S01-P25 嘘をつくたびに頭上の数字が増える世界で、婚約者の数字だけが一万を超えていた

第1話: 嘘をつくたびに頭上の数字が増える世界で、婚約者の数字だけが一万を超えていた

第1アーク · 9,659文字 · revised

一万二百四十七。

大広間のシャンデリアが黄金色の光を降らせる中、私はその数字を見ていた。

王宮の大舞踏会。年に三度しか開かれない、王国貴族の社交の華。きらびやかなドレスと礼服が行き交い、楽団の旋律が天井の高い広間を満たしている。

誰もが笑顔だった。

そして、誰もが頭上に数字を浮かべていた。

右手の老貴族は「247」。左手の令嬢は「89」。入り口で談笑する騎士団長は「1,203」——意外と多い。奥方に何か隠しているのだろうか。

これが、私の見ている世界。

嘘をつくたびに頭上の数字が増える——この世界の、誰も知らない法則。そして、その数字を見ることができるのは、「真実の(しんじつのひとみ)」を持つ私だけ。

視線を正面に向ける。

大広間の中央で、金髪の青年が笑っていた。完璧な笑顔。完璧な立ち居振る舞い。社交界の誰もが認める、侯爵家の麒麟児(きりんじ)

ヘルムート・フォン・ドラッヘンブルク。

私の——元婚約者。

彼の頭上に浮かぶ数字は、一万二百四十七。赤みがかった光が——まるで血の色を帯びたように、その五桁を刻んでいた。

他の誰の数字も白銀色なのに、彼の数字だけが赤黒い。嘘が多いほど赤みを帯びる。この大広間の誰よりも、桁が違う。文字通りの意味で。

今夜、彼は新しい婚約者を社交界にお披露目するのだという。男爵令嬢の——名前は忘れた。私の次の犠牲者になる予定の女性。

でも、大丈夫。

今夜で終わらせるから。


思えば、私の人生はずっと「数字」と共にあった。

物心ついた頃から、人の頭上に光る数字が見えていた。最初は誰にでも見えるものだと思っていた。五歳のとき、母に言ったのを覚えている。

「お母様、お母様の頭の上に『42』って書いてあるの」

母の顔が強張った。

「何を言っているの、エルヴィラ」

「お父様は『108』で、使用人のマルタは『17』で——」

「やめなさい」

母の声は鋭かった。怯えていた。

それから何度か同じことを口にするたびに、周囲の大人たちは私を気味悪そうに見た。「あの子は変わっている」「不吉な目を持っている」——そんな囁きが、幼い私の耳にも届いた。

八歳のとき、私は決めた。もう二度と、数字のことは口にしない。

それ以来、私は一人で数字を見続けてきた。

人の嘘が見える。

それは能力ではなく、呪いだった。


十五歳の春、ヘルムート・フォン・ドラッヘンブルクとの婚約が決まった。

侯爵家の嫡子。金髪碧眼の美貌。社交界の誰からも慕われる、完璧な貴公子。

初めて会った日、私は彼の頭上を見た。

「312」

正直に言えば、少しだけ安堵した。二十三歳の貴族の男性で312は——多くも少なくもない。社交辞令、方便、お世辞。貴族社会で生きていれば、その程度の嘘は誰でもつく。父だって108だった。母も42。

三桁前半なら、まだ普通の人だ。

そう、思っていた。

「君を愛しているよ、エルヴィラ」

婚約の宴で、ヘルムートはそう言って微笑んだ。

その瞬間、頭上の数字が変わった。

312が、313に。

——ああ。

最初の嘘は、そこだった。

けれど私は微笑み返した。312回の嘘に比べれば、たった一つの嘘など取るに足らない。きっと、婚約したばかりで「愛している」というのは、少し気恥ずかしかっただけだろう。

