S01-P27 『お前の針仕事など誰でもできる』——なら社交界のドレスの裏地を、めくってごらんなさい

第1話: お前の針仕事など誰でもできる

第1アーク · 11,110文字 · revised

社交界が、泣いていた。

大舞踏会まであと三日——なのに王都グラシアの令嬢たちは、鏡の前で途方に暮れている。仕立て師を何人呼んでも、あの仕上がりには届かない。裾の流れが違う。襟元の立ち方が違う。何より、布が歌わない。

「どういうことですの……去年までのあの仕立て師は、一体どこへ?」

令嬢たちの嘆きは、王宮にまで届いていた。

王妃付きの侍女が、蒼白な顔で報告する。

「陛下、ランドルフ公爵家に問い合わせましたが——専属の仕立て師は、半年前に辞めたとのことです。後任はおりません」

王妃は眉をひそめた。

「あの公爵家が十年間、社交界のドレスを一手に引き受けていたのではなかったかしら」

「はい。しかし……今の公爵家には、あの品質を再現できる者が、誰もおりません」

誰も、いない。

十年間、社交界の華やぎを支え続けた針と糸が、消えた。


——それが、半年前の王都の話。

私の物語は、もっと静かな場所から始まる。

王都から馬車で七日ほど離れた、辺境の街道町ファーデン。

交易路の中継点として旅人や商人が行き交うこの小さな町の片隅に、半年前に開いたばかりの仕立て屋がある。看板には、控えめな字で『ファブリツィア仕立て店』とだけ書いてあった。

朝の光が窓から差し込む仕事場で、私——ティナ・ファブリツィアは、旅人の外套(がいとう)(つくろ)っていた。

「……ここの布は、良い声で鳴きますね」

指先で布目を撫でる。ほつれた裏地から、織りの癖が伝わってくる。五年は着込んだ外套だ。でも、布自体は丈夫。経糸(たていと)緯糸(よこいと)の噛み合わせがしっかりしている。北方の羊毛だろう。冬の寒さに耐える、芯のある布。

この布は、まだ生きている。

私は針に糸を通した。亜麻色の補修糸を、外套の織りに馴染む角度で差し入れていく。一針、また一針。布の声を聴きながら、傷んだ箇所を静かに塞いでいく。

布には声がある——これは、私が物心ついた頃から感じていたこと。良い布ほど、良い声で鳴く。経糸と緯糸が正しく噛み合っている布は、指で弾くと澄んだ音がする。弱った布はくぐもった声を出すし、傷んだ布は悲鳴のような(きし)みを上げる。

布目読み——そう呼ぶ人もいる。魔法でも加護でもない。ただ、十年以上布と向き合い続けた指先の勘が、極まっただけのこと。

窓の外では、街道を行く荷馬車の音がする。隣のエミルの布商店からは、布を広げる柔らかな音が聞こえてくる。

穏やかだった。

半年前までの十年間とは、何もかもが違う——穏やかな朝だった。


半年前のことを、思い出す。

ランドルフ公爵邸の大広間。冷たい大理石の床に、私の足音だけが響いていた。

「ティナ・ファブリツィア」

ヴィクトル・ランドルフ——私の婚約者だった人が、壇上から見下ろしていた。その隣には、見知らぬ令嬢が微笑んでいる。金の巻き毛に翡翠(ひすい)の耳飾り。華やかな装いだった。

整った容姿の青年貴族。身なりには異常に気を使う人だった。常に最高級の服を着ているくせに、自分では一針も縫えない。布の良し悪しもわからない。ただ、着飾ることだけは好きだった。

もともとこの婚約は、公爵家の側から持ちかけたものだ。没落伯爵家の娘が五歳で初めて針を持ち、八歳で母の外出着を仕立て直したという噂を聞きつけて——その才能を公爵家に囲い込むために。十二歳の私に社交界のドレスを任せたのも、ヴィクトルの母君の判断だった。

