「——ヴァイス伯爵閣下。ベルガー伯爵閣下。双方のお話は承りました。では、事実関係を整理いたしましょう」
王都クロンシュタット、王宮の「調停の間」。
アネリーゼ・フォン・グリューネヴァルトは、長机の中央に座り、左右の領主を見渡した。氷青色の瞳は冷静そのもので、声は張りつめた空気を裂くように澄んでいる。
左手にヴァイス伯爵カール——赤銅色の短髪に左頬の刀傷。がっしりした体を椅子に押し込むようにして座り、拳を握りしめている。右手にベルガー伯爵の代理人——こちらは細身の文官で、巻物を何本も抱えている。
「ザルツ川の灌漑用水配分について。乾季は上流領六、下流領四。雨季は五対五。水門管理は共同出資の管理委員会が担当。これが三年前の合意内容です」
アネリーゼは仲裁記録帳を開いた。革装の表紙は四年分の交渉でくたびれている。
「今回の論点は、昨夏の渇水で上流側の取水量が合意を超過したという下流領の主張。これに対しヴァイス伯爵閣下は——」
「渇水時の緊急措置として、事前に管理委員会へ通知している。手順は踏んだ」
ヴァイス伯爵が低い声で割り込んだ。アネリーゼは頷いた。
「ええ、通知の記録は確認しました。ただし、下流領への通知が三日遅れています。この遅延が、ベルガー伯爵閣下の不信を招いた原因です」
「三日の遅延で畑が枯れたわけではあるまい!」
「事実として枯れてはいません。しかし信頼は、水よりも先に枯れるものです。——ベルガー伯爵側の懸念は理解できます。今後の渇水時の通知手順を改定し、二十四時間以内の相互通知を義務化する。これで双方ご納得いただけますか」
ヴァイス伯爵が渋い顔をした。ベルガー側の文官が巻物をめくる。アネリーゼは双方の反応を待った。ここが仲裁の要だ。結論を急がない。相手が自分で納得する時間を与える。
長い沈黙のあと、ヴァイス伯爵が腕を組み直した。
「……二十四時間か。それなら呑める」
ベルガー側の文官も巻物を広げ直し、「その条件であれば、伯爵にもお伝えできます」と言った。
合意成立。アネリーゼは仲裁記録帳に書き込みながら、小さく息をついた。
四年前に始まった水利権の仲裁。毎年、微調整を重ねてここまで来た。渇水のたびに緊張が走り、豊水のたびに配分の見直しが求められる。だがそのたびに、この席で双方の話を聞き、数字と地図と前例を突き合わせ、妥協点を見つけてきた。
これでザルツ川の水利権問題は、また一年の安定を——
調停の間の扉が、外から蹴り開けられた。
「——この茶番は終わりだ」
金髪碧眼、均整の取れた体格。胸を張り、顎を上げ、自信に満ちた足取りで歩み入る。第一王子ジークフリート・フォン・クラウゼンブルク。背後に武装した護衛が四名。
アネリーゼの手が、帳簿の上で止まった。
「殿下。ただいま仲裁の最中です。ご用件は——」
「用件はお前だ、アネリーゼ」
ジークフリートは仲裁の席を一顧だにせず、真っ直ぐアネリーゼの前に立った。碧眼が見下ろす。
「私はお前との婚約を破棄する。即日、王都を出よ」
調停の間が、凍りついた。
ヴァイス伯爵が椅子を蹴って立ち上がった。「殿下! 何を——」
「黙れ、ヴァイス伯。これは王族の判断だ」
ジークフリートはヴァイス伯爵を一瞥すらしなかった。視線はアネリーゼに据えたまま。
「女が争いごとに首を突っ込むなど、王家の恥以外の何物でもない。お前の仲裁ごっこは今日で終わりだ」
——恥。仲裁ごっこ。
四年間、この席で積み上げてきたもの。水利権の合意、交易路の通行料調整、魔獣討伐の分担協定——この三つを柱にした領地同盟の均衡。何百時間もの交渉と、何千行もの記録。
それを——「ごっこ」。
アネリーゼは、一瞬だけ目を見開いた。それからすぐに、表情を消した。氷青色の瞳が、感情の色を失った。
「……引き継ぎの時間をいただけますか。進行中の案件が三つあります」
「必要ない。お前がいなくとも、この国は回る。思い上がるなよ、アネリーゼ」
アネリーゼは仲裁記録帳を閉じた。四年分の記録が詰まった帳簿を、ゆっくりと机の上に置く。