そう、思おうとした。


数字が増え始めたのは、婚約してからだった。

最初の一年で、312は1,000を超えた。

私の持参金の使途報告書をヘルムートが提出するたびに、数字が跳ねた。一度に二つ、三つと増えることもあった。報告書の項目一つ一つが嘘だったのだろう。

横領。

それが最初に気づいた嘘の種類だった。

けれど、私には数字が見えるだけで、何の証拠もない。「あなたの頭の上の数字が増えたから横領ですわね」——そんな告発は、誰にも相手にされない。

二年目の秋だった。

私はドラッヘンブルク家の渡り廊下で、ヘルムートを待っていた。約束の時間を三十分過ぎていた。使用人に尋ねると「お出かけです」と言う。どこへ、と聞くと、顔を逸らされた。

やがてヘルムートが帰ってきた。外套(がいとう)にかすかな香水の匂いが残っていた。私が使っていない香水。

「今日は友人と狩りに行っていた」

そう言うヘルムートの頭上で、数字が一つ増えた。

狩りではない。別の女性と会っていたのだ。どの女性かは分からない。数字は「嘘の回数」しか教えてくれない。内容までは見えない。

けれど——あの香水の甘さと、頭上で跳ねた数字。二つを重ねれば、推測はできた。

浮気。

知りたくなかった。知ってしまった。そして、何も言えなかった。

三年目。5,000。四年目。7,000。五年目。ついに一万を超えた。

功績の偽装、讒言(ざんげん)、裏取引、口裏合わせ——ヘルムートの嘘は際限なく膨らみ続けた。宮廷では他者の功績を奪い、社交界では「完璧な侯爵嫡子」として称賛される。その頭上で、赤みを帯びた数字だけが真実を刻み続けていた。