「今日をもって、お前との婚約を破棄する」

広間に集まった貴族たちがざわめく。私は黙って立っていた。

「お前は十年間、この公爵家で針仕事だけをしていた。社交にも出ず、華やかさの欠片もない」

ヴィクトルの声は、いつものように尊大だった。「〜に決まっている」「〜だろう」——そんな口癖の、見栄っ張りな声。

「お前の地味な針仕事など、誰でもできる。こちらのリゼット嬢こそ、公爵夫人にふさわしい」

リゼット嬢が恥じらうように目を伏せた。

——誰でも、できる。

その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。

十年間。私はこの公爵邸の仕立て室で、来る日も来る日も針を動かしてきた。社交界の舞踏会用ドレス、夜会の装い、季節の衣替え——王妃から男爵夫人まで、あらゆる貴族のドレスを手がけた。

着る人の体型に合わせて裁断し、動きの癖に合わせて縫い代を調整し、肌の色と髪の色に合わせて布を選ぶ。一着ごとに何十時間もかけて、着た人が「身体の一部のように馴染む」と感じるドレスを仕立て続けた。

全ては、「ランドルフ公爵家の専属職人」の名で。

私の名前は、一度も表に出なかった。

「何か言うことはあるか?」

ヴィクトルが訊いた。反論を期待していたのかもしれない。泣き(すが)ることを、あるいは。

「……いいえ」

私は小さく首を振った。

「お世話になりました」

それだけ言って、(きびす)を返した。

背後でヴィクトルが何か言っていた。「ほら見ろ、あの程度の女だ」「社交の場にも出られぬ地味な女に、十年も付き合ってやったのだ」——そんなことを。聞こえていたけれど、振り返らなかった。

広間を出る私の足取りは、いつもと変わらなかった。三つ編みにまとめた亜麻色の髪が、背中で静かに揺れる。指先には、今朝の針仕事の跡がまだ残っていた。


仕立て室に戻ったのは、荷物をまとめるためだった。

十年間過ごした部屋。壁には布見本が並び、棚には糸巻きが色とりどりに積まれている。窓際の作業台には、仕上げ途中のドレスが一着——次の舞踏会用に頼まれていたものだった。

深い紺色の絹地に、銀糸で星空を散らしたドレス。裾には波のような刺繍を入れてある。あと半日で完成するはずだった。着る人の肩幅に合わせて肩線を微かに後ろに引いてある。踊った時に腕が一番美しく見える角度を計算して。

この人は左回りのワルツが好きだから、左の裾を僅かに長くしてある。回転した時に布が螺旋を描くように。

——もう、仕上げることはない。

私は、そのドレスを手に取った。

裏地をめくる。

そこには——二重縫いで隠された、私の署名(イニシャル)がある。

T.F.——ティナ・ファブリツィア。

十年前、初めて社交界のドレスを仕立てた日。職人としての矜持(きょうじ)から、裏地にそっと自分の署名を入れた。仕立ての世界では古くからの慣習だ。自分の作品に名を刻む——それは、職人の誇りそのもの。

すぐにヴィクトルに見つかった。

「消せ。お前の名前など入れるな。これはランドルフ家の仕事だ」

消した。

——いいえ。消したふりを、した。

二重縫いの下に、もう一層。布の織り目に溶け込むように、同じ色の糸で署名を隠した。(ほど)かなければわからない。でも、解けば必ず出てくる。表から見ても裏地の模様にしか見えない。けれど糸の流れを辿れば——そこに私の名前がある。

それを、十年間続けた。

何百着ものドレスの裏地に、私の名前が眠っている。

ヴィクトルは気づかなかった。彼は布に触れることすらしない人だったから。仕立て室に来るのは、完成品を持っていく時だけ。「母の専属職人の仕事だ」と言って、社交界に差し出す時だけ。

私は最後のドレスの裏地を見つめた。

この署名は——消さない。

最後の一着は、二重縫いにしなかった。裏地をめくれば誰でも読める場所に、はっきりと。

十年分の署名は、もう消さない。

針箱を抱えて、私は公爵邸を出た。持ち物は針箱と、使い慣れた(はさみ)と、数巻きの糸だけ。十年間の仕事道具。それ以外には何も要らなかった。

振り返りは、しなかった。


辺境の街道町ファーデンに着いたのは、それから二週間後のことだった。

なぜここを選んだのかと訊かれれば、理由は単純だった。ここには、良い布がある。

交易路の中継点であるこの町には、各地の布が集まる。北の羊毛も、南の綿も、東の絹も。そして何より——エミル・ソーヤーの布商店がある。

「よう。本当に来たんだな」

エミルは日焼けした顔で笑った。色とりどりの布見本を肩に掛けたまま、店先で私を迎えてくれた。穏やかな目をした、飾らない人。商人らしい気さくさと、布を見る時だけ鋭くなる眼差し。

