S01-P17 「女に商いの真似事をさせるな」と追放された交易令嬢——王都への道が閉ざされたとき、彼女は隣国に新たな街道を拓いていた

第1話: 帳簿は嘘をつかない

第1アーク · 11,527文字 · final

「——以上が、冬前の最終出荷分の薬草加工品の納入条件です。品質基準は従来通り。ただし、今期は山越えルートの積雪を見越して納期を二週間前倒しいたします」

カタリナ・フォン・フェルゼンは帳簿から顔を上げ、向かいに座る薬師ギルドの代表を真っ直ぐに見た。

「二週間前倒し? それは厳しいのでは」

「山の天気は読めません。けれど数字は読めます。過去五年の積雪記録と隊商の通行日数を照合すれば、この判断が合理的であることはおわかりいただけるかと」

帳簿を差し出す。革装の表紙はインクの染みで所々黒ずんでいる。カタリナの手と同じだ——翠緑(すいりょく)色の瞳で数字を追うとき、この目は誰よりも鋭くなる。

薬師ギルドの代表は帳簿の数字を辿り、ゆっくりと頷いた。

「……なるほど。この品質でこの価格なら、ギルドとしても文句はありません」

「ありがとうございます。フェルゼン領の薬草加工品は、私の自慢の商品ですから」

商談成立。カタリナは帳簿に書き込みながら、小さく息をついた。

これで高山薬草の加工品——保存魔法を織り込んだ軟膏、薬湯、香料——の年間契約が確定する。領地の歳入がまた一割増える計算だ。鍛冶ギルドとの鉱石取引、王都への毛織物の販路、河川水運の効率化。六年間かけて組み上げた交易網が、今年もまた実を結ぶ。

カタリナが十四歳で帳簿を手伝い始めた頃、フェルゼン辺境伯領の歳入は周辺領地の中でも下から数えたほうが早かった。父の病が重くなるにつれ、交易の管理は誰の手からも滑り落ちていた。それを拾い上げ、山越えルートを整備し、河川水運を活用し、取引先を一つずつ開拓したのがカタリナだった。

三年で歳入は倍になった。六年で三倍。帳簿の数字がそれを証明している。

父が安心して療養できるよう、もう少しだけ——

「令嬢。少々お話が」

商談室の扉が開き、慇懃な声が割り込んだ。

灰色がかった金髪をきっちりと撫でつけた男——執政官ヴェルナー・フォン・グライフ。王都から赴任して三ヶ月。高価な衣服と指輪を好み、常に顎を上げて人を見下ろす男だった。

薬師ギルドの代表が席を立つのを待ち、ヴェルナーはにこやかに言った。

「辺境伯閣下がお待ちです。書斎へどうぞ」


父の書斎は、いつもより空気が重かった。

フェルゼン辺境伯は椅子に深く座り、目を伏せている。病で痩せた体がさらに小さく見えた。そして——レオンハルトが壁際に立っていた。暗い金髪を短く刈り上げた偉丈夫(いじょうふ)。鉄灰色の瞳は、カタリナと目を合わせようとしない。

嫌な予感が背筋を走った。

「お座りください、令嬢」

ヴェルナーが椅子を勧めた。カタリナは座らなかった。

「立ったままで結構です。お話を」

「では率直に申し上げます」

ヴェルナーの薄い灰色の目が、冷たく光った。

「令嬢の商い関与は、本日をもって終了していただきます」

一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。

「……どういう意味ですか」

「女が商いの場に出るのは、領地の品位を損ないます。王都でも問題視されております。これは領地のため——いえ、令嬢ご自身のためでもあります」

品位。女が。——その言葉の一つ一つが、カタリナの六年間を否定していた。

「執政官殿。私がこの六年間で領地の歳入をどれだけ伸ばしたか、数字をご覧になりましたか」

「数字の問題ではありません。体面の問題です。令嬢が商人と膝を突き合わせ、値踏みと駆け引きに明け暮れる姿は——失礼ながら、辺境伯家のご令嬢としてふさわしくない」

ふさわしくない。その言葉を、何度聞いただろう。社交の場で「あの娘はいつも帳簿を抱えている」と囁かれるたび、カタリナは背筋を伸ばして微笑んだ。帳簿を恥じたことは一度もない。