そして私は——ただ、見ていた。

何もできなかった。

「真実の瞳」は呪いだった。嘘が見えるのに、止められない。知っているのに、誰にも言えない。数字を見るたびに、心が少しずつ削れていくのを感じていた。


六年目の春。ヘルムートの数字は一万を超えていた。

社交パーティーの席で、彼は突然言った。

「エルヴィラ。僕たちの婚約を解消しよう」

会場がざわめいた。

「お前は退屈な女だ。華もなければ、愛想もない。僕にはもっとふさわしい相手がいる」

頭上の数字が一つ増えた。

一万二百四十七。

「退屈な女」——それも嘘だ。本当は「邪魔になった」。横領がそろそろ限界に達して、持参金の出所が怪しまれる前に、婚約者ごと切り捨てたかったのだろう。

周囲の令嬢たちが息を呑んだ。同情の視線。憐れみの囁き。

「可哀想に……あんなに尽くしていたのに……」

私は——微笑んだ。

「分かりました、ヘルムート様」

それだけ言って、静かに会場を後にした。

泣かなかった。怒りもなかった。

ただ、数字を見なくていい日々が始まることに——途方もない安堵を感じていた。


婚約破棄の後、私はリヒテンフェルト伯爵家の実家には戻らなかった。

父は病床にあり、母は私を持て余していた。「婚約破棄された娘」は、伯爵家にとっても荷物だった。

伝手(つて)を頼って、辺境伯領に身を寄せることにした。王都から馬車で一週間。森と清流に囲まれた、静かな土地。

馬車の窓から見える景色が、王都から離れるにつれて変わっていく。人が減る。建物が減る。数字を浮かべた頭が減る。

王都では、どこを見ても数字があった。二桁、三桁、四桁。嘘で満ちた世界。

辺境では——人が少ない分、数字も少なかった。

それだけで、息がしやすくなった。


辺境伯領の屋敷で出迎えてくれたのは、一人の青年だった。

「ヴァルトシュタイン辺境伯が嫡子、テオドールだ。……ようこそ」

朴訥な声。日焼けした肌。無造作な茶髪。社交界の貴公子とは正反対の、飾り気のない青年。

私は反射的に、彼の頭上を見た。

——そして、息を呑んだ。

「3」

目を疑った。

見間違いかと思い、何度も確認した。

3。たった、3。

二十四年間生きてきて、嘘を三回しかついていない。

そんな人間が、いるのか。

「……どうかしたか?」

テオドールが怪訝そうに首を傾げた。私がじっと彼の頭上を見つめていたことに気づいたのだろう。

「い、いえ。何でもありません。お世話になります、テオドール様」

「……ああ。何かあったら、遠慮なく言ってくれ」

短い言葉。愛想もない。社交辞令すらない。

——だから、数字が増えないのだ。

この人は、嘘がつけない。嘘をつく必要を感じていない。思ったことをそのまま言うか、言わずに黙るか。

それが、テオドール・フォン・ヴァルトシュタインという人だった。


辺境伯領での日々は、穏やかだった。

テオドールは口下手だったが、領地経営は堅実だった。毎日、朝から畑を見回り、領民の相談に乗り、夕方には書類仕事をする。

彼の言葉は少ない。けれど嘘がない。

「今日の麦の育ちはいい」——数字は動かない。本当のことだ。
 「この橋は修繕が必要だ」——数字は動かない。
 「……今日の夕食の魚は、俺が釣った」——数字は動かない。少しだけ得意げな顔。

ヘルムートと暮らした六年間、私はいつも数字を見ていた。話すたびに増える数字。笑顔のたびに増える数字。愛の言葉のたびに増える数字。

テオドールの傍にいると、数字が動かない。

それがどれほど安らかなことか——この瞳を持たない人には、きっと分からない。


ある夜のことだった。

辺境伯領の庭園で、私は一人で月を見ていた。夜の庭園には人がいない。数字を浮かべた頭がどこにもない。それが好きだった。誰の嘘も見なくて済む、束の間の時間。

「……眠れないのか」

テオドールが来た。手には温かい飲み物が二つ。

「ハーブ茶だ。うちの領地で採れる。……よかったら」

「ありがとうございます」

並んで座った。しばらく無言だった。テオドールは沈黙を苦にしない人だった。

月が雲に隠れた瞬間、私は口を開いていた。

「テオドール様。私には——人には言えない秘密があるのです」

「……」

「嘘をつくと、人の頭上に数字が浮かぶことをご存じですか?」

「……いや」

「この世界では、嘘をつくたびに頭上の数字が一つ増えます。でも、ほとんどの人にはその数字が見えません」

テオドールは黙って聞いていた。

「私には——見えるのです。生まれつき。『真実の瞳』と呼ばれる……力、のようなもの」

長い沈黙。

怖かった。これを話すのは、八歳の頃に母に拒絶されて以来、初めてだった。気味悪がられるかもしれない。恐れられるかもしれない。

テオドールはゆっくりとハーブ茶を(すす)り——そして言った。

「……それは、辛かっただろう」

その一言で、私の中で何かが崩れた。

能力のことを問い詰めるのではなく。数字の仕組みを知りたがるのではなく。

——辛かっただろう、と。

十三年間、誰にも言えずに一人で見続けてきた嘘の数字。その孤独を、たった一言で掬い上げてくれた。

「テオドール様の数字は——3、です」

「……3?」

「二十四年間で、3つしか嘘をついていない。私が出会った中で、一番少ない数字です」

テオドールは困ったように頭を掻いた。

「嘘をつくのが下手なだけだ。すぐ顔に出る」

「それは——とても、素敵なことだと思います」

数字が3のまま増えない人がいるなんて、知りませんでした。

私はそう思った。思っただけで、口には出さなかった。出したら泣いてしまいそうだったから。


翌日から、私はテオドールに全てを話した。

ヘルムートのこと。一万を超える嘘の数字のこと。横領、浮気、功績の偽装。数字が増えるたびに、何が起きたかを推測してきた六年間の記録。

テオドールは黙って聞き——そして言った。

「……証拠がいるな」

「はい。数字だけでは誰にも信じてもらえません」

「俺にできることがあれば、言ってくれ」

口下手な彼の、短い申し出。けれどその言葉に嘘はなかった——数字は動かなかった。

そこから、二人の裏取りが始まった。

テオドールは辺境伯の嫡子として、独自の人脈を持っていた。王都の社交界には疎いが、実務者同士のつながりは太い。地方領の帳簿管理者、交易記録の担当官、辺境と王都を結ぶ商人たち。

