S01-P21 『婚約破棄だ』と王子が告げた瞬間、王城の花が枯れ、泉が涸れ、空が曇った——令嬢に宿る精霊の加護を、誰も知らなかった

第1話: 花が枯れた日

第1アーク · 8,365文字 · draft

王城の精霊庭園には、四季がなかった。

春の薔薇と夏の向日葵と秋の竜胆と冬の山茶花が、同じ花壇で肩を寄せ合うように咲いている。常識外れの光景だった。百年以上前から「永遠に咲く庭」として知られ、他国の賓客(ひんきゃく)が必ず案内される王国の至宝。
 庭師たちは口々に言う。「我々の技術の賜物です」と。

エレオノーラ・フォン・ブリューメンタールは、その庭園で花に話しかけていた。

「今日も綺麗に咲いてくれて、ありがとうございます」

淡い亜麻色の髪が風にそよぐ。若草色の瞳が細められ、白い指先が薔薇の花弁にそっと触れた。その瞬間、薔薇がほんの少しだけ——もう一輪、蕾を綻ばせた。
 エレオノーラは気づかない。いつものことだったから。
 肩に小鳥が止まった。蝶が周りを舞う。花がざわめくように揺れる。
 この庭園に来ると、花も虫も鳥も、なぜかエレオノーラに集まってくる。理由は知らない。昔からそうだった。
 社交界では「地味な公爵令嬢」と陰で呼ばれていた。華やかな衣装よりも土まみれの手袋を好み、舞踏会よりも花壇の手入れに心が躍る。婚約者の王子が別の令嬢と踊っている間、エレオノーラは決まって庭園にいた。
 花だけが、自分の話を聞いてくれた。
 花だけが、自分がいることを喜んでくれた。——少なくともそう感じていた。
 それが、精霊の声であるとは知らずに。

「エレオノーラ」

冷たい声が庭園に響いた。
 振り向くと、金髪碧眼の青年が従者を連れて立っていた。ラインハルト・フォン・アルヴァイン——この国の第一王子にして、エレオノーラの婚約者。
 いつもと様子が違った。青い目に温度がない。

「殿下。おはようございます。今日の薔薇は——」
「エレオノーラ。お前との婚約を破棄する」

花に話しかけようとした言葉が、途中で止まった。

「お前は地味で退屈だ。王妃にふさわしくない」

ラインハルトの声に躊躇いはなかった。背後には数人の貴族が控えている。公開の場で、見せしめのように。

「俺にはもっとふさわしい女性がいる。お前はもう必要ない」

庭園の花が、かすかに震えた。風のせいだと、誰もが思った。

エレオノーラは息を吸った。吐いた。それだけの時間で、心を整えた。
 ——やっぱり。
 ずっと感じていたことだった。殿下の目が自分を見ていないこと。社交界で華やかな侯爵令嬢と笑い合う殿下の横顔を、何度も見ていた。
 最初は自分が至らないのだと思った。もっと華やかにすれば、もっと巧みに話せば。けれど社交界の花形になることは、エレオノーラにはできなかった。できないまま三年が過ぎ——こうなることは、どこかでわかっていた。

「……そうですか。殿下がそうお決めになったのなら」

声は震えなかった。涙も出なかった。ただ——胸の奥で、何かがしん、と冷えた。
 三年間。真面目に務めようとした三年間。殿下の好みの茶菓子を覚え、外交の書物を読み、王妃教育を一日も欠かさなかった三年間が、「地味で退屈」の一言で消えた。

(やっぱり、私は……何も持っていなかったんだ)

「今日中に王城から出ていけ。荷物はまとめさせる」

エレオノーラは深く一礼した。顔を上げたとき、若草色の瞳は穏やかだった。

「お世話になりました、殿下。どうかお元気で」

背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。
 エレオノーラの後ろで、足元の花が——一輪、(しお)れた。
 また一輪。また一輪。
 彼女が歩くたびに、花が色を失っていく。
 見送る貴族の一人が眉をひそめた。「あの花……枯れて——」
 しかし誰も足を止めなかった。婚約破棄の衝撃のほうが大きかったからだ。

