ヴィントヘルムには、匂いがなかった。
正確には、甘い匂いがなかった。馬車を降りた瞬間にリゼットの鼻を突いたのは、薪の煙と、獣脂と、冷たい土の匂い。秋だというのに風は刃物のように冷たく、吐く息が白い塊になって消えていく。
——ここが、辺境。
村と呼ぶには小さすぎた。石造りの家が二十軒ほど、街道沿いに身を寄せ合うように並んでいる。屋根は灰色の石板で、窓は小さく、どの家も背を丸めて風を避けているように見えた。行き交う人の姿はまばらで、すれ違う者の頬は赤く、目だけが鋭い。
すれ違う人々は皆、厚手の毛織物に革の上着を纏っている。染めの色は茶と灰ばかりで、王都の華やかな衣装とは別世界だ。通りの端で老婆が干し肉を軒先に吊るし、少年が薪の束を背負って駆けていく。遠くで斧が木を割る音がこだましている。
リゼットの薄手のワンピースに、何人かが怪訝な目を向けた。こんな格好でここにいること自体が、余所者の証だった。
リゼットは革鞄を抱え直し、通りを歩き始めた。
王都では、どの通りにもパン屋か菓子屋があった。焼きたてのパンの香り、砂糖を煮詰めた甘い湯気、果物を並べた屋台の色。街を歩くだけで、鼻と目が楽しめた。
ここには、何もない。
パン屋はある。一軒だけ。だが窓に並んでいるのは黒くて硬そうな丸パンだけで、菓子の類は影も形もなかった。
鍛冶屋が一軒。倉庫がひとつ。あとは民家が並ぶだけ。王都の通りには菓子屋、花屋、仕立屋、香料屋が色とりどりに軒を連ねていた。ここには、生きるために必要な最低限しかない。
「……本当に、菓子屋がない」
呟いた声が、風に攫われた。
宿屋は、村の中ほどにあった。
木造二階建て。看板には「ハイデン亭」と素朴な字で書かれている。壁は年季が入って黒ずんでいるが、入口に飾られた秋の野花だけが温かい色をしていた。
扉を開けると、干し肉とパンの匂い——そして、暖炉の火の匂い。
「いらっしゃい! 珍しいねえ、この季節にお客さんだ」
声が飛んできた。カウンターの奥から、栗色のお団子髪の女性が顔を出す。がっしりした体つきに、エプロン姿。粉が髪についている。笑うと目尻に皺ができる。
「あの……一泊、お願いできますか」
「もちろん! 部屋は余ってるよ。つか、余りすぎてるくらいさ」
女将は——マリー・ハイデンと名乗った——カウンターから出てきて、リゼットを上から下まで眺めた。
「王都の人?」
「……分かりますか」
「分かるさ。その服、北の人間は着ない。薄すぎるよ。凍え死ぬ前にまともな外套を買いな」
リゼットは思わず自分の服を見下ろした。質素なワンピースに白いエプロン。王都の秋なら十分だったが、ここでは確かに心許ない。
「旅の人? それとも、しばらくいるの?」
「えっと……しばらく、お世話になりたいのですが」
「へえ。この辺りに用事かい」
「用事というか……わたし、菓子師なんです。お菓子を作る——」
「菓子師?」
マリーが目を丸くした。それから、大きな声で笑った。
「あっはは! 菓子師! この辺じゃ聞かない職業だねえ」
笑われた。だが、嫌な笑い方ではなかった。からりと乾いた、風通しの良い笑い声。宮廷の嘲笑とは根っこが違う。
「あんた、名前は?」
「リゼット……リゼット・フォン・メルヴェーユです」
「リゼね。あたしはマリー。ここの女将だよ」
もう愛称になっている。リゼットが戸惑う間もなく、マリーは暖炉のそばの席を指差した。
「とりあえず座んな。温かいもん出すから。パンとスープくらいしかないけど」
「あの……宿泊料は」
「一泊、銀クラウン一枚。急がないよ。まずは温まんな」
