S01-P35 「帳簿しか見えぬ女は要らぬ」と追放された令嬢——赤字の額が頭上に浮かぶようになったのは、偶然ではありません

第1話: 「帳簿しか見えぬ女は要らぬ」と追放された令嬢——赤字の額が頭上に浮かぶようになったのは、偶然ではありません

第1アーク · 11,562文字 · final

赤い数字が浮かんでいる——と最初に報告したのは、厨房番のハンスだったそうだ。

朝食の支度をしている最中、同僚の頭上にうっすらと「2」の文字が灯っているのを見つけた。思わず目を擦ったが消えない。翌日には自分の頭にも「7」が浮いていると、別の使用人に指摘された。
 奇妙だったのは、最初は当人にしか見えなかったことだ。ハンスが「おい、お前の頭に数字が——」と指差しても、周囲の誰にも見えない。しかし数日経つと、近くにいる者にもうっすらと見えるようになった。さらに一週間もすると、すれ違いざまの通行人にすら赤い光が見えるようになったという。
 数字が大きい者ほど、その光は早く他人の目に映った。

その話を聞いたとき、私はもうヴェルナー公爵家にはいなかった。

公爵家の帳簿を十年間預かり、一銭の誤差も出さなかった経理令嬢。それがかつての私だ。
 今は辺境の小さな商会で、埃っぽい帳簿と向き合っている。

赤い数字の噂は、日を追うごとに大きくなった。
 厨房番の頭上に浮かんだ「2」は、週ごとに桁を増やしていった。侍女長の頭には「247」が灯り、庭師の見習いにさえ小さな数字がちらついているという。
 そして執事ヴォルフの頭上に浮かんだ数字は、すでに三桁を超えていた。

カール様——私の元婚約者であるヴェルナー公爵家嫡男の頭上の数字がいくつかは、まだ誰も口にしなかった。口にできなかった、というべきか。

いいえ。それはもう少し先の話。
 まずは、すべてが始まった日のことを語りましょう。


一ヶ月前——ヴェルナー公爵邸、大書庫。

「帳簿しか見えぬ女は要らぬ」

カール様はそう仰った。午後の日差しが窓から射し込み、私が十年かけて積み上げた出納帳の背表紙を金色に染めていた。三十六冊。一冊ずつ、年度と種別を手ずから記した。私の文字で。

「花の一輪も愛でられぬ女に、何の価値がある」

カール様の隣には男爵令嬢リリアーネ様がいらっしゃった。薔薇色のドレスに金の髪飾り。社交界の華と謳われるお方だ。笑顔が眩しくて、帳簿の「帳」の字も書いたことがなさそうな——いいえ、意地悪はよしましょう。

私とカール様の婚約は、十年前に両家が取り決めたものだった。ゼーリヒ伯爵家は代々会計に長けた家系で、財政難に陥りかけていた公爵家の立て直し要員として、十二歳の私が送り込まれた。婚約者というよりは、まず経理係として。
 カール様は最初の頃こそ帳簿を覗きに来てくれた。「これが赤字? これが黒字?」と。子供同士の遊びのような時間だった。けれどそれも一年と続かなかった。私が帳簿に埋もれている間に、カール様は社交界に出入りするようになり、やがてリリアーネ様と出会い——帳簿を見に来ることは、二度となくなった。
 十年間。婚約者という名目だけが残り、実態は住み込みの経理係。それが私たちの関係だった。

私は手元の帳簿に目を落とした。今月分の出納帳。最後の一行だけが空欄だった。
 万年筆を取り、最後の数字を書き入れた。今月の収支。黒字。いつものように。

帳簿を閉じて、棚に戻した。三十六冊目の隣に、ぴたりと。

「……承知いたしました」

泣きませんでした。怒りもしませんでした。
 ただ、十年分の帳簿が並ぶ棚を振り返って——少しだけ、指先が冷たくなりました。

この棚の中に、私の十年がある。
 誰にも見えない十年が。


経理という仕事の本質を理解している人は、驚くほど少ない。

たとえば、毎朝の出納照合。

ヴェルナー公爵家には使用人が二百名いる。厨房、馬丁、庭師、侍女、衛兵——彼ら全員の経費が、毎日私の机の上を通っていく。食材の仕入れ伝票、馬具の修繕費、庭園用の苗木代、来客用の茶葉、蝋燭と薪炭の補充費。
 それを一枚ずつ確認し、前日の残高と照合する。合わなければ、合うまで遡る。