それからヴァイス伯爵に向き直り、小さく頭を下げた。
「ヴァイス伯。……あとは、どうかお気をつけて」
ヴァイス伯爵の琥珀色の目が、怒りと悲しみで揺れていた。彼は何か言いたそうだったが、護衛の槍が道を塞いでいる。
アネリーゼは調停の間を出た。背筋は真っ直ぐのまま。足音だけが、長い廊下に響いた。
背後で、ヴァイス伯爵の怒声が聞こえた。「殿下! この仲裁を止めたら何が起こるかわかっているのか!」。ジークフリートの冷たい声が返る。「黙れと言った」。護衛の甲冑が鳴る音。それ以上は聞かなかった。聞く必要がなかった。
角を曲がり、誰の目もない場所で——拳を握った。爪が掌に食い込む。
四年。四年かけて積み上げたものを、たった一言で。
泣かなかった。怒鳴らなかった。仲裁人は最後まで公平でなければならない。自分の感情を、席に持ち込んではならない。
——もう、席はないけれど。
その日のうちに、アネリーゼは王都を追われた。
グリューネヴァルト公爵家は王子に抗議したが、「王族の決定に異議を唱えるのか」と退けられた。宰相は眉をひそめたが、表立って王子に逆らえなかった。
父が使者を送ってきた。「家に戻ってこい」と。
アネリーゼは断った。
「お父様。私が公爵家にいれば、殿下の不興がお父様にまで及びます。しばらく——離れたところで、考えさせてください」
手紙を書いたインクが乾くのを待ちながら、アネリーゼは考えていた。自分は何者だったのだろう。公爵令嬢か。王子の婚約者か。仲裁人か。
どれも、他人が与えてくれた肩書きだ。それを失った今、自分に残っているものは——
仲裁記録帳は調停の間に置いてきた。王家の仲裁人としての四年分の記録。あの帳簿には、アネリーゼの全てが詰まっている。取引先の性格、各領主の譲れない一線、交渉が行き詰まったときの打開策。もう手元にはない。
けれど——記憶は残っている。十五歳で父の仲裁に初めて同席した日から六年——二十一の今も、一度も忘れたことはない。最初の二年は父の傍らで交渉の呼吸を学び、十七歳で王子と婚約してからは王家の名のもとに大きな紛争を担った。以来四年、三つの領地同盟を築き上げた。その全ての合意内容、全ての交渉経緯、全ての当事者の顔と名前。
それだけは、誰にも奪えない。
窓の外に、夕焼けが広がっていた。王都の夕焼けは王宮の尖塔に遮られて、こんなふうには見えなかった。四年間、夕暮れの空を見上げる余裕すらなかった。いつも調停の間にいて、仲裁記録帳と向き合っていた。
——少しだけ。少しだけ、休んでもいいだろうか。
そう思った自分に驚いた。仲裁人は休まない。次の案件がある。次の紛争がある。次の交渉がある。そう思い続けてきた四年間だった。
けれど今は——次の案件がない。それが、ほんの少しだけ、楽だった。
アネリーゼが去った翌日、調停の間は空だった。
進行中の案件が三つ、宙に浮いたまま。水利権の追加合意。交易路通行料の改定。魔獣討伐の費用分担。どれも期限が迫っていた。
各領主の使者が王宮を訪れた。「仲裁の日程は?」「次回の会議はいつですか?」「渇水時の通知手順の改定案はどうなりましたか?」
対応する者は誰もいなかった。アネリーゼが調停の間に置いていった仲裁記録帳には、すべての案件の経緯と次回の論点が記されている。だが誰もそれを開かなかった。読んでも理解できる者がいなかった。
ジークフリートは「些事だ。臣下同士で解決させればよい」と一蹴した。
些事。王子にはそう見えたのだろう。仲裁人がいるから些事で済んでいたことに、気づかないまま。
辺境の街ヴァイデンに辿り着いたのは、五月も終わる頃——王都を出て六日後のことだった。
王国北東の端にある小さな街。交易路の分岐点に位置し、小規模ながら商人の往来がある。人口は三千ほど。アネリーゼが以前、交易路の調査で名前だけ知っていた場所だ。
宿屋の一室で、手持ちの金貨を数えた。父が密かに持たせてくれた路銀。倹約すれば二月は保つ。だがその先は——何の保証もない。
