その日、アーデルハイト王国の玉座の間は、千を超える貴族たちの熱狂で揺れていた。
新王カイル・アーデルハイトの即位式。
金糸の刺繍が施された深紅のマントを纏い、壇上に立つその姿は、二十三歳とは思えないほど堂々としていた。
私はそれを、遠い辺境の孤児院で伝え聞くはずだった。
本来なら。
*
即位の宣誓が終わり、祝辞が始まるその瞬間、カイル王——いえ、カイル陛下は、原稿から目を上げた。
「一つだけ、予定にないことを申し上げます」
典礼官が慌てた顔をしたのが、後方の席からでも見えた。
けれどカイル陛下は、穏やかに、しかし揺るぎない声で続けた。
「私の頭の上に、『統率95』という数字が浮かんでいる——そう教えてくれた人がいます」
玉座の間が、一瞬で静まり返った。
「私が八歳の時でした。その人は私の頭上を見て、こう言いました。『あなたには人を導く力があります。だから、人の痛みがわかる王になりなさい』と」
千人の貴族が、息を呑む気配がした。
「宰相グレイハム殿の頭上には『外交91』、騎士団長ヴァルトルート殿の頭上には『剣術96』——すべて、たった一人の家庭教師が見抜き、育て上げました」
壇上から名が告げられる。
「セシリア・ヴァイスフェルト先生です」
——ああ。
カイル様。あなたはまた、余計なことを。
私は玉座の間の最後列で、目頭を押さえるのに必死だった。
一年前のことを、思い出す。
あの日も、大勢の人が見ていた。
けれど場所は煌びやかな玉座の間ではなく、ガルシュタイン侯爵邸の広間。そして私を取り囲んでいたのは、祝福ではなく嘲笑だった。
「セシリア。今日をもって、おまえとの婚約を破棄する」
レイモンド・ガルシュタイン。
侯爵家の嫡男にして、十年間、私の婚約者だった人。
彼の隣には、若く華やかな令嬢が寄り添っていた。フリルの多い淡紅色のドレス。レイモンドの腕にしがみつくようにして、こちらを見ている。
「教育係ごときが、侯爵夫人の座を望むな」
レイモンドは冷たく言い放った。
「そもそも、家庭教師などという仕事は誰にでもできる。おまえの代わりなどいくらでもいるのだ」
周囲の貴族たちが、気まずそうに目を逸らす者と、面白そうに眺める者とに分かれていた。
私は——黙って、彼の頭上を見ていた。
人の頭上に、数字が浮かんで見える。
淡く光る文字と数値が、まるで透明な看板のように、その人の頭の上に並んでいる。
それが、私の加護。十歳の時に発現した、「才能鑑定」という力。
誰の頭の上にも、その人が持つ才能の数値が浮かんでいる。統率、剣術、魔法、慈悲、外交——あらゆる才能が、数字で示される。最大値は100。
見えるのは、私だけ。
レイモンドの頭上には、こう浮かんでいた。
教養42。
礼節31。
剣術28。
統率15。
そして——「潜在力78」。
潜在力。統率や剣術のように名前のついた才能ではない。まだどの分野に開花するか定まっていない、才能の種のようなもの。どう育てるかで、何にでもなりうる数字だ。
その最後の数字を見るたび、私は胸が痛んだ。
78。決して低い数字ではない。いえ、むしろ優秀と言っていい。適切な教育を施せば、開花率は80を超えるだろう。
でもこの十年間、レイモンドは私の教えを一度も受け入れなかった。
「教養42もあれば侯爵家には十分です。でもレイモンド様、あなたの潜在力は——」
「うるさい。俺に教育は不要だ。侯爵の嫡男に生まれた時点で、俺は完成されている」
何度、そう返されたか分からない。
才能は種だ。
土に埋め、水をやり、陽の光を浴びせなければ芽は出ない。数字は「いつか届きうる高さ」を示しているだけで、何もしなければ、その一割にも満たない力しか発揮されない。
レイモンドの現在の実力は、おそらく潜在力78のうち、10%程度。
つまり実質、7か8。
王都の社交界で、才能が開花した若者たちが次々と台頭する中、レイモンドだけが何の実績も持たない。それでも本人は気づかない。いえ、気づかないふりをしていた。
それでも、侯爵家の名前と財力が、その空洞を覆い隠していた。
少なくとも、この時までは。
