S01-P33 「子守唄しか能がない女は要らぬ」と追い出された令嬢——3日後、王宮から眠りが消えた

第1話: おやすみなさい——はもう、言いません

第1アーク · 12,125文字 · revised

その朝、王宮グラン・ライヒェンから眠りが消えた。

——わたしがそれを知ったのは、ずいぶん後のことだ。辺境の静かな朝に届いた手紙の、震える筆跡から。
 けれど今は、そこから語ろう。わたしがいなくなった後の、王宮の話を。

三日目の朝。
 大会議室に集まった廷臣たちの目は、誰もが赤く充血していた。
 王の側近は書類を持つ手が震え、財務大臣は数字を二度読み上げてどちらも間違えた。近衛騎士団長は壁に背をつけたまま微動だにしない——立ったまま意識を飛ばしかけているのだと、後から聞いた。
 誰も眠れなかったのだ。一日目は「疲れていないだけだ」と思い、二日目は「たまたまだ」と笑い、三日目には——笑えなくなった。
 閉鎖された「眠りの間」の前を、不眠の騎士たちが何度も往復していたという。扉に手を掛けては、そこにもう誰もいないことを思い出す。

オスカー殿下も同じだった。
 碧い目の下に深い隈を刻んで、苛立たしげに椅子の肘掛けを叩く。些細な報告に怒鳴り声を上げ、大臣が言葉を詰まらせるたびに舌打ちをした。
 普段の殿下は、ここまで短気ではなかったはずだ。けれど三日眠れなければ、人は変わる。判断が鈍り、感情の制御が利かなくなる。

「——なぜだ。なぜ眠れない」

殿下が吐き捨てるように言った。
 誰も答えられなかった。
 わたしが毎夜、王宮の廊下を歩いて歌っていたことを、知る人はほとんどいない。集団調律——壁や寝具に染み込ませていた安眠の残響(ざんきょう)。わたしがいなくなれば三日で消える、夜ごとの祈りのようなもの。
 存在していたときには誰も気づかず、消えて初めて——空白だけが残る。

それが、わたしの仕事だった。


七日前のことを、思い出す。

王宮の大広間。午後の光が高い窓から差し込んで、石の床に格子模様を描いていた。
 わたしはその光の中に立っていた。いいえ——立たされていた。オスカー殿下の前に。

「子守唄しか能がない女は要らぬ」

殿下は退屈そうだった。わたしに向ける視線には侮蔑も怒りもなく、ただ——無関心があった。用済みの書類を片づけるような、事務的な口調。

「眠りの歌い手の職は本日をもって廃止する。予算は軍務に回す。婚約も破棄だ。『眠りの間』も閉鎖だ——あんな部屋、物置にでも使えばいい」

広間にいた数人の廷臣が、息を呑んだのが分かった。けれど誰も異を唱えない。殿下は第二王子であり、宮廷の人事に口を出せる立場にある。そして何より——わたしの仕事を理解している人が、この場にはいなかった。
 夜の仕事は、昼の人には見えない。
 母が三十年前に設立した「眠りの間」も、殿下にとっては「無駄な部屋」でしかない。

「何か言い残すことは」

殿下が顎をしゃくった。
 わたしは深呼吸をした。声が震えないように。背筋を伸ばして、殿下の碧い目をまっすぐ見つめた。

「——おやすみなさい、殿下」

殿下が眉を寄せた。意味が分からない、という顔。
 当然だろう。この言葉が、わたしにとってどれほどの重みを持つか、殿下は知らない。

おやすみなさい。
 わたしが十年間、毎夜、王宮の人々に贈り続けてきた言葉。安らかな眠りを願う、わたしの祈りそのもの。
 それを最後に一度だけ、この人に。

殿下は鼻で笑った。「子守唄の挨拶か。最後まで子供だまし——」
 最後まで聞かずに、わたしは頭を下げて広間を出た。


思えば、わたしの仕事はいつも夜にあった。

王の寝室を訪れるのは、日が沈んでからだ。
 陛下はいつも書斎で政務を終えてから寝室にお入りになる。灯りを落とした部屋で、重い溜息をつきながら寝台の端に腰を下ろす。——わたしは、その溜息の重さで陛下の一日を読み取る。

