婚約破棄された回数は五回。もう一度増えても、きっと慣れる——そう思っていた。
リンデン伯爵邸の自室で、私はそっと窓の外を眺めていた。
春の庭園は華やかな花々に彩られているが、私の心は晩秋の枯れ野のように冷えている。
「ベアトリーチェ」
父の声に振り返ると、リンデン伯爵の顔には複雑な表情が浮かんでいた。
喜びと不安、そして申し訳なさが入り混じったような。
「六度目の縁談が来た」
六度目。
その言葉を聞いて、私の胸に浮かんだのは期待ではなかった。諦めだった。
「お相手は……シュヴァルツェン公爵のご子息、エドヴァルト様だそうだ」
公爵家。
シュテルン王国に三つしかない、王家に次ぐ最高位の名門。
本来なら伯爵家の娘が縁組できる相手ではない。
けれど私は知っている。これは厚遇ではない。憐れみだ。
五度も婚約破棄された「呪われた令嬢」を引き取ってくれる貴族など、もはや存在しない。
父がどれほど奔走して、この縁談を得たのか——想像するだけで胸が痛んだ。
妹のエリーゼの縁談にまで影響が出始めている。「呪われた令嬢の妹」という烙印は、十五歳の少女には重すぎる荷だ。
これ以上、家族に迷惑はかけられない。
「ご迷惑でなければ、お受けいたします」
私は淡々と答えた。
父の顔がほんの少し、強張った。私の声に感情が欠けていることに、彼は気づいているのだろう。
「ベアトリーチェ……」
「大丈夫です、お父様。今度も、きっと……」
大丈夫ではないことくらい、分かっている。けれど、どうすればいいのか分からない。
六度目の婚約は、また壊されるのだろう。それが私の星回りなのだから。
翌日、エドヴァルト・フォン・シュヴァルツェンが挨拶のために訪れた。
応接間で私は彼を待った。
淡い亜麻色の髪を控えめに一つにまとめ、質素だが仕立ての良いドレスを身につけた私は、できるだけ目立たないように——これ以上失望させないようにと、そう思っていた。
扉が開き、彼が入ってきた。
濃い栗色の短髪。深い青色の瞳。
長身で引き締まった体格は文武両道を思わせる。
端正な顔立ちだが、威圧感はない。むしろ穏やかな印象を与える青年だった。
「初めまして、ベアトリーチェ・フォン・リンデン様。エドヴァルトと申します」
丁寧な挨拶。
ああ、この人も社交辞令で始めるのだろう。そして数週間後、何かの噂を耳にして——
「五度の婚約破棄について、お聞きしてもよろしいですか?」
思考が止まった。
今まで、婚約者となる男性たちは二種類に分かれていた。
「過去は気にしない」と表向きは言う者と、最初から偏見を持っている者。
でも、こんなふうに真っ直ぐ尋ねてくる人は——誰もいなかった。
「……何を、お知りになりたいのですか」
「全てです」
エドヴァルトは静かに言った。
その青い瞳に浮かぶのは、好奇心でも蔑みでもなく、ただ真実を知りたいという意志だった。
「私はあなたを調べさせていただきます。五度の婚約破棄、その全てについて。不快に思われるかもしれませんが、真実を知りたいのです」
「……お好きになさってください」
私は淡々と答えた。
何を調べても構わない。何も出てこないから。
いや、何かが出てきても——もう慣れているから。
「何も出てきませんが、何かが出てきても、もう慣れていますから」
自嘲的な笑みを浮かべた私に、エドヴァルトはじっと視線を向けた。
「……本当に、あなた自身に問題があると、そう思っておられるのですか?」
「五度も婚約破棄されれば、そう考えるのが自然でしょう」
「違う」
彼は静かに、けれど断定的に言った。
「五度も婚約破棄が続くのは、自然ではありません。むしろ不自然だ。だから私は調べる。必ず真実を見つけます」
その言葉に、私の胸が——ほんの少しだけ、震えた。
そして、凍りついていたはずの心のどこかで、小さな火が灯った。
不自然。
そうだ、不自然なのだ。五度も続くのは。
——なぜ、私は今まで「自分が悪い」としか考えられなかったのだろう。
ほんの一瞬だけ、この人の調査の行方を知りたいと思った。もう期待しないと決めていたのに。
エドヴァルトの調査は、驚くほど迅速だった。
公爵家の情報網を使い、彼は過去五人の元婚約者たちに接触した。
そして私も、彼に求められて、五度の婚約破棄の記憶を語った。
一度目。十七歳の春。相手は侯爵子息フリードリヒ・フォン・ブレンナー。
彼は華やかで自信に満ちた青年だった。
私たちの婚約は、両家にとって理想的な縁組だとされていた。