「……わかりました」
私は静かに頷いた。
「婚約の破棄、承知いたします」
レイモンドが少し面食らった顔をした。泣いて縋ると思っていたのかもしれない。
「ただ、一つだけ」
私は教え子たちの顔を思い浮かべた。カイル様。グレイハム卿の息子アルヴィン。ヴァルトルート男爵の娘エーデル。他にもたくさんの、私が育てた子供たち。
「教え子の皆さんに、お手紙を書く時間だけ、いただけますか」
「……好きにしろ。どうせ、おまえの代わりの教師はすぐに見つかる」
そうですね、とは言えなかった。
代わりは見つかるでしょう。ただ、あの子たちの頭上の数字を見ることができる教師は、見つからないと思いますけれど。
その夜、私は十二通の手紙を書いた。
一通一通、教え子たちに宛てて。
カイル様には「あなたなら立派な王になれます。民を忘れないでください」と。
アルヴィンには「言葉の力を信じてください。あなたの交渉術は国を救います」と。
エーデルには「剣を置かないでください。あなたは誰よりも強い騎士です」と。
「あなたのことを、ずっと誇りに思っています」
すべての手紙の末尾に、同じ言葉を添えた。
書き終えた時、涙で便箋が滲んでいた。拭いても拭いても、新しい涙が落ちた。
十五年前に遡る。
宮廷家庭教師としての最初の教え子が、カイル様だった。
第三王子。当時八歳。王位継承権はあったものの、第一王子と第二王子の陰に隠れ、宮廷では「おとなしい末の子」としか見られていなかった。
けれど私が初めて謁見した時、彼の頭上に浮かんでいた数字に、息を呑んだ。
統率95。慈悲88。人望93。外交81。剣術72。
数字が五つも並ぶこと自体が珍しい。多くの人は二つか三つの才能を持つだけで、しかもそのほとんどは50前後だ。
統率95——この数字を、私は他の誰の頭上にも見たことがなかった。
王族の血がそうさせるのか、それとも生まれ持った資質なのか。いずれにせよ、この子は特別だった。
「殿下。失礼ですが、ご自分にどのような才能があるか、お考えになったことはありますか」
「……ぼく、何も得意なことがないんです。兄上たちみたいに剣も強くないし、魔法も使えないし」
八歳のカイル様は、そう言って俯いた。
「いいえ」
私は膝をついて、目線を合わせた。
「あなたには、人を導く力があります。それは剣術や魔法よりもずっと稀有な才能です」
小さな碧い目が、不思議そうに私を見上げた。
「だから——人の痛みがわかる王になりなさい」
それから四年間、私はカイル様に帝王学、歴史、外交、そして「民の声を聴く姿勢」を教えた。
才能値が高いからといって、放っておけば開花するわけではない。統率95の器を持つ子には、95を引き出すための教育が必要だ。
私が施したのは、教科書通りの授業ではなかった。
城下町に連れ出して市場を歩かせた。病院を訪ねて、苦しむ人の傍らに座らせた。農村に赴いて、土に触れさせた。
「先生。王というのは、民に仕える者なんですね」
十二歳のカイル様がそう言った時、頭上の「慈悲」が85から88に上がったのが見えた。
数値そのものは生まれ持った上限を示す。けれど私の目に映るのは、開花した分だけだ。つまり慈悲の上限はもっと高い。88は限界ではなく、88まで開花したということ。この子の慈悲は、もう上限近くまで花開いている。
同じ頃、宰相の息子アルヴィンの頭上には「外交91」が浮かんでいた。
聡明だけれど内気な少年。本ばかり読んで、人と話すのが苦手だった。
「アルヴィン様。あなたは、人の言葉の裏を読む力に長けています」
実地の交渉訓練を組んだ。最初は失敗ばかりだったけれど、三年後には宮廷の大人たちを舌を巻かせるほどの交渉術を身につけた。
騎士団長ヴァルトルートの娘エーデルには「剣術96」が浮かんでいた。
しかし当時の宮廷には、女性が剣を握ることへの偏見が根強かった。
「女に剣など持たせるな」
何人もの貴族がそう言った。エーデル本人も、自分の力を信じられずにいた。
「エーデル様。あなたの剣の才能は、騎士団長のお父上をも超えます」
