S01-P32 「お前がいると息が詰まる」と追放された令嬢——翌週から公爵家の予定が全て狂った

第1話: もう、残業はしません

第1アーク · 13,080文字 · revised

招待状が、届いていなかった。

シュタイン公爵家の春季舞踏会——王都の社交暦において最も華やかな夜会の一つ。百五十家を超える貴族に招待状を送り、王家からの来賓を迎え、五つの楽団が交代で演奏し、三十二品の正餐が供される一大行事。
 それが——何もかも、空っぽだった。
 大広間には蝋燭の一本すら灯されていない。楽団の姿はなく、厨房には食材の影もない。百五十脚並ぶはずの椅子は倉庫に積まれたまま。装花用の花瓶には埃が溜まっている。
 そして何より——招待状が、一通も発送されていなかった。

「どういうことだ」

ヴィクトル・シュタインの声が、空っぽの大広間に響いた。
 誰も答えない。使用人たちは顔を見合わせるばかりで、新しい婚約者のシャルロッテ嬢は扇で口元を隠しながら小首を傾げた。

「あら、舞踏会って今日でしたの? わたくし、こういう細かいことは得意ではありませんの」

細かいこと。
 百五十通の招待状。席順の調整。料理人との打ち合わせ。楽団の手配。花の発注。予算の管理。来賓の到着時刻と動線の設計。緊急時の代替案——それを「細かいこと」と。
 使用人の一人が、ぽつりと呟いた。

「クラリッサ様がいらした頃は……」

ヴィクトルが振り向いた。使用人は口をつぐんだ。

——私は、この光景を見ていない。
 全て、後から人づてに聞いた話だ。

その日、私はランメル伯爵領の執務室で、きっちり定時に仕事を終えていた。手帳を閉じ、羽根ペンを置き、窓の外に目をやる。夕焼けが麦畑を橙に染めている。
 時計の針が六時を指した。

「クラリッサさん、今日もありがとうございました。お茶にしましょう」

セオドア・ランメル伯爵が、温かい笑顔でティーカップを差し出してくれた。
 湯気が立ち上る紅茶。窓辺の夕日。静かな執務室。

——定時退社(ていじたいしゃ)
 前世でも、今世でも、ずっと夢だったもの。

これは、そんな私の話だ。


一ヶ月前のことを思い出す。

シュタイン公爵邸の大広間。冷たい大理石の床に立つ私の前で、ヴィクトルは退屈そうに告げた。

「婚約は破棄する。お前がいると息が詰まる」

息が詰まる。
 ああ——前世でも、似たようなことを言われたな。「君がいると空気が重い」「もっと明るくできないの」。ブラック企業の上司が、毎日二十二時まで残業させておいて言った言葉だ。
 あの頃と同じだ。段取りを完璧にこなせばこなすほど、その労力は「当たり前」に吞み込まれて、残るのは「空気が重い」という評価だけ。

「もっと華やかな女がいい。シャルロッテのような——ね」

ヴィクトルの隣で、金色の巻き毛の令嬢がくすくすと笑った。花のように美しい人だった。社交界の誰もが振り返る華やかさ。
 段取りは、できないだろう。——いや、そんなことを言うのはやめよう。私の仕事ではもうないのだから。

「分かりました」

声は、不思議と落ち着いていた。前世で何度も経験した「退職」の感覚が蘇る。悔しさよりも、虚しさよりも、どこか——解放感に似たものが胸を満たしていた。

「引き継ぎの件ですが——」

「引き継ぎ? 何のだ」

ヴィクトルが怪訝な顔をした。
 私は一瞬、目を閉じた。

——ああ、そうか。この人は知らないんだ。

私が毎朝五時に起きて、その日の来客予定と行事の進捗を確認していたことを。

たとえば——年間行事計画。シュタイン公爵家は年に四十二の公式行事を主催する。春季舞踏会、夏の園遊会、秋季祝典、冬の晩餐会。王家の記念日祝賀、隣国の大使歓迎会、領民感謝祭、新年の茶会。
 それぞれの日程を他家や王家と調整し、一つの変更があれば連動する全ての予定を組み直す。三月の舞踏会を二週間後ろにずらしたら、四月の園遊会の準備期間が足りなくなる。だから五月の大使歓迎会と入れ替えて——いや、それだと隣国の祭日と重なる。前世の言葉で言えば「クリティカルパス」の管理だ。全部、手帳一冊と頭の中で。