一ペニーの誤差も、私は見逃さなかった。

ある朝のこと。厨房の食材費に2ソルの誤差を見つけた。たった2ソル。銀貨二枚分。ワイン一杯にも満たない額だ。
 けれど私は厨房に足を運び、ハンスを呼んだ。

「昨日の鶏肉の仕入れ、伝票と実数が合いません。二羽分、多いようですが」

ハンスは大きな体を縮めて顔を赤くした。

「あ、ああ、それは……数え間違いで、はい」

嘘だとわかっていた。余った鶏肉を持ち帰ろうとしたのだろう。2ソル程度のことだ。ハンスには養うべき家族がいることも知っている。

けれど私は帳簿に赤線を引いて修正した。ハンスの目の前で。

「修正いたしました。次回からお気をつけくださいね」

きつい言い方はしない。ただ「見ていますよ」と示す。それだけで十分だった。
 一ペニーの誤差は、一万の嘘の始まりだから。

この照合を十年間、一日も欠かさず続けた。体調が悪い日も、雪で馬車が動かない日も、カール様の舞踏会の準備で邸中が浮き足立つ日も。
 その舞踏会に、私が招かれることはなかった。ドレスを着たのは十六歳の社交界デビューの一度きりで、以来六年間、宴の夜はいつも書庫で帳簿を閉じていた。廊下の向こうから楽団の音色と笑い声が届く。カール様がリリアーネ様とワルツを踊っている頃、私はその宴に使われた楽団費と花飾りの伝票を仕分けていた。
 同年代の令嬢たちが恋をして、友人を作り、季節ごとの装いを楽しむ間、私は数字と過ごした。後悔はしていない。帳簿には帳簿の美しさがある。ただ——誰にも気づかれないのは、少しだけ堪えた。
 誰に感謝されることもなく。


次に、外交費の管理。

ヴェルナー公爵家は王都の社交の要であり、外国使節の接待を頻繁に引き受けていた。晩餐会、舞踏会、狩猟の宴、園遊会。そのたびに多額の外交費が動く。

私の仕事は、その明細を一行ずつ確認することだった。

ワイン三十本——産地と年度は指定通りか。単価は昨年の契約額を超えていないか。
 花の装飾——業者への発注書と納品書を突き合わせる。百合が薔薇に替わっていないか。
 楽団の手配——演奏者の人数と報酬は見積もりと一致しているか。追加の休憩費が紛れ込んでいないか。

こうした照合を、開催の一週間前から始める。当日は会場の隅で伝票を確認し、終了後に最終精算を行う。華やかな宴の裏で、私は数字と向き合い続けていた。

そして——カール様が「接待費」として計上した額が、実際の宴会費用と合わないことに気づいたのは、三年前のことだった。

最初に見つけた差額は、月に百リーブルほどだった。

金貨百枚。平の使用人なら五名分の月給に相当する額だ。

カール様は差額をご自身の遊興費に充てていた。仕立て屋への支払い、賭け事の精算、リリアーネ様への宝飾品。帳簿を正直に記せばカール様の横領が明るみに出る。公爵家の名誉が——そしてカール様ご自身が、取り返しのつかない傷を負う。

だから私は、差額を「雑費」の項目に分散させた。
 外交費の予備枠から少しずつ補填し、帳簿上は整合するように。慶弔費に三十リーブル、通信費に二十リーブル、消耗品費に五十リーブル——合計が合うように、毎月パズルを組み替えた。

カール様を守っていた。
 そんなことを、カール様は知りもしなかった。
 知ろうともしなかった。
 私がカール様を追い出すその日まで——いいえ、カール様が私を追い出すその日まで。


そして三つ目。給与台帳。

二百名の使用人の給与を毎月正確に計算するのは、それだけで三日がかりの仕事だった。勤怠記録の集計、等級別基本給の確認、残業手当の計算、季節賞与の算出、罰金の控除、退職積立の処理。一人ひとりの事情が異なるから、機械的には処理できない。