私が「数字が増えた日時」を伝え、テオドールがその日に何があったかを調べる。

横領は帳簿の突き合わせで裏が取れた。ヘルムートが報告した持参金の使途と、実際の支出記録が一致しない。差額は彼の個人口座に流れていた。

浮気の証言は難航した。ヘルムートの現在の従者は全員が口をつぐんだ。「侯爵家に逆らえば、自分の家族がどうなるか」——テオドールが接触した一人は、手を震わせながらそう言って扉を閉めた。

けれど、かつての従者——すでにドラッヘンブルク家を辞した男が、ようやく証言してくれた。「旦那様は週に二度、伯爵令嬢のもとに通っておいででした」

功績の偽装は、さらに厄介だった。実際にその仕事を成し遂げた官僚は、最初は「関わりたくない」と断った。三度目の訪問で、テオドールが「あなたの功績を取り戻すことでもある」と言ったとき、ようやく口を開いてくれた。「あの交渉は私がまとめました。ドラッヘンブルク卿は現場にすら来ていません」

一つ一つ、数字に対応する証拠が積み上がっていった。

全てを暴くことはできない。一万を超える嘘の全てに証拠を揃えるのは不可能だ。だが、要所を押さえればいい。横領の金額、浮気の証人、偽装の記録——これだけあれば、あの男の仮面は剥がせる。

