その朝、王城の大庭園から色が消えた。
わたしが知ったのは、ずいぶん後になってからのことだ。百年もの間、四季を問わず咲き誇り、『花の王都』の象徴とまで謳われたあの庭が——たった一夜で、灰色の茎だけになったのだと。
宮廷の庭師たちが懸命に水を撒いたらしい。肥料を入れ替え、土を掘り返し、新しい苗を植えたとも聞いた。
けれど花は応えなかった。
王妃陛下が灰色の庭園を窓から眺めて、こう呟いたそうだ。
「……あの子が、泣いている」
花ではなく——花を愛した、ひとりの少女のことを思って。
でも、ごめんなさい。わたしはもう泣いていません。
だって今、わたしの目の前には——風に揺れる一面の花畑があるのだから。
これは、追放された宮廷花師の、小さな花の物語。
一ヶ月と少し前のことを、思い出す。——辺境に来て三ヶ月が経った今、あの日のことを。
宮廷の大広間。冷たい石の床に跪くわたしの前で、オスカー王弟殿下は退屈そうに言い放った。
「婚約は破棄する。花を飾るだけの令嬢は不要だ」
殿下の隣には、見知らぬ令嬢が腕を絡ませていた。新しい寵姫——名前すら知らない。殿下の移り気は今に始まったことではないから、驚きはなかった。
ただ、次の言葉だけは。
「庭園の予算は軍に回す。花師の職も廃止だ。不要な出費を削るのは当然だろう」
——庭園の、予算を。
息が詰まった。
あの庭を守って十年。毎朝日が昇る前に起きて、花の声を聴いた。どの子が水を欲しがっているか、どの子が日陰を好むか。千を超える花たちの、一つひとつを。
そして——隣国への花束。白薔薇を束ねるとき、わたしはいつも友好の祈りを込めた。わたしの加護を通して、受け取った人には「温かさ」が伝わる。言葉よりも確かな、花言葉の外交。十年間、ブリューテン王国と隣国の同盟が揺らがなかったのは、あの花束があったからだ。
けれど殿下は、そのことを知らない。花言葉が貴族の必修教養であることくらい、ご存じのはずだ。けれど殿下にとって花束はただの「飾り」——花言葉など女子供の遊び、くらいにしか思っていない。花が言葉を持つことも、花に心があることも。
「何か言うことは」
殿下が尋ねた。眉ひとつ動かさず、まるで書類の決裁でもするように。
わたしは立ち上がった。膝が少し震えていたけれど、声は——不思議と落ち着いていた。
「……一つだけ、よろしいですか」
殿下が顎をしゃくる。
「庭園の花に、お別れをさせてください」
許可が下りたのは、花に興味がないからだろう。わたしにではなく、新しい令嬢に笑いかけながら、殿下は手を振った。
花は殿下の目には映らない。十年前も、今も、これからも。
大庭園は、いつもと変わらず美しかった。
正門を抜けると、両脇に白薔薇の並木道。その奥に色とりどりのダリア、アネモネ、クロッカス。噴水の周りにはラベンダーが紫の絨毯を敷き詰めて、甘い香りが風に乗る。
わたしには、その全てが——光って見えていた。
金色の光。
花たちの感情が、色のオーラとなって瞳に映る。わたしだけに与えられた加護——『花の声』。
金色は幸せ。花たちは今、満ち足りていた。水も日差しも十分で、毎日わたしが話しかけている。だから、金色に輝いている。
わたしは膝をついて、一番近くの白薔薇に触れた。
「……ごめんね」
花弁がそっとわたしの指に寄り添う。
「もう、お世話できなくなるの」
金色のオーラが、揺らいだ。
じわりと——青に変わっていく。
寂しい。花が泣いている。
その青い光が、白薔薇から隣のダリアへ、ダリアからアネモネへ、アネモネからラベンダーへ。波紋のように広がって、庭園全体が青い光に包まれた。
千の花が、一斉に泣いていた。
涙がこぼれそうになった。でも——泣いたら、花たちがもっと悲しむ。
わたしは微笑んだ。精一杯の微笑みで、花たちに語りかけた。
「大丈夫。あなたたちは強い子だから。わたしがいなくても、きっと——」
……きっと、大丈夫。
そう言いたかった。でも声にならなかった。花は正直だから。嘘をつけば、花には伝わってしまう。
わたしがいなくなったら、この庭は——。
首を振った。考えても仕方のないことだった。