たとえば——来客動線の設計。百五十通の招待状の宛名を一字の間違いもなく書き、爵位と敬称を全て暗記していた。席順は外交上の序列と個人的な親疎を両立させるパズルで、一人の配置を間違えれば外交問題になりかねない。
 グラフバーグ侯爵とオルテン伯爵は一昨年の境界線争いで険悪だから離す。ベルクハイム大使は左耳が聞こえにくいから主賓席の右側に。王妃陛下は百合の香りが苦手だから、百合を装花から外す——そういう情報が、全て私の頭の中にあった。

たとえば——予算管理と業者手配。料理人のマルセルとは月に二度打ち合わせをして季節の食材を選び、楽団のヴェルナー団長とは三ヶ月前から曲目を決め、花屋のリーゼには一年分の装花を前金で予約していた。
 支払いは一日たりとも遅延させない。業者との信頼は、約束を守り続けた年月の上にしか築けない。前世でいう「ベンダーマネジメント」。五年かけて織り上げた信頼の網だ。

年間の行事予算を組み、四半期ごとに決算を出し、王家への報告書も私が書いていた。
 ——前世の言葉で言えば、「年間スケジュール管理」「来客動線設計」「予算管理」「業者折衝」「リスクマネジメント」。全部、私一人で回していた。ガントチャートなんて概念がこの世界にはないから、手帳一冊に全てを書き込んで。頭の中で工程を組み立てて。PDCAを回して。
 毎日、朝五時から夜十時まで。
 休みは月に二日。
 行事の前日は徹夜。舞踏会の翌朝には片付けの指示を出し、そのまま次の行事の準備に入る。
 ——前世と、何も変わらなかった。

「……いえ、何でもありません」

引き継ぎなど、する相手がいない。この仕事の全体像を理解している人間は、この屋敷に私しかいないのだから。使用人たちは私の指示に従って動いていただけで、なぜその順番なのか、なぜその日程なのか、全体の設計思想を知らない。

私は執務室に戻り、机の上の手帳を見つめた。
 五年分の予定が書き込まれた、私の全て。年間行事計画。来客リスト。業者連絡先。予算表。緊急時の対応マニュアル。
 持っていこうか。
 ——いや。

手帳を、机の上に置いた。開いたままに。誰かが見れば、少しは参考になるかもしれない。引き継ぎ書類の代わりだ。前世では「ナレッジの共有」と言ったっけ。
 ……ただ、この手帳を読んだだけでは、多分、回せない。

行間に書かれていない判断——「この貴族とこの貴族は隣席にしてはいけない」「この業者は急ぎの発注に弱いが品質は最高」「この月は王家の行事と重なるから日程を早めに押さえる」——そういう暗黙知が、五年分、私の頭の中にしかなかった。

「お疲れ様でした」

誰にも言ってもらえなかった。前世と同じだ。
 私は公爵邸を出た。振り返らなかった。
 前世で覚えた教訓。辞める日に振り返っても、得るものは何もない。


ランメル伯爵領に着いたのは、追放から三日後のことだった。

知人の紹介で「管理業務のできる人材を探している領主がいる」と聞いたのだ。条件は——正直、何でもよかった。屋根のある部屋と、三度の食事と、できれば定時退社。
 前世で死んだ原因は過労だ。二度と同じ轍は踏まない。

「クラリッサ・フォン・シュタインさんですね。お待ちしていました」

出迎えてくれたのは、栗色の髪の青年だった。穏やかな茶色の瞳。細身の体に不釣り合いなほど大量の書類を抱えていて、指先にはインクの染みがいくつも。
 セオドア・ランメル伯爵。二十四歳。父の急死で若くして領地を継いだばかりだという。

「こちらへどうぞ。あ——すみません、少し散らかっていて」

通された執務室を見て、私は息を呑んだ。
 散らかっている、どころではない。机の上は書類の山。床にも書類が散乱している。棚には未整理の帳簿が積み上がり、壁にはメモ書きが無秩序に貼られている。
 ——前世の既視感。新卒で配属された総務部の、あの絶望的な光景。
 内心で深呼吸した。大丈夫。これは私の得意分野だ。