彼と出会ったのは三年前。公爵邸に布を納入しに来た辺境の商人。仕立て室で布を広げていた時、私が裏地の縫い目を直しているのを見て——彼は、足を止めた。

「……いいな、この縫い目」

その一言だった。

布商として各地の職人を見てきた彼の目は、縫い目の美しさを一目で見抜いた。でも、それ以上は言わなかった。「この公爵家の専属職人は腕がいい」とだけ言って、最上質の布を優先的に回してくれるようになった。

それから三年。布の納入のたびに、短い言葉を交わした。「今回の絹は良い声で鳴く」「次はもっと良い布を持ってくる」。多くは語らない。ただ、布を通して——通じ合っていた。

私が公爵邸を追い出されたと聞いた時、彼は手紙を一通寄越した。

『うちの隣の空き店舗、家賃は安い。布はいくらでもある。来るなら来い』

それだけだった。大げさな慰めも、怒りの言葉もなかった。ただ、場所と布を用意してくれた。

職人に必要なものを、わかっている人だと思った。


ファーデンでの日々は、静かに流れた。

最初の客は、街道を行く旅人だった。外套の裾がほつれて、歩くたびに引きずっていた。髭面の中年の男で、荷物を山ほど背負っている。

「直せますか。もう五年着てるんだが、どこの仕立て屋に出しても"新しいのを買え"って言われちまう」

「見せてください」

外套を受け取った瞬間、布が語りかけてきた。北方の羊毛。経糸が太く、頑丈だが、緯糸の擦り切れが激しい。長旅の摩耗だ。肘の裏と肩口が特に弱っている——荷物を背負う姿勢の癖がそのまま布に刻まれていた。

「少しお待ちください」

私は裏地に補強を入れながら、表の織り目に合わせて繕った。擦り切れた箇所には、元の織りと同じ太さの糸で、同じ方向に糸を渡す。新しい糸と古い糸が馴染むように、一本ずつ丁寧に。肩口には薄い当て布を裏から入れて、荷物の重さに耐えられるようにした。

三十分ほどで仕上げると、旅人は外套を羽織って目を丸くした。

「……嘘だろう。新品みたいだ」

「いいえ。五年分の旅の記憶が染みた、良い外套ですよ。肩の当て布を入れましたから、あと五年は持ちます」

「あんた……本当にこんな辺境の仕立て屋なのか?」

旅人は信じられないという顔で外套を撫で回し、何度も礼を言って、街道を北へ去っていった。

代金は銀貨一枚。王都の仕立て代の百分の一にも満たない。

でも——外套を羽織った時の、あの嬉しそうな顔。振り返って手を振ってくれた、あの笑顔。

それだけで、十分だった。


二番目の客は、農家の娘だった。

十六歳。初めての収穫祭に着ていくドレスが欲しいと、母親に連れられてやってきた。栗色の髪をおさげにした、頬に雀斑(そばかす)のある女の子。

「あの……お金はあまりないのですが」

母親が申し訳なさそうに言った。持ってきた布は、素朴な麻の生地。染めてすらいない生成(きなり)の布だった。

「触らせていただいてもいいですか」

布に触れた。指先に、麻の声が伝わる。ああ——これは、良い麻だ。ファーデン近郊の亜麻(あま)畑で育ったものだろう。繊維が長く、しなやかで、肌触りが優しい。素朴だけれど、芯がある。高級な絹にはない、大地の温もりがある布。