公爵令嬢だった昨日と、何者でもない今日の間に、たった六日しか経っていないのに。世界がまるで違って見える。宿の窓から見える街並みは素朴だが、人々の表情は穏やかだった。王都のように、政治の影がちらつかない。
翌朝、街の広場で井戸の使用順をめぐる口論に出くわした。
「うちの方が先だ! 朝の水汲みは東側からと決まっておろう!」
「そんな取り決め、いつの話だ! もう十年も前の古い約束じゃないか!」
住民二人が顔を突き合わせている。周囲の人々は関わりたくないと目を逸らしている。
アネリーゼの足が、止まった。
——関わるべきではない。自分はもう仲裁人ではない。争いに首を突っ込むなと、王子に言われたばかりだ。
だが口は勝手に動いていた。
「失礼します。お二方のお話、少し聞かせていただけますか」
住民二人が振り返る。見知らぬ若い女に怪訝な顔をした。
「東側優先の取り決めがあるとのことですが、それはいつ、どなたが決めたものですか」
「……十年前の町会議だ」
「では、現在の住民数と当時の住民数に差はありますか」
「……東側は増えた。新しい家が五軒建った」
「それならば、使用順を住民数に応じて見直すのが公平ではないでしょうか。東側の使用時間を延長する代わりに、西側が先に汲み始める。これで双方の不満は解消されませんか」
二人は顔を見合わせた。それから、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。それなら文句はねえ」
「まあ……そうだな。そうすりゃ公平だ」
あっけなく解決した。周囲の住民が拍手した。アネリーゼは少し驚いた——王都の仲裁では、拍手されたことなど一度もない。
「お嬢さん。なかなか見事な仲裁じゃったな」
穏やかな声が背後から聞こえた。
振り返ると、白髪混じりの灰色の髪をきちんと撫でつけた老人が立っていた。痩身だが背筋は真っ直ぐ。深い茶色の瞳に、温かみと鋭さが同居している。右手には古い火傷の跡。
「わしはディートリヒ・フォン・ヴァイデン。この街の町長じゃ。まあ、お茶でも飲みなさい。話はそれからじゃよ」
ディートリヒの執務室は、紅茶の香りが満ちていた。
壁一面の書棚に並ぶのは外交文書の写しや条約集。アネリーゼの目が自然とそれを追う。この蔵書——元外交官のものだとすぐにわかった。
「『グリューネヴァルトの調停姫』……その名は、わしの耳にも届いておったよ」
ディートリヒは紅茶を淹れながら、さりげなく言った。アネリーゼの手が、カップの縁で止まった。
「……ご存じでしたか」
「外交官を三十年やっておれば、それくらいは。のう、お嬢さん。何があったか、話してくれんかね」
アネリーゼは迷った。けれど——この老人の目に、嘘は通じないと直感した。
話した。王子に追放されたこと。仲裁を「恥」と呼ばれたこと。四年間の仕事を一瞬で否定されたこと。仲裁記録帳を置いてきたこと。進行中の案件が三つ、宙に浮いていること。
——そして、それを自分の責任だと感じてしまうこと。
ディートリヒは黙って聞いていた。口を挟まず、頷きもせず、ただ真っ直ぐにアネリーゼの目を見ていた。紅茶を一口飲み、カップを置き、それから言った。
「仲裁の才とはな、争いに首を突っ込む力ではない。争いを終わらせる力じゃよ」
穏やかだが、確信に満ちた声だった。
「それを恥と呼ぶ人間は、争いの痛みを知らん人間じゃ。わしは知っておる——争いを止められなかったとき、何が起こるかをな」
ディートリヒの右手が、古い火傷の跡をそっと撫でた。十五年前の国境紛争。止められなかった戦い。その傷跡は、仲裁の重さを知る者だけが背負うものだった。
「お嬢さん。この街にも揉め事は絶えん。隣村との牧草地の境界、商人同士の取引トラブル。小さなことじゃが、放っておけば大きくなる。——街の相談役を、引き受けてくれんかね」
アネリーゼは下を向いた。
「……私の仲裁は、恥だと——」