「税収の計算が合わなくて」

セオドア様が困ったように笑った。

「農事暦も、たぶんずれています。業者への支払いも、どれが済んでいてどれが未払いなのか……。父は全て一人でやっていたんですが、私にはとても」

書類を一枚拾い上げた。昨年度の税収報告書。数字を追っていく——ああ、ここだ。小麦の収穫量の転記ミス。一桁ずれている。それが連鎖して決算全体がおかしくなっている。
 前世なら「エクセルのセル参照エラー」で片付く話だ。
 もう一枚。農事暦。春の種蒔き時期が二週間ずれていた。これでは収穫に影響が出る。使用人に聞くと「先代様の暦をそのまま使っている」とのこと。去年の気候変動を反映していない。前世でいう「前年踏襲の罠」。データを見ずに慣例を繰り返す、最も危険なパターンだ。
 さらにもう一枚。業者への発注書。同じ木材を二つの業者に重複発注していた。金額にして銀貨三十枚の無駄。前世の経理部が見たら卒倒する。

「お任せください」

手帳を取り出した。新しい手帳。公爵邸に置いてきたものとは違う、まだ白紙の手帳。
 まず全体を把握する。何がどこにあるか。どんな業務があるか。誰が何を担当しているか。
 ——PDCAの「P」。計画。前世の総務部で叩き込まれた、仕事の基本だ。

一週間かけて、領地の全業務を洗い出した。税収管理。農事暦の作成。業者との取引。領民への通達。インフラの維持管理。橋の修繕計画。冬に向けた備蓄の手配。
 公爵家の行事管理に比べれば——規模は小さい。複雑さも低い。これなら、効率よくやれば日中に全て終わる。
 前世の経験が唸りを上げる。まず業務の棚卸し。次に優先順位の整理。緊急かつ重要なもの——未払いの業者への支払い。重要だが急がないもの——農事暦の改訂。緊急だが重要度が低いもの——セオドア様の机の整理。……いや、これは意外と重要かもしれない。あの書類の山では大事な帳簿が埋もれてしまう。
 手帳に工程表を書き込んでいく。前世では「ガントチャート」と呼んだもの。この世界にはその名前はないから、「クラリッサ式工程表」とでも呼んでおこう。横軸に日付、縦軸に業務項目。色分けで進捗を示す。完了は青、進行中は緑、遅延は赤。シンプルだけど、これがあるとないとでは雲泥の差だ。

「すごい……これは、何ですか?」

セオドア様が、手帳を覗き込んで目を丸くした。

「業務の一覧と、それぞれの期限、担当者、進捗状況を一目で分かるようにしたものです。これがあれば、今日何をすべきか、何が遅れているか、すぐに把握できます」

「こんな管理方法があるんですね……」

感心した声。その反応だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 公爵邸では五年間、一度も言ってもらえなかった。「すごい」なんて。やって当たり前。できて当然。感謝されない仕事。前世の「バックオフィス」と同じだ。

二週間で、領地の帳簿を全て整理し直した。税収の計算ミスを修正し、農事暦を現状に合わせて改訂し、業者への未払い分を洗い出して支払いスケジュールを組んだ。重複発注も解消した。銀貨三十枚は、領民のための井戸の修繕費に回した。
 前世の知識が役に立つ。ダブルチェックの習慣。期限の三日前にリマインドを入れる方式。「報連相」——報告・連絡・相談の仕組みを使用人たちに定着させる。
 最初は戸惑っていた使用人たちも、二週目には慣れてきた。「クラリッサ様、麦の搬入が予定より二日早まりました」「倉庫の空きを確認して、受け入れ準備をお願いします。セオドア様にも報告を」——この「報連相」の流れが定着するだけで、私が全てを把握していなくても回り始める。公爵邸では不可能だったことだ。あそこでは、私が止まれば全てが止まった。

「クラリッサさん」

三週目の夕方。セオドア様が執務室に入ってきた。

「もう六時を過ぎていますよ。今日はここまでにしませんか」

時計を見た。本当だ。六時を少し過ぎている。
 公爵邸では、この時間はまだ折り返し地点だった。ここから夜十時まで、翌日以降の準備が続く。

「でも、まだ明日の——」

「明日のことは明日やりましょう。あなたは今日、十分すぎるほど働いてくれました」

セオドア様が、ティーカップを差し出した。

「お茶にしましょう。焼き菓子もありますよ。領民のベーカリーが、新しいレシピを試したいからって」

——え。
 定時で、帰っていいの?
 お茶を、飲んでいいの?