婚約式の準備は順調に進んでいた。招待状は発送され、私のドレスも仕立て上がっていた。
けれど式の三日前、突然の噂が流れた。
「ベアトリーチェは使用人の男と密通している」
根も葉もない嘘だった。
私は誰とも密通などしていない。でも、噂はあっという間に広がった。
婚約式の会場で、大勢の貴族たちの前で、フリードリヒは私を糾弾した。
『お前のような不貞の女と、俺は婚約などできない! 今すぐ婚約を破棄する!』
彼の声は怒りに震えていた。
会場がどよめいた。視線が私に突き刺さった。
何が起きたのか分からなかった。ただ呆然と立ち尽くし、視線が刺さるのを感じながら、私は泣くことしかできなかった。
友人たちは離れていった。誰も私を信じてくれなかった。
十七歳の私には、何が起きているのか理解できなかった。
ただ、世界が崩れていくのを感じていた。
二度目。十八歳の夏。相手は騎士団副団長カール。
彼は真面目で実直な人だった。華やかさはないが、信頼できる男性だと思っていた。
カールとの婚約は、前回の失敗から立ち直った私にとって、新しい希望だった。
でも、また噂が流れた。
「ベアトリーチェは前の婚約者にまだ未練がある。不実な女だ」
カールは激昂することもなく、冷静に書面を送ってきた。
『騎士の妻にふさわしくない。婚約を解消する』
感情のない、事務的な言葉だった。
それが逆に、私の心を深く傷つけた。
その頃から、私は自分を責めるようになった。
私が悪いのかもしれない。何か、私に問題があるのかもしれない。
夜、一人で泣いた。誰にも相談できなかった。
三度目。十九歳の秋。相手は魔法学院の教授ヴィルヘルム。
彼は学識豊かで、穏やかな人だった。
彼との婚約のために、私は必死に勉強した。
歴史も地理も数学も、彼の専門分野を学び、少しでも役に立てるようにと。
夜遅くまで書物を読み、試験も受けた。学院長からも優秀だと認められた。
けれど流れた噂は「魔力を偽装している、学歴詐称だ」。
学院長立ち会いのもと、ヴィルヘルムは婚約を破棄した。
「学院の体面がある」と。
必死に積み重ねた努力が、全て否定された。
その日から、私は自信を完全に失った。
何をしても無駄なのだと、そう思うようになった。
四度目。二十歳の冬。相手は辺境伯次男ルートヴィヒ。
彼は穏やかで、野心のない人だった。
本来なら伯爵令嬢の私が辺境伯次男と婚約するのは格下婚だが、もう選べる立場ではなかった。
噂は「リンデン伯爵家は没落寸前、持参金目当てで近づいている」。
ルートヴィヒの家族が反対し、彼は渋々婚約を破棄した。
彼は謝罪の手紙を送ってきた。「申し訳ない」と。
でも、もう泣かなかった。ただ黙って受け入れた。
感情が麻痺していくのを感じていた。
五度目。二十一歳の春。相手は男爵家当主オスヴァルト。
最も格下の相手だった。それでも私には相応しいのだと、そう思っていた。
噂は「呪われている、関わると不幸になる」。
迷信深いオスヴァルトは恐れおののき、婚約を破棄した。
彼は私の顔を見ることもできなかった。まるで私が魔物であるかのように。
何も感じなくなった。諦めだけが残った。
——そして今、六度目。
「エドヴァルト様の番です」と私は彼に言った。
「次はどんな噂が流れるのでしょうね」
けれど彼は首を横に振った。
「次の噂は流れない。なぜなら——」
彼は私の目を真っ直ぐ見つめた。
「全ての噂の出所を、突き止めたからです」
一ヶ月後、エドヴァルトの書斎で、私は調査結果を聞いた。
机の上には、五枚の紙が並べられていた。
それぞれに、噂の伝播経路が図解されていた。
「五度の婚約破棄、全てに共通点がありました」
エドヴァルトは静かに語り始めた。
「第一回の密通の噂。最初に広めたのは、リンデン伯爵邸の元使用人でした。彼は買収されていた」
私の手が震えた。
「彼の証言を得るまでに一週間かかりました。最初は口を割りませんでしたが、公爵家の名で問いただすと、全てを話しました。金銭を受け取り、偽の噂を流すよう指示されたと」
「第二回の未練の噂。出所は社交界の下級貴族夫人。彼女もまた、金銭を受け取っていた」
「第三回、第四回、第五回——全て同じです。誰かが金を払い、噂を流させていた」
エドヴァルトは五つの図を指差した。
それぞれの噂が、異なる人物から発信されている。
でも、全ての線が——一つの名前に収束していた。
「そして——全ての買収者に繋がる人物が、一人だけいました」