私は才能値を根拠に、彼女を剣術の道へ推薦した。もちろん数値そのものは明かさない。「この子には剣の才がある」と、教育者としての実績を賭けて訴えた。
今、エーデルは王国最年少の騎士団副長だ。
十二年間で、私が教えた子供は三十余名。
その全員の頭上に浮かぶ数字を見て、一人一人に最適な道を示し、才能を開花させてきた。
——全員、と言いたかったけれど。
たった一人だけ、教えを拒み続けた人がいた。
「俺には生まれながらの才がある。教育など下々の仕事だ」
レイモンド・ガルシュタイン。
私の、元婚約者。
婚約を破棄された翌日、私は王都を出た。
行くあてはなかった。伯爵令嬢とはいえ、実家は没落寸前。家庭教師の収入で一族を支えていたようなものだ。婚約破棄と同時に宮廷の職も失い——正確には、レイモンドが手を回して解任させたのだけれど——私は文字通り、何もかもを失った。
馬車を乗り継ぎ、辿り着いたのは王都から五日ほどの辺境の村。
そこに、小さな孤児院があった。
「陽だまりの家」。
壁はひび割れ、屋根の一部は朽ちかけ、庭は雑草だらけ。
院長を務める老婦人が、疲れ切った顔で出迎えてくれた。
「家庭教師の経験があるなら、ぜひ手伝ってほしい。子供たちに文字も教えられない有様で……」
十五人の孤児たち。
その一人一人の頭上に、数字が浮かんでいた。
私は思わず、涙ぐんでしまった。
この子たちにも、才能がある。
見つけてもらえていないだけで、こんなにも輝く数字が、頭の上で静かに灯っている。
翌日から、私の新しい仕事が始まった。
まず目についたのは、走るのがとても遅い少年だった。
名前はトビアス。十歳。いつも他の子に置いていかれて、べそをかいている。
「トビアス。こちらに来てごらんなさい」
彼の頭上を見る。
運動35。体力28。
——観察力91。
91。
「あなたは、走るのは得意じゃないかもしれません」
トビアスの顔が曇る。
私は微笑んで、続けた。
「でも、あなたには『見る力』があります。とてもすごい力が」
「……見る力?」
「ええ。たとえば、あの木の枝に止まっている鳥。何色でしたか?」
「えっと、茶色……じゃなくて、背中が茶色で、お腹が白くて、くちばしの先だけ黄色い鳥です」
他の子供たちが、目を丸くした。誰もそこまで見ていなかった。
「ね? あなたは誰よりも、世界をよく見ているんですよ」
トビアスの目が、きらきら光った。
「学者になれますか?」
「きっと、素晴らしい学者になれますよ」
次に気にかかったのは、いつも喧嘩ばかりしている少女。
名前はリーゼ。十二歳。乱暴者と呼ばれ、院長も手を焼いている子だった。
リーゼの頭上——正義感94。剣術87。
私は少し、驚いた。
正義感94。この数字は、カイル様の慈悲88よりも高い。
「リーゼ。あなたは、なぜ喧嘩をするの?」
「だって、大きい子が小さい子をいじめるから! 黙ってられないでしょ!」
「そうね。あなたは弱い者を守りたいのね」
「……当たり前じゃん」
「あなたは、とても強い心を持っています。その強さを、正しい方向に使う方法を教えましょう」
木の枝を剣に見立てて、基本の型を教えた。リーゼは驚くほどの速さで習得していった。
「先生! あたし、騎士になれる?」
「ええ。あなたなら、なれますよ」
騎士団副長エーデルのことを思い出した。あの子も、最初は自分の才能を信じていなかった。
そして、一番心に残ったのは、何をやっても「普通」の少年だった。
名前はルッツ。十一歳。走るのも普通、勉強も普通、喧嘩も弱くないけど強くもない。
「ぼくって、何にも取り柄がないんだ」
ルッツは寂しそうに笑った。
彼の頭上を見る。
運動48。学力52。体力45。剣術41。魔力39。
全てが40から50の間。際立った数字がない。
いわゆる「器用貧乏」。いや、器用ですらない「平凡」の数値。
でも、最後の一行が目に入った瞬間、私は息を呑んだ。
思いやり99。
……99。
私は十二年間、三十人以上の才能値を見てきた。
カイル様の統率95も、エーデルの剣術96も、途方もない数字だった。
でも99という数値は、初めてだった。
「ルッツ」