エレオノーラが王城の門をくぐった瞬間——精霊庭園の花が、一斉に(こうべ)を垂れた。
 永遠の泉の水面が、かすかに揺れた。


翌朝。
 エレオノーラはわずかな荷物を馬車に積み、王都を出た。

着替えが数着と、好きだった植物図鑑が一冊。それだけだった。三年間、王子の婚約者として過ごした王城での暮らしは、荷物にすると驚くほど少なかった。

馬車の窓から、流れていく王都の風景を見つめた。見慣れた石畳、並木道、噴水広場。
 エレオノーラが通り過ぎた後、街路樹の葉がひらりと落ちた。まだ夏なのに。
 彼女は気づかない。前だけを見ていたから。

(お父様には申し訳ないけれど……公爵家に戻って、ご迷惑をかけるわけにはいきません)

父からの手紙は馬車の中で読んだ。「すぐに戻れ」と書いてあった。しかしエレオノーラは小さく首を振った。

(どこか遠くで、静かに暮らそう。私がいなくなれば、誰にも迷惑はかからない)

——そう思っていた。自分がいなくなっても、何も変わらないと。
 馬車が王都の門を抜けた。街の喧騒が遠ざかり、畑が広がる街道に出る。
 窓の外を眺めながら、エレオノーラはぼんやりと考えた。三年間、王城で何をしていただろう。花の世話をして、殿下のお茶の用意をして、誰にも注目されない日々を過ごして——。
 結局、自分がいてもいなくても同じだったのだ。
 植物図鑑を膝に乗せた。表紙をそっと撫でる。母が買ってくれた一冊だった。

(お花さえあれば、どこでも生きていけます)

その独白に、聞こえないはずの声が重なった。——大丈夫よ、エレオノーラ。
 風が馬車の窓を揺らした。それだけのことだと、エレオノーラは思った。


エレオノーラが知らない場所で、世界が狂い始めていた。

追放の翌朝。精霊庭園を見回った庭師長が、声を失った。

「花が……花が、全部……」

数百種の花が一夜にして萎れていた。色を失い、茎が折れ、花弁が地面に散っている。昨日まで咲き誇っていた薔薇も向日葵も竜胆も山茶花も——全てが、まるで魂を抜かれたように。
 庭師たちは水をやり、肥料を足し、陽当たりを確認した。何をしても花は蘇らなかった。

永遠の泉の水位が目に見えて下がっていた。百年涸れなかった泉が。

ラインハルトに報告が上がった。

「庭の花が枯れた? 庭師に何とかさせろ。俺に報告するようなことか」

王子は取り合わなかった。新しい令嬢との舞踏会の準備で忙しかったのだ。
 侯爵令嬢の華やかな笑い声が、枯れた庭園の横を通り過ぎていった。花のない庭園を、彼女は見もしなかった。

二日後。庭園の泉が完全に涸れた。百年以上、一度も涸れなかった「永遠の泉」が。石造りの泉盤(せんばん)の底に、ひび割れた泥だけが残っていた。
 庭師長が城の廊下を走り回った。大臣に訴え、学者を呼び、あらゆる手を打った。誰にも原因がわからなかった。

三日後。空に雲がかかり始めた。王都はここ数年、驚くほど天候に恵まれていた。雨が降っても穏やかな小雨で、嵐など一度もなかった。
 その記録が途切れた。

一週間後。暴風雨が王都を叩いた。城壁の一部が崩れ、街路の木が何本も倒れた。井戸の水位が下がり、郊外の農地で作物が枯れ始めた。
 王都に噂が広がった。——呪いだ、と。

「呪いだ! 誰かがこの城に呪いをかけたに違いない!」

ラインハルトは魔法使いを呼んだ。宮廷魔法師が調査に入り——首を振った。

「殿下……これは呪いではありません」

「ならば何だ!」

「何かが『失われた』のです。この城を、この土地を支えていた何かが。……しかし、それが何であるかは、わかりません」

ラインハルトの隣で、老臣がぽつりと呟いた。

「あの庭園が美しくなったのは……エレオノーラ様が王城にお見えになるようになってから、ではありませんでしたかな」

沈黙が落ちた。
 ラインハルトの唇が震えた。

「……まさか。あの地味な女に——」

否定したかった。しかしできなかった。時系列が、残酷なまでに一致していた。
 エレオノーラが王城に来る前——庭園は普通の庭だった。花は咲いていたが、「永遠に咲く」奇跡はなかった。泉も涸れることがあった。嵐も来た。
 全てが変わったのは、十五歳のエレオノーラが王城に通い始めてからだった。
 そして全てが壊れたのは、彼女が去った日からだった。