馬丁のフリッツは先月の落馬事故で二週間休んだが、公傷扱いにすべきか否か。
 侍女のエルザは妊娠四ヶ月で軽作業に移ったが、給与等級は据え置きでよいか。
 庭師頭のヨハンは今年で勤続三十年、特別昇給の規定に該当するか。

こうした判断を、一人ずつ行う。帳簿の数字の向こうには、二百の暮らしがある。

執事ヴォルフが勤怠を偽っていることに気づいたのは、二年前だった。
 存在しない「臨時雇い」を給与台帳に忍ばせ、その架空の給与を自分の懐に入れていた。最初は一人分。月に十二リーブル——正規の使用人より低い臨時の日雇い賃金だ。目立たないよう、わざと控えめな額にしていた。

「ヴォルフさん。先月の臨時雇い、マティアスという方ですが——雇用記録が見当たりません」

執事は白髪の混じった眉を動かした。

「ああ、あれは急な人手でしてね。記録はこれから整えます」
「では今月分は保留にいたしますね。雇用記録が揃い次第、処理いたします」

記録は結局出てこなかった。翌月、マティアスの名前は給与台帳から消えた。
 しかし翌々月、別の名前で同じ手口が現れた。今度は「臨時清掃員クラウス」。

私はまた同じことを言った。「雇用記録をお願いします」と。
 ヴォルフは舌打ちをしたが、それ以上は言わなかった。

私がいる限り、架空雇用は月に一人が限度だった。月十二リーブル以上には増やせない。
 帳簿を見ている人間がいる——ただその事実だけで、不正には天井ができる。

けれどカール様は、それを「帳簿しか見えぬ女の仕事」と呼んだのだ。


追放された翌日。

私は王都の東門を出て、辺境行きの乗合馬車に乗った。伯爵家の実家に戻ることもできたが、父は「公爵家を追い出された娘」を世間体から恥じるだろう。母は泣くだろう。妹は気まずそうに目を逸らすだろう。
 そういう家だった。
 だから一人で辺境に向かった。荷物は旅行鞄一つと、使い慣れた万年筆が三本。
 王都の職業紹介所で「帳簿管理」と伝えたら、三件の求人が出てきた。大商会の経理補佐、王都の宿屋の帳簿係、そして辺境の小さな商会。
 大商会は公爵家と取引がある。宿屋はカール様の社交圏の真ん中。どちらも、あの人の名前を毎日聞くことになるだろう。
 私は三つ目を選んだ。遠く、静かで、誰も私を知らない場所。

銀筆商会(ぎんぴつしょうかい)は、辺境の町の目抜き通りから一本入った路地にあった。
 看板は色褪せ、扉は開くたびに軋み、入り口には埃をかぶった木箱が積まれていた。

「す、すまんねえ。先代が急に亡くなってから、帳簿というものがどうにも……」

商会主のベルンハルト老人は、禿げ上がった頭を掻いた。机の上には領収書と伝票が山と積まれ、その上に未開封の請求書が降り積もっている。帳簿というより、紙の雪崩だった。

三日間、私は紙束と格闘した。
 初日——全ての紙を日付順に並べ直した。床に広げて、一枚ずつ仕分ける。仕入れ、売上、経費、未払い、前払い。五つの山ができた。
 二日目——仕入れと売上を帳簿に転記した。抜けている伝票は取引先に確認の手紙を書いた。六通。
 三日目——棚卸しの数字と帳簿を突き合わせ、在庫の過不足を洗い出した。未払いの請求書を支払い期限順に整理し、資金繰り表を作った。

