S01-P24 婚約破棄を告げられましたが、私はあなたの婚約者ではございません——妹ですけれど?

第1話: 人違いの婚約破棄

第1アーク · 10,569文字 · revised

——婚約破棄を宣言する!

大広間に響き渡った声に、私は思わず目を瞬かせた。

春の大舞踏会。(きら)めくシャンデリアの下、数百人の貴族が居並ぶ中央広間。その真ん中で、金髪を後ろに撫でつけた長身の青年が、芝居がかった仕草で片手を掲げている。

彼の指先は、真っ直ぐ私を指していた。

「俺はアイゼンベルク侯爵令嬢との婚約を、今この場で破棄する!」

場がざわめく。数百の視線が私に集中する。

そして私は——心の底から困惑していた。

「……え? どちら様ですか?」

今度は場が凍った。

金髪の青年は口を開けたまま固まり、取り巻きらしき面々は互いに目配せをし、遠巻きに見ていた貴婦人たちは扇の陰でひそひそと囁き合っている。

いや、本当に。

どちら様なんですか、この方。

——話を三時間ほど巻き戻そう。

今日の舞踏会に出席する予定だったのは、私ではなかった。

「フリーデリケ、ごめんなさい。お腹の調子が……」

姉——アデライーデ・フォン・アイゼンベルク。アイゼンベルク侯爵家の長女にして、社交界では「翡翠(ひすい)の微笑み」と呼ばれる才色兼備のお姉様が、ベッドの上で申し訳なさそうに眉を下げていた。

「お姉様、無理はなさらないでください」

「でも、今日の舞踏会はツァーレンドルフ伯爵主催の春の大舞踏会よ。アイゼンベルク家から誰も出席しないわけにはいかないの」

それはそうだ。春の大舞踏会は社交シーズンの幕開けを告げる一大行事。主要貴族家が顔を揃える場に欠席するのは、「何か問題がある」と噂されかねない。

「お父様は領地の視察で不在ですし……」

「分かりました。私が代わりに行きます」

姉は翡翠色の瞳を輝かせた。「本当? ありがとう、フリーデリケ」

「代理出席は慣れていますから」

実際、これは初めてのことではない。姉が体調を崩したり、どうしても外せない用事があったりするときには、私が代わりに出席することがある。

姉と私は二つ違いの姉妹で、髪の色も瞳の色もよく似ている。姉は淡い蜂蜜色のロングヘア、私は少し色の濃いセミロング。瞳は同じ翡翠色だが、姉の方が柔らかく、私の方が——まあ、「鋭い」とよく言われる。

遠目には見分けがつかないこともあるが、近くで見れば別人だ。

少なくとも、まともな人間なら。

「あ、そうだ。フリーデリケ」

「はい?」

「クラウス様が出席されるかもしれないから、もし会ったらよろしくお伝えしてね」

クラウス・フォン・シュトゥルム。シュトゥルム侯爵家の嫡子にして、姉の婚約者。

……のはずなのだが、私は彼に会ったことがほとんどない。姉の話によると、婚約の挨拶の場で姉の名前を間違え、次に会ったときは顔を覚えておらず、三度目はそもそも来なかったという。