私は彼の前に膝をついた。
声が震えないように、努力した。
「あなたは、何もできないんじゃありません」
「でも、ぼく——」
「あなたには、世界で一番大切な才能があるんですよ」
ルッツの目が、丸くなった。
「あなたは——人を思いやる力が、ものすごく強いの。困っている人を放っておけないでしょう? 泣いている子がいたら、自分も悲しくなるでしょう?」
「……うん。でも、それって才能なの?」
「ええ。一番すごい才能です。剣が強い人はたくさんいます。頭がいい人もたくさんいます。でも、ルッツみたいに人のことを思える人は、本当に、本当に少ないの」
「……先生」
「あなたは、そのままで素晴らしいんですよ」
ルッツの目から、涙がこぼれた。
大粒の涙が、次から次へと。
「だれにも、そんなこと言ってもらったことない」
私も泣いてしまった。
この子の思いやり99は、孤児院のみんなが知っている。ルッツがいると場が和む。ルッツが笑うとみんなが笑う。喧嘩が起これば間に入り、泣いている子がいれば隣に座る。
でも誰も、それを「才能」だとは教えてあげなかったのだ。
剣が振れないと嘆き、足が遅いと俯き、魔法が使えないと泣く。この世界は、目に見えやすい才能ばかりをもてはやす。
でもルッツのような子こそが、本当の意味で人を救えるのだと、私は知っている。
孤児院での日々は、静かで、温かかった。
朝は子供たちと畑仕事をして、昼は読み書きと算術を教え、午後はそれぞれの才能に合わせた個別指導。夕方は全員で食卓を囲む。
トビアスは植物の図鑑を作り始めた。村の周辺の草花を観察し、驚くほど精密な絵を描いている。
リーゼは木剣の素振りを日課にして、村の悪ガキたちから小さい子を守る「自警団長」を名乗り始めた。
ルッツは相変わらず何でも「普通」だったけれど、院長先生が風邪をひいた時に誰よりも先に看病して、夜通し額に布を当てていた。
私は毎日、子供たちの頭上に浮かぶ数字を見ながら思った。
——才能は、種だ。
種は土に埋めて、水をやらなければ芽を出さない。
でも正しい場所に植えれば、どんな種も必ず芽吹く。
ここにいる子供たちの才能は、まだ芽を出したばかり。
けれどいつか必ず、大きな花を咲かせる。
*
一方、王都では静かに、しかし確実に変化が起きていたらしい。
カイル様が王太子に指名された。
第一王子は放蕩が過ぎて廃嫡。第二王子は自ら辞退した。残された第三王子——カイル様の統率力と人望が、宮廷の誰の目にも明らかだったという。
宰相の息子アルヴィンは、隣国との交渉で大功績を挙げた。これまで十年間膠着していた国境紛争を、わずか三ヶ月の対話で解決に導いたと聞いた。
エーデルは騎士団副長に昇進した。女性としては史上初の抜擢。
他にも、私が教えた子供たちが、次々と頭角を現している。
法務官になった子、学院の主席になった子、外交官として活躍する子。
やがて、宮廷でこんな声が囁かれ始めた。
「この者たちに共通する経歴がある。全員、セシリア・ヴァイスフェルトの教え子だ」
「あの、一年前に追放された家庭教師の?」
「ただの家庭教師ではない。彼女が教えた三十余名のうち、王国の要職についた者が十二名。いったい何を教えていたんだ?」
その噂は、やがてレイモンドの耳にも届いたはずだった。
自分が捨てた家庭教師が、王国の未来を作っていたという噂。
自分だけがその恩恵に与っていなかったという事実。
それがどれほど彼を苛んだか、私には想像がつく。
なぜなら、レイモンドの本質は「臆病」だったから。学ぶことを拒んだのではない。学んだ結果、自分の無能を突きつけられることが怖かったのだ。
即位式の日に話を戻そう。
カイル陛下が私の名を告げた瞬間、玉座の間がざわめいた。
「セシリア・ヴァイスフェルト先生は、ご自身の加護によって、人の才能を数字として見ることができます」
会場が、もう一度静まった。
「先生は、私たちの才能を見抜き、一人一人に最も適した教育を施してくださいました。今日この場にいる多くの者が、先生の教えによって才能を開花させた者たちです」
カイル陛下が、右手を上げた。