「……偶然だ。偶然に決まっている」

しかしラインハルトの声は、自分自身を説得できていなかった。

宰相が口を開いた。

「殿下。もしエレオノーラ様の存在がこの城を支えていたのだとしたら——殿下はこの国を支えていた柱を、ご自身の手で折ったことになります」

「黙れ」

「黙れと仰られましても、花は咲きません。泉も涸れたままでございます」


そのころ、エレオノーラは何日もかけてたどり着いた辺境の地に立っていた。

目の前に広がるのは、灰色の大地だった。草一本生えていない。風が砂埃を巻き上げ、空は白く霞んでいる。「灰の大地」——かつては緑豊かだったという言い伝えだけが残る、アルヴァイン王国北東の果て。

遠くに、小さな村が見える。家の数は二十にも満たないだろう。

(あそこで暮らそう。誰にも迷惑をかけない場所で、静かに)

旅の間、不思議なことがあった。
 街道沿いの宿に泊まると、宿の庭先に花が咲いた。野営した森の木陰で眠ると、翌朝、周囲に見たことのない花が群れ咲いていた。
 エレオノーラは首をかしげた。——きっと、季節がよかったのだろう。

一歩、踏み出した。

足元で——小さな花が、咲いた。

「……え?」

立ち止まった。灰色の土の中から、白い花がひょっこりと顔を出している。

もう一歩。
 今度は青い花が咲いた。

振り返った。
 足跡に沿って、花の道ができていた。白と青と黄色の花が、灰色の大地に色を落としている。

「嘘……どうして……」

花だけではなかった。足元の地面から、草が芽吹いていた。(つる)が伸び、蕾が膨らみ、次々と花が開いていく。
 エレオノーラを中心に、灰色の大地が緑に染まっていく。同心円状に、命が広がっていく。

風が吹いた。——しかし不思議な風だった。砂塵を巻き上げるのではなく、花びらを舞い上げる、温かく柔らかな風。

光の粒が集まった。花びらの中から、風の中から、光が凝縮して——小さな少女の姿になった。

透き通った緑色の髪。エメラルドグリーンの瞳に小さな光の粒が浮かんでいる。背中に薄い光の(はね)。足元に小さな花が咲く。半透明に光る、幼い少女。

「やっと——やっと、あなたに話しかけられる」

少女の声は、見た目の幼さに不似合いなほど穏やかで、深かった。

「ずっと、ずっと待っていたの。エレオノーラ」

「あなたは……誰、ですか」

エレオノーラの声が震えた。恐怖ではない。少女から溢れるのは、圧倒的な温かさだった。

「わたしはシルフィード。あなたが生まれた日に、あなたの魂に惹かれて——十八年間、あなたの中にいたの」

シルフィードはエレオノーラの前に降り立った。足元に花が輪になって咲く。

「あなたに伝えたいことがあるの。ずっと——十八年間、伝えたくて伝えられなかったこと」

エレオノーラは膝を折り、少女と目線を合わせた。

「王城のあの庭園——花が咲いていたのは、庭師のおかげじゃないわ。あなたがいたから、咲いていたの」

「……え?」

「泉が涸れなかったのも。空が穏やかだったのも。嵐が来なかったのも。全て——あなたの存在が、もたらしていたの」

エレオノーラの目が大きく見開かれた。

「あなたのお父様の領地が『花の公爵家』と呼ばれたのは、あなたが幼い頃にあの土地にいたから。あなたが王城に通うようになって、庭園が奇跡のように美しくなったのも——全部、あなたの力なの」

「そんな……私は、何も……」

「あなたが『何もない』ですって?」

シルフィードの声が、わずかに震えた。エメラルドグリーンの瞳に、光の粒が揺れている。

「十八年間、あなたの中から世界を見てきたの。あなたが花に話しかけるたび、わたしは嬉しくて——花を咲かせた。あなたが泣くたび、わたしも泣いた。あなたが『自分には何もない』と俯くたび、わたしは叫びたかった。嘘よ、嘘よって」

シルフィードの頬を、光の涙が伝った。

「エレオノーラ。あなたは世界で最も美しいものを持っているのよ。あなたを『退屈』と呼んだあの王子は、目の前にある宝物に気づけなかっただけ。見る目がなかったのは、あの人間のほうよ」