姉は「おっとりした人なのかしら」と言っていたが、私に言わせれば、それは「おっとり」ではなく「傲慢」だ。

「分かりました。もし会えたら」

お姉様のドレスを借り、髪型を少し姉に寄せ、主催者には代理出席の届けを出す。

準備は完璧。

あとは壁の花に徹して、適当な時間に帰るだけの簡単なお仕事——

——のはずだった。

舞踏会の会場は、予想通りの華やかさだった。

シャンデリアが七色の光を散らし、楽団の奏でる優雅な旋律が広間を満たし、色とりどりのドレスと礼装が花畑のように揺れている。

私は受付で姉の名前——の代理として自分の名を告げ、招待状を提示し、正式に入場した。主催者側にはきちんと代理である旨を伝えてある。

あとは壁際で大人しくしていよう。

そう思って、グラスを片手に柱の陰に立っていたのだが——

「やあ、アデライーデ」

声をかけられた。

振り返ると、金髪を後ろに撫でつけた長身の青年が立っていた。灰色の瞳、高そうな礼装、そして——どこか見覚えのある顔。

いや、見覚えがあるのは当然だ。シュトゥルム侯爵家の嫡子、クラウス・フォン・シュトゥルム。社交界の集まりで何度か遠くから見かけたことがある。

つまり、お姉様の婚約者。

そして彼は今、私を「アデライーデ」と呼んだ。

「あの——」

「今日は珍しく地味な格好だな。まあいい、少し話がある」

私の言葉を遮って、クラウスは一方的に話し始めた。

ちょっと待ってください。私はアデライーデではありません。妹のフリーデリケです。

——と言おうとしたのだが。

「お前との婚約について、俺はいろいろと考えたんだがな」

彼は私の顔をろくに見ていなかった。視線は会場のあちこちを泳ぎ、時折取り巻きの方を見やり、自分の爪先を眺め——要するに、目の前の人間に興味がないのだ。

……この人、本当にお姉様の婚約者?

いや、婚約者の顔を覚えていないという姉の証言は聞いていたが、実際に目の当たりにすると想像以上だ。

私とお姉様は確かに似ている。でも、髪の長さも色合いも微妙に違うし、何より——私は受付で「フリーデリケ・フォン・アイゼンベルク、アデライーデの代理」と名乗っている。

名札を一目見れば分かるはずなのに。

見ていないのだ。名札も、顔も、何もかも。

「——というわけで、近いうちに重大な発表をする。楽しみにしていろ」

「は、はあ」

気づけば、訂正するタイミングを完全に逃していた。クラウスは一方的に喋り、一方的に満足し、一方的に去っていった。

私は柱に寄りかかり、深い溜息をついた。

……あの人、今の会話の間、一度も私の目を見なかった。

婚約者の顔も名前も覚えていない男。

お姉様。この婚約、本当に大丈夫なのでしょうか。

いや、大丈夫ではないことは、もう明白だった。

事態が急速に悪化したのは、それから一時間ほど経ってからだった。

中庭のテラスで夜風に当たっていた私のもとに、再びクラウスが現れた。今度は取り巻き——五、六人の貴族子息を引き連れて。

「おい、アデライーデ。いいところに来た」

来たのはそちらなのですが。

それに、私はアデライーデではないのですが。

「みんな聞いてくれ!」

クラウスは取り巻きたちに向かって高らかに宣言した。

「俺には新しい恋人がいる! シェーンフェルト男爵令嬢のカタリーナだ!」

取り巻きたちが「おお」と声を上げる。テラスの片隅から、頬を赤らめた若い令嬢がはにかみながら歩み出てきた。

……なるほど。浮気、ですか。

いえ、浮気というか。

この人、婚約者がいるのに別の女性に乗り換えて、しかもそれを婚約者の目の前で発表しているわけですが——

待ってください。

私は婚約者ではありません。

「この女——アデライーデとの婚約は、はっきり言って退屈だった」

クラウスが私を親指で差しながら言う。取り巻きたちがわざとらしく頷く。

「家柄だけで決まった婚約だ。顔も性格も地味で、話していて面白くない」

内心でツッコミが止まらない。

まず、あなたは私の顔をまともに見たことがない。性格を知るほど会話したこともない。そして私はそもそもアデライーデではない。

つまり今あなたが語っている「退屈な婚約者」は、存在しない人物の感想だ。

「教養がないのも困る。侯爵家の令嬢にしては物足りない」

お姉様は王立学院を首席で卒業しているのですが。

「正直に言えば、美しいとも思えん」

……それ、お姉様の前で言えます?

お姉様は社交界で「翡翠の微笑み」と呼ばれる美貌の持ち主ですが?

