マリーの厨房は、思っていたよりずっと広かった。
石造りの壁に囲まれた空間の奥には大きな石窯が鎮座していて、その横には作業台と棚が並んでいる。棚には大麦の粉袋や塩の壺、干し肉や保存用の野菜が整然と置かれていた。
リゼットは厨房の入り口で立ち尽くして、その光景を見つめる。王都の宮廷厨房とは何もかもが違う。でも——ここには、確かに菓子を作るための場所がある。
「どう? 使えそう?」
マリーが腕を組んで訊いてくる。その顔には、少しだけ誇らしげな色が浮かんでいた。
「はい……! とても立派な厨房です」
リゼットは慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます、マリーさん。ここを使わせていただけるなんて……」
「ま、タダってわけにはいかないけどね」
マリーはにやりと笑った。
「掃除、配膳、それから厨房仕事も手伝ってもらうよ。その代わり、部屋と食事と厨房の使用権。これでどう?」
「もちろんです!」
リゼットは即答する。
宿の手伝いをする代わりに、厨房を使わせてもらえる。それに部屋と食事まで——これ以上ない条件だった。金クラウンと銀クラウンはできるだけ素材の購入に使いたい。辺境では砂糖が王都の五倍もするのだから。
「じゃあ決まり。あたしも楽になるし、リゼも菓子が作れる。お互い様ってやつだね」
マリーは満足そうに頷いて、厨房の奥を指差した。
「石窯はパンを焼くのに使ってるから、火を入れるタイミングは相談してね。薪も貴重だし」
「わかりました」
リゼットは深く息を吸い込んだ。
ここから——ここから始めよう。辺境での、菓子師としての第一歩を。
その日の午後、リゼットは厨房の作業台に母のレシピ帳を広げていた。
蜂蜜の染みがついた革表紙。前半は母の几帳面な字で基本のレシピが綴られ、後半にはリゼットが宮廷菓子師見習いの頃から書き足した自分のレシピが続いている。
ページをめくる。
砂糖菓子、焼き菓子、生菓子——どれも王都の貴族たちが愛した、華やかな菓子ばかり。でも、今のリゼットには作れない。砂糖がないから。
「うーん……」
リゼットは唇を噛んだ。
霜花蜜がある。昨日、白霜の森で採ってきた蜂蜜なら、砂糖の代わりになるかもしれない。
ページを繰って、比較的シンプルなレシピを探す。そして——見つけた。
「これなら……」
蜂蜜のクッキー。
小麦粉、バター、卵、蜂蜜、それに少しの塩。王都では砂糖を使うレシピだけれど、蜂蜜でも作れる。焼き菓子だから日持ちもする。辺境の人たちに試してもらうにはちょうどいい。
リゼットは棚から素材を集め始めた。
小麦粉——いや、大麦の粉。袋を開けると、粗い粒が混じっているのが見える。王都の精製された小麦粉とは全く違う。
バターは山羊乳から作ったもの。香りが独特で、牛乳のバターより獣っぽい。
卵は鶏のもの。これは王都と同じ——いや、少し小さい。
そして、霜花蜜。昨日森で採ってきた、琥珀色の宝物。
素材を並べて、リゼットは呆然とした。
「……全部、違う」
レシピ帳に書かれた分量は、王都の精製された素材を前提にしている。でもここにあるのは、辺境の粗い粉と、癖のあるバターと、小さな卵。
どうすればいい?
分量を調整するべき? でも、何をどれくらい?
「やってみるしか、ない……よね」
リゼットは震える手で、粉を量り始めた。
生地を捏ねる手が、いつもと違う感触に戸惑う。
大麦の粉は小麦粉よりざらついていて、まとまりが悪い。山羊乳のバターは固くて、混ぜるのに力がいる。霜花蜜を加えると——濃厚な花の香りが広がって、リゼットは思わず顔を上げた。
「……すごい」
この香り。王都の養蜂蜜にはない、深くて複雑な甘さ。
でも、生地の硬さが読めない。水分量が足りない気がする。いや、多すぎる?
