厨房の扉を開けた瞬間——空気が、変わった。
朝の練習厨房には、すでに五、六人の参加者が作業台に向かっていた。昨日までと同じ顔ぶれ。同じ白い作業着。同じ小麦粉の匂い。
でも——視線が、違う。
リゼットが一歩踏み入れた途端、手が止まった。泡立て器を握る手が。生地をこねる手が。砂糖を量る手が——一斉に止まって、こちらを見た。
すぐに逸らされる。わざとらしく作業に戻る。でも、耳は——こちらに向いている。
「……あの人でしょう。昨日、毒を見抜いたの」
囁き声。作業台の向こう、二人の女性菓子師が顔を寄せ合っている。聞こえないように話しているつもりだろうけれど——菓子師の耳は、窯の温度変化を音で聞き分けるほど鋭い。
「見抜いたんじゃなくて、知っていたのよ。苦扁桃の味を。追放された菓子師が、どうしてそんなものの味を知っているのかしら」
「自分で仕込んで、自分で暴いた——って噂、聞いた?」
「嫌ね……怖い」
リゼットは足を止めなかった。
止めたら——負ける。
自分の作業台まで歩いて、エプロンを締め直した。指先が冷たい。昨日から、ずっと冷たいままだ。
毒を見抜いた。ただそれだけのことだった。茶会で供された焼き菓子に、かすかな苦味を感じた。苦扁桃の、あの独特の鋭い苦味。菓子師なら知っている味だ。風味づけに微量を使うこともある素材だから。
でも——それが、今のリゼットに刃を向けている。
追放された元宮廷菓子師。宮廷の内情に詳しい女。毒の味を知っている女。
疑惑の材料としては——十分すぎた。
午前の練習を始めようと、プティフールの試作に使う霜花蜜の瓶を取り出した時だった。
「メルヴェーユ嬢」
厨房の入り口に——衛士が二人、立っていた。
王城の紋章が入った胸当て。腰には剣。顔は無表情だが、目だけが鋭い。
「少々お時間をいただきたい。昨日の茶会における毒物混入の件について、お話を伺いたい」
厨房の空気が——凍った。
全員がこちらを見ている。今度は隠しもしない。好奇と恐怖と、それからかすかな——安堵。自分ではなかった、という安堵。
「……分かりました」
リゼットはエプロンを外した。
手が震えそうになったけれど——震えなかった。ここで震えたら、それこそ疑わしく見える。
菓子師の手は、震えてはいけない。
連れて行かれたのは、宮廷の一角にある小部屋だった。石造りの壁に、高い窓。窓の外に、秋の青空が見える。
椅子に座らされた。向かいに衛士が二人。壁際にもう一人。
「メルヴェーユ嬢。昨日の茶会において、あなたは焼き菓子に含まれた毒物を即座に看破しました」
「はい」
「毒物は苦扁桃の種子から抽出された成分と判明しています。あなたは、この毒物についてどのような知識をお持ちですか」
淡々と。事務的に。でも——その事務的な口調の裏に、刃が光っている。
「苦扁桃の味は、菓子師なら知っています」
リゼットは背筋を伸ばした。
「風味づけに微量を使うこともある素材ですから。マカロンやアマレッティには欠かせない香りです。ただし、量を誤れば毒になる。それは菓子師の基本的な知識です」
「基本的な知識、と」
衛士が手元の羊皮紙に何かを書き込んだ。
「では——あなたは菓子師として、毒物になり得る素材の扱いに精通している、と」
「……素材の安全な使い方を知っている、ということです」
「しかし、安全でない使い方も——当然ご存知でしょう」
言葉が、喉に詰まった。
当然、知っている。菓子師は「何を入れてはいけないか」を学ぶ。素材の危険量を知らなければ、安全な菓子は作れない。
でも——今、それを言えば。
「さらに」
衛士が続けた。
「あなたはかつて宮廷菓子師でした。宮廷の厨房事情——食材の保管場所、調理の手順、菓子の提供経路——すべてに通じておられるはずです」