いえ、私に言っているつもりなのでしょうが、私だって別に不細工ではないと思うのですけれど。まあ、それは置いておいて。

「そこでだ」

クラウスがカタリーナの手を取り、得意満面で続ける。

「俺はカタリーナと共に歩むことにした。アイゼンベルクとの婚約は——明日にでも正式に破棄する」

取り巻きたちが拍手する。カタリーナが嬉しそうに微笑む。

「クラウス様。わたくし、嬉しくてたまりません」

カタリーナがクラウスの腕にしがみつくように言った。頬を上気させた、いかにも純真そうな表情。

「でも……本当によろしいのですか? 侯爵家のお嬢様との婚約を破棄してまで……」

「当然だ! カタリーナ、お前には俺がついている!」

クラウスが胸を張る。カタリーナの目がきらきらと輝く。

私はグラスのワインを一口飲んだ。

……カタリーナさん、気の毒に。

あなたが信じているものは、全て砂上の楼閣ですよ。この男の言葉には、一つとして裏付けがない。

そして、私はここで重大な決断を下した。

もう訂正するのはやめよう。

最初のうちは「言うべきタイミングを逃した」だけだった。でも、ここまで来るともう——これは自業自得の見世物だ。

あなたが勝手に勘違いし、勝手に暴言を吐き、勝手に自爆していく。

私が何かをする必要はない。

ただ見届けるだけだ。

どこまで穴を掘り進めるのか。

「……面白い見世物ですわ」

「え?」

背後から声がして振り返ると、近衛騎士の礼装を纏った青年が立っていた。

ニクラウス・フォン・エーデルシュタイン。エーデルシュタイン伯爵家の三男にして、近衛騎士。社交の場で何度か言葉を交わしたことがある人だ。

「フリーデリケ嬢」

——私の名前を、正しく呼んだ。

「ニクラウス様。お久しぶりです」

「今日はお姉上の代理ですか?」

「ええ。姉が体調を崩しまして」

ニクラウスはテラスの奥で得意げに語り続けるクラウスをちらりと見て、困ったような顔をした。

「あの方、気づいていませんね」

「ええ。名札も見ていらっしゃらないようです」

「……訂正はなさらないので?」

「最初はそのつもりでした。でも、もう手遅れです」

ニクラウスは一瞬黙り、それから小さく笑った。

「なるほど。では、隣で観劇させていただいても?」

「どうぞ。良い席ですわ」

テラスでは、クラウスの演説がまだ続いていた。

「——アデライーデは、俺のような男には到底釣り合わない女だ。俺にはもっと華やかで、聡明で、美しい女がふさわしい!」

ニクラウスが小声で呟いた。「……釣り合わないのはどちらかと思いますが」

「私もそう思います」

二人で顔を見合わせて、こっそり笑った。

クラウスの暴走は、そこで止まらなかった。

テラスから広間に戻ると、彼は行く先々で私——いえ、「アデライーデ」の悪口を撒き散らし始めた。

「いやあ、あの女は本当に退屈でな」

……あなたが私に話しかけたのは、今日が二回目です。そのうち一回は一方的に話して去りました。退屈かどうかを判定できるほどの会話、しましたっけ?

「侯爵家の令嬢とは思えん程度の教養だ」

お姉様は王立学院を首席卒業、古語・算術・魔法理論の三冠持ちですが。ちなみに私も次席ですが。……まあ、ご存じないでしょうね。そもそもお名前すら覚えていらっしゃらないのですから。

「俺の隣に立つにはあまりに地味すぎる」

あなたの礼装の紋章、左右逆についていますよ。——とは教えてあげないでおこう。

ニクラウスが隣で小さく咳払いをした。笑いをこらえているのが分かる。

聞いている周囲の貴族たちの反応は、クラウスが期待しているものとは少し違っていた。

同情——ではない。困惑だ。

侯爵家の嫡子が、同じ侯爵家の令嬢をここまで公然と貶す。しかも婚約者を。社交界の常識から言えば、これは「破棄される側」ではなく「破棄する側」の品位が問われる行為だ。