「王子殿下は剣で国を守れると思うておるのじゃろう。じゃが、剣で守れるのは城壁の中だけじゃ」
ディートリヒは穏やかに笑った。
「言葉で守れるものの方が、ずっと広いんじゃよ」
紅茶のカップを両手で包んだ。温かい。久しぶりに、温かいものに触れた気がした。
涙がこぼれた。
追放されてから一度も泣かなかった涙が。調停の間でも、王都を出るときも、六日間の旅路でも、一度もこぼさなかった涙が。拳を握って堪えていた涙が。仲裁人は泣いてはいけないと、自分に言い聞かせてきた涙が。
——温かい。紅茶が温かい。この老人の言葉が温かい。この街が温かい。
「……引き受け、ます」
声が震えた。けれど、はっきりと言えた。
それからの日々は、穏やかだった。
隣村との牧草地の境界問題を、地図と測量記録で解決した。商人同士の売掛金トラブルを、帳簿の照合で裁定した。街の老人たちの相続争いを、故人の遺志と家族の事情を丁寧に聞き取って調停した。
難航する日はいつも、ディートリヒが紅茶を淹れて待っていてくれた。
どれも王都の大仲裁に比べれば小さな案件だ。領地の運命を左右する水利権や、国防に関わる魔獣討伐協定ではない。井戸の順番であり、羊の数であり、未払いの銀貨の枚数だ。
けれど——当事者にとっては人生を左右する問題で、解決したときの感謝は大仲裁の何倍も直接だった。
「先生。おかげで隣村とのいさかいが収まりました」
「先生。母の遺産のことで兄弟が殴り合う寸前でした。ありがとうございます」
先生。いつからか街の人々がそう呼ぶようになっていた。「調停姫」ではなく「先生」。その呼び名の方が、ずっと温かかった。
ディートリヒと紅茶を飲みながら、アネリーゼは少しずつ砕けた口調になっていった。
「ディートリヒさん。今日の牧草地の件、少し難航しましたね」
「のう、アネリーゼ殿。難航する案件こそ面白い。お嬢さんの目は、そういうとき一番輝いておるよ」
仲裁人であることを、恥だと思わなくなっていた。
王都での四年間は他人に求められた仲裁だった。王家の権威を背景に、大きな案件を次々とこなし、「調停姫」と呼ばれた。誇らしくはあったが、どこかで「期待に応えなければ」という重圧が常にあった。失敗は許されない。公爵家の名誉が、婚約者の面子が、王家の信頼がかかっている。
ここでの仲裁は——自分が選んだ仲裁だ。名誉も面子もかかっていない。ただ、目の前の人が困っているから手を差し伸べる。それだけだ。
その違いが——こんなにも気持ちを軽くするのだと、初めて知った。
アネリーゼの追放から、一月が過ぎた。
王国では——火種が、次々と燃え上がっていた。
最初に燃えたのは水利権だった。
ベルガー伯爵が宣言した。「仲裁人不在では、三年前の合意は無効である」
ザルツ川の水門が一方的に閉鎖された。上流のヴァイス伯爵領の灌漑用水が止まる。初夏の日照りの中、畑が乾き始めた。
ヴァイス伯爵は兵を集めた。交渉下手の武人に残された選択肢は、力しかなかった。
ジークフリートが仲裁を試みた。調停の間に両者を呼び、言い放った。
「ヴァイス伯。水門を開けよ。これは命令だ」
「殿下。水門を閉めたのはベルガー伯です。命令する相手が違います」
「……ベルガー伯にも開けるよう命じる」
「殿下。命令で水門は開いても、信頼は開きません。この問題の本質は水量ではなく信頼です。——アネリーゼ殿ならそう仰ったでしょう」
ヴァイス伯爵の言葉に、ジークフリートは唇を噛んだ。水門を開けるか閉めるか——彼の口から出る言葉はその二択だけだった。双方の面子を立て、譲歩の落としどころを探り、信頼を再構築する——そうした繊細な交渉は、剣術の鍛錬では身につかない。
仲裁は失敗した。いや、そもそも仲裁にすらなっていなかった。アネリーゼが何時間もかけて双方の主張を整理し、妥協点を探り、面子を潰さず譲歩を引き出していたあの繊細な作業を、ジークフリートは「命令」の一言で済ませようとしたのだ。
ヴァイス伯爵は城に兵を集め、ベルガー伯爵は水門に番兵を置いた。