エレオノーラの目から涙が溢れた。
 同時に——周囲の花が一斉に咲き誇った。大地が鳴動し、灰色の荒野がどんどん緑に変わっていく。水が湧き出した。細い流れが集まって小川になり、草の間を縫って流れていく。鳥が飛んできた。蝶が舞った。風が歌った。

「……あなたが、ずっと一緒にいてくれたのですね」

「ええ。ずっと、ずっと。これからも——あなたが望む限り」

シルフィードが泣き笑いの顔でエレオノーラの手を取った。小さな手は温かかった。

エレオノーラは手のひらを見つめた。そっと指を伸ばすと——指先から淡い光の粒が(こぼ)れ、空中で花びらに変わった。

「この力は……私のものなのですね」

十八年間、ずっと一人だと思っていた。花だけが友達で、誰にも必要とされない、地味で退屈な令嬢だと。
 でも違った。ずっと、そばにいてくれた存在があった。そしてこの手には——自分でも知らなかった、世界を花で満たす力があった。

涙を拭った。微笑んだ。——追放されてから初めての、心からの笑顔だった。


辺境の村に、エレオノーラが来てから数週間が過ぎた。

村は見違えるように変わっていた。

枯れていた畑に作物が芽吹き、実をつけ始めた。地面から水が湧き、井戸の水位が回復し、村の中心に小さな泉ができた。家々の周りに花が咲き、蝶や鳥が飛び交っている。
 灰色だった大地が、見渡す限りの花畑に変わった。

村長のヨハン・グラオヴァルトは、毎朝庭に出ては目をこすった。

「……すげえな。何度見ても、すげえ」

エレオノーラがこの村に足を踏み入れた日のことを、ヨハンは一生忘れないだろう。枯れた大地に花が咲き乱れ、水が湧き出し、灰色の世界に色が戻ったあの瞬間。あの日、ヨハンは泣いた。村人たちも泣いた。

今、エレオノーラは村の子供たちに花の冠を作ってやっていた。

「エレオノーラ様、見て見て! お花がまた増えた!」

「本当ですね。向日葵も咲き始めましたよ。もうすぐ種が取れますから、来年はもっとたくさん咲きますよ」

ヨハンが近づいて、日焼けした顔に深い皺を刻んで笑った。

「エレオノーラ様。あんたがこの村にいてくれるだけで、俺たちは幸せなんだ。……こんな言い方しかできなくて、すまねえが」

「いいえ。……ありがとうございます、ヨハンさん。私も——ここにいられて、幸せです」

——その言葉に、嘘はなかった。王城にいた三年間より、この数週間のほうが、よほど息ができた。
 ここには、自分を「地味で退屈」と呼ぶ者はいない。花の冠を喜ぶ子供たちがいて、水汲みの帰りに笑い合う女たちがいて、畑仕事の合間に空を見上げる男たちがいる。
 身分ではなく、存在そのものに「ありがとう」と言ってくれる人たちがいる。
 エレオノーラが庭先に座ると、シルフィードが見えない椅子に腰掛けるように隣に浮かんだ。