わたしは最後に、庭園の中央に咲いていた一本の白薔薇を手折った。
ずっと大切に育ててきた、外交の象徴。
その花弁に唇を寄せて、囁く。
「ありがとう。十年間、ずっと」
白薔薇のオーラが——青から、白に変わった。
白は、感謝。
花がわたしに、ありがとうと言っている。
王城を出るとき、振り返らなかった。
振り返ったら、きっと歩けなくなるから。
辺境領ヴィントフェルト。
馬車から降りたわたしを迎えたのは、見渡す限りの荒野だった。
灰色の岩と、乾いた土。風が容赦なく吹きつけて、髪に絡まっていた花弁が攫われていく。北の辺境——「花の王都」からはるか遠い、花のない大地。
追放先として指定された場所。二度と王都の土を踏むなという、殿下からの最後の命令。
見渡す限りの灰色の中に、花の気配はひとつもない。加護が何も感じ取れない。まるで世界から色だけが抜け落ちたような——そんな場所だった。
「……フローラ・ブルーメンタールか」
低い声がした。
振り向くと、大きな男が立っていた。傷だらけの手。武骨な体格。軍人上がりだと一目で分かる。表情は岩のように硬いが——目だけが、どこか優しかった。
「ギルバート・ヴィントフェルト。ここの領主だ」
「フローラです。……お世話になります」
頭を下げると、ギルバート様は不思議そうにわたしを見た。
「宮廷花師だったんだろう。こんな荒れ地に何をしに来た」
「花を咲かせに」
「は?」
ギルバート様は、明らかに呆れた顔をした。
「花なんか咲くわけない。この土地は死んでる。風は強いし、土は乾いてるし、岩だらけだ。十年住んでるが、草一本まともに生えたことがない」
わたしは荒野の端に歩いていって、膝をつき、土に手を触れた。
冷たい。乾いている。でも——死んではいない。
目を閉じると、かすかに感じる。土の奥深くに眠っている、小さな小さな生命の気配。花の声は聴こえないけれど——土の声なら、少しだけ。
この土は、花を待っている。ずっと長い間、誰かが種を蒔いてくれるのを待っていた。
「……ここに、花を咲かせましょう」
「聞いてたか? 無理だと——」
「大丈夫です」
わたしは振り返って、微笑んだ。
「花は、愛してあげれば咲きます。どんな場所でも」
ギルバート様は腕を組んで、鼻で笑った。
でも——止めはしなかった。
翌日から、わたしの新しい暮らしが始まった。
まず、土を調べた。指で掘り返し、匂いを嗅ぎ、舌の先でほんの少し味をみる。王都の庭師時代に覚えた、土の読み方。
アルカリに傾いているけれど、それほど悪くない。水さえあれば——いいえ、風よけさえ作れば、花は育つ。
ギルバート様の屋敷の裏手に、風を遮る石壁があった。ここなら直接風が当たらない。日当たりも悪くない。
わたしは鞄から取り出した種を、一つひとつ丁寧に土に埋めた。王都を出るとき、庭園から密かに持ち出した種たち。白薔薇、ラベンダー、勿忘草、ヒナギク。わたしの大切な友達。
「お願いね。新しいお家だけど、ここで元気に育ってね」
種に話しかけながら、加護の力をそっと注ぐ。花を枯らすことはできないけれど、生命力を分け与えることはできる。荒れた土地でも、わたしの愛があれば——きっと。
水は井戸から汲んだ。何度も何度も往復して、小さな花壇に水を撒く。腕が痛くなっても、足がふらついても、手を止めなかった。
日が暮れるまで。
夕焼けが荒野を赤く染めて、ようやく柄杓を置いた。掌に豆ができていた。宮廷では手袋をしていたから、こんなことは初めてだ。
屋敷に戻ると、ギルバート様がぶっきらぼうに夕食を出してくれた。硬いパンと、豆のスープ。王都の食事とは雲泥の差だけれど、一日中土をいじった体には沁みた。
「……何も出ないぞ」
「はい?」
「芽なんか出ない。期待するだけ無駄だ」
「そうでしょうか」
わたしは微笑んだ。
「花は、信じてくれる人のところに咲きますから」
ギルバート様は何か言いかけて、口を閉じた。そして黙ってスープのおかわりをよそってくれた。
不器用な優しさだと思った。言葉にはしないけれど、行動で示す人。花に少し似ている。
