——凛が王都からリンデン村へ堂々と帰還する決意を告げる。
「リンデン村に帰ります」
言い切った瞬間、謁見の間が——息を止めた。
逃げるための言葉じゃない。今度は、私の足で歩いて帰るための言葉だ。
玉座の王は、ゆっくりと頷いた。
その目にあるのは、命令でも所有でもなく、敬意だった。
「引き留めはしない。だが——感謝は伝えたい」
王の声は低く、けれど柔らかい。
王都を満たしていた恐怖と怒号を、あの人は最後まで背負っていたのだと、今なら分かる。
「聖女殿。貴女が戻ってくれたことで、多くの命が救われた」
「いいえ。救ったのは、皆さんの手です。薬を煮て、運んで、看て……祈って」
私は胸の前で手を重ね、深く礼をした。
敬語は崩さない。でも、背筋は折らない。
「私は、もう“削られて”誰かの道具にはなりません」
その言葉に、列の端で誰かが小さく息を呑んだ。
セドリックさんの肩も、わずかに揺れる。
「凛」
隣に立つレオンさんが、短く呼んだ。
“言い過ぎるな”ではなく、“言え”という声だった。
私は頷き、王をまっすぐ見る。
「私は村に帰ります。リンデン村で、畑を耕し、薬草を育てます」
「……それが、貴女の望みか」
「はい。今の私の望みです」
王は、唇の端をほんの少しだけ上げた。
笑みというより、認めた印。
「ならば、道は整えよう。王都から村まで、危険がないように。——そして」
王は視線を横へ滑らせた。
その先にいるのは、セドリックさん。
「セドリック」
「……はい、陛下」
セドリックさんは一歩前に出て、膝をついた。
貴族の作法のはずなのに、今日はそれが“身を削る”仕草に見えた。
「凛。……すまなかった」
頭が下がる。
あの日、私を縛った言葉も、命令も、あの人の口から出た。
でも同時に、疫病の現場で眠らず走った背中も、私は見ている。
私は、息を吸った。
許すためでも、責めるためでもない。
終わらせるための言葉を選ぶ。
「謝罪は、次の聖女を作らないことで示してください」
静寂が落ちた。
重い。けれど、怖くない重さだった。
セドリックさんの肩が震え、やがて顔を上げた。
目の縁が赤い。僕、という一人称を隠してきた人が、今は子どもみたいに見える。
「……僕は、必ず止める。制度も、思想も。聖女を“生み出す”仕組みを」
「お願いします」
それだけでいい。
許した、と言ったわけじゃない。
でも、未来への条件は渡した。
王が、静かに言葉を継いだ。
「聖女殿。貴女の帰る場所が、貴女のものとして続くよう、国として守ろう」
「……ありがとうございます」
声が少しだけ震えた。
感謝を受け取ることに、私はまだ慣れていない。
レオンさんが小さく鼻で笑う。
「泣くな。まだ門まである」
「泣きません」
「顔がもう泣きそうだ」
「……レオンさん」
叱られているのに、苦しくない。
隣にいるだけで、心臓が落ち着く。
王都の城門へ向かう道は、思ったより広かった。
こんなに空が見える道を、私は今まで“通してもらえていなかった”のだと気づく。
石畳の両端に、人がいる。
一人、二人じゃない。波みたいに増えていく。
「……どうして」
呟きは風に溶けた。
私の耳にだけ、ちゃんと届く。
誰かが花を持っている。
誰かが布を掲げている。
子どもが背伸びをして、門の方を覗き込んでいる。
レオンさんが肩をすくめた。
「噂は回る。あんたが疫病止めたってな」
「私一人じゃ——」
「分かってる。でも、あんたが“戻ってきた”のは事実だ」
戻ってきた。
それは、あの夜の“逃走”とは逆の言葉だ。
第三の夜。私はフードを深く被り、息を殺して裏門を抜けた。
足音が怖くて、犬の遠吠えに心臓が跳ねて、石に躓きそうになりながら——ただ、生きるために走った。
あのときの王都は、私を見つけたら引き戻すか、石を投げるか、どちらかだった。
“聖女”は便利な道具で、都合が悪くなれば罪人にもなる。
けれど今、門前に集まる人々の顔は違う。
目が、私を“人”として見ている。
誰かが叫んだ。
「聖女様!」
次の声が重なり、また重なった。
怒号じゃない。罵声でもない。
「ありがとう、聖女様!」
「助かったよ!」