年配の伯爵夫人が扇の陰で首を振り、若い騎士が気まずそうに目を逸らし、商人上がりの男爵ですら眉をひそめている。

そしてここで、事態はさらに悪い方向に転がった。

クラウスが意気揚々と話しかけた相手——品の良い初老の婦人——が、よりにもよってアイゼンベルク侯爵家の旧知だったのだ。

「ええ、アデライーデとの婚約は失敗だった。あの程度の令嬢では、俺の相手にはならん」

「あら……」

婦人——フォン・ヴァイス男爵夫人が、扇の陰で目を丸くした。

「シュトゥルム侯爵のご子息……でいらっしゃいますわよね? わたくし、アデライーデちゃんの命名式にも立ち会った者ですけれど」

クラウスの顔が一瞬引きつった。だが、すぐに虚勢を取り戻す。

「ま、まあ、親しい間柄だからこそ正直に言えるのだ。彼女のためを思えばこそ——」

「それは奇妙ですわね。だって先ほど、彼女の教養がないと仰いましたでしょう? アデライーデちゃんは、わたくしの孫と同じ学年で王立学院を首席で卒業していますのよ」

クラウスの口がパクパクと動いた。

……知らなかったんですね。婚約者の学歴すら。

ヴァイス男爵夫人は穏やかに微笑んだまま去っていったが、その目は明らかに「哀れな子」と語っていた。哀れまれているのはクラウスの方だということに、本人だけが気づいていない。

さらに悪いことは続く。

クラウスは取り巻きの一人を捕まえ、得意げに自慢話を始めた。

「俺は先月、王都剣術大会の予選を突破してな」

「え……クラウス様、それは——」

「何だ。褒めたいなら遠慮するな」

「いえ、その……予選の参加者名簿に、クラウス様のお名前はなかったかと……。私も出場していたもので」

取り巻きの青年が言い淀む。クラウスの顔が赤くなった。

「き、記載漏れだ! 事務方の手違いで——」

「あ、はい、そうですよね。きっとそうです」

取り巻きが慌てて話を合わせるが、周囲の視線は冷ややかだった。

嘘だったのだ。いえ、嘘をつく意図があったかすら怪しい。この人はもしかすると、自分が本当に出場したと思い込んでいるのかもしれない。自分の記憶すら、自分に都合よく改竄(かいざん)してしまうタイプ。

……お姉様の婚約者が、こういう人間であったということ。胸の奥が、少しだけ痛んだ。

クラウスだけが、何も気づいていない。

取り巻きたちも、次第に距離を取り始めていた。一人、また一人と「少し席を外す」と言って去っていく。

それでもクラウスは止まらない。

「そうだ、いっそ今日中に決着をつけよう!」

広間の中央に戻ったクラウスが、杯を掲げた。

「皆に聞いてもらいたいことがある!」

ここで楽団の演奏が途切れ、広間の視線が一斉にクラウスに集まった。広間の奥、柱の陰に白髪交じりの壮年の紳士が腕を組んで立っているのが見えた。シュトゥルム侯爵——クラウスの父だ。息子の蛮行を、最初からじっと見据えていたらしい。