前世の記憶がフラッシュバックした。終電間際のオフィス。蛍光灯の冷たい光。「もう少し残れない?」という上司の声。コンビニのおにぎりを齧りながら、「定時に帰れたらなあ」と夢みたいに思っていたこと。
 今世でも同じだった。公爵邸の執務室で、夜十時まで。行事の前日は徹夜が当たり前。「息が詰まる」と言われながら。

ティーカップを受け取った。手が少し震えた。

「あ、ありがとうございます……」

「どうしました? 顔色が悪いですよ」

「いえ。その——定時に帰れるのが、嬉しくて」

セオドア様は不思議そうな顔をした。

「当たり前のことですよ。仕事の後に休むのは、当然の権利です」

当たり前のこと。
 前世でも今世でも、誰も言ってくれなかった言葉。
 前世の上司は「まだ帰るの?」と言った。公爵邸のヴィクトルは「お前がいると息が詰まる」と言った。
 「当たり前の権利」だなんて——誰も、言ってくれなかった。
 紅茶が——少し、しょっぱかった。涙が落ちたのだ。慌てて拭ったけれど、セオドア様は何も言わなかった。ただ静かに、自分のティーカップを傾けてくれた。窓辺の夕日が、二人の影を柔らかく伸ばしていた。

その日から、夕方六時のお茶が日課になった。

手帳を閉じて、羽根ペンを置いて、「お疲れ様でした」と言い合って。焼き菓子をつまみながら、今日あったことを話す。領民の子供が生まれたこと。新しい農法の成果。市場で珍しい香辛料が入荷したこと。
 仕事の話ではない、ただの日常。
 それが——こんなにも、幸せだった。

ある日のお茶の時間。セオドア様が申し訳なさそうに切り出した。

「実は、来月の収穫祭のことなんですが……毎年、近隣の領主を招いて祝宴を開くのが慣例で。でも父がやっていた頃の記録がほとんど残っていなくて」

「なるほど。招待すべき方のリストはありますか?」

「それが……曖昧で」

思わず前世の血が騒いだ。——これは、イベント管理だ。
 得意分野。ど真ん中。
 ただし、今回は違う。公爵家のときのように一人で抱え込まない。仕組みで回す。

「では、こうしましょう。まず近隣領主のリストを使用人さんたちと一緒に洗い出します。次に、去年の祝宴に参加した方を領民に聞き取り。それから——」

手帳に段取りを書き出す。招待リスト作成、三日。会場と料理の手配、一週間。招待状の発送、二週間前まで。当日の動線確認、前日。
 セオドア様が、目を丸くして手帳を覗き込んだ。

「こんなに細かく計画するんですね……」

「段取りは計画が八割です。当日はその通りに動くだけ」

前世の総務部長の口癖。嫌いな上司だったけれど、この言葉だけは正しかった。

「ただし」

私はペンを置いて、セオドア様を見た。

「準備は全て業務時間内に終わらせます。前日の徹夜も、当日朝五時起きも、しません」

「もちろんです。無理はさせません」

即答だった。迷いもなく。
 公爵邸では——あの言葉すら、聞いたことがなかった。

収穫祭は、無事に成功した。
 近隣の三領主を招き、領民と共に秋の実りを祝う、温かい祝宴。規模は公爵家の舞踏会の十分の一にも満たないけれど、招待状は全て期日通りに届き、料理は温かく、席順に問題はなく、誰もが笑顔だった。
 グラフバーグ侯爵とオルテン伯爵のように隣席にしてはいけない組み合わせなど、最初からなかった。ベルクハイム大使のような外交上の地雷もない。ランメル伯爵領の祝宴には、政治的な駆け引きも、外交上の序列もなかった。ただ——隣人と秋の実りを分かち合う、それだけの温かさがあった。
 そしてなにより——私は定時に帰れた。翌朝も、普通の時間に起きた。
 前世の社畜魂が囁く。こんなにスムーズに回るのは、規模が小さいからだ、と。
 ——いや、違う。仕組みが回っているからだ。使用人たちが自分の役割を理解し、「報連相」で情報を共有し、工程表通りに動いてくれた。一人で抱え込まなくてよかった。初めて。