彼が告げた名前に、私の思考が真っ白になった。
「マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク。あなたの幼馴染です」
嘘だ。
マルガレーテは、私の友人だった。
五度の婚約破棄のたびに、誰よりも先に慰めに来てくれた。
『ベアトリーチェ、辛かったでしょう。大丈夫、次はきっと上手くいくわ』
優しい声。優雅な笑顔。
慰めの言葉をかけながら、彼女は私の手を握ってくれた。
その温かさが、どれほど私を支えてくれたか。
「証拠は揃っています」
エドヴァルトは、買収された使用人たちの証言書を示した。
全てに、マルガレーテの名があった。
「彼女は十五歳の頃から、あなたに嫉妬していたそうです。何でも器用にこなすあなたが、許せなかった。そして十七歳、あなたの最初の婚約を知ったとき——彼女は行動に出た」
違う。違う。
マルガレーテは私の友達だった。幼い頃から一緒に遊んだ、大切な——
「五度全てが、彼女の策略でした」
エドヴァルトの言葉が、胸に突き刺さった。
「あなたは何一つ悪くなかった。全ては一人の人間の悪意によるものです」
私は——泣いていた。
五度の婚約破棄で、私は泣かなくなったはずだった。感情を失ったはずだった。
でも今、涙が止まらなかった。
怒りではない。悲しみだ。
友だと思っていた人が、ずっと私を傷つけていた。
五度の破棄のたびに慰めてくれた優しさが、全て嘘だった——
その事実が、胸を引き裂いた。
けれど、涙の中で——ほんの小さな光が見えた。
五年間、自分を責め続けてきた。
何が悪かったのか。どうすれば良かったのか。
夜ごと自分に問い続け、答えが見つからないまま、自分を削り続けてきた。
でも——違ったのだ。
私は、何も悪くなかった。
エドヴァルトに言われたからではない。証拠を見せられたからでもない。
五年間ずっと、心のどこかで感じていた。「おかしい」と。「こんなに続くのは不自然だ」と。
でもその声を、自分で押し殺していた。誰も信じてくれないから。自分で自分を信じることすら、怖かったから。
今、私は自分の声を聞く。
——私は悪くなかった。
この言葉を、初めて自分自身に許すことができた。
「ベアトリーチェ様」
エドヴァルトが静かに手を差し出した。
「私が必ず、全てを明らかにします。あなたの名誉を回復させます。そして——」
彼の青い瞳が、真っ直ぐ私を見つめた。
「六度目の婚約は、必ず守ります」
その言葉が——ほんの少しだけ、私の心を温めた。
春の大舞踏会。
シュテルン王国の主要貴族が一堂に会する、社交シーズン最大の催しだった。
調査結果を得てから二週間後、エドヴァルトは舞踏会を断罪の場に選んだ。五人の元婚約者全員がこの舞踏会に出席することを、彼は事前に確認していた。
私はエドヴァルトの婚約者として、初めて公の場に姿を現した。
淡い水色のドレスを身につけた私に、貴族たちの視線が集まる。
「呪われた令嬢だ」
「六度目の婚約者とは、公爵家も物好きだな」
囁き声が聞こえる。いつものことだった。
でも今日は——エドヴァルトが隣にいる。
「大丈夫ですか?」
彼の問いかけに、私は小さく頷いた。
会場の一角に、見慣れた姿があった。
マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク。
艶やかな黒髪を完璧に整え、華やかなドレスを身につけた彼女は、社交界の華だった。
彼女はこちらに気づき、優雅な笑顔を浮かべて近づいてきた。
「あら、ベアトリーチェ。六度目の御縁談ですって? 今度こそ上手くいくといいわね」
その声は、いつもと同じだった。
優しくて、温かくて——嘘に満ちていた。
「マルガレーテ様」
エドヴァルトが彼女に声をかけた。
「これから少々、皆様にお話があります。あなたも、ぜひお聞きください」
「まあ、何かしら?」
マルガレーテは首を傾げた。その表情には、まだ余裕があった。
エドヴァルトが壇上に上がった。
会場がざわめく。公爵子息が何を話すのか——皆が注目した。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。本日は、ベアトリーチェ・フォン・リンデン様の名誉に関わる重大な事実を、ご報告させていただきます」
会場が静まり返った。
「ベアトリーチェ様は五度の婚約破棄を経験され、『呪われた令嬢』と呼ばれてきました。しかし——その全てが、一人の人間による計画的な策略でした」