私の内心に、一瞬だけ迷いが走った。

止めるべきだろうか。

この人は今、取り返しのつかない失敗の崖っぷちに立っている。一言「あなたは人違いをしています」と言えば、恥をかくのは小さく済む。

でも——

この三時間、彼は一度も私の目を見なかった。

名前を確認しなかった。

名札を見なかった。

婚約者の顔を覚えていなかった。

それどころか、婚約者を公の場で侮辱し、浮気を自慢し、品位の欠片もない振る舞いを続けた。

これは私が止めるべきことではない。

自分で蒔いた種は、自分で刈り取るべきだ。

「——俺はアイゼンベルク侯爵令嬢との婚約を、今この場で破棄する!」

その声が広間に響き渡った。

そして——冒頭に戻る。

「……え? どちら様ですか?」

私の言葉に、場が凍りついた。

クラウスは目を丸くして——おそらく、「婚約破棄を宣言された相手」からの想定外の反応に、完全に面食らっていた。

「な……何を言っている? 俺はクラウス・フォン・シュトゥルムだ! お前の婚約者——」

「いえ。存じ上げておりますけれど、あなたと私は婚約関係にはございません」

「は?」

「私の名前をご存じですか?」

クラウスの口が開閉する。金魚のように。

「アデ……アデライーデ・フォン・アイゼンベルク……だろう?」

「残念です。不正解ですわ」

広間がざわめく。

そのとき——大広間の正面扉が、静かに開いた。

コツ、コツ、と。

ヒールが大理石の床を叩く音が、ざわめきの中をすり抜けて響く。

「あら、クラウス様」

淡い蜂蜜色のロングヘアが、シャンデリアの光を受けて金色に輝いた。

翡翠色の瞳が、穏やかに——けれど底知れぬ冷たさを湛えて——クラウスを見据えている。

アデライーデ・フォン・アイゼンベルク。

私の姉にして、クラウスの——本物の婚約者。

「妹に何をおっしゃっているの?」

場が、完全に静まり返った。

クラウスの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

「い……妹?」

「ええ」

アデライーデは優雅に歩を進め、私の隣に立った。並ぶと、確かに似ている。けれど——明らかに別人だ。

「わたくしの妹、フリーデリケ・フォン・アイゼンベルクですわ。わたくしが本日は体調が優れなかったもので、代理をお願いしたの」

姉は微笑んだ。社交界が「翡翠の微笑み」と呼ぶ、あの美しい笑顔。

ただし今夜、その笑顔の温度は氷点下だった。

「お姉様。来てくださったんですね」

「体調が回復したから急いで来たの。——来て正解だったようね」

姉が私の肩にそっと手を置いた。その手の温かさに、少しだけ胸が詰まる。

お姉様は、知っていたのだ。

後で知ったことだが、お姉様は出発前に侍女に「何かあったら知らせなさい」と言い残していたらしい。体調不良は本当でも——最悪の事態に備える老獪さは、さすがアイゼンベルク侯爵家の長女だ。

クラウスが私と姉を見分けられないことを。だから——いいえ、それは後で考えよう。

今は。

「私はあなたの婚約者ではございません——妹ですけれど?」

核心の一言を、私は穏やかに、けれどはっきりと告げた。

「人の顔も覚えずに婚約破棄とは、ずいぶんと効率の良い自爆ですわね」

広間のあちこちで、こらえきれない笑いが漏れた。

扇の陰で肩を震わせる令嬢。咳払いで誤魔化す騎士。堂々と笑っている老伯爵。

クラウスの顔が、白から赤へ、赤から紫へと変わっていく。

「こ……これは何かの間違いだ!」

「間違えたのは、あなたの方ですわ。クラウス様」

アデライーデが、変わらぬ笑顔で言った。

「わたくしの妹を『退屈』で『教養がない』と仰いましたね。わたくしの耳にも、テラスでのお話は届いておりますのよ」

クラウスが後ずさる。取り巻きたちは、もう一人も残っていない。

「クラウス様。あなたは今夜、わたくしの婚約者という立場でありながら、わたくしの妹を——アイゼンベルク侯爵家の令嬢を——公衆の面前で侮辱なさいました」

アデライーデの声は穏やかだった。穏やかなまま、一言一言が刃のように鋭い。

「これは、わたくし個人への無礼ではございません。アイゼンベルク侯爵家への侮辱です」

「ち、違う! 俺は騙されたんだ! この女が——」

声が裏返っていた。先ほどまでの尊大な口調はどこへやら、追い詰められた小動物のように目が泳いでいる。

「そ、そもそも代理なんて聞いていない! 最初に名乗らなかったこの女が悪いんだ!」

逆ギレ。こういうとき、人の本性は隠せないものだ。威張り散らしていた男の皮が剥がれて、下から出てきたのは——ただの、小心な子供だった。

「わたくしの妹は、受付で代理出席であることを正式に届け出ております。名札にも『フリーデリケ・フォン・アイゼンベルク(アデライーデ代理)』と明記されていたはずですわ」