三ヶ月。

証拠が揃うのに、三ヶ月かかった。

そしてその間——テオドールの数字は、ずっと「3」のままだった。


準備が整った夜、テオドールが言った。

「大舞踏会が一番いい。ヘルムートは新しい婚約者を紹介するらしい。社交界の全員が集まる」

「……ええ。最大の観客がいる場で」

「エルヴィラ」

テオドールが私の名前を呼んだ。「嬢」がいつの間にか取れていた。

「辛かったら、途中でやめていい。俺が代わりに証拠を読み上げる」

「いいえ」

私は首を振った。

「これは、私がやらなければならないことです。六年間、見続けてきたのは私ですから」

テオドールが頷いた。何も言わなかった。

けれど、その手が——そっと私の手に触れた。

温かかった。嘘のない手だった。


そして今夜——王宮の大舞踏会。

ヘルムートが壇上で新しい婚約者を紹介していた。

栗色の髪の、可愛らしい令嬢。男爵令嬢——証拠を集める過程でその名がカロリーネだと知った。その子の頭上の数字は「34」。まだ若い。嘘の少ない、善良な娘なのだろう。

「皆様、ご紹介いたします。この度、僕の伴侶となるカロリーネ嬢です。僕は彼女を心から愛しています」

頭上の数字が一つ増えた。

一万二百四十八。

——また、嘘をついた。

私は深く息を吸い、一歩を踏み出した。

「失礼いたします」

会場がざわめいた。

婚約破棄された元令嬢が、よりによってこの場に現れた。囁きが波のように広がる。

「リヒテンフェルト伯爵令嬢……?」
「まあ、あの方、来ているの……?」
「何をしに……?」

ヘルムートが目を細めた。余裕の笑み。

「これはエルヴィラ。わざわざ祝いに来てくれたのか? 感謝するよ」

頭上の数字が増えた。感謝など、していない。

私はヘルムートの正面に立った。テオドールが半歩後ろに控えている。

「いいえ。祝いに来たのではありません」

会場が静まった。

「少し——数字の話をしましょう」


「数字? 何の話だ?」

ヘルムートがかすかに眉をひそめた。

「ヘルムート卿。あなたはご存じないでしょうが、この世界には——嘘をつくと頭上の数字が増えるという法則があります」

会場がざわめいた。何を言い出すのか、と。

「そして、その数字が見える者がいます。『真実の瞳』と呼ばれる——生まれつきの力を持つ者が」

「何を馬鹿な——」

「私が、その持ち主です」

静寂。

「そして、あなたの頭上に浮かぶ数字は——一万二百四十八」

会場がどよめいた。

ヘルムートは笑った。余裕を装って。

「荒唐無稽な作り話だ。婚約破棄されたのが悔しくて、頭がおかしくなったか?」

数字が増えた。

「今、一つ増えました。一万二百四十九」

「……何?」

「嘘をつくたびに増えるのです。今の言葉も嘘でしたから」

会場の空気が変わった。まだ半信半疑だが——エルヴィラの言葉には、奇妙な説得力があった。

「数字だけでは信じていただけないでしょう。ですから、証拠をお持ちしました」

テオドールが書類の束を手渡す。

「312番目の嘘——これは婚約の日です。あなたは私に『君を愛している』と言いました。あの瞬間、あなたの数字は312から313に増えました」

私は帳簿の写しを掲げた。

「そしてこちらは、婚約直後から始まった持参金の横領記録です。リヒテンフェルト伯爵家からの持参金のうち、三割が不正にドラッヘンブルク家の個人口座に流されています」

会場がどよめく。

「1,024番目の嘘は——『今日は友人と狩りに行っていた』。実際にはベルクハイム伯爵令嬢と密会していました」

証人が名乗り出た。ヘルムートのかつての従者だ。

「私は旦那様の従者でした。週に二度、お忍びで伯爵令嬢のもとに通っておられました」

ヘルムートの顔色が変わり始めた。

「5,891番目——宮廷への功績報告。辺境伯領との交渉成功。あれを実際にまとめたのは、ヴェーバー事務官です」

壮年の官僚が進み出た。

「あの交渉は私が三ヶ月かけてまとめました。ドラッヘンブルク卿は署名の場にいらしただけです」

一つ、また一つ。

私は数字と証拠を対応させながら、静かに読み上げていった。

会場は凍りついていた。誰も口を挟めなかった。

ヘルムートの顔から、完璧な笑顔が剥がれていく。最初の余裕が消え、焦りに変わり、そして——恐怖に変わった。

「やめろ……やめろ!」

「やめません」

私は微笑んだ。六年間、ずっと見続けてきた笑顔——けれど、今夜の笑顔は違う。

「一万二百四十七。それがあなたの嘘の数ですわ、ヘルムート卿」

会場が息を呑んだ。

「六年間。婚約してからの六年間で、あなたは一万近い嘘を重ねました。一日に四回から五回。朝起きてから夜眠るまで、あなたは嘘を吐き続けた」

「黙れ……! そんな数字など存在しない! でたらめだ!」

ヘルムートが叫んだ。

私は静かに言った。

「——今、一つ増えましたわ。一万二百五十」

会場がざわめいた。

「『でたらめだ』——これも嘘でした。あなた自身が、一番よくご存じでしょう?」

ヘルムートの顔が蒼白に変わった。

嘘をついた瞬間を指摘される。これは反論の方法がない。嘘で否定すれば数字が増え、沈黙すれば認めたことになる。

「最後に——もう一つだけ」

私は新しい婚約者であるカロリーネ嬢に目を向けた。彼女は震えていた。

「先ほど、ヘルムート卿は『彼女を心から愛しています』と仰いました。あのとき——数字が一つ増えました」

カロリーネ嬢の顔から血の気が引いた。

「カロリーネ様。あなたのことは存じ上げませんが、どうかお気をつけくださいませ。この方の愛の言葉は——数字が証明しているように、嘘です」

カロリーネ嬢がよろめいた。侍女が駆け寄り、支える。

「312番目は——『君を愛している』。あれも嘘でした」

私はヘルムートに向き直った。

「六年間、あなたの嘘を見続けました。一つ残らず。けれど今日まで黙っていました。証拠がなかったから。『数字が見える』と言っても誰も信じてくれなかったから」

声は震えなかった。六年分の覚悟が、私の声を支えていた。

「でも今は——証拠があります。数字と、それを裏付ける文書が」

ヘルムートは何か言おうとした。口が開いた。

けれど——何も言えなかった。

何を言っても嘘になる。嘘をつけば数字が増える。増えれば私が指摘する。

一万二百五十の嘘に囲まれた男は——初めて、黙った。


その後のことは、あっという間だった。

王室監査官が証拠書類を受理し、ヘルムート・フォン・ドラッヘンブルクは横領、詐称、公文書偽造の罪で拘束された。

ドラッヘンブルク侯爵家は連座を問われ、ヘルムートの爵位は剥奪。財産は没収。社交界からの追放。

カロリーネ嬢との婚約は、即座に破棄された。

シュテルン王国の社交界は震撼した。「あのドラッヘンブルク家が」「侯爵嫡子が横領を」——大舞踏会の翌日から、王都のサロンは噂で持ちきりだったという。数字の多い貴族たちは内心穏やかではなかっただろう。自分の頭上にも見えない数字が浮かんでいると知って、怯えた者もいたに違いない。