第二の火種は、交易路だった。
シュテルン伯爵が西部のヴェステン街道の通行料を三倍に引き上げた。アネリーゼの調整がなくなった以上、自領の判断で決めると宣言した。
交易商人たちは馬鹿馬鹿しいと迂回路を選び、王都クロンシュタットの市場に物資が届かなくなった。穀物の値段が跳ね上がり、パンの価格は二倍になった。市場の棚は空き、市民の不満は日に日に王家へ向かった。「あの令嬢を追い出したせいだ」——そんな噂が、市場の井戸端から宮廷の廊下にまで広がり始めていた。
第三の火種は、魔獣だった。
水利権で対立するヴァイス伯爵とベルガー伯爵が、魔獣討伐の三領共同協定からも離脱を宣言した。
「水を奪う相手のために兵を出す道理はない」
ヴァイス伯爵の通告に、ベルガー伯爵も同調した。「我が領も同様である」。
シュテルン伯爵だけでは西部国境の魔獣を抑えきれない。兵力はアネリーゼが定めた分担のうちの六割だが、実際に防衛線を維持するには残り四割の支援が不可欠だった。
魔獣が国境を越え始めた。辺境の村が襲われ、民が逃げ惑った。焼けた農家の煙が、西の空を黒く染めた。
水利権、交易路、魔獣討伐——アネリーゼが四年かけて組み上げた三本の柱が、わずか一月で瓦解した。一つが崩れれば次が崩れる。糸を一本抜けば織物全体がほどけるように、均衡は連鎖的に崩壊した。
ジークフリートは宰相に詰め寄った。
「なぜだ! なぜ誰もまとめられん! あの程度のこと……!」
宰相は静かに答えた。
「殿下。仲裁人は任命するものではございません。信頼で選ばれるものです。——そしてその信頼は、殿下が自ら壊されました」
ジークフリートの顔から血の気が引いた。初めて——初めて、自分が何を壊したのか理解し始めた。アネリーゼが仲裁の席に座っていたのは「首を突っ込んでいた」のではない。三つの領地同盟という、壊れやすい均衡を支え続けていたのだ。それはまるで——天井を支える柱のようなもの。外からは見えない。だが抜けば、天井が落ちる。
辺境の街ヴァイデンに、王子がやってきたのは六月の終わりだった。
供はわずか三名。急ぎの旅だったのだろう。金髪は乱れ、外套に埃がついている。王族の威厳は、すでに半分崩れていた。
街の入り口で住民たちが立ちふさがった。
「先生に何の用だ」
「王都の人間なんぞ、先生に近づけるな」
ディートリヒが町長として前に出た。
「これはこれは、王子殿下。遠路はるばる、辺境の田舎町まで。何かご用ですかな?」
穏やかな声だが、目は笑っていなかった。
アネリーゼは町長の執務室から出てきた。銀灰色の髪は一つにまとめず、肩に流していた。仲裁の席で常に結い上げていた髪を下ろしているのは、もう「調停姫」を演じる必要がないからだろう。追放されたときとは違う表情をしていた。穏やかで、落ち着いて、自分の足で立っている顔だった。
「殿下。お久しぶりです」
「アネリーゼ。戻れ。これは命令だ。——王国が崩壊しかけている」
「崩壊、ですか」
アネリーゼの声は静かだった。怒りではない。ただ、事実を確認する声だった。
「一月前、殿下は仰いましたね。『お前がいなくとも、この国は回る』と」
「……あの時は……私が——いや、状況が違ったのだ」
「いいえ。状況は同じです。ただ、殿下がそれを見ていなかっただけです」
ジークフリートの碧眼が揺れた。アネリーゼは続けた。
「殿下。私はもう王家の臣下ではありません。婚約も破棄されました。命令される立場にはありません」
「しかし——」
「私が戻ったところで、殿下はまた同じことをなさるでしょう。仲裁が成功すれば『女が目立つのが気に食わない』。失敗すれば『やはり女には無理だった』。どちらに転んでも、同じ結末です」
ジークフリートの顔が歪んだ。図星を突かれた痛みが、碧眼の奥に走ったのが見えた。
「仲裁とは、信頼の上に成り立つものです。仲裁人を追い出した王家に、もう誰が信頼を寄せるでしょうか」
「お前が戻らなければ、内戦になるんだぞ!」