クラウスが私の胸元を見る。確かにそこには、名札がぶら下がっている。

三時間の間、一度も読まれなかった名札が。

「ご覧にならなかったのは、あなたのご選択ですわ」

アデライーデが静かに微笑む。

「さて、クラウス様。先ほどの『婚約破棄の宣言』は——わたくしに対するものでしょうか? それとも、妹に対するものでしょうか?」

クラウスの口がパクパクと動く。答えられるはずがない。

妹に対するものだと言えば、「関係のない人間に婚約破棄を宣言した愚か者」。

姉に対するものだと言えば、「婚約者の顔も知らなかったくせに破棄を宣言した傲慢な男」。

どちらに転んでも、詰みだ。

「わ……わたし、は……」

「クラウス」

低い、けれどよく通る声が割って入った。

先ほどから柱の陰に立っていたシュトゥルム侯爵が、ゆっくりと歩み出てきた。

その顔は怒りと恥辱で強張っていた。最初から——全て見ていたのだ。

「もう黙れ。これ以上恥の上塗りをするな」

「ち、父上——」

「アイゼンベルク侯爵令嬢方。息子が大変なご無礼を。このたびのことは、シュトゥルム侯爵家として正式にお詫び申し上げる」

シュトゥルム侯爵が深く頭を下げた。

クラウスは——もはや何も言えなかった。

取り巻きに囲まれて威張り散らしていた男は、父に首根っこを掴まれた子供のように、そこに立ち尽くしていた。

新しい恋人のカタリーナは、いつの間にか会場から姿を消していた。

翌日から、社交界はこの話で持ちきりになった。

「婚約者の顔も知らずに婚約破棄を宣言した男」。

クラウス・フォン・シュトゥルムの名は、嘲笑と共に語り継がれることになった。

シュトゥルム侯爵家からアイゼンベルク侯爵家への正式な謝罪と賠償が行われ、婚約は白紙に戻された。

姉は「あら、残念。でも仕方ないわね」と、全く残念そうでない顔で言った。

後日、姉にこっそり聞いてみた。

「お姉様。もしかして——最初から、こうなることを予想していましたか?」

「あら、何のこと?」

「あの人が私とお姉様を見分けられないこと。分かっていて、代理をお願いしたのでは?」

姉は翡翠色の瞳を悪戯(いたずら)っぽく輝かせた。

「お腹の調子が悪かったのは本当よ?」

「……それは分かっています。でも、もう一つ理由がありましたよね」

「さあ、どうかしら」

にっこりと微笑む姉は、やはり只者ではなかった。

おっとりしているように見えて——いえ、実際におっとりしているのだが——その奥に、全てを見通す目がある。

きっと姉は、あの婚約を見切っていたのだ。

婚約者が自分の顔も覚えていないことに気づいた時点で。

「フリーデリケ」

「はい?」

「あなたに嫌な思いをさせてしまったわね。ごめんなさい」

「……いいえ。正直に申し上げると——」

少し言い淀んでから、正直に告げた。

「面白い夜でしたわ」

姉が声を上げて笑った。「やっぱりフリーデリケはフリーデリケね」

クラウスがその後どうなったかについて、少しだけ触れておこう。

社交界から事実上干された彼は、シュトゥルム侯爵家の別邸に引き籠もることになった。新しい恋人のカタリーナには、翌日のうちに「あのような恥ずかしい方とはお付き合いできません」と手紙が届いたそうだ。