どよめきが広がった。
「第一回。密通の噂。出所は買収された使用人でした」
エドヴァルトは証人を呼んだ。
老いた使用人が震える声で証言する。
『お金をいただいて、嘘の噂を流しました。指示をくださったのは——マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク様です』
会場が騒然となった。
マルガレーテの顔色が、ほんの少し変わった。
「第二回。未練の噂。これも買収された下級貴族の夫人によって広められました」
次の証人が呼ばれる。
年老いた貴族夫人が、震える声で語った。
『金銭的に困窮していたとき、マルガレーテ様が助けてくださいました。その代わりに、噂を流すようにと……』
「第三回。詐称の噂。第四回。金目当ての噂。第五回。呪いの噂——全てです」
次々と証人が呼ばれた。下級貴族、使用人、商人。
彼らは皆、同じことを証言した。
『マルガレーテ様に頼まれました』
『金銭を受け取りました』
『嘘だと知っていましたが、断れませんでした』
エドヴァルトは噂の伝播経路を示した図を掲げた。
全ての線が、一点に収束している。
その中心に——マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルクの名前。
「マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク。あなたが五度の婚約破棄を仕組んだ張本人です」
会場の視線が、一斉にマルガレーテに向いた。
彼女は——まだ笑っていた。
「何のことか分かりませんわ。わたくしがベアトリーチェに、そんなことをする理由がありますか? わたくしたちは幼馴染で、親友なのですよ?」
その声は優雅だった。完璧な演技だった。
「理由ならあります」
エドヴァルトは静かに言った。
「嫉妬です。何でも器用にこなすベアトリーチェ様が、あなたには許せなかった。十五歳の社交界デビューで、彼女が好評を博したとき——あなたの中で何かが壊れた」
「それは——」
「五度の破棄のたび、あなたは真っ先に慰めに行った。友人を演じることで、罪悪感を打ち消し、優越感に浸っていた。違いますか?」
マルガレーテの顔が、みるみる青ざめていく。
「証拠は全て揃っています。買収の記録、証人の証言、噂の伝播経路——全てがあなたを指している」
「嘘よ!」
マルガレーテの声が、初めて乱れた。
「わたくしは何もしていない! 証拠だなんて、でっち上げに決まっているわ! ベアトリーチェが——あの女がっ!」
会場がどよめいた。
「あの女さえいなければ、わたくしが一番だったのに! 何でもできて、みんなに好かれて——あたしより目立って——!」
一人称が崩れた。
「わたくし」が「あたし」に変わった瞬間、マルガレーテの仮面が剥がれ落ちた。
「五回も! 五回も邪魔してやったのに! なんでまだ、あんたは——!」
錯乱した彼女の叫びが、全てを証明した。
会場は静まり返った。誰もが、真実を理解した。
そして——私の視界の隅に、見覚えのある姿があった。
フリードリヒ・フォン・ブレンナー。
私の最初の婚約者だった男性。
彼は顔を覆っていた。その肩が、小刻みに震えていた。
「俺は……噂一つで……」
彼の声が聞こえた。
「あんな素晴らしい女性を……確認もせず……手放した……」
カールの姿もあった。かつての騎士団副団長。
彼は拳を強く握りしめていた。壁に寄りかかり、誰とも目を合わせようとしない。
「書面一つで切り捨てた……あの子は騎士の妻にふさわしくないと。だが本当にふさわしくなかったのは、真実を確かめもしなかった俺のほうだ」
ヴィルヘルムは蒼白な顔で、何度も眼鏡を押し上げていた。
「彼女は私の講義を誰よりも熱心に聞いていた。試験の答案は学院でも五指に入る出来だった。……それを『詐称』の一言で切り捨てた。学院の体面? 体面を汚したのは私のほうだ」
ルートヴィヒは俯いたまま、小さく呟いた。
「家族の反対に、一度も抗えなかった。謝罪の手紙すら、二度と送れなかった」
オスヴァルトは震えていた。呪いだの迷信だのと怯えた自分が、今度こそ本当に呪われたように。
彼らは皆、打ちのめされた表情をしていた。
真相を知ったとき——もう手遅れだった。
私の心は、もう彼らには向いていない。
隣にいるエドヴァルトに、全てを委ねていた。
舞踏会の後、マルガレーテは社交界から追放された。