七日目の朝。
目が覚めて、いつものように花壇へ向かう。まだ暗い。東の空がうっすら白んでいるだけ。
石壁の陰の花壇に辿り着いて——息を飲んだ。
小さな緑。
乾いた灰色の土の隙間から、ほんの数ミリ、緑色の芽が顔を出していた。
わたしは膝をついて、目を凝らす。加護が反応する。かすかな、本当にかすかな——金色の光。
芽が、幸せだと言っている。
「……おはよう」
涙が出た。今度は我慢しなかった。嬉しくて、嬉しくて——指先で芽に触れると、金色の光がほんの少し強くなった。
「おはよう。ようこそ、ヴィントフェルトへ」
小さな緑は、わたしに向かって背を伸ばすようにゆっくりと揺れた。朝の光を浴びて、金色のオーラがきらきらと瞬く。
こんな小さな芽なのに——こんなにも力強い。荒野の土を押し上げて、世界に顔を出した。それだけで、どれほどの勇気がいったことだろう。
「……出てる」
背後から、低い声。振り向くと、ギルバート様が立っていた。朝の見回りの途中なのだろう。剣を腰に佩いたまま、小さな芽を凝視している。
硬い表情は変わらない。けれどその目が——少し、見開かれていた。
「はい。出ましたね」
わたしが笑うと、ギルバート様はしばらく黙った。芽と、わたしの顔を交互に見て。
「……水、持ってきてやる」
そう言って、踵を返した。
すぐに大きな桶を抱えて戻ってきたギルバート様は、花壇の端にそれを置いて、ぼそりと言った。
「井戸からここまで遠いだろう。毎朝ここに置いておく」
「ギルバート様——」
「……仕事のついでだ」
耳の先が、ほんの少し赤かった。
わたしは桶の水を柄杓に汲んで、芽にそっとかけた。金色の光が、ふわりと広がる。
「ありがとうございます。この子も喜んでいます」
「子って……芽だろ」
「わたしにとっては、子供みたいなものです」
ギルバート様は理解できないという顔をしたけれど——翌朝も、桶は花壇の端に置かれていた。
その翌日も。
毎朝欠かさず。
二週目。芽は順調に育って、小さな葉をつけた。
わたしは毎日、花壇を少しずつ広げていった。石壁の陰から始まって、日当たりのいい南側へ。風よけの柵をギルバート様が作ってくれた。「余った木材があった」と、ぶっきらぼうに言いながら。
余った木材にしては、やけに綺麗に削られていたけれど——黙っておいた。
花の声を聴きながら、一つひとつ世話をする。
「この子は日当たりが好きね。もう少し南に移しましょう」
ラベンダーの苗をそっと植え替える。かすかな金色のオーラが、ぱっと明るくなった。
「この子は風が苦手。柵の内側がいいわ」
勿忘草の芽を風よけの近くに移す。青みがかっていたオーラが、安心したように薄い金色に変わった。
花と話しながら、花壇を歩く。しゃがんで、立って、また膝をつく。その繰り返しが——不思議と、幸せだった。王城の大庭園を管理していた頃とは違う。あの頃は千の花を一人で世話する責任の重さに、時々押しつぶされそうになったけれど。
今はただ、目の前の小さな命と向き合っている。それだけでいい。
三週目に入ると、白薔薇の蕾が膨らみ始めた。
わたしが花壇に向かって話しかけていると、小さな足音が聞こえた。
「おねえちゃん、何してるの?」
領民の子供だった。五歳くらいの女の子が、大きな瞳でわたしを見上げている。
「お花の、お世話をしているの」
「おはな? あの緑の?」
「もうすぐ咲くのよ。ほら、ここ——蕾がついているでしょう?」
女の子の目がまん丸になった。この辺境で花を見たことがないのだろう。灰色の大地しか知らない子供にとって、緑は——奇跡に等しい。
「きれい……!」
女の子が蕾にそっと触れた。その瞬間、白薔薇のオーラがきらりと輝いた。白——感謝の色。花も、触れてもらえて嬉しいのだ。
「ねえねえ、あたしもおみずやっていい?」
「もちろん。やさしく、ね」
小さな手に柄杓を持たせてあげると、女の子は真剣な顔で水をかけた。水が少し多すぎたけれど、花壇の花たちは金色に揺れている。大丈夫、嬉しいってよ。
その日から、この子は毎日花壇に来るようになった。友達を連れて。子供たちの笑い声が花壇に響くと、花のオーラがひときわ明るく輝く。花は人の声が好きなのだ。