「ねえ、エレオノーラ。あなた、最近よく笑うわね」

「……そうですか?」

「王城にいたときは、花に話しかけるときしか笑わなかった。今は人間相手に笑えている」

エレオノーラは少し驚いて、それから静かに頷いた。

「……そうかもしれません。初めてかもしれません、こんなに安心して笑えるの」


ある日、村の入口に馬が一頭、砂埃を上げて駆け込んできた。

王城の紋章を掲げた使者だった。

「エレオノーラ・フォン・ブリューメンタール嬢に、ラインハルト殿下よりの書状をお届けにまいりました」

村人たちがざわめいた。ヨハンが真っ先に使者の前に立ちふさがった。

「王城の使者か。エレオノーラ様に何の用だ」

「殿下のご命令です。エレオノーラ嬢に王城への帰還を——」

「帰還だと? 追い出しておいて、今さら帰れだと?」

ヨハンの目に静かな怒りが灯った。村人たちが使者を取り囲む。(くわ)を持った農夫、斧を抱えた木こり。誰も武器のつもりはないが、使者は顔を青くした。

「エレオノーラ様はこの村の恩人だ。あんたらに渡すもんか」

そのとき、背後から穏やかな声が響いた。

「ヨハンさん。大丈夫です」

エレオノーラが静かに前に出た。使者から書状を受け取り、封を切って読む。

——『エレオノーラ、戻れ。王城の庭園が枯れた。泉が涸れた。お前の力が必要だ。これは命令だ』

ラインハルトの、あの断定的な筆跡。「命令」という言葉。
 エレオノーラは——微笑んだ。悲しい笑みではなかった。

「殿下は、私を『地味で退屈な女』と仰いましたね」

使者が口を開きかけたが、エレオノーラの声は静かに続いた。

「私もそう思っていました。自分には何もない、と」

書状を丁寧に折りたたんだ。

「でも——この力は、私のものでした。殿下が見ようとしなかっただけです」

エレオノーラの若草色の瞳は、もう俯いていなかった。あの庭園で花に話しかけていた少女はもういない。自分の足で立ち、自分の言葉で語る女性がそこにいた。

「殿下にお伝えください。——私はもう、あの場所には戻りません」

風が吹いた。温かく、柔らかい風。花びらが舞い上がる。光の粒が集まり——シルフィードが姿を現した。
 使者には幼い少女の姿は見えない。しかし——異常な風と、溢れる光を感じた。

「な、何だ……この風は……!」

シルフィードの声が、冷たく静かに響いた。使者には聞こえない。しかし風が伝えた——骨の髄まで凍るような、大精霊の怒り。

「帰りなさい」

暴風が吹き荒れた。使者の馬がいななき、後ずさる。

「彼女を傷つけた場所に、わたしは彼女を戻さない。あの城が枯れたのは呪いではないわ——彼女を失った、当然の報いよ」

使者は蒼白になって馬に飛び乗り、砂埃を上げて逃げ帰っていった。


使者が去った後、花畑に静寂が戻った。

「よかったの?」

シルフィードが隣に浮かんで、エレオノーラの顔を覗き込んだ。

「ええ。……もう、迷いません」

エレオノーラは空を見上げた。辺境の空は、どこまでも青かった。王城の空はもう曇っているのだろう。泉は涸れ、花は枯れ、嵐が吹き荒れているのだろう。
 胸は痛まなかった。

ヨハンが駆け寄ってきた。大きな手で新しい苗木を抱えている。

「エレオノーラ様! 南の集落から果樹の苗が届きましたぜ。果樹園を作りませんか?」

「はい。この村を——もっと、素敵な場所にしましょう」

子供たちがエレオノーラの周りを走り回った。花が笑うように揺れた。去っていた村人が噂を聞いて戻ってき始めている。新しい家が建ち始めている。

シルフィードが小さく笑った。

「ねえ、エレオノーラ。あなた、今——とても綺麗よ」

エレオノーラは笑った。
 花が咲くように。風が歌うように。心から——笑った。

王城の花は枯れたまま。泉は涸れたまま。空は曇ったまま。
 しかしこの辺境の荒野は——大精霊と少女が選んだ新天地は——永遠に花が咲き続ける。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今作は「自分には何もない」と思い込んでいた少女が、自分の価値に気づく話です。エレオノーラは王城の庭園を咲かせ、泉を満たし、嵐を鎮めていた——でも彼女自身はそのことを知らなかった。これって、職場や家庭で「当たり前のように」誰かを支えている人に通じるものがあると思います。その人がいなくなって初めて「あの人がやっていたのか」と気づく。気づいたときにはもう遅い。

書いていて一番心に残ったのは、シルフィードの告白シーンです。十八年間、声を届けられないまま隣にいた精霊が、ようやく言葉を伝えられた瞬間。「あなたが花に話しかけるたび、わたしは嬉しくて——花を咲かせた。あなたが泣くたび、わたしも泣いた」——この台詞を書きながら、自分でもちょっと目頭が熱くなりました。見ていてくれた存在がいたこと、それを知ることの救い。

宰相の「殿下はこの国を支えていた柱を、ご自身の手で折ったことになります」「黙れと仰られましても、花は咲きません」という容赦ない一言が、今作の因果応報をいちばんよく表していると思います。エレオノーラが「私はもう、あの場所には戻りません」と静かに拒絶する姿は、もう俯かない女性になった証でした。

◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。

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