国境の小競り合いが続いた日は、肩に力が入っている。ゆっくりと下降する旋律で、まず肩の緊張を解く。呼吸に合わせて歌の速度を落としていくと、陛下の息がだんだん深くなる。

隣国との交渉が難航した日は、眉間に皺が寄ったまま眠れない。こういう時は低音の持続音から入る。思考が止まらない脳を、一つの音に集中させる。波の音に似た揺らぎを加えると、思考の渦が静かに凪いでいく。

「……リディア」

ある夜、まどろみの中で陛下が呟いた。

「お前の歌を聴くと……明日も、やれる気がする」

「おやすみなさい、陛下。明日も良い日になりますように」

陛下の寝息が穏やかになるまで、わたしはそっと歌い続けた。枕元の灯りを消して、音を立てずに部屋を出る。
 廊下は暗い。月明かりだけが石の壁を青白く照らしている。
 わたしは裸足で歩く。靴の音が響かないように。眠りに落ちた人を起こさないように。王宮の夜は、わたしの足音ひとつ立てない静寂が守っている。
 時折、すれ違う夜警の兵士がわたしに気づいて軽く頭を下げる。彼らだけが、わたしの夜の仕事を知っている。「今夜もお疲れさまです」。小さな声で交わす挨拶が、暗い廊下に温もりを灯す。
 けれどわたしの夜は、まだ終わらない。


騎士団の兵舎に向かう。

辺境防衛戦から帰還した騎士たちが、夜ごとに悪夢を見ていた。叫び声で目が覚め、汗まみれで起き上がり、それきり朝まで眠れない。——心的外傷(しんてきがいしょう)。戦場で心に刻まれた傷は、体の傷よりも治りにくい。

兵舎の扉を開けると、低い呻き声が聞こえた。
 ベッドの上で、若い騎士が苦しそうに寝返りを打っている。額に汗が浮いて、歯を食いしばっている。悪夢の中で、まだ戦っているのだ。

わたしは騎士の枕元に座り、額にそっと手を添えた。
 熱い。こわばった体が、微かに震えている。

深層調律。
 低音の持続音を、騎士の呼吸に合わせて紡ぐ。まずは「ここは安全だ」という感覚を、声に乗せて伝える。戦場ではない。敵はいない。剣を置いていい。

「大丈夫です。……もう、大丈夫ですよ」

声が届くまでに時間がかかる。悪夢は深い。けれど諦めない。旋律を変え、音の高さを微かに上げる。暗い海の底から水面へ、少しずつ引き上げていくように。

やがて——騎士の拳がほどけた。呼吸が穏やかになる。額の汗が引いていく。
 わたしの指先に伝わっていた熱が、少しずつ引いていく。体の力が抜けて、寝台に深く沈んでいく。もう大丈夫。この人は今夜、朝まで眠れる。

翌朝。
 その騎士が食堂でわたしを見つけて、足を止めた。

「……あんた、昨夜の」

「おはようございます。よく眠れましたか?」

騎士の目が赤くなった。涙ではない——いや、涙だった。

「二ヶ月ぶりだ。……二ヶ月ぶりに、朝まで眠れた」

声が震えていた。大柄な騎士が、子供のように唇を噛んで涙を堪えている。
 わたしは微笑んだ。「よかった。今夜も、伺いますね」

騎士はぎこちなく頭を下げた。大きな背中が少し震えていた。
 その背中を見送りながら、わたしは思った。
 この騎士は明日から、少し違う朝を迎えるだろう。よく眠れた朝は、世界が違って見える。食事が美味しくなる。空が綺麗に見える。人に優しくなれる。——眠りは、そういうものだ。
 これが、わたしの仕事だ。誰にも見えない夜の仕事。けれど、確かに誰かの朝を支えている。