「三年前の話です。今は——」
「三年で構造は変わりません。あなたには毒を仕込む知識と、宮廷の内部情報がある。動機についても——追放された恨みがあると考えれば、説明がつく」
動機。
その言葉が——胸に突き刺さった。
恨み。確かに恨んだ。あの日、「お前の菓子はもう不要だ」と告げられた日。何が足りなかったのか分からないまま宮廷を追われた日。恨まなかったと言えば嘘になる。
でも——毒を盛るなんて。
「わたしは、菓子で人を傷つけたことはありません」
声が震えた。震えてしまった。抑えようとしたのに、止められなかった。
「菓子師にとって、食べ物に毒を入れることは——何よりも許しがたい行為です。豊穣神への冒涜です。わたしの菓子は、食べた人を笑顔にするために作るものです。決して——」
「お気持ちは分かりますが、状況証拠としては——」
扉が——開いた。
蹴り開けた、と言った方が正しい。
重い木の扉が、壁にぶつかって轟音を立てた。
衛士たちが一斉に立ち上がった。手が剣の柄にかかる。
扉の向こうに——セドリック様が、立っていた。
灰銀色の髪。深い青灰色の目。質素な革鎧に辺境伯家の紋章。
怒っていた。
怒鳴ってはいない。声も上げていない。でも——怒っていた。
静かな怒り。武人の怒り。体の中で制御された暴力が、眼光だけに凝縮されている。あの左頬の傷跡が——今この瞬間だけ、戦場の名残ではなく、威圧の紋章に見えた。
「辺境伯……閣下。ここは事情聴取の——」
「聞いている。この女に毒事件の嫌疑をかけていると」
セドリック様は部屋に踏み込んだ。衛士三人の間を、まるで障害物がないかのように通り抜けて——リゼットの前に、立った。
壁のように。盾のように。
リゼットとの間に衛士を入れない位置に。
「この女を疑うなら、辺境伯の名にかけて証明する」
低い声。短い言葉。でも——部屋の空気が、震えた。
「閣下、これは宮廷衛士隊の正式な調査で——」
「俺は品評会参加者の推薦者だ。辺境伯の権限で、リゼットの品評会期間中の行動を保証する立場にある」
リゼット——。
心臓が、跳ねた。
セドリック様が——今、なんと言った?
リゼット。
「お前」ではなく——「リゼット」と。
名前を。わたしの名前を——呼んだ。
頭の中が真っ白になりかけた。だが今はそれどころではない。目の前の衛士たちの顔が、辺境伯の圧に強張っている。
「リゼットは品評会の期間中、常に俺の目の届く場所にいた」
セドリック様が続けた。一語一語が、槌で釘を打つように重い。
「宿舎から厨房まで、俺が同行している。練習時間は厨房の出入りを俺自身が確認している。昨日の茶会の前も——リゼットは午前中ずっと厨房にいた。毒を仕込む機会など、ない」
「しかし閣下、毒物の知識が——」
「毒を見抜いたことが罪なら、毒見役は全員犯罪者か」
衛士が口をつぐんだ。
セドリック様の声には怒りがあった。だがそれは感情に任せた怒鳴り声ではない。鍛え上げられた剣のように——正確で、鋭くて、逃げ場がない。辺境の戦場で部下に命令を下してきた男の、有無を言わせぬ声だった。
「菓子師が素材の毒性を知っているのは当然のことだ。知らなければ安全な菓子は作れん。それを疑いの根拠にするのは筋が通らない」
沈黙が落ちた。
衛士たちは顔を見合わせている。辺境伯の言い分に反論できない。だが——引き下がるわけにもいかない。宮廷で毒事件が起きた以上、誰かを調べなければ上からの圧力に耐えられない。
扉の外から——新たな足音が聞こえた。
複数の足音。そして——衣擦れの音。絹の衣擦れ。
「何の騒ぎだ」
その声を聞いた瞬間、衛士たちの背筋が伸びた。
ヴァレンティン殿下だった。