一ヶ月が経つ頃には、ランメル伯爵領の管理体制は見違えるようになっていた。

税収は正確に計上され、農事暦は季節と完全に同期し、業者への支払いは一日の遅延もない。使用人たちが自律的に「報連相」を行い、私が全てを指示しなくても業務が回る仕組みができた。
 前世でいう「マニュアル化」と「権限委譲」。一人で抱え込まず、仕組みで回す。公爵邸では五年かけてもできなかったことが——ここでは一ヶ月でできた。
 理由は簡単だ。セオドア様が「仕組み」を理解してくれたから。

「これは素晴らしい。この工程表があれば、クラリッサさんが不在の日でも業務が滞りませんね」

「はい。属人化を避けることが大切です。——あ、属人化というのは、特定の人にしかできない状態のことで……」

「なるほど。つまり、誰でも同じ品質で仕事ができる仕組みを作る、ということですね」

この人は理解が早い。本質を掴む力がある。管理が苦手なのではなく、やり方を知らなかっただけなのだ。
 公爵邸のヴィクトルは——五年間、一度も理解しようとしなかった。管理の仕組みにも、その必要性にも。当たり前だ。彼にとって行事は「華やかに成功するもの」であり、その裏の段取りは存在すらしていなかったのだから。

「クラリッサさん」

ある夕方のお茶の時間。セオドア様がティーカップを置いて、真剣な表情で言った。

「あなたが来てから、領地が——いえ、私が、息ができるようになりました」

——息ができる。
 ヴィクトルは「息が詰まる」と言った。
 同じ仕事をしているのに。同じ私なのに。
 受け止める人が違うだけで、「息が詰まる」は「息ができる」に変わる。

「ありがとうございます。あなたの力が、ここには必要です」

力が必要。仕事が必要ではなく——私の「力」が。
 涙は、もう出なかった。代わりに、心の奥の氷が溶けていくような温かさがあった。

「こちらこそ」

私はティーカップを傾けた。

「定時に帰れる職場は、最高です」

セオドア様が、小さく笑った。


公爵家の崩壊は、春季舞踏会だけでは終わらなかった。

翌月の外交晩餐会。隣国ベルクハイム王国の大使を迎える重要な席で——席順が致命的に間違っていた。
 大使を末席に配置したのだ。
 これは外交上、侮辱に等しい。私が管理していた頃は、来賓の爵位・外交上の序列・個人的な好悪・最近の政治情勢を全て勘案して席順を決めていた。前世でいう「ステークホルダーマネジメント」。誰をどこに座らせるかは、地図のない迷路を解くようなものだ。
 大使は無言で席を立ち、翌日には抗議の書簡が届いた。
 ——グラフバーグ侯爵とオルテン伯爵が隣同士に配置されていたことにも、誰も気づかなかったらしい。案の定、食事中に口論が始まり、ワインが卓上にぶちまけられたという。二人の間には、一昨年の境界線争いという深い溝があった。侯爵の長男が伯爵領の森で狩りをしたことが発端で、以来、顔を合わせれば険悪な空気が流れる。だから私は必ず、二人を大広間の対角に配置していた。最低でも十五メートル離し、間に三組以上の貴族を挟む。その暗黙のルールを、誰も知らなかった。
 晩餐会の途中、侯爵が伯爵の獲物の話題を持ち出し、伯爵が応酬した。声が大きくなり、やがてワイングラスが倒れた。赤ワインがテーブルクロスに広がり、大使は冷ややかな視線を送ったという。
 外交の場で、貴族同士が口論する。隣国の代表の目の前で。
 聞いた話では、会場の空気が凍りついたそうだ。