四週目。
ギルバート様が花壇の前にしゃがみ込んでいるのを見かけた。
「ギルバート様?」
「……やり方、これで合ってるか」
見ると——大きな傷だらけの手で、不器用に水をやっていた。柄杓を持つ手が緊張でこわばっている。花壇の兵士に号令をかけるような顔で、慎重に水をかけている。
戦場で剣を振るっていたその手が、今は花に水を注いでいる。なんだか、胸の奥がきゅっとなった。
「上手ですよ」
わたしは横に座って、微笑んだ。
「花が喜んでいます」
花壇のオーラが金色に光っている。嘘ではない。花は本当に喜んでいた。
——いいえ、それだけではない。ギルバート様が水をやるたびに、花たちのオーラがいっそう深い金色に揺れた。この人の手には、温もりがある——花がそう教えてくれた。人の頭上にオーラは見えないけれど、花を通じてなら感じ取れる。ぶっきらぼうな言葉の奥にある、不器用な優しさを。
ギルバート様は不器用に頷いて、また水をやった。さっきより少し、手つきが柔らかくなった気がした。
一ヶ月が経つ頃には、花壇は小さな花畑と呼べるものになっていた。
白薔薇が最初に咲いた。まだ王都の庭園ほど大輪ではないけれど——荒野に咲く一輪の白薔薇は、それだけで奇跡だった。
朝日を浴びて輝く白い花弁。その周りに、金色のオーラが大きく広がっている。幸せだよ、とこの子は言っている。ここに咲けて幸せだよ、と。
次にラベンダー。紫の小さな花が風に揺れて、甘い香りが辺境の空気を変えた。
ギルバート様の屋敷に、花の香りが届くようになった。
窓を開けると、ラベンダーの香り。ある朝、ギルバート様が窓辺に立って、目を閉じて風の匂いを嗅いでいるのを見かけた。硬い軍人の表情に、ほんの少しの柔らかさが加わった——ような気がする。
声をかけたら、慌てて窓を閉めてしまったけれど。
二ヶ月。花畑は屋敷の裏手から丘の斜面へと広がっていった。
ある朝、領民の女性が幼い息子を抱いて訪ねてきた。子供が風邪を引いたのだという。辺境には薬師がいない。
わたしはラベンダーとカモミールを摘んで、花に話しかけながら薬草茶を淹れた。花の加護をそっと注ぐ——治す力はないけれど、花が持つ癒しを分けてあげることはできる。
温かい茶を飲んだ子供は、翌日には元気に花壇を走り回っていた。母親が泣きながら「ありがとうございます」と頭を下げてくれた。
その日から、花壇を訪ねる領民が増えた。切り花を欲しいという人もいれば、ただ花畑の中を歩きたいという人もいた。辺境の人たちは花に慣れていない。けれど花の前では誰もが——少しだけ、柔らかい顔になった。
ギルバート様はいつの間にか、花壇の柵を新しく作り直してくれていた。訪れる人が増えたから、踏み荒らされないように。何も言わずに——朝起きたら柵が新しくなっていた。不器用な人の、不器用な気遣い。
わたしは毎日、花と話をした。
朝起きて、「おはよう」と声をかける。水をやりながら、「今日はいい天気ね」と囁く。枯れかけの花があれば、「大丈夫、わたしがいるから」と加護の力を注ぐ。蕾を見つければ、「もうすぐだね、楽しみにしてるよ」と励ます。
花のオーラはいつも金色だった。幸せの金色。
時々、青くなる子がいる。寂しがり屋の勿忘草は、わたしがそばにいないと青くなってしまう。
「ごめんね、ちょっと遠くの花壇に行ってただけよ」
触れると、青が金に戻る。寂しかったの、と小さな花が言っている。
「ふふ、甘えん坊さん」
風の強い日は心配で、何度も花壇を見に行った。柵が倒れていないか、花が折れていないか。辺境の風は容赦がない。けれど白薔薇の垣根が風を受け止めてくれるようになってからは、内側の花たちは守られるようになった。
花が花を守る。まるで家族のように。
こうして——荒野は少しずつ、色を取り戻していった。
灰色だった景色に、緑が点々と広がる。小さな点が線になり、線が面になっていく。毎日少しずつ。急がなくていい。花には花の時間がある。
三ヶ月目。