「数字の問題です」

カタリナの声が硬くなった。

「交易路の管理、取引先との交渉、相場の分析、物流の最適化。山越えルートの積雪予測、河川水運の水位管理、薬草の収穫時期と加工の工程管理。これらを引き継げる方がいらっしゃるなら、喜んでお任せします。どなたですか」

一つずつ挙げるたびに、ヴェルナーの目が泳いだ。けれどすぐに、もっともらしい笑顔を取り繕った。

「それは私が管理いたします。ご心配には及びません」

——この男は帳簿すら開いたことがない。三ヶ月前の赴任以来、商談室に足を運んだのは今日が二度目だ。一度目は室内の調度品の品定めだった。カタリナの帳簿には触れもせず、壁の絵画の値段を側近に訊いていた。

交易を管理するとは、帳簿を読み、相場を追い、取引先と信頼関係を築き、隊商の安全を確保し、天候と季節に合わせて在庫を動かすことだ。それはただの「管理」ではない。何百もの判断の積み重ねだ。この男にそれができるとは到底思えなかった。

「お父様」

カタリナは父を見た。助けを求めたのではない。父の答えを確認したかったのだ。

「カタリナ……もう決まったことだ」

父は目を合わせなかった。声は掠れ、拳は震えていた。ヴェルナーに押し切られたのだとわかった。病身の父に、王都の権力を背景にした執政官と渡り合う力は残っていない。

最後の望み——レオンハルトを見た。

婚約者は壁に背をもたれ、腕を組んでいた。カタリナの視線に気づいたのだろう。目を逸らし、低い声で言った。

「……カタリナ。お前は令嬢なんだ。家で刺繍でもしておれ」

——刺繍。

六年間、夜明け前から帳簿を広げた。隊商と山道を歩いた。吹雪の中、山越えルートの休憩所が使えるか確認に行った。商人たちと膝を突き合わせ、相場を分析し、一銅貨の差が百銅貨の利益を生む計算を積み重ねてきた。

その全てを「刺繍でもしておれ」の一言で片づけた。

「俺の婚約者が商人のように振る舞うのは、騎士団長としても立場が悪い」

レオンハルトの目は真剣だった。悪意はない。本心からそう思っている。それが一番辛かった。

武人としては優秀な男だ。剣の腕は確かで、部下からの信頼も厚い。カタリナもその強さに惹かれた時期があった。けれど——この人は最初から、帳簿を開こうとしなかった。カタリナが徹夜で仕上げた決算報告を「お前は頑張りすぎだ」の一言で片づけた。それは(いたわ)りではなく、無関心だった。

胸の奥で何かが、静かに折れた。折れたというより——もう修繕する意味がないと、帳簿を閉じた感覚に近かった。

「……わかりました」

カタリナの声は(なぎ)のように平らだった。

「お父様。婚約の件は、こちらからお返しいたします」

レオンハルトが初めてカタリナを見た。驚いた顔をしていた。——何を驚いているのだろう。自分から突き放しておいて。

父が何か言いかけた。「カタリナ——」と。けれどその声は小さく、病に蝕まれた喉からは続きが出てこなかった。

カタリナは一礼して書斎を出た。廊下を歩く足音だけが、やけに大きく響いた。


翌朝。カタリナは引き継ぎを申し出た。

「せめて帳簿の見方と、取引先への連絡事項だけでも——」

「もう必要ない。執政官殿が全て管理する」

父の側近が事務的に告げた。ヴェルナーの指示だろう。

帳簿も、取引先のリストも、五年分の相場記録も。全て置いていくよう命じられた。

カタリナが持ち出せたのは、自分の衣服と、僅かな手持ちの金貨だけだった。

——いいえ。もう一つ、持ち出せるものがある。

この頭の中にある全て。市場の読み方、相場の動き方、人の心の掴み方。六年間で培ったそれだけは、誰にも奪えない。

城を出る前に、一人だけ会えた人がいた。薬草加工所の職人長だ。ヴェルナーの監視を縫って、城の裏口で待っていてくれた。

「カタリナ様……本当に行ってしまわれるのですか」

白髪交じりの職人長は、こぶだらけの手で目を拭った。この手が作る薬草軟膏は王都でも評判だった。カタリナが品質基準を設け、職人長が腕を磨き、二人三脚で「フェルゼンの薬草軟膏」というブランドを作り上げた。