ジークフリートが声を荒らげた。王族の威厳を投げ捨てるような、なりふり構わぬ叫びだった。
アネリーゼは——静かに微笑んだ。
「ええ。それは、殿下が招いた結果です」
怒りではなかった。恨みでもなかった。ただの事実だった。仲裁人として、最後の事実整理。
「殿下。私に仲裁を命じるのではなく、ご自身で学んでください。双方の話を聞くこと。感情ではなく事実で判断すること。相手の面子を潰さないこと。——私が四年かけて覚えたことは、そういう当たり前のことです。あなたにもできるはずです」
ジークフリートは反論できなかった。口を開きかけ、閉じ、もう一度開き——結局、何も言えなかった。
歯を食いしばり、踵を返した。去り際に振り返る。
「……後悔するぞ」
その言葉は、一月前にアネリーゼが王都を追われたときのジークフリートの声と重なった。「お前がいなくとも、この国は回る」。あのときの自信に満ちた声と、今の震える声。同じ口から出た言葉が、こうも違って聞こえる。
アネリーゼは答えなかった。ただ、静かに見送った。
ディートリヒが隣に立ち、黙って紅茶のカップを差し出した。まだ温かい。この老人は、こうなることを予見して淹れておいたのだろう。
「よく言えたな、アネリーゼ殿」
「……いえ。言わなければならなかったことを、ようやく言えただけです」
声は少しだけ震えていた。けれど、目は真っ直ぐだった。
王都で仲裁人をしていた四年間、自分の意見を言ったことは一度もなかった。仲裁人は公平でなければならない。どちらの味方もしない。自分の感情を持ち込まない。——でも今日初めて、自分のために言葉を使った。それが、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。
数日後。
ヴァイデンの街にヴァイス伯爵から密書が届いた。
『アネリーゼ殿。王家には頼らない。だが、あなたには頼りたい。辺境の領地同士で新しい同盟を組まないか。あなたが仲裁してくれるなら、俺は信頼を寄せる。あんたが必要だと言ったのは、お世辞じゃない。本心だ——カール・フォン・ヴァイス』
アネリーゼは手紙を読み終え、窓の外を見た。辺境の街の小さな広場。井戸端で住民たちが笑っている。あの井戸の使用順を決めたのは、この街に来て最初の仲裁だった。小さな仲裁だった。けれど、あの解決があったからこそ、今この街の人々はアネリーゼを「先生」と呼んでくれる。
信頼は、小さな積み重ねから生まれる。王都の大仲裁も、辺境の井戸端も、本質は同じだ。
微笑んだ。追放されて以来——いや、もしかすると人生で初めて、心からの笑顔だった。
「大きな仲裁の仕事が来たようじゃな」
ディートリヒが紅茶を差し出した。
「いいえ、ディートリヒさん。これは仲裁ではありません」
アネリーゼは新しい帳簿を開いた。真新しい革の表紙。王都に置いてきた帳簿とは違う、自分で買った帳簿。
最初のページに書き込む。
「——私自身が選ぶ、最初の一歩です」
『辺境同盟設立準備』
ペンを走らせる指先は、もう震えていなかった。
王都でなくとも。王家の庇護がなくとも。仲裁人の席は、自分で作れる。
争いを終わらせる力は——誰かに与えられるものではなく、自分で選んで使うものだ。
窓の外を、初夏の風が渡っていった。辺境の小さな街に、新しい同盟の種が蒔かれた。
王都の調停の間には、もう誰も座っていないだろう。四年分の仲裁記録帳は埃を被ったまま。だがアネリーゼの手には、新しい帳簿がある。
争いを終わらせる力は、ここにある。仲裁人の席は——自分で作る。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。命令で水門は開いても信頼は開かない——仲裁の本質を詰め込みました。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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