花畑は丘を覆い尽くしていた。白薔薇の垣根が風よけになり、その内側にラベンダーの紫、ヒナギクの白、勿忘草の青。色とりどりの花が辺境の丘を彩って、遠くからでもそれと分かるほどの景色になった。
旅人が立ち止まるようになった。
「これは……花畑か? こんな辺境に?」
噂が広がるのは早かった。「北の荒野に花が咲いている」「辺境に花師の令嬢が来てから、あの土地が変わった」——いつしか人々は、この場所を『花の辺境』と呼ぶようになった。
花を買いたいという商人も現れた。辺境の花は珍しく、王都では高値がつくらしい。ギルバート様が交易の話をまとめてくれた。
「花が……金になるとは、思わなかった」
ギルバート様が、少し驚いたような顔で言った。
「花には力があります。人を笑顔にする力が」
「……そうかもな」
あの日——「花なんか咲くわけない」と鼻で笑い、腕を組んでわたしを見下ろしていた人が。
今は花に水をやり、花壇の柵を直し、花を守る風よけを作ってくれる。毎朝の桶は一度も欠かしたことがない。花の名前を覚え、蕾に目を細め、風の強い日には誰よりも早く花壇を見に来る。
変わった。この人は、確かに変わった。花が変えたのだ——いいえ、この人の中にもともとあった優しさを、花が引き出したのだ。
ある夕暮れ。花畑の見回りを終えて戻ろうとしたとき、ギルバート様が花壇の前にしゃがみ込んでいた。
勿忘草の前で。
大きな手で、そっと花弁に触れている。兵士の手が、赤子を扱うように。その仕草があまりにも真剣で——わたしは思わず足を止めた。
「……名前、教えてくれ。あの青い花の」
わたしに気づいて、ギルバート様は慌てて手を引いた。
「勿忘草です」
「わすれなぐさ」
ギルバート様が、花の名前を繰り返した。初めて聞く言葉を、大切にするように。唇が小さく動いて、もう一度「わすれなぐさ」と呟いている。
「花言葉は——」
わたしは少し迷って、でも正直に言った。花は正直だから、わたしも正直でいたい。
「『私を忘れないで』」
ギルバート様の耳が、夕日よりも赤くなった。
そっぽを向いて、立ち上がって、大股で屋敷に戻っていく。
「ぎ、ギルバート様?」
「……なんでもない」
ぶっきらぼうな背中が、いつもより少し早足だった。
わたしは勿忘草を見下ろした。小さな青い花が、風に揺れている。
オーラは——金色。幸せの金色。
「あなたも、嬉しいの?」
花は答えない。けれど、金色の光が少しだけ強くなった気がした。
そんな穏やかな日々が続くと思っていた。
けれど——王都が、わたしを放っておいてはくれなかった。
花の辺境の噂は、王都にも届いていたらしい。そして同時に——王城の大庭園が枯れたまま戻らないこと。隣国への外交花束が用意できず、十年続いた同盟の更新交渉が暗礁に乗り上げていること。
どれほどの庭師を集めても、あの庭園に花は咲かなかった。水を撒いても、肥料を変えても、新しい苗を植えても。花は——愛されていなければ、根づかない。
それらが一つの線で繋がったとき、王弟オスカー殿下は辺境へ馬を走らせた。
その日は、風の穏やかな午後だった。
わたしは花畑の真ん中で、花冠を編んでいた。ヒナギクと勿忘草を交互に編み込んで、領民の子供たちにあげる約束をしていた。
花たちのオーラは金色。風は優しく、日差しは温かい。完璧な午後——のはずだった。
馬蹄の音が聞こえた。
顔を上げると——王家の紋章が入った馬車が、砂埃を上げて近づいてくる。
花畑のオーラが、一瞬で変わった。
金色が——赤に。
花たちが怒っている。いや、警告している。危険が来る、と。
馬車が止まり、扉が開いた。
「——は?」
オスカー殿下が、花畑を見て固まっていた。
荒野だったはずの辺境に広がる、一面の花。白薔薇、ラベンダー、ヒナギク、勿忘草。王都の大庭園にも匹敵する——いや、オーラの輝きはそれ以上の花畑。
「お前……こんな力が、あったのか」
「お久しぶりです、殿下」
わたしは立ち上がり、静かに頭を下げた。
「こんな辺境に花畑を——いや、そんなことはどうでもいい」
殿下が一歩、わたしに近づく。花畑を踏みしめて。足元のラベンダーがぐしゃりと潰れた。赤いオーラが、怒りのように燃え上がる。
