みました。私もずっと、誰かの影で生きてきた人間です。あなたの物語に、救われました』

たった一通の手紙だった。でも——それだけで十分だった。

ペンを握り直した。次の作品の一行目を書いた。

それからも中傷は続いた。だが、読者からの手紙はそれを上回った。二作目、三作目と——作品の力が、色眼鏡を一枚ずつ剥がしていった。

「地味ですって? あの名作を書いた方を地味と呼ぶの?」

気づけば、評価は塗り替わっていた。

グスタフ侯爵もまた、「灰色の詩人」の愛読者だった。

著者名を見た瞬間、侯爵は全てを理解したという。

ヴィンターハルト伯爵家の嫡男が提出していた、あの格調高い報告書。簡潔にして要点を押さえ、原因分析まで含んだあの文体。

そして婚約破棄後、突然「小学生の作文」に成り果てたあの落差。

「……そういうことか」

侯爵は本を閉じ、深い溜息をついたそうだ。

アルベルトの「文武両道」は——半分が、借り物だった。


それから二年の月日が流れた。

私はノルトフェルト書房の専属作家となり、次々と作品を世に送り出した。

「灰色の詩人」シリーズの完結後は、歴史小説にも手を伸ばした。ラインハルトさんの勧めで、新人作家の原稿を読む仕事も引き受けるようになった。

かつての私のように、まだ世に出ていない才能を見つけ出すこと。それが今の私にできる、恩返しだと思った。

「リーゼロッテさん、この原稿なんですが——」

「ああ、読みました。三章の山場がとてもいいですね。ただ、二章の伏線がもう少し丁寧だと——」

「さすがですね。僕もそこが気になっていたんです」

ラインハルトさんと並んで、原稿に赤を入れる午後。インク染みだらけの指が二組、紙の上を行き交う。

ある日、遅くまで残って原稿の校正をしていた時のことだった。窓の外はとうに暗く、蝋燭の灯りだけが二人の手元を照らしていた。

「リーゼロッテさん」

「はい?」

「……手、冷えてませんか」

気がつくと、温かい紅茶のカップが、私の右手のすぐ隣に置かれていた。湯気が立ち上り、ほんのり甘い香りがする。

「蜂蜜を入れました。あなた、疲れると甘いものが欲しくなるでしょう」

いつ覚えたのだろう。私自身、そんな癖があることに気づいていなかった。

「……ありがとうございます」

「それと」

ラインハルトさんは少し言いよどんでから、まっすぐに私を見た。眼鏡の奥の茶色い目が、蝋燭の光を映して揺れていた。

「あなたの言葉は、僕にとっても——特別なんです。編集者としてだけではなく」

不器用な告白だった。華やかさはない。詩的な修辞もない。ただ、一語一語に嘘がなく、まっすぐで——。

ああ、と思った。これが——私の言葉を「代わりのきかないもの」として大切にしてくれる人の、言葉なのだと。

「……私も」

声が震えた。でも、今度は泣かなかった。

「私も、ラインハルトさんの言葉が、特別です」

穏やかで、静かで——私らしい恋だった。


ある秋の日。

執筆の手を休めて、窓の外を見た。

街路樹が色づき始めている。王都の大通りを、人々が行き交う。

その中に——見覚えのある金髪の男が混じっていた。

かつて太陽のように輝いていたその髪は、色褪せて見えた。背筋は曲がり、足取りは重い。すれ違う人々は、彼に目もくれない。

アルベルト・フォン・ヴィンターハルト。

記録保管庫の閑職に追いやられ、社交界からも遠ざかり——今はただ、灰色の日常を送っているという噂は聞いていた。

彼が書店の前で足を止めた。

ショーウインドウに飾られた本——「灰色の詩人 第三巻」。著者名が金箔で刻まれている。

リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。

アルベルトがその名前を見つめている横顔を、私は窓越しに見下ろしていた。

彼が本を手に取った。

表紙を撫でるように触れ、裏表紙の著者紹介を読んでいるようだった。

しばらくして——本を棚に戻した。

買わなかった。

だが、その場を立ち去る前に、もう一度だけ振り返って、表紙に刻まれた名前を見ていた。

——僕が「僕の言葉」だと信じていたものは全部、君の言葉だったんだな。

そう思っているのかもしれない。あるいは、もっと単純に——自分が何を失ったのか、今更ながら理解しただけかもしれない。

もう、どちらでもよかった。

私は窓辺から目を戻し、原稿に向き直った。

書きかけの一文があった。新作の、最初の一行。

ペンを取る。インク壺に浸す。右手の人差し指と中指の染みが、午後の光を受けて微かに光った。

あの日——舞踏会の夜、背を向けて歩き出した時、私は思った。

言葉は、私の翼だった。

二年間、他人の名前で飛ばしていた翼。誰にも気づかれず、誰の功績にもならなかった翼。

でも今、その翼は——私のものだ。

ペンが紙の上を走る。

インクが言葉になり、言葉が物語になり、物語が誰かの胸に届く。

それは——誰かの代わりではなく、私自身の証。

リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。

灰色の目の、インク染みだらけの手の、地味な子爵令嬢。

けれど——ペンを握れば、空を飛べる。

自分の名前で。自分の言葉で。

どこまでも、高く。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

「代わりはいくらでもいる」——物語の中でアルベルトが放ったこの言葉は、才能を「誰でもできること」と見くびる傲慢さを象徴しています。本作では「文章力」という目に見えにくい才能に焦点を当て、それを利用されていた主人公が、自分の名前で世に出るまでの逆転劇を描きました。

リーゼロッテの強さは、復讐ではなく「自分の道を歩む」ことにあります。彼女はアルベルトを陥れようとはしません。ただ、自分の言葉を取り戻しただけ。それだけで、全てがひっくり返る。才能の本当の持ち主が誰だったのか、時間が証明してくれる——そんな物語を書きたいと思いました。

◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。

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