ヴァイスブルク侯爵家は多額の賠償金を支払い、公式に謝罪した。
リンデン伯爵家の名誉は回復し、「呪われた令嬢」という異名は消えた。
エリーゼの縁談にも、ようやく光が差し始めたと父が言っていた。姉の呪いが解けたのだと——妹は泣いて喜んだそうだ。
数日後、元婚約者たちが、謝罪に訪れた。
最初に来たのはフリードリヒだった。
「ベアトリーチェ様……あの頃の俺は、愚かでした」
彼は深く頭を下げた。
かつて私を糾弾した男は、今は後悔に満ちた瞳をしていた。
「噂一つで、確認もせず、あなたを傷つけた。あなたの誠実さ、優しさ、全てを疑った。許してくれとは——言えません」
カールも来た。
「騎士として、真実を見極めるべきだった。書面一つで切り捨てた自分が、恥ずかしい」
ヴィルヘルムも謝罪した。
「あれほど優秀な生徒を、学院の体面のために切り捨てた。教育者として、人として、最低でした」
彼らの謝罪は、心からのものだった。
でも——
「もういいのです」
私は穏やかに答えた。
「あの経験がなければ、エドヴァルト様と出会えなかったのですから」
フリードリヒの目が見開かれた。
そして——彼は静かに微笑んだ。
諦めと、祝福の入り混じった笑みだった。
「……そうですか。それなら、良かった」
彼は去っていった。二度と振り返ることなく。
断罪から一週間後の夕暮れ。
庭園で、私はエドヴァルトと二人きりだった。
春の花々が咲き誇る中、彼は私の隣に立っていた。
「六度目の婚約は、破棄されずに済みそうですね」
彼の言葉に、私は——笑った。
心から笑ったのは、何年ぶりだろう。
五度の婚約破棄を経験してから、私は笑顔を忘れていた。でも今、頬が勝手に緩んで、止められなかった。
「ええ。……もう、壊されませんね」
丁寧語が少し崩れた。自分でも驚いた。でも、不思議と恥ずかしくなかった。
エドヴァルトが優しく微笑んだ。その笑顔が、とても温かくて——胸の奥から、何かが込み上げてきた。
「では、次は結婚式の準備ですね」
「……はい」
涙が一筋、頬を伝った。
五度の婚約破棄で流した涙とは、まるで違う。温かくて、軽くて、胸が痛くない涙だった。
ああ、これが安堵というものなのだ。
五度の傷を乗り越えて、私は初めて「幸せ」を信じることができた。
私は悪くなかった。
その言葉を、今なら心から——自分自身に言える。
六度目の婚約は、私の人生を変えた。
呪いではなく、祝福として。
そして——エドヴァルトの手が、そっと私の手を包んだ。
温かかった。
この温かさが、これからもずっと続くのだと——私は、もう怖がらずに信じることができた。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今作のテーマは「繰り返される加害と、それを見抜く人」です。ベアトリーチェは五度の婚約破棄を経験して、自分を責め続けました。「私に問題があるのだ」と。これは現実のいじめや嫌がらせの構造と同じです——被害者が自分を責め、加害者は友人のふりをして近くにいる。マルガレーテが毎回「辛かったでしょう。大丈夫、次はきっと上手くいくわ」と慰めに来る場面は、書いていて一番ぞっとしました。優しさの皮を被った悪意ほど、人を壊すものはありません。
この作品でいちばん大切にしたのは、ベアトリーチェが五度の破棄を経て「感情が麻痺していく」過程です。一度目は泣いた。二度目は自分を責めた。三度目は自信を失い、四度目は黙って受け入れ、五度目は何も感じなくなった。だからこそ、エドヴァルトの「五度も婚約破棄が続くのは、自然ではありません。むしろ不自然だ」という一言が効くんです。初めて「おかしいのはあなたじゃない」と言ってくれた人。
元婚約者たちの後悔も丁寧に書きたかった場面です。フリードリヒの「噂一つで……確認もせず……手放した……」という震える声。彼らは悪人ではなかった。ただ、真実を確かめる手間を惜しんだだけ。そしてベアトリーチェの「あの経験がなければ、エドヴァルト様と出会えなかったのですから」という言葉に、フリードリヒが「諦めと祝福の入り混じった笑み」を浮かべて去っていく——あの一瞬に、この物語の全てが詰まっていると思います。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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