「先生の教え子で、この場にいる者——前に出てください」
しばらくの沈黙の後。
宰相グレイハム卿の隣に立つアルヴィンが、最初に一歩を踏み出した。
「私は外交の才を、セシリア先生に見出していただきました。内気で人と話せなかった私に、『あなたには人の言葉の裏を読む力がある』と教えてくださいました」
次にエーデルが進み出た。騎士団の礼装に身を包んだ凛々しい姿。
「私が剣を握ることを、宮廷の誰もが反対しました。でも先生だけが『あなたの剣の才は、お父上をも超えます』と言ってくださいました。あの言葉がなければ、私は今ここにいません」
一人、また一人。
教え子たちが前に出て、証言していく。
「先生は私の魔法の才を——」
「算術の道を示してくださった——」
「法律に向いていると——」
気がつけば、壇上の前に十五人以上が並んでいた。
宰相府の高官。騎士団の幹部。学院の教授。法務官。外交官。
王国を支える人材の、驚くほど多くが、私の教え子だった。
会場のざわめきが、驚愕へと変わっていく。
「あの家庭教師が……これだけの人材を育てたのか」
「王太子を見出したのも、彼女だったのか」
「一年前に追放された、あの……」
私は最後列で、唇を噛んでいた。
泣いてはいけない。ここで泣いたら、教え子たちに心配をかける。
でも——ああ、みんな、立派になって。
カイル陛下が、静かに会場を見渡した。
「セシリア先生は、ご自身の功績を一度も語りませんでした。才能を見抜く力を持ちながら、それを私利のために使うことは一度もありませんでした。先生が望んだのはただ一つ——教え子の成長です」
そしてカイル陛下の声が、わずかに硬くなった。
「にもかかわらず、先生は一年前、この王国から追放されました。理由は——婚約者に『教育係ごときが侯爵夫人の座を望むな』と言われたからです」
玉座の間の空気が、凍った。
千人の視線が、一点に集まった。
最前列の貴賓席。ガルシュタイン侯爵家の席。
レイモンド・ガルシュタインが、蒼白な顔で座っていた。
*
静寂の中、ひそひそ声が水面の波紋のように広がった。
「あの男——セシリア先生の元婚約者だろう」
「ガルシュタイン侯爵の嫡男か。実績は……何かあったか?」
「何もない。あの人だけだ。先生の教え子でないのは」
「教え子ではなく、婚約者だったのだろう? なぜ教えを受けなかったんだ」
「拒んだのだ。『教育など不要』と」
レイモンドが立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて倒れた。
「ふ、ふざけるな!」
その声は、千人の沈黙を切り裂くには——あまりにも、薄かった。
「教育など関係ない! 俺は侯爵の嫡男だ! 血筋と格式で地位を得ている!」
誰も、応えなかった。
かつてならば取り巻きの貴族が追従の声を上げただろう。でも今この場で、レイモンドの味方をする者はいなかった。
最前列の老侯爵が、小さくかぶりを振った。隣の夫人が扇で顔を隠す。後方で、若い騎士が憐れむような目を逸らした。
会場の空気が、嘲笑でも怒りでもなく、もっと残酷なもの——同情に変わりつつあった。
周囲の貴族たちの頭上に、数字が浮かんでいる。
私にしか見えない数字。けれど今、数字を見るまでもなく、レイモンドの「空洞」は誰の目にも明らかだった。
「あの女が勝手に辞めたんだ! 俺は頼んでいない! 教育係など、こちらから願い下げだ!」
レイモンドの声が、上ずっている。
責任転嫁。八つ当たり。十年間、何度も聞いたパターンだった。
——でも、今日は違った。
レイモンドの叫びが途切れた。
喧騒が消え、玉座の間が再び静まった時——彼は自分の手を見つめていた。
震えていた。
「…………」
長い、長い沈黙の後。
レイモンドが、掠れた声で呟いた。
「……俺の頭の上にも、数字は……あったのか」
その声は、もう虚勢ではなかった。
初めて聞く、レイモンドの本当の声だった。
恐怖。
自分が無能だと認めることへの、純粋な恐怖。
十年間の虚栄が崩れた後に残った、剥き出しの問い。