銀クラウン一枚。手元の銀が十数枚だから、宿代だけで二週間。その先は——金クラウンが二枚あるが、この村で金貨を崩せる場所があるとは思えない。リゼットは小さく頷いて、暖炉のそばに腰を下ろした。
出されたスープは、芋と玉葱を煮込んだだけの素朴なものだった。
リゼットは一口すすって、舌の上で味を確かめる。塩味は適度。芋の甘みが微かに出ている。だが——それだけだ。香辛料もなく、出汁の奥行きもない。ただ温かいだけの、命をつなぐための食事。
添えられたパンは黒い大麦パン。堅くて重く、噛むとじゃりっと粉の粒が歯に当たる。王都の白パンとは別の食べ物だった。味付けは塩のみ。香辛料の香りは微塵もない。これが辺境の「普通」なのだ。
王都では、スープにも菓子師の技術が活きた。蜂蜜を隠し味に、ナツメグをひと振り。豊穣神の恵みとして尊ばれる甘味は、料理の影の主役だった。
ここでは、その甘味そのものが存在しない。
「ねえマリーさん。この村に、砂糖は……」
「砂糖? あるにはあるけど、高いよ。銀クラウン五十枚。年に一度、商人が持ってくるのを村長が少しだけ買うくらいさ。あとは蜂蜜が少し。あたしの宿でも、甘いものは出したことないね」
「蜂蜜は、どこで?」
「白霜の森。村の裏手に広がってる大きな森だよ。野生の蜜蜂がいるって聞くけど、森は深いし、あんまり奥には行かないねえ。それより」
マリーが身を乗り出した。
「リゼ、あんた本当に菓子師なの? 王都から来たって顔してるけど——なんでまたこんな辺境に?」
リゼットは一瞬、言葉に詰まった。
追放された。宮廷を追われた。不要だと言われた。
——それを、初対面の相手に言えるほど、まだ傷は乾いていない。
「……少し、事情がありまして」
「ふうん」
マリーはそれ以上は聞かなかった。代わりに、ぽん、とリゼットの肩を叩いた。
「まあ、事情は人それぞれさ。ここは何もないけど、寝る場所と温かいスープくらいはあるよ。ゆっくりしな」
その手のひらが、温かかった。
夕刻。
宿の前で外套の埃を払っていると、通りの先から馬の蹄の音が聞こえた。
灰銀色の短髪。質素な革鎧。左の頬から顎にかけて走る古い傷跡。長身の男が馬を降り、手綱を柵に結んでいる。動きに無駄がない。剣の柄頭が腰で揺れる。鎧の肩口に泥がこびりつき、革のブーツの先が濡れている。長い時間、野外を歩いてきたのだろう。
「あ、セドだ」
マリーが宿の窓から顔を出した。
「セド、お帰り! 北の見回り、異常なかった?」
「ああ。問題ない」
短い。声も低い。振り返りもしない。北の山脈に通じる峠の巡回——魔物の南下を真っ先に察知するための日課だと、後でマリーに聞いた。
これが——辺境伯セドリック・フォン・ヴィントヘルム。馬車の中で老人が語った「若いが筋の通った領主」。王都で「北の番犬」と呼ばれる男。
思っていたより、若い。リゼットとそう変わらないように見える。だが纏う空気は、年齢とは釣り合わない重さがあった。
「セド、お客さんだよ。王都から来た菓子師さん」
セドリックの青灰色の目が、初めてリゼットを捉えた。
冷たい、とは違う。無関心。まるで道端の石を見るような目だった。
「菓子師」
それだけ言って、視線を外した。興味がない。完全に。
「あ、あの——」
リゼットは咄嗟に鞄の中に手を伸ばしていた。布に包んだサブレ——宮廷菓子房で焼いた、最後の一枚の残り。一口齧ったきり、大事にしまっておいた菓子。
なぜ差し出そうと思ったのか、自分でも分からない。