「ええ。でも心配しないで。あなたたちの腕は本物ですから」

嘘だった。ヴェルナーに職人たちの待遇を守れるとは思えなかった。加工所の予算を「無駄」と呼んだ男が、職人の技術を理解するはずがない。けれど、今の自分にできることは限られている。

「もし——もしいつか、困ったことがあれば」

カタリナは小さな紙片を握らせた。隣国ラウレンツィアの港町マレーアの名前が書いてある。

「ここに来てください。必ず、居場所を作りますから」

職人長は紙片を両手で受け取り、大切にしまった。まるで最後の契約書のように。


晩秋のフェルゼン領を出て、南西へ。

山を越え、国境を越える。峠では吐く息が白く、薄い外套が山風を通した。供も護衛もない。辺境伯令嬢だったはずの二十歳の娘が、たった一人で異国への道を歩いている。

足が痛い。街道の石が靴底を通して刺さる。令嬢用の靴は、旅には向いていなかった。隊商に便乗させてもらえないか交渉したが、「女一人を乗せて面倒に巻き込まれたくない」と断られた。

——女一人、か。この国では、それだけで断られる理由になるらしい。

けれど、頭は動き続けていた。道端の宿場の値段を目で確認し、すれ違う荷馬車の荷から交易品の流れを読み、峠の天候を肌で感じる。体は疲れていても、商人の目は止まらない。

マレーア——隣国ラウレンツィア王国の港町。二年前、交易ルートの調査で一度だけ訪れた町だ。海風の匂い、多国籍の商人たちの喧騒。そして何より印象に残っていたのは、女性が対等に取引をしている光景だった。魚の仲買人、布の卸問屋、香辛料の輸入商——誰も「女が商いをするな」とは言わなかった。

手持ちの銀貨は二十枚と少し。宿代を差し引けば半月もたない。人脈もない。帳簿もない。

でも——市場を見る目がある。六年間で鍛えた相場を読む力がある。数百の取引で磨いた交渉術がある。

五日目の夜、国境の手前の安宿で、カタリナは壁に背を預けて天井を見つめた。インクで染まった指先を見る。この指で何千もの取引を記録してきた。

帳簿は置いてきた。でも、私自身が帳簿のようなものだ。数字は嘘をつかない。私も、嘘をつかない。

翌朝、国境の関所を越えた。ラウレンツィア王国の空気は、少しだけ軽かった。さらに二日歩いて、ようやく海の匂いが風に混じり始めた。


マレーアの大市場は、フェルゼン領の市とは別世界だった。

潮の香り、香辛料の匂い、焼き魚の煙、異国語の怒鳴り声。保存魔法の淡い光を放つ氷箱が魚屋の軒先に並び、色とりどりの天幕が港沿いに連なっている。朝から晩まで人波が途切れない。商人の掛け声、荷運び人の号令、船の汽笛。そのどれもが、カタリナの耳に心地よく響いた。——市場の音だ。言葉は違っても、商いの音は世界中で同じだ。

カタリナは市場を歩きながら、途方に暮れていた。宿代で銀貨が半分になった。残りは十枚を切っている。仕事を探さなければ——だが、見知らぬ国で、知り合いもなく、この国の商慣習もわからず、何から始めればいい。

無意識に、目が品物を追っていた。商人の(さが)だ。仕事を得るにはまず市場を知ること。値札と品質を見れば、この街の商いの水準がわかる。朝から一つずつ屋台を巡り、頭の中に相場表を組み立てていた。

香辛料の屋台の前で足が止まった。

「……この胡椒(こしょう)はカルメの南港経由ね。品質は上等だけど、仲介が二段階入っている分、産地から直接仕入れれば三割は安い」

独り言のつもりだった。だが屋台の隣で同じ品を吟味していた男が、手を止めて振り向いた。

「——あんた、見る目があるな」

振り向くと、濃い茶色の巻き毛で琥珀(こはく)色の目をした男が、腕を組んで立っていた。港町の日差しで浅く焼けた肌。左手首に革紐のお守り。人懐こい笑顔だが、商人の目をしている。