次は決算期。
 公爵家の四半期決算書類が期限までに提出されない。私が組んでいた予算管理の仕組みは手帳の中にしかなく、後任は——そもそも後任すらいなかった。帳簿の数字は合わず、業者への支払いが滞り、長年の取引先が離れていった。
 料理人のマルセルとは五年間、毎月二度の打ち合わせを続けてきた。季節の食材、来賓の好み、アレルギー情報——全てを共有し、信頼を積み重ねてきた。支払いは一日も遅らせたことがない。約束を守り続けた五年間が、彼の「また次も」という言葉を支えていた。
 それが——三ヶ月遅れた。
 「支払いが三ヶ月も遅れるなら、もう仕事は受けられない」
 マルセルの言葉は、淡々としていたという。怒りではなく、諦めだった。楽団のヴェルナー団長も同じ。花屋のリーゼも。五年かけて築いた信頼の糸が、一本、また一本と切れていく。
 五年間の積み重ねが、一ヶ月で崩壊した。

そして——王家主催の秋季祝典。
 シュタイン公爵家は、王国の行事運営を取りまとめる名門だ。三代にわたって宮廷行事を支えてきた——いや、正確には「三代にわたって裏方が支えてきた」のだ。初代公爵夫人も、二代目の侍女長も、そして私も。歴史に名前は残らないけれど、その手が止まれば全てが止まる。見えない仕事が、名門の礎だった。
 その公爵家が、自分の舞踏会すら開けない。外交晩餐会で失態を犯す。決算書類すら出せない。
 国王陛下から、直々に叱責が下った。
 「シュタイン家は行事の取りまとめ役を辞退せよ」

三代の名声が、数ヶ月で地に落ちた。
 ——歴史はいつも、裏方を忘れる。そして裏方がいなくなって初めて、その価値に気づく。

——そして、ヴィクトルが来た。


ランメル伯爵領。秋の昼下がり。

私は執務室で、翌月の農事暦を確認していた。今年の冬麦の作付け時期を、過去三年の気象データと照らし合わせて——ああ、前世の習慣が抜けない。「データドリブン」とか心の中で呟いてしまう。

「クラリッサさん、お客様です」

使用人が困惑した顔で告げた。

「シュタイン公爵家の……ヴィクトル様です」

ペンが止まった。
 一瞬だけ。それから、手帳にしおりを挟んで立ち上がった。

応接室に入ると、ヴィクトルが立っていた。
 あの頃と——少し、変わっていた。目の下に隈がある。服装の華やかさは変わらないが、どこか疲弊した空気が滲んでいた。

「久しぶりだな、クラリッサ」

「お久しぶりです、ヴィクトル様」

丁寧に頭を下げた。感情は——不思議と凪いでいた。恨みも怒りもない。ただ、前世で退職した会社の元上司に再会したような、どこか冷めた既視感だけ。

「単刀直入に言う。戻ってきてくれ」

やはり、そう来た。

「舞踏会は中止。晩餐会で外交問題。決算は滞り、業者は離反。王家からは叱責——お前がいた頃には、こんなことは一度もなかった」

そうだろう。私がいた頃は、問題が起きる前に潰していたのだから。前世の言葉で「リスクマネジメント」。火が出る前に消す仕事は、誰にも見えない。

「お前の能力が必要だ。条件は何でも——」

「ヴィクトル様」

静かに遮った。

「一つ、お伺いしてもよろしいですか」

ヴィクトルが口をつぐんだ。

「私がいた五年間、舞踏会が失敗したことはありましたか?」

「……ない」

「外交の場で失態がありましたか?」

「ない」

「決算が遅れたことは? 業者への支払いが滞ったことは?」

「……ない」

「では——それは、なぜだと思いますか?」

沈黙が落ちた。
 ヴィクトルの表情が歪んだ。答えが分かっているのに——認めたくないのだ。五年間、目の前にあったものの価値を。

「私が毎朝五時に起きていたことを、ご存じでしたか。毎晩十時まで執務室にいたことを。百五十通の招待状の宛名を一字も間違えずに書いていたことを。席順のパズルに三日かけていたことを。料理人と楽団と花屋に頭を下げて回っていたことを」

声は震えなかった。淡々と、事実を並べるだけ。

「ご存じなかったでしょう。当然です。私の仕事は——目に見えないものでしたから」

見えない仕事。段取り。管理。裏方。
 成功すれば「当たり前」。失敗して初めて——その仕事が存在していたことに気づく。

「だから——」

ヴィクトルが何か言いかけた。

「戻ってくれ。頼む。お前がいないと、何もかもが——」

「ヴィクトル様」

私は、静かに微笑んだ。
 前世の自分と、今世の自分が、重なった。ブラック企業に退職届を叩きつけたあの日の自分。公爵邸の机に手帳を置いて去ったあの日の自分。二人の「私」が、同じ言葉を選んだ。