外交使節団が訪れた夜もある。

遠い西方からの使節団は、十日以上の旅で体内時計が狂っていた。現地の夜が来ても体が昼だと主張する。翌朝の交渉を万全の状態で迎えるために、わたしの出番だった。

使節たちの部屋を一つずつ回る。
 時差調律は最もリズム感を要する技法だ。対象の体内時計に寄り添い、そのリズムを少しずつずらしていく。急に合わせようとすれば体が拒絶する。半刻(はんとき)かけて、ゆっくりと。

寝室の温度を調整し、窓の遮光を確かめ、枕元にラベンダーの香袋を置く。音、光、温度、香り——眠りは五感の全てに関わる。声だけではない。環境そのものを調律する。
 寝具の肌触り。部屋を流れる空気の温もり。鼻先をくすぐるラベンダーの甘い匂い。それら全てが調和して初めて、人は安心して目を閉じられる。

翌朝、使節団の代表が朝食の席で言った。

「素晴らしい夜だった。長旅の疲れが嘘のようだ」

その日の交渉は、円滑に進んだ。双方が十分に眠れた状態で向き合えば、言葉は穏やかになり、譲歩の余地が生まれる。——睡眠は外交の土台でもあるのだ。
 けれどそのことを、交渉の席にいた殿下は知らない。使節が「よく眠れた」と笑ったとき、殿下は退屈そうに窓の外を見ていた。

わたしの仕事は、うまくいくほど存在感が消える。
 誰もが眠れる夜は「当たり前」で、誰も眠れない夜だけが「異常」になる。
 当たり前を支えていた手が消えるまで——当たり前は、空気のように透明だった。


王宮を出た日、わたしは馬車の中で泣いた。

誰にも見せなかった涙を、揺れる(ほろ)の中で静かに流した。十年間。十年間、毎夜歌い続けた場所。陛下の寝息。騎士たちの安堵の顔。使節団の笑顔。全部、全部——置いてきた。
 防音の施された「眠りの間」も。母が設立し、祖母エリーゼから受け継いだ薬草の香りも。

泣きながら思った。わたしの声は、もうあの人たちに届かない。
 三日経てば、残響も消える。あの壁に、あの寝具に、あの空気に染み込ませた、十年分の祈り。たった三日で——。

涙を拭いた。
 馬車の窓から見える風景が、王都の華やかさから野原へ、野原から森へと変わっていく。空が広くなる。木々の緑が深くなる。
 ふと、馬車の御者が小さな欠伸をしたのが見えた。もう夕方だ。今夜、この御者は宿場でぐっすり眠れるだろうか。——職業病だ。人を見ると、この人は夜ちゃんと眠れているだろうかと、つい考えてしまう。
 そんな自分がおかしくて、泣きながら少しだけ笑った。
 ——前を向こう。わたしの声を必要としてくれる人が、きっとどこかにいる。


辺境伯領ヴァルトは、深い森と静かな湖に囲まれた土地だった。

馬車から降りたわたしを迎えたのは、冷たい秋風と——星が近い空だった。王都では見えなかった星が、こんなにも多い。夜が深い。空気が澄んでいて、肺の奥まで冷たさが染みる。
 ——ここなら、よく眠れそうだ。
 そう思ったのは職業病だろうか。

「リディア・フォン・ナハトか」

低い声がした。
 振り向くと、大きな男が立っていた。鋭い目つきに、頬を走る一筋の古傷。辺境伯フェリクス・フォン・ヴァルト。元近衛騎士団副長——辺境防衛戦で三千の魔獣の群れを退けた英雄。味方の損害三百。戦場で彼の剣が光るたび、魔獣が倒れたと詩人たちは謳った。
 しかし、英雄の目の下には深い隈が刻まれていた。肌は青白く、覇気がない。立っているのがやっとというように、微かに体が揺れている。五年間まともに眠れていない人の顔だと、わたしにはすぐに分かった。時折、何もない虚空を見つめて固まる——幻影でも見ているのだろうか。