リゼットは何度も生地を触って、感覚を探る。絶対味覚はあっても、触覚までは完璧じゃない。それに——この素材は、初めて扱うものばかりなのだ。
「まあ、焼いてみないとわからないか……」
リゼットは生地を薄く伸ばして、円形に切り分ける。
そして——石窯へ。
マリーに頼んで、石窯に火を入れてもらった。パンを焼くのと同じ薪を使う。
「温度はどれくらいがいい?」
「えっと……中くらいの火加減で……」
リゼットは曖昧に答える。
王都の厨房には温度計があった。でもここにはない。薪の量と燃え方で温度を調整するしかない。
マリーは手慣れた様子で薪を調整して、窯の中を確認する。
「こんなもんかね。あとはリゼに任せるよ」
「ありがとうございます」
リゼットは生地を並べた鉄板を窯に入れた。
そして——待つ。
王都なら、焼き上がりまで正確に時間を計れた。でもここでは、香りと音と——勘だけが頼りだ。
最初は順調だった。生地がふくらんで、いい香りが漂ってくる。蜂蜜の甘い香りと、大麦の香ばしさ。
「いいかも……」
リゼットは窯の前で膝を抱えて、じっと中を見つめる。
でも——。
「あれ……?」
香りが変わった。
香ばしさが——焦げ臭さに変わっていく。
「え、まって——!」
リゼットは慌てて鉄板を引き出した。
真っ黒だった。
クッキーは全て、炭のように焦げていた。
「……ああ」
リゼットは鉄板を作業台に置いて、崩れ落ちるように床に座り込んだ。
失敗だ。完全な失敗。
薪の火力が読めなかった。王都で使っていた薪とは種類が違うから、燃え方も火の強さも違う。それなのに、王都と同じ感覚で焼いてしまった。
「リゼ、大丈夫?」
マリーが厨房に入ってくる。焦げ臭さに気づいたのだろう。
「すみません……焦がしてしまいました」
リゼットは顔を上げられなかった。
「あー……まあ、初めてだしね。仕方ないよ」
マリーは鉄板を覗き込んで、苦笑する。
「真っ黒だねえ。でも、いい匂いはしてたよ? 途中までは」
「途中まで……」
リゼットは立ち上がって、焦げたクッキーを一つ手に取った。
表面は炭化しているけれど、中はまだ生地が残っているかもしれない。
試しに——齧ってみる。
苦い。
焦げの苦味が口いっぱいに広がる。
でも——その奥に。
「……あ」
蜂蜜の甘さ。
大麦の香ばしさ。
そして——山羊乳バターの、野性的な風味。
それらが、焦げの奥で混ざり合っている。
苦いけれど——悪くない。
いや、むしろ——。
「この、組み合わせ……」
リゼットは目を見開いた。
大麦と蜂蜜。この二つは、思っていた以上に相性がいい。小麦粉と砂糖の組み合わせとは全く違う、素朴で力強い味わい。
山羊乳のバターも、王都の繊細な菓子には合わないけれど——この大麦の菓子なら、むしろ個性になる。
「マリーさん」
リゼットはマリーの方を向いた。
「これ、食べてみてもらえますか?」
「え? この焦げたやつ?」
「はい。焦げてますけど……中は、まだ食べられると思います」
マリーは怪訝な顔をしたけれど、一つ手に取って齧った。
そして、大きく目を瞬かせた。
「……これ」
「どうですか?」
「焦げてるけど……悪くないよ?」
マリーはもう一口齧って、ゆっくりと噛みしめる。
「甘いって……こういう味なんだ」
その声には、驚きが滲んでいた。
辺境には甘味文化がない。マリーは、きっと生まれてから一度も「甘い」ものを食べたことがなかったんだ。
「美味しい……の、かな? よくわからないけど」
マリーは首を傾げる。
「でも、嫌いじゃない。なんていうか……温かくなる感じ?」
「温かく……」
リゼットは胸が熱くなった。
焦がしてしまったクッキー。失敗作。
でも——マリーは、それを「嫌いじゃない」と言ってくれた。
「ありがとうございます、マリーさん」
リゼットは深く頭を下げた。
「次は、焦がさないように作ります」
「ああ、うん。楽しみにしてるよ」
マリーは照れたように笑って、厨房を出ていった。
その夜、リゼットは部屋でレシピ帳を開いていた。
ランプの明かりの下、ページをめくる。
どのレシピも——王都のもの。
精製された小麦粉、上質なバター、高価な砂糖。それらを前提にした、貴族のための菓子。
リゼットは空白のページを開いた。
そして、羽根ペンを手に取る。
「王都のレシピは……使えない」
呟く。
「でも——この土地の素材には、この土地の菓子がある」
ペン先をインク壺に浸して、リゼットは書き始めた。
『辺境の蜂蜜クッキー』
大麦粉、山羊乳バター、卵、霜花蜜、塩。
石窯は薪の種類に注意。火力は——。
まだ全部はわからない。
でも、今日の失敗は無駄じゃなかった。焦げの奥に、辺境独自の味の可能性を見つけた。
大麦と蜂蜜。山羊乳のバターと、森の蜜。
これらを使いこなせれば——王都にはない、辺境だけの菓子が作れるかもしれない。
リゼットはペンを走らせる。
失敗の記録。素材の特徴。次に試すべきこと。
空白のページが、少しずつ埋まっていく。
「辺境の菓子——」
呟いて、リゼットは微笑んだ。
「ここから、始めよう」
レシピ帳を閉じて、ランプを消した。
暗がりの中に、焦げたクッキーの匂いがまだ残っている。
明日も、厨房に立とう。今度は、焦がさないように。