三日後、銀筆商会の帳簿は一冊の美しい出納帳に生まれ変わった。

「……ベルンハルトさん。利益率、思ったより高いですよ。特に春先の染料の取引が好調です。仕入れ先を二社に分散すれば、交渉力が増して、さらに一割は改善できます」

ベルンハルト老人は帳簿を覗き込み、それから私の顔を見て、目を丸くした。

「ほ、本当かね!? うちの商売、ちゃんと回っておったのか……知らなんだ……」

帳簿が整えば、商売が見える。商売が見えれば、次の手が打てる。何を伸ばし、何を止め、いつ投資すべきか——全て数字が教えてくれる。
 それが経理の仕事だ。

ベルンハルト老人は私の手を両手で包んで、皺だらけの目に涙を浮かべた。

「あんたがいてくれたおかげで、うちの商売が見えるようになった」

——ああ。
 この言葉を、十年間聞きたかったのだ、と思った。
 十年間、三十六冊の帳簿を書き続けて、一度も言われなかった言葉。


テオドール・フォン・ブレンナーが銀筆商会に現れたのは、それから二週間後のことだった。

王室監査局の主任監査官。黒髪を短く整えた、地味な官吏服の青年。
 辺境の小商会の定期監査——本来なら下級官吏が片手間にやる仕事を、なぜ主任自ら? 後から知ったことだが、テオドール様はヴェルナー公爵家で始まった「赤い数字」の現象を調査する過程で、追放された経理令嬢——つまり私の行方を辿っていたのだという。赤い数字の原因を突き止めるには、結界の持ち主に会う必要があった。
 もっとも、銀筆商会の帳簿を開くまでは、単なる聞き取り調査のつもりだったらしいが。

「……失礼。この帳簿は、どなたが?」

テオドール様は銀筆商会の出納帳を開き、一頁目から読み始めた。最初は義務的な目つきだったのが、二頁目で指が止まり、三頁目で姿勢が変わった。椅子に深く座り直し、五頁目に至ると帳簿を両手で持ち上げて、窓の光に透かすように見つめた。

「私です」
「……これは」

テオドール様が帳簿から目を上げた。灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見た。

「これは、芸術です」

冗談かと思った。帳簿を芸術と呼ぶ人間に、二十二年の人生で出会ったことがない。

「仕訳の精度、勘定科目の分類体系、備考欄の簡潔さ——どれを取っても王室の経理官に匹敵する。いえ、超えています。特にこの資金繰り表——三ヶ月先の季節変動まで織り込んだ予測は、教科書に載せたいほどだ」

「……お褒めいただき、恐縮です」

「褒めているのではありません。事実を述べているだけです」

テオドール様はそう言って、少し照れたように目を逸らした。
 その指先にインクの染みがあることに、私は気づいた。右手の中指と人差し指。私と同じ場所に。
 帳簿を長時間書く人間には、必ずこの染みが残る。

「正しい数字には、人の暮らしが映っている」

テオドール様は静かにそう言った。

「この帳簿を読めば、銀筆商会の商売だけでなく、この町の経済が見えます。どの季節に何が売れ、どの仕入れ先が信頼でき、どこに成長の余地があるか。数字が語っている。——それを聴ける人は、とても少ない」

帳簿の向こうに何が見えるか。
 それを理解してくれる人に、初めて出会った。

カール様は言った。「帳簿しか見えぬ女」と。
 テオドール様は言う。「帳簿の向こうに人の暮らしが見える人」と。

同じ帳簿を見ている。見えるものが、まるで違う。


赤い数字の噂は、その頃すでに辺境の町にまで届いていた。

王都の商人が話を持ち込んできたのだ。ヴェルナー公爵家の使用人が町に買い物に出るたび、頭上に赤い光が灯っているのを目撃する者が増えている。
 最初は当人しか見えなかった数字が、日を追うごとに周囲にも見えるようになっていた。市場で買い物をするハンスの頭上に「56」が灯っているのを肉屋が見咎め、執事ヴォルフが馬車に乗って通りを行くとき、御者台から見上げた通行人が「三桁の赤い光」を目撃した。
 不正の額が大きい者ほど、数字は赤く明るく輝き、遠くの者にも見えた。最初は「何かの魔法実験か」と怪しまれたが、やがて——

「追放された経理令嬢の呪いだ」

そんな話が広まり始めた。

銀筆商会にも風評が及んだ。「呪いの経理令嬢が働いている店だそうだ」「あの店の帳簿に触ると赤い数字に取り憑かれる」。根も葉もない噂だったが、客足は目に見えて遠のいた。
 ベルンハルト老人は何も言わなかったが、心配そうな顔で私を見ていた。

テオドール様が古い文献を持ってきてくれたのは、その頃だった。

王室監査局の書庫から持ち出したという、革表紙の古書。頁は黄ばみ、インクは褪せかけていたが、内容は明瞭だった。

「『誠実の結界(せいじつのけっかい)』——王国建国期の記録に残る、極めて稀な体質です」

テオドール様は該当する頁を開いて見せてくれた。

曰く。数字に対して並外れた誠実さを持つ者が、稀に無意識の結界を張ることがある。
 その結界は持ち主の誠実さを媒介にして、周囲の金銭的不正を「見えない」状態に抑制する。
 持ち主が去ると結界は消失し、それまで抑制されていた不正の累計額が、当事者の頭上に赤い数字として浮かび上がる。