「もう、残業はしません」

ヴィクトルが、目を見開いた。

「残業……? 何を言っている」

意味が分からないだろう。この世界に「残業」という概念はない。
 でもいい。これは私の、二つの人生を貫く決別の言葉だ。

「朝五時から夜十時まで、休みなく働く日々には戻りません。感謝もされず、息が詰まると言われ、それでも段取りを止められなかった日々には。あの場所では——私は、ずっと残業していたんです」

ヴィクトルの顔から、血の気が引いた。
 分かったのだろう。「残業」の意味は分からなくても、私がもう戻らないということは。
 ——前世で会社を辞めたとき、上司は驚いた顔をした。「え、辞めるの? 困るんだけど」。まるで、私が辞める選択肢があることに気づいていなかったような顔だった。
 ヴィクトルの顔も、同じだ。五年間、当たり前にそこにいた私が、自分の意思で去ることを想像すらしていなかった。

「待て。条件なら——」

「条件の問題ではありません」

私は一歩も退かなかった。

「ここには、定時に帰れる場所があります。『ありがとう』と言ってくれる人がいます。息ができるんです」

声が、少し震えた。でも後悔はない。
 前世でも今世でも、私が本当に欲しかったものは、この「息ができる」場所だったのだ。華やかな舞踏会でも、名門の肩書きでもない。ただ——当たり前に働いて、当たり前に休んで、当たり前に「ありがとう」と言い合える場所。それだけだった。

最後の一言が——ヴィクトルを、打った。
 「息が詰まる」と追放した相手から、「息ができる」と言われる。自分が捨てた場所で、自分が奪ったものが花開いている。
 それが、この上ない因果応報だった。

「……お引き取りください」

ヴィクトルは、しばらく動けなかった。やがて、何も言わずに踵を返した。馬車に乗り込む背中が——どこか、小さく見えた。

見送りはしなかった。前世で覚えた教訓。辞めた職場の人間を見送る義理はない。
 ただ——少しだけ、窓から馬車が去るのを見た。

砂埃を上げて遠ざかっていく公爵家の紋章。五年間、あの紋章の下で働いた。朝五時に起きて、夜十時まで。休みは月に二日。感謝されたことは一度もなく、最後に言われたのは「息が詰まる」。

前世の最後の日を思い出した。段ボール箱一つ分の私物を抱えて、オフィスビルを出た夜。見上げた空にはビルの光しかなくて、星なんて見えなかった。
 今、窓の外には星が出始めている。ランメル伯爵領の空は、暗くなると星が溢れるほど輝く。
 ——前世より、ずっといい景色だ。


応接室のドアを閉めて、廊下を歩く。
 執務室に戻ると、セオドア様がいた。心配そうな顔で立っている。

「大丈夫でしたか」

「はい。大丈夫です」

嘘ではなかった。足は少し震えていたけれど、心は——凪いでいた。

「元婚約者が、戻ってこいと」

「そうでしたか。……それで?」

「お断りしました」

セオドア様が、ほっとしたように息を吐いた。その表情を見て——ああ、この人は私がいなくなることを、怖がっていたのだと気づいた。仕事の戦力としてだけでなく、もっと別の理由で。

「よかった」

小さな声で、セオドア様が言った。

「……すみません、つい本音が」

「いいえ」

私は笑った。

「嬉しいです」

窓の外では夕日が沈みかけていた。麦畑が金色に光っている。時計の針は、もうすぐ六時を指す。

「セオドア様。お茶にしませんか」

「ええ。今日は、新しい茶葉が届いたんです。南の港町から」

「楽しみです」

手帳を閉じた。
 今日やるべきことは全て終わっている。明日の準備もできている。工程表は順調。リスク要因なし。
 前世では叶わなかった。今世の前半でも叶わなかった。
 でも今——叶っている。