「戻ってこい、フローラ。庭園を元に戻せ」
命令口調。花に興味がないのに、花の価値を失って初めて——花師を求める。
あの頃と、何も変わっていない。
「庭園が枯れたのは、お前が手入れをしなかったからだろう。隣国は花束がないことに苛立っている。同盟が危ういのだ。早く戻って——」
「殿下」
わたしは静かに、けれどはっきりと遮った。
「枯れた花を叱る人は、いつも水をやり忘れた人です」
殿下の眉が跳ね上がった。
「何だと?」
「花は十年間、殿下のお庭で咲いていました。毎日水をやり、声をかけ、愛情を注いで——わたしがそうしていたから、咲いていたのです」
風が吹いた。花畑が揺れる。赤いオーラが波のようにうねっている。
「花は正直です。愛されなければ、枯れるだけ」
殿下の顔が歪んだ。怒り——ではない。もっと深い、焦りに似た何か。
「ふざけるな。お前は宮廷花師だ。命令だ、戻れ」
「わたしはもう宮廷花師ではありません。殿下が解任なさったのですから」
「ならば改めて任命する。婚約も——」
「お断りします」
わたしは——一歩も退かなかった。
足元に咲いていた黒い茨に手を伸ばす。
外交においては宣戦布告——使用禁忌とされる花。宮廷花師なら誰でも知っている。わたしも十年間、決してこの花には触れなかった。
けれど、わたしはもう宮廷花師ではない。
これは国と国の話ではなく——わたし個人の言葉だ。花師として持ちうる最も強い決別の意志を、この一輪に込める。
棘が指に刺さって、小さな血の珠が浮かんだ。けれど構わない。
一輪の黒い茨を手折って、殿下に差し出す。
「この花を、殿下に差し上げます」
「茨……? 花ではないだろう、こんなもの」
「花言葉があります」
殿下が受け取った——その瞬間。
わたしの加護が、花言葉に込められた感情を殿下に伝えた。
決別——もう二度と、戻ることはない。あなたとの縁は、ここで終わる。
殿下の顔色が変わった。胸を押さえて、よろめく。
「なんだ、この——冷たい……」
「花の言葉です。わたしの言葉ではなく、花の。花は嘘をつきません」
殿下が茨を握りしめた。棘が掌を刺す。赤い血が滴って——黒い茨は、一本の棘だけを残して、殿下の手の中で崩れた。
「お——お前!」
「さようなら、殿下」
わたしは振り返らなかった。
花畑を歩いて、奥へ。花たちの間へ。
赤かったオーラが——白に変わっていく。感謝の白。花たちが、わたしの選択を祝福してくれている。
背後で殿下が何か叫んでいた。けれどその声は、花畑を渡る風にかき消されて、もう聞こえなかった。
殿下が帰った後、ギルバート様が花畑にやってきた。
「……大丈夫か」
「はい。大丈夫です」
嘘ではなかった。足は少し震えていたけれど——心は、凪いでいた。
殿下に踏まれたラベンダーに加護の力を注ぐ。折れた茎がゆっくりと持ち直していく。大丈夫、まだ生きている。
「あの男、何を言ってた」
「戻れ、と」
「で?」
「お断りしました」
ギルバート様が——笑った。口の端がほんの少し上がっただけの、分かりにくい笑みだけれど。わたしにはもう分かる。この人の笑顔は、いつもとても小さい。
「そうか」
たった二文字。けれどその声は、温かかった。
数日後の昼下がり。
花畑の丘の上で、わたしは花冠を編んでいた。先日の騒ぎで中断してしまったものの続き。ヒナギクと勿忘草の花冠。
背後に気配を感じた。
振り向くと——ギルバート様が立っていた。いつもの武骨な佇まい。けれど今日は少し違う。右手が背中に隠されていて、表情がどこか——落ち着かない。
落ち着かない、というか。見たことがないくらい、緊張している。
「……ギルバート様?」
「その……」
ギルバート様が、背中に隠していた右手を前に出した。
握られていたのは——一輪のヒナギク。少し茎が曲がっていて、花弁が一枚欠けている。不器用に摘んだのだろう。大きな手で、潰さないように、けれど落とさないように、そっと握っている。
「……花を、贈りたいんだが」
「まあ」
わたしは目を丸くした。
「どなたに?」