「フェリクス様。お世話になります」

「……聞いている。眠りの歌い手だそうだな」

フェリクス様の声には、期待も侮蔑もなかった。ただ疲労があった。何もかもに疲れた人の、乾いた声。

「歌で人が眠れるなら、とっくに眠れている」

「……一度、試してみていただけませんか」

フェリクス様は長い沈黙の後、小さく息を吐いた。

「……好きにしろ」

期待していない声だった。何を試しても駄目だった——薬も、酒も、疲れ果てるまで体を動かしても。五年間、全てを試して全て失敗した人の、諦めの声。
 けれどわたしは聞き逃さなかった。「好きにしろ」——拒絶ではない。「試してみろ」に近い響きが、ほんの少しだけ混じっていた。


その夜。

フェリクス様の寝室を訪れた。質素な部屋だった。武人らしい、飾り気のない寝台。窓から月明かりが差し込んでいる。
 けれど異様なものがあった。寝台の脇に置かれた剣。枕元に灯されたままの蝋燭(ろうそく)。——暗闇を恐れている。完全な暗闘の中で目を閉じることが、この人にはできない。

フェリクス様は寝台に横たわっていたが、体は板のようにこわばっていた。目は天井を見据えたまま——閉じることを、体が拒絶している。

わたしは寝台の傍らの椅子に座り、精神状態を読み取った。
 ——深い。とても深い傷。
 五年分の不眠が層になって堆積している。表層にはストレス。その下に疲労。さらにその下に——戦場の記憶。炎と、剣と、倒れていく部下たちの顔。罪悪感が眠りの入り口を塞いでいる。目を閉じれば悪夢が来る。だから閉じない。閉じられない。
 五年間、この人はそうやって夜を過ごしてきた。昼間も戦場の残像が見えるという。剣を持つ手が震え、部下の叫び声が聞こえる。それでも領主として立ち続けた——眠れないまま。

深層調律を選んだ。
 低い持続音から始める。フェリクス様の呼吸に合わせて、声の揺らぎを調整する。まずは「安全な領域」を作る。ここには敵はいない。剣を抜く必要はない。

フェリクス様の顎が強張った。

「……うるさい。やめろ」

拒絶。体が眠りを恐れている。眠れば悪夢が来る——五年間、毎夜そうだった。体が学習してしまっている。

やめない。
 声の高さを少しだけ下げる。胎児が母の心臓の音を聴くような、低く、温かい周波数。わたしの声帯だけが出せる、ナハト家に伝わる共鳴音。

「大丈夫です、フェリクス様」

わたしは歌い続けた。フェリクス様の拳が白くなるほど握りしめられている。額に汗。歯を食いしばる音。——戦っている。眠りとではない。自分の恐怖と。

「大丈夫です。……もう、大丈夫ですよ」

旋律を変えた。悪夢の領域を避けて、その手前で止まる。深い海に沈みすぎない。水面近くの、光が届く深さで——ただ、浮かんでいるだけでいい。
 わたし自身の精神が軋む。深層調律は消耗が激しい。五年分の傷に触れている。けれど——この人を、眠らせたい。この人に、安らかな夜を届けたい。

長い、長い時間が過ぎた。
 蝋燭の炎が揺れて、影が壁に踊っている。

やがて——フェリクス様の呼吸が変わった。
 握りしめていた拳が、ゆっくりとほどけていく。強張っていた肩の力が抜ける。呼吸が深く、穏やかになる。
 眉間の皺が消えた。
 頬の筋肉が緩んだ。

——眠った。

わたしは歌い続けた。もう少しだけ。眠りが深くなるまで。安全な領域が安定するまで。悪夢が入り込む隙間を、声で埋めていく。

月が傾いて、窓からの光が薄くなった頃——わたしは静かに歌を止めた。

フェリクス様の寝顔を見た。
 穏やかだった。険しい顔しか知らなかったから、こんな顔もするのだと思った。年相応の、若い男の寝顔。戦場の記憶も、罪悪感も、五年分の疲労も——今だけは、遠い場所に置いてきたような。
 長い睫毛が頬に影を落としている。呼吸がとても静かだ。