「この麻は、とても良い布です。このまま活かしましょう」

娘の体の寸法を測る。肩幅、袖丈、ウエスト、ヒップ。まだ成長途中の体だから、少しだけ余裕を持たせる。来年も着られるように。

「収穫祭では、踊りますか?」

「は、はい……! 今年は初めて輪の中に入れるんです」

娘の目が輝いた。なるほど。踊るなら、裾は少し広めに取ろう。回った時に布が軽やかに広がるように。

私は三日かけて、その麻布を一着のドレスに仕立てた。

生成りの地を活かし、裾にだけ細い草花の刺繍を入れた。ファーデンの野原に咲く花を、一針ずつ。藍色の糸で小さな矢車菊(やぐるまぎく)を、茜色の糸で雛罌粟(ひなげし)を。黄色い糸で菜の花を一輪だけ添えて——娘の明るい笑顔に合うように。

ウエストは紐で調整できるようにして、来年少し大きくなっても着られるようにした。袖口には小さな折り返しを隠してある。丈が足りなくなったら、ほどいて伸ばせる。

仕上がりを見た娘は、声を失った。

「こんなに……こんなに綺麗な服、生まれて初めてです」

泣いていた。母親も泣いていた。

私も、少しだけ目頭が熱くなった。

王都では、ドレスを渡しても礼を言われることはなかった。「ランドルフ家の専属職人」が作ったものを受け取るのは、当然のことだったから。完成品を持っていくのはヴィクトルの仕事で、令嬢たちの喜ぶ顔を見るのもヴィクトルだった。私は仕立て室から一歩も出ない。

でも、ここでは——私の名前で、作れる。私の手から、直接渡せる。

「ファブリツィアの仕立て屋で作ってもらったの」と、娘は収穫祭で誰彼(だれかれ)構わず自慢したらしい。裾を広げてくるくる回って、矢車菊の刺繍を見せびらかしたと。

翌週から、注文が増えた。


夕暮れ。仕事を終えて店先に出ると、エミルが荷解きをしていた。

「おう、今日は良いものを仕入れてきたぞ」

彼は布の包みを開いた。その瞬間、私の指先が震えた。

「これ……辺境絹(へんきょうぎぬ)ですか」

「わかるか? 東の山間の村で織ってるやつだ。数が少ないから王都には出回らない」

手に取った。薄くて、軽くて、それなのに強い。指に吸い付くような光沢がある。光の角度で色が微かに変わる——月光のような、淡い銀色。

布に触れた指先から、声が聞こえた。この布は笑っている。織り手の丁寧さが、一本一本の糸から伝わってくる。良い布だ。最上の布だ。

「……綺麗」

「だろ? この布、あんたに縫ってほしくて仕入れたんだ」

エミルはそう言って、照れたように頭を掻いた。

「王都の仕立て師に回しても、この布の良さは殺される。でも、あんたなら——この布が一番綺麗に歌う縫い方を、わかるだろ」

布が歌う。

その表現が、嬉しかった。布には声がある。良い布ほど、良い声で鳴く。それをわかってくれる人が、隣にいる。

「……ありがとうございます。大切に縫います」

「おう。急がなくていいぞ。今日は三着だけにしておけよ」

エミルは笑った。私がつい仕事に没頭して夜更かしすることを、もう知っている。最初の頃は日付が変わるまで針を動かしていて、翌朝エミルに「目の下の(くま)がすごいぞ」と呆れられた。

それから、彼は夜になると店に顔を出して「そろそろ終わりにしろ」と言いに来るようになった。口調はぶっきらぼうだけれど、いつも温かい茶を一杯、置いていく。

その夜も、仕事場の灯りを落とした後、二人で店先の長椅子に座った。エミルが淹れてくれた薬草茶を手に、何も言わずに夕日を眺める。

ファーデンの夕日は、王都とは違う。高い建物も、教会の尖塔もないから、空の端から端まで茜色に染まる。地平線が燃えるように赤く、そこから紫、藍、そして夜の紺碧へとグラデーションを描いていく。

まるで、染め師が天然の茜と藍だけで染め上げた、一枚の布のようだった。こんな布があったら、触れるだけで指先が泣いてしまう。

「綺麗ですね」

「ああ」

それだけの会話で、十分だった。隣にいる温もりと、明日も布に触れられるという安心感。

十年間求めていたものは、こんなにも静かなものだったのだと——今なら、わかる。


一方、王都では。

大舞踏会の延期が、三度目を数えていた。

ランドルフ公爵家が手配した代わりの仕立て師たちは、誰一人としてあの品質を再現できなかった。裾の流れが違う。襟の角度が違う。布の選び方が違う。何より——着た時の、あの「身体の一部のように馴染む」感覚が、ない。