金髪が窓の光を受けて輝いている。翡翠色の目が、部屋の中を一瞥して——状況を把握した。椅子に座るリゼット。その前に立つセドリック。対峙する衛士たち。
「殿下」
衛士の一人が頭を下げた。
「昨日の毒物混入事件について、メルヴェーユ嬢への事情聴取を行っておりました。辺境伯閣下がお見えになり——」
「経緯は分かった」
ヴァレンティン殿下が手を上げて、衛士の報告を遮った。
部屋に入ってくる。セドリック様と視線が交わった。辺境伯と王太子。二人の間に——一瞬の緊張が走る。
ヴァレンティン殿下が——リゼットを見た。
あの翡翠色の目。三年前、「お前の菓子はもう不要だ」と告げた時と同じ目——いや。違う。あの時の目には、何の感情もなかった。政治的な判断を告げるだけの、空虚な目だった。
今の目には——何かがある。
躊躇だ。
リゼットを犯人扱いすることへの——躊躇。
「衛士隊長」
「はっ」
「メルヴェーユ嬢を容疑者として拘束することは……時期尚早だ」
衛士たちの間に、動揺が走った。
「しかし殿下、状況証拠からして——」
「状況証拠だけで品評会の参加者を拘束すれば、品評会そのものの信用が失墜する。辺境伯の推薦を受けた者を、確たる証拠なく罪に問うことは——王家の公正さを疑わせることになる」
王太子としての判断。
品評会の秩序を守る責任。王家の威信。
でも——それだけではない、とリゼットは感じた。
ヴァレンティン殿下の声には、政治的な計算だけでは説明できない何かがあった。かつてリゼットを追放した時には微塵もなかった——良心の重さのようなもの。
不当な罪を着せることへの——ためらい。
「メルヴェーユ嬢」
ヴァレンティン殿下がリゼットに向き直った。
「……殿下」
「昨日の茶会における毒の看破は、菓子師としての正当な判断であったと——私は判断する」
リゼットは息を呑んだ。
ヴァレンティン殿下が——リゼットを、認めた。菓子師として。わずかではあるが、あの嘲笑の中にあった壁が——ひび割れた。
「ただし」
殿下の目が鋭くなった。
「調査が完了するまで、品評会参加者の行動は記録される。辺境伯——あなたが保証人として、メルヴェーユ嬢の行動に責任を持たれよ」
「……無論だ」
セドリック様が短く答えた。
ヴァレンティン殿下は踵を返した。扉の手前で——一瞬だけ、足を止めた。
振り返りはしなかった。でも、その背中が何かを言いかけているように見えた。
扉が閉まった。
衛士たちが去った後——二人だけになった。
リゼットは椅子から立ち上がろうとして——膝が震えた。
「……っ」
ずっと、張り詰めていた。衛士の前でも、殿下の前でも——震えてはいけないと。菓子師の手は震えてはいけないと。
でも——もう、限界だった。
「座っていろ」
セドリック様の声。ぶっきらぼうだけれど——温かい声。
「……すみません。少し——」
「謝るな」
リゼットは椅子に座り直した。膝の上で手を握りしめた。
怖かった。
毒を見抜いたことが罪になるなんて思わなかった。人を助けたはずなのに——それが刃になって返ってくるなんて。
宮廷とは、そういう場所だ。正しいことが正しいとは限らない。善意が善意のまま受け取られるとは限らない。三年前にそれを知ったはずなのに——また、同じ目に遭っている。
「セドリック様」
「何だ」
「……ありがとうございます。助けに来てくださって」
「当然のことだ」
短い言葉。でも——リゼットは知っている。この人の「当然」は、「当然」ではない。辺境伯が宮廷の衛士に食ってかかるのは——政治的にはかなりの冒険だ。辺境の田舎領主が王都で波風を立てれば、あとで面倒なことになりかねない。
それでも来てくれた。
扉を蹴り開けて。
「……セドリック様」
「まだ何かあるのか」
聞きたかった。
さっき——わたしを、名前で呼びましたよね?