「おやすみなさい、フェリクス様」

囁いて、音を立てずに部屋を出た。
 廊下で——わたしの膝が折れた。壁に手をついて、しばらく動けなかった。深層調律の反動。精神の消耗が体に来ている。
 けれど——口元には笑みが浮かんでいた。


翌朝。

わたしが庭で朝の空気を吸っていると、足音が聞こえた。
 振り向くと——フェリクス様が立っていた。

目が、違った。
 昨日までの死んだような目ではない。まだ疲労は残っているけれど、瞳に光がある。生きている目。
 そして——頬に、色がある。血の気が戻っている。たった一晩の眠りで、人の顔はこんなにも変わる。

「……眠れた」

呆然とした声だった。自分で信じられないという顔。

「朝まで。……悪夢を見なかった。五年ぶりに——」

フェリクス様の声が震えた。
 大きな体が、微かに揺れている。鋭い目の縁に、光るものが溜まっていく。

泣いていた。
 辺境防衛戦の英雄が、元近衛騎士団副長が——朝の光の中で、静かに泣いていた。
 三千の魔獣を退けた男が、五年ぶりの朝に涙を流している。戦場では泣かなかった。部下を失っても、自分の傷が癒えない夜も。けれど——ただ眠れただけで、涙が止まらない。

「すまない」

フェリクス様は俯いて、手の甲で目を拭った。

「こんな——馬鹿な話が。歌を聴いただけで。たったそれだけで……五年間、探していたものが——」

「たったそれだけ、ではありません」

わたしは微笑んだ。

「眠ることは、生きることです。五年間眠れなかったフェリクス様は、五年間——半分しか生きていなかった」

フェリクス様が顔を上げた。涙の痕が頬に光っている。朝日がそれを照らして、一瞬だけ頬が金色に見えた。

「今日が、始まりです。おはようございます、フェリクス様。——いい朝ですね」

フェリクス様は何か言おうとして、言葉にならなかった。
 ただ——小さく、頷いた。


それからの日々を、語ろう。

フェリクス様だけではなかった。辺境伯領には、辺境防衛戦の帰還兵が多く暮らしていた。不眠や悪夢に苦しむ人が、あちこちにいた。
 わたしは夜ごとに兵舎を回った。王宮でしていたのと同じように。一人ひとりの枕元に座り、精神状態を読み取り、その人に合った歌を紡ぐ。
 フェリクス様は屋敷の一室を「眠りの間」として用意してくれた。王宮のものより小さいが、薬草を置き、柔らかい寝台を据え、防音を施した。母が築いた場所を、ここで——もう一度。

最初は警戒された。
 「歌で眠れるわけがない」「まやかしだ」——フェリクス様と同じ反応。軍人は弱みを見せることを嫌う。眠れないことを認めること自体が、恥だと思っている。

けれど一人が眠れるようになると、噂は広がった。

「あの娘の歌を聴いた夜は、悪夢を見なかった」
「信じられないが——朝まで眠れたんだ」
「五年ぶりに、女房の隣で朝を迎えた。泣かれた」

一人、また一人と、わたしの元を訪れるようになった。

子供たちもいた。夜泣きがひどい赤ん坊を抱えた母親が、疲れきった顔で訪ねてきた。怖い夢を見て夜中に泣き出す男の子。寝つきが悪くて朝起きられない女の子。
 わたしは一人ひとりに歌を贈った。赤ん坊には揺りかごの旋律を。怖い夢の子には守りの歌を。寝つきの悪い子には、星を数えるような穏やかなリズムを。
 母親が赤ん坊と一緒にすやすやと眠りについたとき、わたしは毛布をそっとかけた。二人の寝顔がとても平和で、見ているこちらまで穏やかな気持ちになった。