時計が、六時を打った。

「定時ですね」

「定時ですね」

セオドア様が微笑んで、ティーカップを二つ並べた。

湯気が立ち上る。紅茶の香りが、静かな執務室に満ちていく。
 窓辺の夕日が、二つのカップを温かい橙色に染める。

——後日。
 シュタイン公爵家は社交界での信用を完全に失い、王家からの行事取りまとめ役を剥奪された。三代続いた名門の栄光は、「見えない仕事」を捨てた瞬間に終わった。
 ヴィクトルは新しい婚約者と華やかな日々を送ろうとしたが、華やかさの土台となる段取りを誰もできず、招くべき客もいつしかいなくなったという。

私は知らない。もう、関係のないことだから。

私の世界は今、この執務室と、この領地と、このお茶の時間でできている。

朝は七時に起きる。五時ではない。窓を開けると、麦畑を渡る風が頬を撫でる。朝食をきちんと食べて——前世ではコンビニのおにぎり、公爵邸では食べる時間すらなかった——執務室に向かう。
 工程表通りに仕事を進め、使用人たちの「報連相」を受け、必要な判断を下す。セオドア様と相談が必要なことは午前中にまとめて済ませる。午後は帳簿の確認と、翌日の準備。
 そして六時。手帳を閉じる。今日の業務は全て終わった。
 定時に仕事を終えて、温かい紅茶を飲んで、「ありがとう」と言い合える。
 それだけで——十分だ。

セオドア様がティーカップに角砂糖を入れながら、ふと呟いた。

「クラリッサさん」

「はい」

「ずっと、ここにいてくれますか」

——ああ。
 その言葉は、前世でも今世でも、初めて言ってもらえたものだった。
 「いなくていい」と言われたことはある。「息が詰まる」と言われたことも。でも「ここにいてくれ」は——初めてだ。
 前世で死ぬ間際、病院のベッドで思った。「私がいなくても、会社は回るんだろうな」って。
 今世で公爵邸を去るとき、思った。「私がいなくても、誰かが何とかするんだろう」って。
 ——違った。私は必要だった。ただ、必要とされる場所を間違えていただけだった。

「はい」

手帳の最後のページに、前世では書けなかった一文を書き加えた。

「本日の業務、定時(ていじ)にて完了」

羽根ペンを置く。インクが乾いていく音が、静かな執務室に響く。
 窓の外では、星が一つ、また一つと瞬き始めている。
 定時に終わる仕事。温かい紅茶。「ありがとう」と言い合える相手。
 ——これが、私の最後の笑いだ。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

「静かな離脱型×裏方型」のストーリーです。クラリッサは誰かに復讐するわけでも、華々しく才能を証明するわけでもありません。ただ「去るだけ」で全てが崩壊する——それが裏方の仕事の本質だと思います。

段取りの大変さは、なくなって初めてわかります。会議室が予約されていること。備品が補充されていること。請求書が期日通りに処理されていること。「当たり前に回っている」の裏には、必ず誰かの仕事があります。その仕事が評価されず、「息が詰まる」と言われたとき——クラリッサは静かに去ることを選びました。

「定時退社」という言葉に、現代を生きる読者の方なら何かを感じていただけるのではないでしょうか。異世界ファンタジーの皮をかぶっていますが、これは「働く全ての人」の物語です。核心の台詞「もう、残業はしません」は、前世の社畜OLと今世の令嬢が同時に言う、二つの人生を貫く解放宣言です。

セオドアの「あなたのおかげで息ができる」は、ヴィクトルの「息が詰まる」への静かな回答です。同じ仕事をしても、受け止める人が違えば、全てが変わる。そういう人に出会えることが、一番の幸せなのかもしれません。

◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。

▼ 人気作品

・「お前の代わりはいくらでもいる」と笑った婚約者が〜
 → https://ncode.syosetu.com/n9253lu/

・「当たらぬ占いなど不要だ」と追放された令嬢の最後の予言〜
 → https://ncode.syosetu.com/n9745lu/

・「その薬草は毒かもしれぬ」と追放された令嬢薬師〜
 → https://ncode.syosetu.com/n9955lu/

▼ 連載作品

・追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く(全42話完結)
 → https://ncode.syosetu.com/n1089lv/

・「お前がいると息が詰まる」と追放された令嬢〜【静かな離脱型×裏方型】 ← NEW!

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