「この品の産地がわかるのか?」

「ええ。色の深さと粒の大きさで産地が絞れます。この粒はメルキア高地産。乾燥が甘いから南港の湿度の高い倉庫を経由している。直接取引なら銀貨四十枚が適正ですが、ここでは六十枚で売られていますね」

男——ニコラス・ラウレンツは、目を丸くした。

「……何者だ、あんた」

「ただの旅人です。少し、商いの心得があるだけで。——もっとも、女の商いの真似事は迷惑だと追い出されましたけれど」

「少し、ね」

ニコラスは腕を組み直し、改めてカタリナを見た。埃だらけの旅装、疲れの残る顔。だが目だけは——市場を見回すその目だけは、一流の商人のそれだった。

「訳ありだろう。まあ座れよ。話はそれからだ」

港沿いの酒場に入った。ニコラスが注文した温かいスープを一口飲んで、体の芯がようやくほどけた。何日ぶりのまともな食事だろう。

カタリナは事情を話した。全てではない。辺境伯の娘であることは伏せた。ただ、「商いをしていたが追い出された」とだけ。

「追い出された? ……そいつらは馬鹿だな」

ニコラスはあっさり言った。怒りも同情もなく、ただ事実として。

「女だから商いができないなんて、そんな馬鹿な話があるか。俺の母親は港で一番やり手の仲買人(なかがいにん)だったぞ。市場の魚の値段はあの人が決めてた。誰も文句を言わなかった。腕があるかないか、それだけだ」

——その言葉で、目の奥が熱くなった。

六年間、誰にも言ってもらえなかった言葉だ。父は「お前に負担をかけてすまない」と後ろめたそうに目を逸らし、レオンハルトは「はしたない」と(さげす)んだ。領民は薬草軟膏を喜んでくれたが、「令嬢が商人のように」という視線は常にあった。

「女が商いをするのは当たり前だ」と、こんなにも簡単に言ってくれる人がいる。こんなにも当然のこととして。

「……ありがとう、ございます」

声が震えた。スープの湯気のせいにした。

「礼はいい。それより——あんたに提案がある」

ニコラスは身を乗り出した。笑顔はそのまま、しかし琥珀色の目だけが商人の鋭さを帯びていた。

「俺は港の海上交易が専門だ。潮の流れと船の手配なら任せろ。だが内陸との取引ルートがない。あんたには陸路の知識と、市場を見る目がある。海と陸が繋がれば——商いは何倍にも化ける。組まないか」

「……対等な条件で?」

「当たり前だ。商いに上下なんかねえよ。あるのは信用と実績だけだ」

カタリナは——笑った。自分の口癖を、初めて他人の口から聞いた。

「ええ。では、お受けします」

握手を交わした。ニコラスの手は荒れていた。港の塩風と荷運びで鍛えられた手だ。カタリナの手もまた、インクと帳簿で鍛えられている。商人の手と、商人の手。

こうして「フェルゼン&ラウレンツ商会」は生まれた。マレーア港の片隅にある小さな倉庫が、最初の拠点だった。


最初の取引は小さなものだった。

港町の海産物を内陸の町に運び、内陸の織物を港に持ち帰る。カタリナが最適なルートと時期を選定し、ニコラスが荷運びと販売先を手配した。

初取引の利益は銀貨百二十枚。大きな額ではない。けれどカタリナの見立ての正確さに、ニコラスは目を丸くした。

「あんた、本当にすごいな。この品の売れ行きまで読んでいたのか」

「市場には季節があります。秋口は内陸部で保存食の需要が高まる。港町の干物と塩漬け魚は、今がちょうど売り時です」

「俺は十年この港にいるが、その発想はなかった。商いは海と同じだな——風向きを読めるやつが勝つ」

「海を知っている人が陸を見落とすのは当然です。逆もまた然り。だからこそ——」

「……だからこそ、組む意味がある、か」

ニコラスが笑った。カタリナも笑った。商談の相手とこんなふうに笑い合えるのは、いつ以来だろう。

二度目の取引は、利益が倍になった。三度目は、さらに倍。カタリナは取引先の好みを記憶し、季節と気象と政情を組み合わせて、最適な商品と時期を選定した。フェルゼン領でやっていたことと同じだ。ただ——舞台が海に近いだけ。