領地が変わっていった。目に見えて。
 よく眠れた朝は、人は笑顔になる。畑仕事の手が軽くなる。子供たちが元気に走り回る。夫婦喧嘩が減った、と苦笑いする男もいた。病に伏せっていた老人が「ぐっすり眠れたら食欲が戻った」と笑った。
 兵士たちの表情が変わったのが一番分かりやすかった。五年間、戦場の亡霊に取り憑かれていた男たちが、少しずつ「今」を生きるようになった。訓練に身が入るようになった。領民に笑顔を見せるようになった。酒に溺れていた者が酒瓶を置いた。
 フェリクス様が呟いた。「……お前が来てから、この領は変わった」
 わたしは首を振った。「わたしは夜の仕事をしただけです。変わったのは、皆さんご自身の力ですよ」

「よく眠れた朝は、こんなに世界が明るいのですね」

ある領民がそう言った。その言葉が、わたしの胸に深く染みた。
 ——そうだ。これが、わたしの仕事だ。
 王宮でも、辺境でも。わたしの声が届く場所で、人々が安らかに眠れるように。


フェリクス様は、毎夜わたしの歌を聴くようになった。

もう深層調律は必要なくなっていた。二週間もすれば悪夢は遠ざかり、自力で眠れる夜も増えた。けれど——。

「……今日も、歌ってくれるか」

夜、バルコニーでそう言うフェリクス様の声は、最初の頃とは違っていた。藁にもすがる必死さではなく——もっと穏やかな、柔らかい何か。

「ええ。もちろんです」

わたしは歌った。調律のためではなく、ただ——この人に聴かせたくて。
 湖面に月が映る静かな夜に、わたしの声が溶けていく。フェリクス様の目が細くなる。険しい顔の武人が見せる、安堵の表情。鋭い眼差しが緩んで、年相応の穏やかさが顔に灯る。

ある夜、歌い終えたわたしに、フェリクス様が言った。

「……お前の歌は、命の恩人だ」

「大げさですよ」

「大げさではない」

フェリクス様の目が真剣だった。月明かりに照らされた横顔から、冗談の気配は微塵もなかった。

「五年間、死んでいたようなものだ。毎夜悪夢を見て、朝が来るのが怖かった。目を閉じれば戦場に戻る。仲間の叫び声が聞こえる。このまま一生眠れないのかと——」

言葉が途切れた。
 フェリクス様は月を見上げた。

「お前が来て、初めて朝を迎えられた。……生きていると、思えた」

胸が熱くなった。
 わたしは——この言葉を、ずっと待っていたのかもしれない。王宮では誰も言ってくれなかった言葉。わたしの歌が、誰かの「生きる力」になっていると——面と向かって言ってくれた人は、この人が初めてだった。
 殿下はわたしの仕事を「子守唄」と笑った。けれどフェリクス様は——「命の恩人」と呼んでくれた。同じ歌が、聴く人によってこんなにも違うものになる。

「ありがとうございます、フェリクス様。……わたしも、ここに来てよかった」


そんな穏やかな日々の中に——王宮からの手紙は届いた。

使者が辺境伯邸を訪れたのは、わたしが辺境に来て一月半が経った頃だった。
 王家の紋章入りの封蝋(ふうろう)。中には王の直筆の書状。使者の顔には疲労が刻まれていた。目の下の隈が深い。——この人も、眠れていないのだ。

——王宮は不眠に苦しんでいた。

三日で残響が消えた後、王宮の人々は眠れなくなった。
 最初の一週間で廷臣たちの集中力が落ち、書類の誤りが頻発した。計算を間違え、日付を取り違え、会議で同じ議題を三度繰り返した。
 二週間目にはオスカー殿下の判断力が目に見えて低下した。些細な報告に激昂し、側近に杯を投げつけた。側近が恐れて距離を置き、正確な情報が殿下に届かなくなった。殿下は「なぜ報告が遅い」と怒鳴り、報告した者は「もう近寄りたくない」と漏らした。悪循環だった。
 三週間目、西方から外交使節が来訪した。かつてわたしが調律していた使節用の客室にはもう残響がない。使節団も眠れず、寝不足のまま交渉の席についた。——結果は最悪だった。苛立ったオスカー殿下が使節の発言を遮り、「くだらん条件を並べるな」と暴言を吐いた。
 十年続いた通商条約の更新が、白紙になった。