仕立て師たちは口を揃えて言った。「あの縫い方は、尋常ではありません。一体どんな職人が……」

「あの専属職人は、一体何者だったのですか」

王妃は苛立ちを隠さなかった。十年間、社交界のドレスを支えてきた腕が消えた。代わりが利かない。

「誰でもできる」——ヴィクトルはそう言った。

だが実際は、誰にもできない仕事だった。

「ランドルフ公爵家に、全てのドレスの記録を提出させなさい」

王妃の命令は、静かだが絶対だった。


記録を調べ始めた王妃の侍従たちは、すぐに奇妙なことに気づいた。

「陛下。過去十年間のドレス——仕立ての記録が、ほとんど残っておりません」

「残っていない?」

「はい。ランドルフ公爵家からは『専属職人が個人的に管理していた』との回答のみです。職人の名前も、経歴も、何も」

王妃は眉を上げた。十年間、社交界を支えた職人の記録が何もない。名前すら出てこない。それは——隠す理由があったということだ。

「ならば、ドレスそのものを調べなさい。過去に仕立てたドレスの現物を集めて」

令嬢たちが保管していたドレスが、次々と王宮に運び込まれた。一着、二着、十着、三十着——十年分のドレスが広間に並ぶ。色とりどりの絹と刺繍が、まるで花畑のようだった。

王宮お抱えの仕立て師——老練な職人で、五十年のキャリアを持つ男が、それらを一着ずつ検分した。

「……陛下。驚くべきことがございます」

「何です」

「全てのドレスに、同じ縫い癖がございます。針の入れ方、糸の引き加減、布の扱い方——一針ごとの間隔が、百分の一寸(すん)まで揃っている。これほどの精度は、五十年の経験をもってしても見たことがございません」

老職人の声が震えていた。

「これは一人の職人が、全て縫っています。そして、その者は——」

老職人は言葉を切り、目を閉じた。

「五十年縫ってきて、初めて膝をつきたくなりました。この針目には、わしの技の全てが負けております」

「一人? 十年間、何百着を?」

「はい。そして——」

仕立て師が、一着のドレスの裏地をめくった。

「裏地の二重縫いの中に、何かございます。糸の流れが不自然です。お許しをいただければ、解いてみたいのですが」

王妃が頷いた。

仕立て師の指が、慎重に二重縫いを解いていく。一層目の下に、もう一層。布の織り目に溶け込むように、同じ色の糸で——

署名が、現れた。

T.F.

別のドレスを解く。T.F.。
 もう一着。T.F.。
 また一着。T.F.。

全てのドレスに——一つ残らず。何百着もの裏地の下に、同じ二文字が静かに眠っていた。

「ティナ・ファブリツィア」

王妃の声が、広間に響いた。

「……ランドルフ公爵家が半年前に追い出した、あの伯爵令嬢の名前ではなくて?」

広間が、しん、と静まり返った。


ヴィクトル・ランドルフが王宮に呼び出されたのは、その翌日のことだった。

広間には王妃と側近たち、そして十年分のドレスが並んでいる。裏地がめくられた状態で。何百もの T.F. の署名が、一斉にヴィクトルを見つめている。

ヴィクトルの顔から、血の気が引いた。

「ランドルフ公爵家嫡男。この署名について、何か知っていますか」

王妃の声は穏やかだった。穏やかだからこそ、怖かった。

「し……知りません! 専属の職人が勝手に入れたもので——」

「専属の職人。それは、誰のことです?」

「母の……母が雇っていた職人で……」

「その職人の名前は?」

ヴィクトルの目が泳いだ。

十年間、一度も職人の名前を表に出さなかった。名前を出す必要がなかった。「ランドルフ家の専属職人」——その匿名が、全てを覆い隠してくれていたから。

「名前をお答えなさい」

「あの女が……ティナが、勝手にやったことです! 私は命じていません! あの女が自分の名前を売り込むために——」

「あの女」

王妃が、静かに繰り返した。

「その方は——あなたの婚約者だった伯爵令嬢ティナ・ファブリツィアのことですね?」

ヴィクトルの喉が、ひゅっと鳴った。

「この十年間、社交界のドレスを仕立てていたのは、ランドルフ家の専属職人ではなく——あなたの婚約者だった伯爵令嬢だった。そして公爵家は、彼女の功績を自家の名で社交界に出していた。そういうことですね?」