「おかげで母ちゃんが——!」
「また来てくださいね!」
最後の子どもの声は、震えているのに明るい。
その言葉の後の全角スペースが、私の胸にぽっかり余白を作った。
余白に、熱いものが溜まる。
「……皆さん」
声が掠れた。
私は足を止め、群衆へ向き直る。
王宮の壁の中では、聖女は舞台に立てなかった。
立てば、操り糸を結ばれるから。
でも今は、誰にも引かれない。
私は、自分の足で立っている。
「ありがとうございます」
頭を下げると、ざわめきが一瞬、静かになった。
そして次の瞬間、拍手が起こった。
拍手なんて、私には似合わないと思っていた。
けれどその音は、軽くなくて、温かい。
誰かが前へ出て、小さな包みを差し出した。
布の隙間から、乾いた薬草の香りがした。
「村へ持ってって。うちの畑のやつだ」
「……ありがとうございます。大切に使います」
別の人が、焼き菓子を。
別の人が、薄い毛布を。
あまりに多くて、私は受け取りきれない。
困って振り向くと、レオンさんが無言で両腕を差し出した。
不機嫌そうな顔のまま、荷物を受け取っていく。
「ちょっと、重いですよ」
「あんたは持つな。倒れる」
「……はい」
返事が素直になってしまって、私は自分で驚いた。
隣で笑う気配がして、見上げると、レオンさんの口角がほんの少し上がっていた。
門が見える。
白い光の向こうに、街道が続いている。
門前で、私はもう一度だけ振り返った。
人々の顔が、ちゃんと見える距離にある。
「……私、行ってきます」
その言葉は、昔の私には言えなかった。
“戻る”前提の言葉。
帰る場所がある人の言葉。
群衆が笑った。泣いた。手を振った。
「いってらっしゃい!」
「元気で!」
「聖女様、幸せになって!」
私は、涙が落ちる前に笑おうとした。
でも、笑うほどに目が熱くなる。
レオンさんが、私の肩に外套を掛けた。
乱暴に見えて、風の向きを読んだ、ちょうどいい角度。
「泣くなら、前向け」
「……はい」
「ほら、歩け。堂々とな」
促されるまま、私は門をくぐる。
背中に拍手が降り注いで、追い風みたいに押してくる。
王都を離れると、空気が少しだけ軽くなった。
石の匂いが薄れて、土と草の匂いが混じる。
しばらくは無言で歩いた。
言葉にしてしまうと、胸の熱がこぼれて、歩けなくなりそうだったから。
遠くで、鳥が鳴いた。
「……なあ」
レオンさんが短く言う。
「さっきの“幸せになって”っての、聞こえたか」
「聞こえました」
「どうする」
どうする。
その問いは、未来の話だ。
私は足元の影を見て、少しだけ笑う。
「まずは、畑です」
「堅実」
「それから……村の皆さんに、ただいまを言いたいです」
レオンさんが、隣で頷いた。
「それでいい」
短い言葉なのに、背中が温かくなる。
承認は、こんなに人を強くするのだと知った。
私は視線を上げる。
街道の先に、まだ見えないリンデン村がある。
あの村は小さい。
でも私の尊厳を、最初に守ってくれた場所だ。
逃げ込んだ場所じゃない。帰る場所だ。
「レオンさん」
「ん」
「これからも……隣を歩いてくれますか?」
言った瞬間、心臓が跳ねた。
頼ってはいけない、と思ってきた癖が、まだ残っている。
レオンさんは、前を向いたまま。
けれど歩幅を、私に合わせて少しだけ落とした。
「俺は、最初からそのつもりだ」
息が白くなりそうなほど、胸の奥が静かに熱い。
私は頷いて、言葉を探した。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。あんたが笑ってりゃ、それで」
言い終わる前に、彼は咳払いみたいに顔を背けた。
耳が少しだけ赤い気がして、私は見ないふりをする。
そういう照れを、私は大事にしたい。
傷だらけの関係の上に、それでも芽吹いたものだから。
私は深呼吸して、空の青さを胸に入れた。
「帰ろう、レオン」
「ああ」
その一言で、旅立ちが“終わり”じゃなくなる。
終わったのは、削られて使われる私。
ここから始まるのは、私の暮らしと、私の未来だ。
——次話「小さな診療所」――小さな安らぎが、運命を変えていく。