口コミは速かった。「フェルゼン&ラウレンツの目利きは確かだ」——港町の商人たちの間で評判が広がり、ニコラスの推薦でマレーア商人ギルドにも加入できた。審査の場でカタリナが市場分析を語ると、ギルド長が唸った。「こういう人材がほしかったんだ」と。

三ヶ月もすると、取引先が向こうからやってくるようになった。ニコラスの港町での信用と、カタリナの目利きと交渉力。海と陸を結ぶ交易網が、少しずつ形を成していく。

カタリナは朝から晩まで働いた。帳簿をつけ、市場を歩き、取引先と膝を突き合わせる。フェルゼン領でやっていたことと同じだ。ただし今度は、誰にも「はしたない」と言われない。

「あんたは働きすぎだ。たまには休めよ」

「休んだら数字が止まります」

「止まらないって。俺がいるだろう」

ニコラスの言葉に、カタリナは少し驚いた。フェルゼン領では、休むことを許してくれる人はいなかった。いや——自分が休むことを、自分に許していなかったのかもしれない。

半年後のある日、見覚えのある顔が商会を訪ねてきた。

「カタリナ様……! やはり、ここにいらっしゃったのですね」

フェルゼン領の薬草加工所の職人長だった。その後ろに、若い職人が三人。旅の疲れが濃い顔をしている。国境越えは容易ではなかっただろう。

「職人長……! どうしてここに」

「執政官殿が加工所の予算を削られまして。技術も理解されず、道具の修繕費さえ出ない。若い者たちと話し合って、カタリナ様のところで働かせていただきたいと……」

カタリナは胸が痛んだ。やはり、こうなったか。

「……いらっしゃい。仕事はたくさんあります」

職人たちの加工技術が加わり、商会は一気に成長した。高山薬草の加工には微弱な魔力を込める工程がある——その技を持つ職人は希少で、機械では代替できない。フェルゼン領から持ち出せなかったその技術が、マレーアの豊かな原材料と結びついたのだ。

商会の看板商品「マレーア薬草軟膏」は、瞬く間に港町で評判になった。カタリナが品質基準を設定し、職人長が腕を振るう——フェルゼン領でやっていたことの再現だ。

「カタリナ様。ここの薬草は種類が違いますが、配合を調整すれば同等の品質が出せます」

「さすがですね。では、この港町独自の配合レシピを作りましょう。フェルゼンの模倣ではなく、マレーアの商品として」

職人長の目が輝いた。フェルゼン領では「カタリナ様の指示通り」だった。ここでは「一緒に作る」だ。それだけで、職人の手つきが変わった。


——追放から一年。再び秋が巡り、山越えルートに最初の雪が降る頃。

マレーアの港には、様々な土地の商人が出入りする。商会が大きくなるにつれ、フェルゼン領方面と取引のあった商人が噂を持ち込むようになった。

ある夕方、馴染みの仲買人が商会を訪ねてきた。

「フェルゼン領の薬草加工品? もう扱っていないよ。品質が落ちた上に、新しい執政官とやらが取引相手を見下してね。値引き交渉をしたら『物乞いに用はない』と来たもんだ。薬師ギルドも三ヶ月で手を引いた」

カタリナは帳簿に目を落としたまま聞いていた。胸の奥が軋んだ。

「加工所の職人もいないんだろう? 生薬(きぐすり)のまま安値で出しているが、品質管理ができないから買い手もつかんらしい」

「ええ。——職人長たちは、うちに来てくれましたから」

「道理で。山越えルートの休憩所は荒れ放題、河川水運は荷役人が賃金未払いで去って船が空のまま繋がれているそうだ。あの領地を通る隊商はもういないよ。歳入はひどいもんだと聞いた。『カタリナ様がいた頃は、冬でも市場に品物が並んでいた。今は秋なのに棚が空だ』——そう領民が噂しているそうだ」

一年で、六年分の交易網が崩壊した。

予想はしていた。帳簿を見ればわかることだ。積雪前に物資を移動させなければ山越えルートは使えなくなる。河川水運は荷役人の確保と水位管理が命だ。取引先との信頼は一朝一夕では築けず、一度裏切れば二度と戻らない。そのどれ一つとして、あの男にはできない。最初からわかっていた。