「ち、違います……! あれは、協力関係で……ティナも納得して……」

「半年前に婚約を破棄し、『誰でもできる針仕事』と言って追放したと聞いていますが?」

誰かが、密告したのだろう。あの日の広間には大勢の貴族がいた。ヴィクトルの言葉を、覚えている者がいたのだ。

ヴィクトルの膝が、震え始めた。尊大な口調は崩れ、声には敬語が混じり始めていた。追い詰められると、いつもこうだった。嘘、責任転嫁、そして——

「お、お願い……します。彼女を、連れ戻してください。私が謝ります。何でもします。あのドレスがなければ……公爵家は……社交界では……」

「連れ戻す?」

王妃は呆れたように首を振った。

「あなたは彼女の十年を奪い、名誉を踏みにじり、追い出しておいて——まだ利用しようというのですか」

広間の端で、貴族たちがひそひそと囁き合っていた。

「十年間、あの娘一人に縫わせて、手柄だけ横取りしていたのか……」
「公爵家の婚約者だった令嬢に、下働きのような仕事を……」
「あの方のドレスも、全てあの令嬢の手によるものだったのですって」

ヴィクトルの周囲から、人が離れていくのがわかった。ついさっきまで愛想よく挨拶していた者たちが、目を合わせようとしない。社交界とは、そういう場所だ。風向きが変われば、人は潮のように引いていく。

「だって……あいつがいないと……何も……」

自分では何も作れない。布に触れることすらしない。ティナがいなくなって初めて——社交界の全てが彼女の手で成り立っていたと、ようやく気づいた。

遅すぎた。何もかもが。

王妃は冷ややかな目でヴィクトルを見下ろした。

「ランドルフ公爵家には相応の処分を検討します。社交界への信用を裏切り、一人の令嬢の功績を十年にわたり詐称した。公爵家の称号に傷がつくことは——覚悟なさい」

ヴィクトルは、もう何も言えなかった。膝から崩れ落ちそうになるのを、辛うじて堪えている。広間に居合わせた誰もが、助けの手を差し伸べなかった。


王妃の使者が辺境のファーデンに到着したのは、それから五日後のことだった。

私は仕事場で農夫の作業着を繕っていた。襟元がほつれた、くたびれた麻の上着。でも、丈夫な良い布だ。きちんと直せば、まだまだ着られる。

使者は丁寧に頭を下げ、王妃からの親書を差し出した。

読み終えて、私は親書を静かに畳んだ。

全てが書いてあった。署名の発見。公爵家の詐称。王妃の怒り。そして——宮廷仕立て師の地位を用意する、という申し出。

「王都にお戻りになる意思は、おありですか」

使者が訊いた。

王都に戻れば、宮廷仕立て師の地位が得られる。公爵家への処分も下される。名誉は回復される。十年分の功績が、正しく私の名前で認められる。

窓の外を見た。ファーデンの街道を、荷馬車がゆっくりと通り過ぎていく。隣のエミルの店から、布を広げる音がする。今朝、農家の娘が収穫祭のドレスを着て見せに来てくれた。矢車菊の刺繍が、陽の光で綺麗に光っていた。くるくる回って、裾を広げて。嬉しそうに笑って。