「真実の瞳」の存在は、社交界に大きな波紋を呼んだ。嘘が見える人間がいる——その噂は、瞬く間に王国中に広がった。

けれど、私はそんなことにはもう興味がなかった。


辺境伯領に戻ったのは、大舞踏会から一週間後のことだった。

森の匂いがする。清流の音がする。王都の喧噪(けんそう)はどこにもない。

そして——数字に怯えなくていい場所が、ここにある。

庭園のベンチに座って、私はテオドールの隣にいた。

彼の頭上の数字は——相変わらず「3」だった。

「ねえ、テオドール」

「……ん」

「あなたの3つの嘘。教えてくれませんか?」

テオドールがきょとんとした。それから、照れくさそうに頭を掻いた。

「……大した嘘じゃない」

「聞きたいのです」

「……1つ目は、五歳の頃だ。雷が怖くて泣いた夜、母さんに『怖くない』と言った」

私は目を閉じた。五歳の男の子が、母を安心させたくてついた嘘。

「2つ目は——友達と喧嘩して、転んで膝を擦りむいた。友達が泣きそうな顔をしていたから、『痛くない』と言った」

友を傷つけまいとした嘘。

「3つ目は……父が国境の遠征に出る日だ。半年は帰れないと言われて、でも『寂しくない』と言った。……あれは、嘘だった」

父を送り出すためについた嘘。

三つとも——誰かを守るための嘘だった。

一万二百五十の嘘を見続けた後で、この「3」の中身を知ったとき。

私の目から、涙がこぼれた。

「……エルヴィラ?」

「ごめんなさい。……嬉しいのです」

「嬉しい?」

「嘘が全部——優しかった。あなたの嘘は、全部、誰かのためだった」

テオドールは黙って、私の涙が止まるのを待ってくれた。

やがて、ぽつりと言った。

「……数字を見なくても、俺のことは信じてほしい」

少し間があった。

「……いや、見てくれてもいい。俺は——増やす予定がないから」

不器用な言葉。けれど、嘘のない言葉。

私は涙を拭いて、笑った。心からの笑顔だった。六年ぶりの——いや、もしかしたら生まれて初めての、心からの笑顔だったかもしれない。

「世界は——こんなにも静かだったんですね」

嘘の数字がない世界ではない。

けれど、隣にいる人の数字が「3」であること。その3つが全て、優しさから生まれた嘘であること。

それだけで——世界は十分に、静かだった。

辺境の風が、庭園の木々を揺らしていた。

テオドールの手が、そっと私の手に重なった。

温かかった。

嘘のない温もりだった。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今作は「知略型・数値可視化」の独自設定ストーリーです。「嘘をつくと数字が増える」という世界のルールを、ざまぁの武器として使うことに挑戦しました。エルヴィラが持つのは剣でも魔法でもなく「数字が見える目」だけ。でも、六年間見続けた一万の嘘の記録と、それを裏付ける証拠があれば、どんな仮面も剥がせる——そういう物語を書きたかったのです。

テオドールの「3」は、この物語の裏の主役です。一万二百四十七の嘘を見続けたエルヴィラにとって、「3」がどれほど衝撃的だったか。しかもその中身が「母に怖くないと言った嘘」「友達に痛くないと言った嘘」「父に寂しくないと言った嘘」——全部、誰かを心配させないための嘘だった。嘘の「数」ではなく「質」が、人の本性を映す。信頼できる相手を数字で確認できるのは便利かもしれませんが、逆に言えば「数字を見ないと信じられない」という切なさもある。テオドールの「数字を見なくても、俺のことは信じてほしい」という言葉が、エルヴィラの呪いを少しだけ解いてくれたのだと思います。

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