でも——言えなかった。言えるような状況ではなかった。今はまだ、疑惑が完全に晴れたわけではない。品評会も続く。プティフールの仕上げもある。
それでも——あの瞬間のことは、忘れない。
「リゼット」と——この人が呼んだこと。
「お前」ではなく。
わたしの名前を。
「……いいえ。何でもありません」
「……そうか」
セドリック様は窓の外に目を向けた。秋の日差しが、左頬の傷跡を照らしている。
昼過ぎ。
衛士隊からの続報が、品評会の運営を通じて伝えられた。
練習厨房の食材庫を調べたところ——後任の宮廷菓子師の助手、その荷物の中から苦扁桃の瓶が見つかった、と。
まだ確定ではない。助手本人は「薬味として持ち歩いていた」と主張しているらしい。だが——品評会の厨房に苦扁桃を持ち込む理由としては、不自然だ。
この報せが広まると——厨房の空気が変わった。
朝、リゼットを避けていた参加者たちの視線が——少しだけ、和らいだ。まだ完全ではない。疑惑の残滓はくすぶっている。でも、別の容疑者の存在が浮上したことで——リゼットへの圧は、明らかに緩んだ。
後任の菓子師の助手。
リゼットはその名を聞いた時——何も感じなかった。恨みも、怒りも。ただ——悲しかった。菓子に毒を盛るなんて。食の冒涜罪は、この国で最も重い罪の一つだ。菓子師にとっては——自分の手を呪うようなもの。
「……どうして、そんなことを」
呟きは——誰にも聞こえなかった。
夕刻。
練習厨房に残って、プティフールの仕上げに取りかかった。
品評会は——続く。毒事件があろうと、疑惑をかけられようと——品評会は止まらない。本選は六日後だ。
霜花蜜のボンボンの糖衣に、もう一層の透明な蜜を重ねる。ほんのわずかな厚み。でもこの一層が、口に入れた瞬間の食感を変える。
指先は——もう震えていない。
窯に火を入れた。黒胡桃のフィナンシェの焼き直し。父の批評を思い出す。「焼き加減が二度甘い」——あの辛辣な言葉が、今は道標になっている。
今日の二度を——昨日の温度から修正する。
厨房の扉の向こうに——足音。
重い足音。けれど荒々しくはない。扉の前で、少しだけ間がある。いつもの、あの間。
「……邪魔するぞ」
セドリック様だった。
リゼットは手を止めて——振り返った。
「いらっしゃいませ、セドリック様」
いつもの言葉。いつもの挨拶。
でも——いつもとは、少しだけ違う。
セドリック様は黙って、窯のそばの椅子に座った。腕を組んで、壁にもたれて。何も言わない。ただ——そこにいる。
見張りではない。護衛でもない。
ただ——そこにいてくれている。
リゼットは窯に向き直った。
プティフールの仕上げ。辺境の四季を一皿に。高原りんごのコンポート。霜花蜜のボンボン。黒胡桃のフィナンシェ。ベリーのタルトレット。そして中央に——辺境の蜂蜜を使ったカラメル。
辺境の風と土と水が育てた、宝物たち。
あの場所で見つけたもの。あの厨房で磨いたもの。そして——あの人が、食べてくれたもの。
「……セドリック様」
「何だ」
「本選まで、あと六日です」
「ああ」
「……必ず、最高の一品を作ります」
セドリック様は何も言わなかった。
でも——椅子の軋む音がした。少しだけ、身を乗り出したような。
リゼットは微笑んで——窯の火に向き直った。
疑惑はまだ完全には晴れていない。宮廷の噂は、そう簡単には消えない。
でも——品評会は、続く。
リゼットの菓子は——リゼットのものだ。
誰に疑われようと、何を囁かれようと。この手で作る菓子は——食べた人を、笑顔にするためのもの。
窯の火が、赤く揺れている。
辺境から持ってきた霜花蜜が、琥珀色に光っている。
あと六日。
この手で——証明する。