仕事台の上には、旅人の外套が一着、仕上がりを待っている。その隣に、町の子供たちの冬服の注文書。その奥に、エミルが仕入れてきた辺境絹の包み。

「……いいえ。王都には戻りません」

使者が驚いた顔をした。

「ただ、お伝え願えますか。王妃陛下に」

「何と?」

「署名は消えません。糸は覚えていますから」

使者は不思議そうな顔をしたが、丁寧に書き留めて去っていった。

十年分の署名が、語ってくれた。私が何を作り、誰のために縫い、どれだけの時間を費やしたか。声を上げなくても、抗議しなくても——糸が、覚えていた。

だから、もう何も要らない。

復讐も、名誉も、地位も。

針と糸と、良い布があれば——私は、ここで生きていける。


それから、しばらく経った朝のことだった。

窓から差し込む朝日の中で、辺境絹を裁っていた。エミルが仕入れてきた、あの月光のような布。長いこと悩んで、ようやく形が決まった。仕立て屋の看板娘——つまり自分自身のための、一着。

生まれて初めて、自分のための服を縫っていた。

「おーい、ティナ」

エミルが店に入ってきた。両手に注文書の束を抱えている。いつもの日焼けした顔が、今日はどこか得意げだ。

「見てくれよ、これ」

「何ですか、そんなに沢山」

「王都からだ。令嬢たちから注文書が届いてる。今度は堂々と——『ティナ・ファブリツィア作』でってな」

注文書を一枚手に取った。

『ティナ・ファブリツィア様 謹んでドレスの仕立てをお願い申し上げます——』

私の名前が、書いてあった。

隠さなくていい名前が。

「……もう、隠さなくていいんですね」

声が震えた。自分でも驚くほど。

十年間、泣かなかった。婚約を破棄された時も、公爵邸を追い出された時も、一度も泣かなかった。泣いたら負けだと思っていた。泣いたら、十年間の仕事まで否定されるような気がして。

なのに今——涙が、止まらなかった。

注文書を胸に抱いて、ぽろぽろと涙をこぼした。嬉しくて。嬉しくて、嬉しくて。

「おいおい……」

エミルが困ったように笑って、それから——そっと、肩に手を置いてくれた。大きくて、温かい手だった。布の匂いがした。

「最初から隠す必要なんて、なかったんだけどな」

「……そうですね」

でも——隠さなければならなかった。あの場所では。

だから、隠さなくていい場所を見つけた。隠さなくていいと言ってくれる人を。

「全部受けるのか? 王都の注文」

「いいえ。受けられる分だけ。この町の人たちの分を、先に」

エミルが、にっと笑った。

「あんたらしいな」

私は涙を拭いて、辺境絹に針を戻した。朝日が布を透かして、銀色の光が揺れる。

自分の名前で、自分のために——一針、一針。

ああ、やっぱり。布は良い声で鳴く。


のちに伝え聞いた話によれば——ランドルフ公爵家は社交界から孤立し、あのリゼット嬢にも婚約を解消されたという。公爵家の醜聞が広まれば当然のことだ。華やかな金の巻き毛の令嬢は、沈む船からいち早く降りた。「誰でもできる針仕事」を誰もできなかった公爵家は、もう二度と社交界の華やぎの中心に戻ることはなかった。

でも、私にとっては——もう、どうでもいいことだった。

辺境の小さな仕立て屋で、今日も布を裁つ。
 隣のエミルが「今日は五着だけにしろよ」と笑う。
 旅人が外套を直しに来る。農家の娘が新しい刺繍をねだりに来る。

全てのドレスの裏地に、私は署名を入れる。
 もう隠さない。二重縫いにもしない。

堂々と、一針で——ティナ・ファブリツィア、と。


お読みいただきありがとうございます。歩人(ホビット)です。

今回のお話は「裏方型ざまぁ」——つまり「あの仕事、全部あの人がやっていたんだ」と周囲が気づく瞬間の快感を描きました。でも、本作で一番書きたかったのは、ティナが十年間ずっと署名を隠し続けていたということです。声を上げなかった。抗議もしなかった。でも針と糸で、静かに、確実に、自分の存在を刻み続けた。

「署名は消えません。糸は覚えていますから」——この言葉は、全ての裏方で働く人たちへのエールです。あなたの仕事は、見ている人が必ずいます。たとえ名前が表に出なくても、仕事の質は嘘をつきません。

そしてもう一つ。ティナが王都に戻らなかったこと。名誉回復よりも、自分の名前で、自分の好きな場所で縫い続けることを選んだこと。それが、彼女の本当の強さだと思っています。

「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズは一話完結の短編集です。
 他の作品もぜひお楽しみください。

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