一ヶ月目。
 王自身が不眠で倒れかけた。寝台に()しながら、側近にこう尋ねたという。

「……眠りの歌い手は、どこにいる」

側近が答える。「オスカー殿下が追放なさいました。辺境に——」

王は長い沈黙の後、溜息をついた。

「あの子守唄が——こんなにも、大きなものだったとはな」

手紙には、王の言葉が記されていた。

『リディア・フォン・ナハト殿。王宮は貴殿の力を必要としている。報酬も地位も、望むものを約束する。どうか帰還されたい。——国王ヴィルヘルム』

わたしは手紙を読み終えて、静かに目を閉じた。

十年間、尽くした場所。毎夜歌い続けた場所。
 ——帰りたいと思わなかったと言えば、嘘になる。陛下の寝息。騎士たちの安堵の顔。あの廊下を歩く夜の静けさ。わたしの帰りを待っている人たちが、きっといる。

けれど。

目を開けると、フェリクス様が横に立っていた。
 何も言わない。手紙の内容は察しているだろう。けれど、引き止める言葉は一つも口にしない。ただ静かに、わたしの隣に立っている。
 ——この人はいつもそうだ。言葉にしない。けれど、そばにいてくれる。

わたしは使者に向き直った。

「お伝えください」

声は穏やかだった。震えてはいない。十年間、毎夜王宮の人々に届けてきた祈りの言葉——それを、もう二度と王宮には届けない。

「おやすみなさい——はもう、言いません」

使者が目を見開いた。言葉の意味を理解するのに数秒かかったようだった。

「わたしの歌は、わたしを必要としてくれる人に捧げます。子守唄と笑った方々に、もう子守唄は歌えません。『眠りの間』を物置にすると言った方に——安らかな眠りは、もう届きません」

使者は何度も翻意を求めた。報酬を上げる、地位を約束する、婚約も再考する——。けれどわたしが求めているのは報酬でも地位でもない。必要としてくれる人のそばで歌うこと。ただ、それだけだ。
 わたしの答えは変わらなかった。

使者が去った後、フェリクス様がぽつりと言った。

「……よかったのか」

「はい」

わたしは微笑んだ。

「わたしの居場所は、ここですから」

フェリクス様は何も言わなかった。
 けれど——その目が、ほんの少しだけ、潤んだように見えた。


後から聞いた話だ。

帰還を拒否された報告を受けたオスカー殿下は、椅子を蹴倒して怒鳴ったという。「たかが子守唄の女が——!」

しかし殿下自身、二ヶ月近い不眠で思考がまとまらなくなっていた。支離滅裂な命令を出し、側近が困惑し、廷臣たちが距離を置く。会議中に意味の通らない文を繰り返し、指摘されると激昂する。——不眠は人を壊す。ゆっくりと、しかし確実に。
 決定的だったのは、隣国の大使との非公式会談だった。殿下は会談中に意識が飛び、大使の前で卓に突っ伏した。——外交上の屈辱だった。大使は「このような状態の国と交渉はできない」と席を立った。

王は決断した。
 オスカー殿下を要職から外し、謹慎を命じた。

殿下は謹慎先の部屋で、天井を見つめ続けているという。眠れないまま。
 誰も殿下の寝室に歌を歌いに来ない。「おやすみなさい」を言ってくれる人はいない。
 かつて殿下の寝室にも残響はあった。わたしが毎夜の巡回で、廊下を通るたびに染み込ませていた安眠の祈り。殿下は知らなかっただろう。自分が毎夜ぐっすり眠れていたのが、わたしの歌のおかげだったことを。物置にすると言った「眠りの間」が、実は王宮全体の安眠を支える核だったことを。
 ——眠りを「子守唄」と笑った人は、「おやすみなさい」を言ってもらえない夜を過ごしている。因果は巡る。