「呪いではありません。あなたの誠実さが結界だったのです。あなたがいた十年間、公爵家の不正は——正確には、不正の可視化が——抑えられていた」

「でも私は……カール様の外交費の差額を、雑費に振り分けていました。帳簿を操作していたのです。それは不正では——」

「いいえ」

テオドール様は首を横に振った。

「あなたは帳簿の整合性を守ろうとした。私利私欲ではなく、組織を守るために。結界は持ち主の意図を映すのです。あなたの意図は『隠すこと』ではなく『守ること』だった。だから結界が成立していた」

つまり、私がいなくなったことで——公爵家の全ての不正が、丸裸になったのだ。
 私が隠していたのではない。私がいることで、不正が抑えられていた。私が去ったから、堰が切れた。

噂が「呪い」から「真実」に変わるのに、そう時間はかからなかった。
 テオドール様が王室監査局を通じて公式に「誠実の結界」の存在を認定し、私への風評被害は収まった。

それどころか——「帳簿を正しくしてほしい」という依頼が、私の元に届き始めた。
 辺境の商家。隣町の領主館。遠方の毛織物業者。果ては王都の貿易商まで。

「あなたに帳簿を見てもらえれば、うちの不正も見つかるのでしょう?」
「見つけるのではありません。正しい帳簿を作れば、不正は自ずと生まれなくなるのです」

テオドール様が提案してくれた。

「監査コンサルタントとして独立しませんか。王室監査局が正式に推薦します」

銀筆商会を拠点に、各地の帳簿の監査と改善を請け負う。不正を暴くのではない——正しい帳簿を作り、不正が生まれない仕組みを整える。
 それが私の新しい仕事になった。


ヴェルナー公爵家が王室監査局の正式監査を受けたのは、私が追放されてからちょうど二ヶ月後のことだった。

最初に発覚したのは、厨房の食材横流し。

ハンスの頭上の「2」は、私がいなくなった翌週から急速に膨らんでいた。最初は鶏肉一羽。次は牛肉の塊。ほどなく豚のもも肉、チーズの丸ごと一個、干し果物の樽。
 帳簿を確認する者がいなくなったハンスに、もはや歯止めはなかった。
 食材庫の鍵を合鍵で複製し、夜中にワインの樽まで持ち出すようになった。

「2」が「56」になり、「180」になり、「340」を超えた頃には、公爵家の食卓は目に見えて貧しくなっていた。

晩餐会に出された鹿肉のローストは、肉質が硬く臭みがあった。外国使節が一口食べて銀の匙を置いた。
「前回いただいた鹿肉とは、ずいぶん違うようだが」
 カール様は顔を赤くして弁解したが、何が変わったのかすら理解していなかった。仕入れ先が変わったことも、食材費の半分が消えていることも。

その話は社交界であっという間に広まった。「ヴェルナー公爵家の食事がまずくなった」と。


次に暴かれたのは、執事ヴォルフの着服だった。

私が注意していた「架空の臨時雇い」は、追放後に一人から五人に増えていた。マティアス、クラウス、フリードリヒ、アンナ、ゲルトルート——全員が実在しない。五人分の月給、合計六十リーブルが毎月ヴォルフの懐に流れ込んでいた。

しかもヴォルフは味を占めて新しい手口にも手を出した。修繕費の水増し、消耗品の架空発注、季節賞与の二重払い。
 私がいた頃は月に十二リーブルで天井がついていた不正が、二ヶ月で爆発的に膨れ上がった。

頭上に浮かぶ赤い数字——「3,418」。
 三年分の着服と、追放後二ヶ月の暴走を合わせた額だった。

テオドール様が率いる監査チームが公爵家に入ったとき、帳簿は手のつけようがない状態だったという。

「ヘレーネ殿が管理していた時代の帳簿と、引き継ぎ後の帳簿を比較しました」

テオドール様は監査報告の場で、二冊の帳簿を並べて見せた。

「こちらが彼女の最後の一冊。一銭の誤差もありません。こちらが引き継ぎ後——二ヶ月で累計誤差が四千リーブルを超えています」

ヴォルフは弁明した。

「前の経理が不正を仕込んでいたのです。私はそれを引き継いだだけで——」

テオドール様は眉ひとつ動かさなかった。

「十年分の帳簿を一冊ずつ検証しました。ヘレーネ殿の帳簿に不正の痕跡は一切ありません。むしろ——あなたの架空雇用を毎月報告してくださっていた形跡がある。『雇用記録未提出につき保留』と。十七回分」