わかっていて、少しも嬉しくなかった。

あの帳簿は、まだ机の上に積まれているのだろう。カタリナが六年分の取引先の信頼関係、季節ごとの最適な取引時期、隊商の経路と所要日数を書き込んだ帳簿。埃を被ったまま、一度も開かれていない。数字は嘘をつかない。だが帳簿を開かない者には、何も語らないのだ。

「もう一つ。騎士団の糧食も足りないそうだ。冬の食料も馬の飼葉(かいば)も届かない。部下に『カタリナ嬢がいた頃はこんなことはなかった』と言われて、騎士団長殿が城壁で拳を石に叩きつけていたと聞いた」

——レオンハルト。

帳簿の数字は、剣では斬れない。あの人はきっと今、自分の剣が届かない敵と向き合って、初めて途方に暮れているのだろう。カタリナが夜遅くまで帳簿を広げていた窓の灯りは、もう消えている。あの灯りが何を守っていたのか——今頃、気づいたのだろうか。

「……そうですか」

それだけ答えて、カタリナは帳簿のページをめくった。翠緑色の瞳は数字を追っていたが、いつもより少しだけ揺れていた。

ニコラスがそっと温かい茶を置いてくれた。何も言わず。カタリナは一口飲んで、ペンを握り直した。泣くのは、帳簿を閉じてからだ。

領民が困っている。それだけが、胸に残った。


追放から一年半。春の潮風が港町を吹き抜ける季節。

フェルゼン&ラウレンツ商会は、マレーア有数の商会に成長していた。

カタリナが開拓した内陸ルートとニコラスの海路が結びつき、国境を越えた交易網が完成した。フェルゼン領から移住してきた職人たちの加工品は看板商品となり、ラウレンツィア王室の御用商人の話まで舞い込んでいる。

ある朝、商会の扉を叩く者があった。

カタリナが扉を開けると、旅装の男が立っていた。汚れた外套にフェルゼン辺境伯家の紋章——鷹と山の意匠が縫い取られている。その紋章を見た瞬間、心臓が跳ねた。

「フェルゼン辺境伯領からの使者でございます。交易再開のご相談を……」

使者はみすぼらしかった。かつてのフェルゼン領の威信は微塵もない。馬は痩せ、外套は擦り切れている。カタリナが領地にいた頃、使者には必ず立派な馬と正装の護衛をつけた。それが領地の信用を示すからだ。この姿は——信用を失った領地そのものだった。

カタリナは商会の応接室に使者を通した。応接室は広くはないが、壁には取引先から贈られた各国の特産品が飾られ、棚には整然と帳簿が並んでいる。ニコラスが隣に座った。

使者が二通の手紙を差し出した。手が震えている。かつてフェルゼン領の威光を背に堂々と旅した使者が、今はみすぼらしい姿で頭を垂れている。

一通目は、辺境伯領の公式な書簡。ヴェルナーは王都からの査察で更迭(こうてつ)されていた。査察官がカタリナの残した帳簿と現在の帳簿を並べ、数字の落差を突きつけたという。「前任者の杜撰な管理のツケだ」とヴェルナーは最後まで責任を転嫁したが、査察官は帳簿の筆跡すら調べていた。精緻な記録を残したのが誰で、それを一度も開かなかったのが誰か——答えは明白だった。

領地は新たな交易の相手を必要としている。

二通目は、父からの手紙だった。

『カタリナ。お前を守れなかった愚かな父を許してくれとは言わない。ただ、領民が困っている。お前の力を、どうか——』

手紙を持つ指先が、僅かに震えた。インクの染みがついた指。商人の手。

「……どうする?」

ニコラスが静かに訊いた。責めるでもなく、急かすでもなく。

カタリナは手紙を折り畳み、背筋を伸ばした。

「帰りません」

使者の顔が強張った。

「ですが——」

「でも」

カタリナの翠緑色の瞳が、帳簿を見るときの鋭さに変わった。

「一顧客として、お取引はお受けします」

「一顧客……ですか?」

「ええ。フェルゼン領は私の故郷です。故郷が困っているなら、商人として手を差し伸べます。ただし——条件は私が決めます」

カタリナは新しい帳簿を開き、羽根ペンを取った。

「条件は三つ。一つ、フェルゼン領に戻る職人がいれば、待遇を文書で保証すること。二つ、交易の実務はこちらの商会が担うこと。素人の官僚には任せません。三つ、これは恩情ではなく対等な商取引として行うこと」