教え子たちが私を振り返った。カイル陛下が、目で頷いた。
私は最後列の席から立ち上がり、人垣を抜けて、前へ進んだ。
一歩一歩が、とても長く感じた。
レイモンドの前に立つ。
一年ぶりに見る彼は、あの日よりもずっとやつれていた。
頭上の数字は変わっていない。
教養42。礼節31。剣術28。統率15。
そして——潜在力78。
この数字だけは、ずっと同じだ。
開花しなかっただけで、消えてはいない。
「あなたの頭の上にも、ちゃんと数字はありましたよ」
私は、静かに言った。
レイモンドの目が見開かれた。
「潜在力78——立派な数字でした」
会場から、小さなどよめきが起きた。
78。それは、この場にいる多くの貴族より高い数字だ。
「育てなかっただけです」
その一言が、レイモンドの最後の虚栄を砕いた。
低くはなかった。
才能がなかったのではなかった。
ただ——学ぶことを、拒んだだけ。
レイモンドの膝が折れた。
玉座の間の冷たい石床に、膝をついた。
「……なぜ」
「はい?」
「なぜ……教えてくれなかった」
「教えようとしました。何度も」
「…………」
「でもあなたは、『教育など不要だ』と。十年間、一度も」
レイモンドが頭を垂れた。
肩が、小さく震えていた。
玉座の間の千人が、息を呑んで見つめている。
けれど私の目に映っていたのは、目の前のこの人だけだった。
潜在力78。
あなたは本当に、決して無能ではなかったのに。
それ以上は、何も言わなかった。言えなかった。
言葉にしてしまったら、十年分の後悔が溢れ出しそうだったから。
即位式の後、私は王都を辞去した。
カイル陛下は「宮廷教育顧問」の地位を用意してくださっていたけれど、丁重にお断りした。
「先生。なぜですか」
カイル陛下が、いえ、カイル様が、少年の頃の口調で問うた。
「ここにも、才能の芽がたくさんあるんですよ」
私は、孤児院の子供たちの顔を思い浮かべて微笑んだ。
「トビアスの観察力91を、ちゃんと開花させてあげないと。リーゼの正義感94も。ルッツの思いやり99も」
「……先生は、いつもそうですね」
カイル様の目に、涙が光っていた。
「自分のことより、教え子のことばかり」
「だって、それが私の仕事ですもの」
カイル様が、孤児院まで送ってくださることになった。
辺境の小さな孤児院に着いた時、子供たちが一斉に駆け寄ってきた。
「先生おかえり!」
「カイル陛下だ! 本物だ!」
「すっげー! 王様だ!」
リーゼがカイル様の前に仁王立ちして言った。
「あんた、先生を泣かせたら承知しないからね!」
「り、リーゼ。この方は国王陛下ですよ」
「知ってるよ! でも先生は先生で、王様は王様でしょ!」
カイル様が声を上げて笑った。
子供たちがカイル様にまとわりつき、庭を案内し、トビアスの植物図鑑を見せ、ルッツがおずおずとお茶を出す。
ふと振り返ると、カイル様がこちらを見つめていた。子供たちに囲まれた私を、少年の頃には見せなかった、静かで深い目で。視線が合うと、カイル様は何でもないように微笑んで目を逸らした。
カイル様がルッツに「ありがとう」と微笑んだ瞬間、私はカイル様の頭上を見た。
統率95。
人望93。
外交81。
剣術72。
慈悲——89。
「……伸びましたね、慈悲が」
思わず声に出てしまった。
「え?」
「いえ……なんでもないです」
88から89。たった1の変化。
でもその1は、カイル様が王として民に寄り添い続けた一年間の証だ。
目の奥が、じんと熱くなった。
「先生? 泣いていますか?」
「……いいえ。泣いてなんか」
泣いていた。止まらなかった。
「あなたが——」
声が震えた。
「あなたが、私の一番の自慢です」
カイル様は少し困ったように笑って、それから真剣な顔になった。
「先生。僕は、ずっと先生に言いたいことがありました」
「はい」
「先生の頭の上にも、きっと数字があるはずです。僕には見えませんが——教育という才能の数字は、きっと100に近いと思います」
「……カイル様」
「僕が王になれたのは先生のおかげです。だから——先生がどこにいても、何をしていても、僕は先生の教え子であることを誇りに思います」