ヴォルフの顔から血の気が引いた。


そして——カール様。

赤い数字、「12,680」。

三年間の外交費の私的流用。最初の一年は月に百リーブルほどだった。だがリリアーネ様に贈る宝飾品が年々高額になり、二年目には月に三百、三年目には月に七百リーブルを超える月もあった。高級仕立て屋への支払い、賭博場の清算、そして何より——ルビーのネックレス、サファイアの耳飾り、真珠のブローチ。どれも公爵家の外交費から出ていた。
 カール様がリリアーネ様に宝飾品を贈り始めたのは、私を追い出すよりずっと前——三年前のことだった。
 リリアーネ様の取り巻きの男爵子息たちと張り合うように、宝石の質を上げ、頻度を増やし、やがて自分の給与では足りなくなった。
 「接待費の中に紛れ込ませれば、帳簿を見る者にしかわからない」——そう思ったのだろう。帳簿を見る者が、よりにもよって自分の婚約者だということを忘れて。
 いや、忘れたのではない。カール様にとって、私が帳簿を見ていることは、空気のように当たり前すぎて認識の外にあったのだ。

私がいた頃は雑費に分散させて帳簿を守っていた。けれどもう、パズルを組み替える者はいない。外交費の明細は穴だらけになり、仕入れ業者への支払いが三ヶ月滞り、接待用のワインは量販品に替わり、外国使節への贈答品は前年の半値以下に落ちた。

ついに隣国の大使から正式な苦情が王宮に届いた。
「ヴェルナー家の接待は国家間の礼儀を欠いている」と。

王室監査局の介入は、もはや避けられなかった。

監査報告の場は、公爵邸の大広間で行われた。
 テオドール様が報告書を読み上げ、カール様が正面に座っている。周囲には王室の立会人、公爵家の顧問弁護士、そして——

専門家として招聘された私がいた。

「公爵家嫡男カール・フォン・ヴェルナー殿。外交費からの私的流用、累計12,680リーブル。三年間にわたる継続的な横領行為に該当します」

カール様の顔が蒼白になった。

「帳簿の間違いだ。私は何もしていない。前の経理が——ヘレーネが数字を操作したんだ」

テオドール様が静かに首を振った。

「十年分の帳簿は全て検証済みです。ヘレーネ殿の帳簿に操作の痕跡はありません。むしろ、彼女は外交費の差額を予備枠から補填し、帳簿の整合性を保っていました。——あなたの横領を、帳簿上は見えないようにしていたのです。あなたを守るために」

カール様が息を呑んだ。

「ヘレーネの——呪いだ!」

声を荒げた。椅子を蹴って立ち上がり、広間を指差した。

「あの女が呪いをかけたんだ! 赤い数字も、帳簿の混乱も、全部あの女の仕業だ! 俺は——俺は何も悪くない!」

「誠実の結界は呪いではありません」

テオドール様が古文献の写しを提出した。

「王国建国期から記録のある稀少体質です。持ち主の誠実さが不正を抑制していた。彼女が去ったことで抑制が消え、不正が可視化された。因果関係はありますが、彼女の意志によるものではない」