取り巻きたちは一人残らず離散した。追従しかしない連中の忠誠心など、風が吹けば消える蝋燭のようなものだ。

まあ、自業自得としか言いようがない。

人の顔を覚えないこと。名前を確認しないこと。相手を人として見ないこと。

それら全てが、あの夜、一つの壮大な自爆として結実した。

因果応報という言葉があるが、これほど見事な自爆は珍しいのではないだろうか。

さて。

舞踏会の翌朝、私はアイゼンベルク侯爵邸の庭園で朝の空気を吸っていた。

昨夜は遅くまで姉と語り合い——というか、私の実況報告を姉が笑い転げながら聞き——少し寝不足だ。

「おはようございます、フリーデリケ嬢」

庭園の門の方から、聞き覚えのある声がした。

ニクラウス・フォン・エーデルシュタイン。

近衛騎士の正装ではなく、少しだけ砕けた外出着姿。それでも姿勢は良く、朝日を受けた琥珀色の瞳が穏やかに光っている。

「ニクラウス様。……朝早いですね」

「近衛の朝は早いので。散歩がてら、少し足を延ばしました」

侯爵邸の近くを「散歩がてら」通る近衛騎士。……うん、まあ、突っ込まないでおこう。

「面白い夜でしたね」

ニクラウスが言った。昨夜、テラスで隣に立っていたときと同じ、少しだけ砕けた口調。

「ええ、本当に」

「……正直に申し上げると」

彼は一瞬だけ視線を泳がせた。近衛騎士にしては珍しい、少年のような仕草。

「夜が面白かったのは、あの男の醜態のせいだけではありません」

「?」

「あなたの隣にいられたことが——面白い夜の、一番の理由です」

不器用な告白——いえ、告白と呼ぶにはまだ早いか。

でも、その不器用さが。

真っ直ぐにこちらを見る琥珀色の瞳が。

私の名前を正しく呼ぶ、その当たり前のことが。

昨夜の傲慢な男には決してなかったものが、この人にはある。

「……あなたは最初から気づいていたでしょう? あの人違いに」

「ええ。あなたとお姉上を間違えるほど、私は不注意ではありませんから」

さらりと言ってのけるその言葉に——不覚にも、少しだけ胸が跳ねた。

婚約者の顔も覚えない男がいる一方で、婚約者でもないのに見分けがつく人もいる。

世の中というのは面白いものだ。

「まあ——」

私は微笑んだ。今度は皮肉ではなく、素直な笑みで。

「面白い夜でしたわ」

春の朝の庭園で、穏やかな風が花の香りを運んでくる。

人違いの婚約破棄という茶番は終わった。

そして——もしかしたら。

この朝から、何か新しいものが始まるのかもしれない。

【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今回のお話は「発覚型・人違い」のストーリーです。
 ざまぁ短編にはいくつかの「型」があるのですが、今作では「最初から主人公が真実を知っていて、悪役だけが勘違いしている」というパターンを使いました。読者と主人公が同じ目線で悪役の自爆を見届ける——言ってみれば「一緒にツッコむ」構造ですね。

この手法の一番の醍醐味は、「勘違いの連鎖が一気に崩壊する瞬間」のカタルシスです。積み上がれば積み上がるほど、崩れたときの快感が大きくなる。クラウスが暴言を重ねるたびに「ああ、これ全部ブーメランになるな……」と分かっているからこそ、アデライーデが現れた瞬間の爽快感が倍増するわけです。

そして今作では、シリーズの中でもコメディ色を強めにしてみました。フリーデリケの内心ツッコミが楽しんでいただけていたら嬉しいです。ざまぁの中に笑いを入れることで、「スカッとする」だけでなく「くすっと笑える」読後感を目指しました。因果応報は苦いだけじゃなく、時には喜劇にもなるのです。

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