——ああ。
十二年間で一番、嬉しい言葉だった。
私はこの子のためだけに教師をやってきたわけではない。でも、この子が王になって、こうして目の前で笑って、「先生の教え子であることを誇りに思う」と言ってくれる。
それだけで、全部報われた。
全部。
*
カイル様が王都に帰った夜、私は一通の手紙を書いた。
宛先は、レイモンド・ガルシュタイン。
——いえ、もう侯爵家の嫡男ではない。即位式の醜聞がきっかけで、ガルシュタイン侯爵はレイモンドを廃嫡したと聞いていた。
便箋に向かって、私はしばらく考えた。
それから、ゆっくりと書き始めた。
「レイモンド様。
お元気でしょうか。
あなたに最後にお伝えしたいことがあります。
あなたの潜在力78は、今も消えていません。才能は種です。植える時期に早いも遅いもありません。
今からでも遅くはありません。
学ぶことを、始めてください。
もし教師が必要でしたら、いつでもお手紙ください。
よい方を紹介できると思います。
——元・あなたの婚約者、セシリア・ヴァイスフェルトより」
もう一行、書こうとして、やめた。
「私が教えたかった」という言葉は、今更すぎるから。
手紙を封筒に入れ、蝋で封をした。
*
数ヶ月後。
辺境の孤児院に、見慣れない馬車が止まった。
中から降りてきたのは、少しやつれた、線の細い青年だった。
以前のような高価な衣装ではなく、質素な旅装。
レイモンドだった。
彼は孤児院の門の前で立ち止まり、しばらく動かなかった。
そして手に持った一冊の本を、胸に抱きしめた。
その本は、初等教育の教科書だった。
子供が最初に読む、一番簡単なやつ。
私は窓辺からそっとその姿を見て、彼の頭上に目をやった。
教養42。礼節31。剣術28。統率15。
潜在力78。
数字は変わっていなかった。
変わるはずがない。数字は上限であって、現在値ではないのだから。
でも——初めて、その種に水をやろうとする人が、門の前に立っていた。
「先生」
リーゼが窓辺に来て、不審そうに言った。
「あの人、誰? なんか暗い顔してるけど」
「……新しい生徒さんかもしれませんね」
「えっ、大人なのに?」
「ええ。学ぶのに、遅すぎることはありませんから」
私は窓辺を離れ、玄関に向かった。
——潜在力78。
育てなかっただけ。
今度こそ、その種に芽を出させてあげられるだろうか。
分からない。
でも、教師の仕事は、信じることだ。
種がいつか芽を出すと、信じ続けること。
玄関の扉を開けた。
春の陽射しの中で、レイモンドがぎこちなく頭を下げた。
「……その。学ぶ、ということを……教えてくれないか」
私は微笑んだ。
「ええ。喜んで」
彼の頭上で、潜在力78の数字が、朝日を浴びて静かに光っていた。
お読みいただきありがとうございます。歩人です。
今作は「発覚型ざまぁ」の変種として書きました。多くの「ざまぁ」作品では「追放した側が主人公の真の実力を知って後悔する」という流れですが、今回発覚するのは「誰が育てたか」という事実です。王国の人材を育て上げた一人の家庭教師の功績が明るみに出た時、教えを拒んだ者だけが取り残される——その構図を楽しんでいただけたなら幸いです。
数値可視化(才能値)は、この物語の核でもあります。頭上に浮かぶ数字が見えるセシリアだからこそ、一人一人に最適な教育を施せた。でも数字が見えることと、数字を育てることは違います。レイモンドの「潜在力78」という数字がこの物語の一番のポイントです。彼は決して無能ではなかった。むしろ78という数字は、立派な才能の証です。ただ、学ぶことを拒んだ。才能が種であるなら、拒絶は才能よりも重い——そこに、この物語の苦さと、最後の一筋の希望を込めました。
「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズは一話完結の短編集です。
他の作品もぜひお楽しみください。
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