菓子師の性だったのかもしれない。初めて会った人には、まず菓子を——母にそう教わった。
「よろしければ、召し上がってください。蜂蜜と胡桃のサブレです。その……少し食べてしまったのですが」
布を開いて差し出す。半分に割れたサブレ。焼き色はまだ美しいが、三日経って少し硬くなっている。王都の宮廷菓子師が最後に焼いた菓子の、残りの半分。
セドリックは、一瞬だけサブレを見た。
「……いらない」
そして、宿屋の中に入っていった。
リゼットの手の上で、半分のサブレが冷たい風に晒されている。
「……」
「あー、気にしないでいいよ。セドはいつもああなんだ」
マリーが苦笑しながら出てきた。
「食い物に興味がないんだよ、あいつ。パンも干し肉も同じ顔で食うし、味の感想なんて聞いたことない。飯は栄養、それだけって感じでさ」
食い物に興味がない。
菓子師にとって、これほど途方もない言葉があるだろうか。味に興味がないということは——リゼットの存在意義そのものが、この男にとっては無意味だということだ。
「……そう、ですか」
サブレを布に包み直す。指先が、少しだけ震えていた。
その夜。
宿の二階に案内された小さな部屋で、リゼットは窓辺に座っていた。
窓の外は闇。王都のように街灯はなく、見えるのは星と、遠くの家々から漏れる蝋燭の灯りだけ。風が窓枠を鳴らしている。
遠くで犬が一声吠え、それに応えるように別の犬が吠えた。それだけ。王都の夜にはいつも何かの音があった——馬車の車輪、酔客の歌声、夜番の鐘。ここの夜は静けさそのものだ。星だけが、痛いほど近い。
レシピ帳を膝の上で開いた。蝋燭の明かりで母の字を追う。
——焼き菓子の基本。小麦粉は篩にかけること。
小麦粉。ある。パン屋が使っているのを見た。
——卵は室温に戻すこと。
卵。鶏を飼っている家がいくつかあった。
——バターは冷たいまま。
バター。乳牛がいるかは分からない。山羊の乳なら出そうだが……。
仮にあったとしても、辺境の物価は王都の何倍もする。あの老人の話を思い出す。砂糖は五倍。小麦粉も、きっと。銀が十数枚——宿代だけで二週間で尽きる。金クラウンは二枚あるが、この村では崩しようがない。次の商隊が来るまで、金貨はただの金属の塊だ。
——砂糖は、
ない。
リゼットはそっとレシピ帳を閉じた。母のレシピは、砂糖が前提だ。王都の潤沢な食材があって初めて成り立つものばかり。蜂蜜と胡桃のサブレですら、砂糖を三割は使う。
この村では、王都のレシピはひとつも作れない。
マリーさんの言葉が蘇る。甘いものは出したことがない。蜂蜜が少しだけ。
セドリック様の言葉が刺さる。いらない。
——ここで、リゼットに何ができるのだろう。
窓の外を見た。星が痛いほど近い。王都では見えなかった星の数だ。
そのとき、ふと——鼻が捉えた。
風の中に、ほんの微かな匂い。甘い、というほどではない。だが、どこか懐かしい。木の実を炒ったような、素朴な芳しさ。
リゼットは窓を少し開けた。冷たい風と一緒に、その匂いがまた鼻をくすぐる。
——この匂いは、なに?
暗い森の方角から来ている。村の裏手に広がるという、白霜の森。
何かがある。この辺境にしかない、何かが。
まだ何も分からない。砂糖もない。窯もない。菓子師としての居場所もない。
でも——この匂いが気になる。
リゼットはレシピ帳の最後の空白ページに、小さく書き込んだ。
——ヴィントヘルム、一日目。砂糖なし。バター不明。蜂蜜、少し。森の匂い、要調査。
菓子師の手帳に、初めての記録。
まだ何も焼けていない。でも、手帳に書くことがあるなら——まだ、始められる。