カール様は崩れるように椅子に戻った。そして——私を見た。

「……ヘレーネ。頼む」

声が小さくなっていた。

「帳簿を直してくれ。お前にしかできないんだ。お前がいれば、この赤い数字も消えるだろう? 頼む……俺が悪かった。だから、戻ってきてくれ」

懇願。
 十年間、一度も向けてくれなかった目で、私を見ている。

私は立ち上がった。
 手には帳簿ではなく、監査報告書を一部。

カール様の目を、静かに見つめた。

「カール様。帳簿は直せます。数字は修正できます」

一呼吸。

「けれど、赤字は、隠せませんの」

カール様の頭上で、「12,680」の赤い光がひときわ明るく灯った。
 広間にいた全員が、その数字を見上げた。


公爵位の剥奪が正式に決まったのは、それから一ヶ月後のことだった。

カール様は横領罪で爵位を失い、ヴェルナー公爵家の領地管理権は王室の直轄に移された。執事ヴォルフは懲戒解雇と賠償命令。厨房番のハンスも罰金を支払い、公爵家を去った。
 リリアーネ様は、判決が出た翌日にカール様の元を去ったそうだ。宝飾品は「贈り物だから返す義務はない」と全て持ったまま。新しい後見人は辺境伯の三男だと聞いた。華やかな人は、次の花壇を見つけるのが早い。

赤い数字は、不正を清算した者から順に消えていった。
 ハンスが横流しした食材の代金を全額返済した日、頭上の「340」がすうっと溶けるように消えたそうだ。庭師の見習いの「3」も、侍女長の「247」も、清算が終われば消えた。ヴォルフの「3,418」は全額返納に時間がかかったが、最後の一リーブルを納めた翌朝に消えた。

だがカール様の「12,680」だけは、最後まで消えなかったという。
 返済する金がなかった——それもあるだろう。リリアーネ様への宝飾品は取り戻せず、賭博場に消えた金は戻らない。
 けれどテオドール様によれば、赤い数字が消える条件は返済だけではないらしい。金額を清算した上で、自らの不正を認め、そこから目を逸らさないこと。
 数字が測っているのは金額ではなく、誠実さの欠損だから。
 カール様は最後の最後まで、こう言い続けたそうだ。「ヘレーネがいれば問題なかった。あの女さえ戻れば——」と。
 自分が何を間違えたのか。最後まで、帳簿の外側にいたカール様には、見えなかったのだろう。

どちらだとしても、もう私には関係のないことだった。


辺境の夕暮れは、王都より少しだけ早い。

銀筆商会の二階の窓際で帳簿を広げていると、階下の扉が開く音がした。

「お邪魔します」

テオドール様だった。官吏服のまま、馬を飛ばしてきたのだろう。額にうっすらと汗をかいていて、黒髪が少し乱れている。

「王室監査局の辺境支局が新設されることになりまして」

テオドール様は帽子を脱いで胸に当てた。

「その……支局長として、こちらに赴任することになりました」

言葉を探すように、灰色の瞳が泳いだ。この人は帳簿の前では誰よりも雄弁なのに、それ以外ではひどく不器用だ。

「それで、定期的に帳簿の助言をいただけないかと——」

「もちろんです。監査コンサルタントですから」

「いえ」

テオドール様が、一歩近づいた。インク染みの指先が、私の机の縁に触れた。

「仕事の話だけでは、ないのです」

窓から差し込む夕陽が、開いたままの帳簿の頁を橙色に染めた。数字の列が金色に光って、まるで宝石のようだった。

「帳簿の向こうに人の暮らしが見える人と——もう少し、一緒に過ごしたいのです」

ああ。
 十年間、「帳簿しか見えぬ女」と呼ばれ続けた私を。
 「帳簿の向こうが見える人」と呼んでくれる人が、ここにいる。

「……テオドール様」

「はい」

「数字は嘘をつきませんから」

私は微笑みました。
 涙は流しませんでした。ただ、帳簿を閉じる手が——少しだけ、震えました。

世界が、すこしだけ正しくなった音がした。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

「知略型×数値可視化」のざまぁストーリーです。帳簿管理という地味すぎる職能に「赤字の呪い」という視覚ギミックを掛け算したら、けっこう気持ちいいカタルシスになったのではないかと思います。

ヘレーネがカール様の外交費の不正を「雑費に振り分けて」守っていた——というところがポイントです。彼女は不正を隠していたのではなく、帳簿の整合性を守ろうとしていた。そしてその「守り」が消えた瞬間に全てが崩壊する。人は往々にして、守られていることに気づかない。気づいた時にはもう、赤字が頭上に浮かんでいるのです。

「一銭の誤差は、一万の嘘の始まり」というヘレーネの信条は、書いていて自分でもちょっと痺れました。帳簿を毎朝照合する——ただそれだけのことが、組織全体の誠実さの防波堤になっている。地味な仕事ほど、なくなったときのダメージは計り知れません。

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