使者は目を見開いた。かつての令嬢の姿はそこにはなかった。一人の商人が、商人として条件を提示している。

使者は呆然とした顔で、それからゆっくりと頭を下げた。

「……かしこまりました」

「それから——」

カタリナは付け加えた。

「父に伝えてください。お体、大切にしてくださいと。それだけでいいです」

帳簿を開き、新しいページに書き込み始めた。六年間フェルゼン城でそうしていたのと同じ手つきで。けれど今度は、「誰かの娘」としてではなく、「カタリナ」として。

ニコラスがそっと呟いた。

「……泣かないんだな、あんたは」

「商人は取引の最中に泣きませんから」

「取引が終わったら?」

「……そのときは、少しだけ」


使者が帰り際に、もう一通の手紙を差し出した。

「騎士団長——いえ、元騎士団長のレオンハルト殿からです」

『カタリナ嬢。俺は間違っていた。あなたの商いを「はしたない」と言ったことを一生後悔する。あなたが守っていたものの大きさを、失って初めて知った。すまなかった。——あなたに「刺繍でもしておれ」と言った日の俺を、殴ってやりたい。』

カタリナは手紙を読み終え、静かに折り畳んだ。

「刺繍でもしておれ」——あの日の言葉が蘇る。けれど、もう痛くなかった。あの言葉は、レオンハルトの世界の狭さが生んだものだ。彼は悪人ではない。ただ、自分の剣が届かない世界を見ようとしなかっただけだ。

恨んではいない。ただ——もう、戻る場所ではなくなっただけだ。カタリナの居場所は、この港町の、この商会の、この帳簿の前にある。

使者に短い返事を託した。

「レオンハルト殿にお伝えください。お気持ちはありがたく受け取りました。どうかお元気で、と。——それから、刺繍はやっぱり苦手です、と」

最後の一言に、自分でも少し笑ってしまった。


夕暮れのマレーア港。

一日の仕事を終えたカタリナとニコラスが、波止場に並んで座っていた。

潮風が亜麻色の髪を揺らす。港には大小の船が停泊し、夕陽が海面を橙色に染めている。市場から聞こえる喧騒が、少しずつ静まっていく時間。カタリナが一番好きな時間だった。

「大きくなったな、うちの商会も」

ニコラスが言った。

「あなたのおかげです、ニコラス」

「俺じゃない。カタリナの力だよ」

名前で呼ばれるようになったのは、いつからだったろう。最初は「あんた」だった。対等な商人として、いつの間にか名前に変わっていた。

「……なあ、カタリナ」

ニコラスが珍しく言い淀んだ。琥珀色の目が、夕陽に照らされて温かく光っている。

「商い以外のことも——そのうち、話していいか?」

カタリナは少し驚いた。それから——笑った。追い出されてから初めての、心からの笑顔だった。

「……ええ。聞かせてください」

港町の風が、二人の間を吹き抜けた。

カタリナは思う。あの日、全てを失ったと思った。帳簿も、人脈も、婚約者も、父の信頼も。

けれど本当は——失ったのではなく、手放したのだ。自分を否定する場所に留まる理由を、手放しただけ。

そしてこの港町で、帳簿よりも大切なものを見つけた。自分の商いを「すごいな」と笑ってくれる人。「女だから」ではなく「あんただから」と言ってくれる場所。

ニコラスの横顔を見る。琥珀色の目が、夕陽の色を映して温かく光っている。この人の隣で、もう少しだけ商いを続けたい。商い以外のことも——もしかしたら。

商いに男も女もない。あるのは信用と実績だけ。

それは——帳簿の中にも、帳簿の外にも、変わらない真実だった。

海風が、インクの染みのついた指先を撫でていった。

【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。帳簿の数字は嘘をつきませんが、帳簿を開こうとしない人には何も伝わらない——そんなお話でした。

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