辺境の夜は、どこまでも静かだ。

星が近い。王都では見えなかった天の川が、湖面に映って二つの星空を作っている。虫の声。遠くで(ふくろう)が鳴く。秋の夜風が木々の葉を揺らして、さらさらと音を立てる。湖を渡る風が、ほんの少しだけ冬の匂いを運んでくる。

バルコニーに並んで座っている。わたしと、フェリクス様。

「……今日も、歌ってくれるか」

フェリクス様がぽつりと言った。
 もう、不眠症は治っている。調律がなくても眠れるようになった。それなのに——毎夜、わたしの歌を聴きたがる。

「ええ」

わたしは微笑んだ。

「おやすみなさいの歌を」

歌い始めると、辺境の夜がさらに静かになる。湖面の波紋が止まり、木々のざわめきが遠くなり、世界がわたしの声だけに耳を傾けているような——そんな錯覚。
 フェリクス様の肩の力が抜ける。鋭い目が細くなって、穏やかな光が灯る。

歌い終えたとき、大きな手がわたしの手に重なった。

傷だらけの、武骨な、けれど——温かい手。

「……リディア」

「はい」

「ここにいてくれ」

短い言葉。フェリクス様らしい、飾らない言葉。
 けれどその声が——少しだけ震えていた。

「はい。……ここに、います」

涙が出そうになった。嬉しくて。
 わたしの声を「子守唄」と笑わなかった人。わたしの歌に涙を流してくれた人。わたしの仕事を「命の恩人」と言ってくれた人。
 この人のそばで、歌い続けたい。

「おやすみなさい、フェリクス様」

「……ああ。おやすみ、リディア」

名前を呼んでくれた。「眠りの歌い手」でも「子守唄の女」でもなく——リディア、と。

星空の下で、わたしは小さく歌を口ずさんだ。
 フェリクス様に。辺境の人々に。湖に。森に。星に。
 重なった手の温もりが、指先から体の芯まで染みていく。傷だらけの手。わたしの歌を「命の恩人」と言ってくれた手。子守唄を笑わなかった、この人の手。

辺境の夜は静かで、優しい。
 壁にはもう残響が染み込み始めている。わたしが毎夜歌うたびに、この屋敷は、この領地は、少しずつ「眠れる場所」になっていく。王宮に十年かけて積み上げたものを、ここで——もう一度。

——王宮のオスカー殿下は、今夜も眠れないだろう。
 けれどそれは、もうわたしの知ることではない。

おやすみなさい。
 明日も、いい朝が来ますように。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

「独自設定枠」のストーリーです。「眠りの歌い手」という架空の職業を通じて、「睡眠」の大切さを描きたいと思いました。

現代社会でも不眠は深刻な問題です。仕事のストレス、スマートフォンの光、将来への不安——眠れない夜を過ごしたことがある方は多いのではないでしょうか。そしてその辛さは、よく眠れる人にはなかなか伝わらない。リディアの仕事が「子守唄」と軽視されたように、睡眠の価値は失って初めて気づくものです。

核心の台詞「おやすみなさい——はもう、言いません」は、穏やかだけれど決定的な拒絶です。リディアは怒鳴りもしない。泣きもしない。ただ静かに、「もう届けません」と宣言する。誰かの安眠を祈る言葉を、もうあなたには言わない。それがどれほどの重みを持つか——三日間眠れなかった王宮の人々には、痛いほど分かるはずです。

「おやすみなさい」と言ってもらえること。あるいは誰かに「おやすみなさい」と言えること。それは日常の、ささやかな——けれどかけがえのない幸福だと思います。睡眠は弱さではありません。明日を生きるための力です。今夜、安らかに眠れますように。

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・追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く(全42話完結)
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・「子守唄しか能がない女は要らぬ」と追い出された令嬢〜【独自設定/睡眠管理型】 ← NEW!

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