ギルバート様の耳が真っ赤になった。口が何度か開閉して、ようやく絞り出すように。
「……お前に」
心臓が跳ねた。
「ど——どんな花がいいか分からなかった。だから、その——花言葉で、『ずっとここにいてほしい』って意味の花を、選びたかったんだが……」
ギルバート様は困ったように眉を寄せた。
「……結局、どれがそうなのか分からなくて。一番近くに咲いてた花を摘んだ」
わたしは、ギルバート様が差し出したヒナギクを見つめた。
少し不恰好で、茎が曲がっていて、花弁が一枚足りない。
けれどオーラは——金色。こんなに明るい金色は、見たことがない。王都の大庭園の千の花が束になっても、この一輪には敵わない。
花が、幸せだと叫んでいる。
涙がこぼれた。
悲しいのではない。寂しいのでもない。嬉しくて——嬉しくて——。
「ヒナギクです」
「は?」
「その花の名前。ヒナギクです」
わたしはギルバート様の手から、そっとヒナギクを受け取った。
指先が触れた。大きな、傷だらけの、温かい手。
「花言葉は——」
涙で声が震えた。でも、ちゃんと伝えたかった。
「『あなたと同じ気持ちです』」
ギルバート様が、石のように固まった。耳どころか、首まで赤い。
「……偶然だ」
「偶然ですか」
「たまたまだ。近くに咲いてたから——」
「ギルバート様」
わたしは涙を拭いて、笑った。多分、この辺境に来てから一番の笑顔で。
「花は正直です」
その言葉に、ギルバート様は——何も返せなかった。
ただ赤い顔で、そっぽを向いて。
「……うるさい」
小さな声で、そう言った。
それきり、二人とも黙った。花畑を渡る風の音だけが、しばらくの間、わたしたちの間を満たしていた。
その瞬間——花畑の全ての花が、一斉に金色に輝いた。
丘を覆い尽くす花たちが、まるで祝福するように。白薔薇も、ラベンダーも、勿忘草も、ヒナギクも。一面の金色が、辺境の空を照らしていた。
わたしにしか見えない光。けれど、ギルバート様にも——花畑がいつもより輝いて見えたのではないかと思う。
「……何だこれは」
「花が喜んでいるんです」
「なんで」
「さあ。なんででしょうね」
わたしはヒナギクを髪に挿した。一枚花弁が足りない、不恰好な小さい花。
王都のどんな宝石より——綺麗だった。
後日。
辺境の花畑から、隣国へ新しい花束が届けられた。白薔薇の花束——友好と同盟の願いを込めて。わたしの加護が乗った花束を受け取った隣国の王は、温かい笑顔で同盟の更新に応じたという。
外交は、王都ではなく——辺境から、再び動き始めた。
花の辺境の名は、隣国にまで知れ渡ることになる。
そして王都の大庭園は——二度と、元には戻らなかった。
枯れた花を叱る人の庭に、花はもう咲かない。
花は正直だから。
お読みいただきありがとうございます。歩人です。
この作品は「スローライフ重視のざまぁ」という構造で書きました。追放も断罪も大切ですが、一番書きたかったのは辺境で花畑を育てるフローラの日常です。荒野の土に種を蒔いて、水をやって、芽が出るのを待つ。その繰り返しの中に、確かな幸せがある——そんなお話にしたかったのです。
もう一つの見どころは、ギルバートの変化です。「花なんか咲くわけない」と鼻で笑った男が、花に水をやるようになり、花の名前を聞くようになり、最後には花を贈ろうとする。しかも花言葉が分からないまま摘んだヒナギクが、偶然にも「あなたと同じ気持ちです」だった——花は正直、ということですね。不器用な人の不器用な愛情が、一番花に伝わるのかもしれません。
花言葉は物語の言語として使いました。白薔薇の友好、黒い茨の決別、勿忘草の「私を忘れないで」、ヒナギクの「あなたと同じ気持ちです」。声に出さなくても、花が全てを語ってくれる。フローラにとって花は言葉であり、友であり、家族なのです。
「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズは一話完結の短編集です。
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