エラーログの赤い文字列が、桐島蓮の最後の記憶だった。
午前三時十七分。サーバールームの温度異常アラート。四分後に冷却装置の故障通知。さらに二分後、蓮はスリッパのまま階段を駆け下りていた。
株式会社ノヴァテック。従業員十二名のAIスタートアップ。蓮はそのCTO——最高技術責任者であり、深夜障害対応の万年当番でもあった。
「エンジニア三人いて、なんで障害通知を俺にしか飛ばさないんだよ……」
サーバールームのドアを開けた瞬間、熱波が頬を殴った。
ラックの裏側から炎が舌を出し、配線の被覆が溶け、白煙が天井を覆っている。焦げたプラスチックの臭いが鼻を刺す。
消火器を掴んだ。ノズルを向けた。
炎は消えない。むしろ広がる。
撤退すべきだった。
だが蓮の目の前には、三年分の学習データと推論パイプラインが詰まったサーバー群がある。バックアップは先週金曜から止まっていた。
天井の防火シャッターが轟音とともに落ちた。
出口が塞がれる。
煙が肺を焼き、視界が白に染まる。
膝が折れ、冷たいタイルに頬が触れた。
最後に見えたのは、モニターの赤い文字列。
CRITICAL ERROR: thermal_shutdown — process terminated
ああ、と蓮は思った。
サーバーより先に、俺がシャットダウンか——。
意識が落ちた。
***
目が覚めた。
蓮は最初、ICUのベッドにいるのだと思った。視界がぼやけるのは煙のせい、体が動かないのは火傷のせい、周囲が騒がしいのは医療スタッフのせいだ——と。
違った。
視界がぼやけるのは、新生児の網膜がまだ焦点を結ばないから。
体が動かないのは、手足がおよそ四十センチの赤ん坊サイズだから。
周囲が騒がしいのは、見知らぬ言語で叫ぶ女性と、泣いている自分自身の声のせいだった。
「は?」と言いたかったが、出たのは「ふぎゃあ」だった。
赤ん坊の口は「は」の発音すら許さない。二十九年の人生で初めて、声の出し方の制約というものを蓮は体で理解した。
状況を整理する。
死んだ。サーバールーム火災で。確実だ。
そして今、赤ん坊。記憶はそのまま。体はリセット。
結論——異世界転生。
小説で百回は読んだ展開が自分の身に起きている。
神の声は聞こえない。チュートリアルもない。不親切な設計だ。
——二十九年の人生が、たったひと息で終わった。あの会社は大丈夫か。あの障害チケットは誰が処理する。いや——もう、俺の問題じゃない。
その事実が、妙に、喉の奥にひっかかった。
***
異世界アルケーディア。
蓮を拾ったのは辺境の村ヴィントヘルムの村長で、名のない赤子に「レンハルト」という名を与えた。姓はない。孤児に姓は与えられない。それがこの世界の慣習だった。
レンハルト。蓮をもじったような響きが、偶然なのか運命なのかは知らない。悪くはなかった。
それから十五年——と書けば一瞬だが、レンハルトにとっては退屈と驚きの交互連打だった。
赤ん坊時代。前世の記憶を持ったまま授乳される屈辱。寝返りに三ヶ月。ハイハイに七ヶ月。
UIが直感的じゃない。
二歳で言語を習得した。この世界の言語は日本語でも英語でもない独自体系で、一から覚え直す必要があった。ただし文法が論理的で、曖昧さが少ないのは助かった。まるで数式のようだ。
五歳で村の子供たちと遊ぶようになり、この世界に魔法があることを知った。
「見てて! ほら!」
赤毛の男の子——トマスが、小さな掌の上に火を灯した。指先ほどの炎が、ゆらゆらと揺れている。
「あたしも!」
隣の女の子が水を掌で回す。透き通った球体が陽の光にきらめいた。
「レンもやってみなよ!」
レンハルトは手を構えた。
集中した。前世のエンジニアとしての分析が走る。
入力——詠唱。変換——魔力による処理。出力——魔法現象。
構造を理解すれば使えるはずだ。
使えなかった。
何度試しても何も起きない。魔力量は平均以下。才能ゼロ。
「レンは魔法へたくそー!」
子供たちが笑う。トマスが腹を抱え、女の子がくすくす手で口を押さえる。
「……うるさい。環境変数の設定が間違ってるだけだ」
「カンキョウヘンスウ? なにそれ?」
「知らなくていい」
レンハルトは唇を噛んだ。悔しさは、前世の感覚より鮮烈だった。五歳の体は、感情の制御がきかない。
八歳。村の文字を覚え、図書館——と呼ぶには小さすぎる本棚の集まり——で魔法の理論書を読み漁った。
「レンハルト、また難しい本を読んでるのか」
村長が背後から声をかけてきた。白い髭に、日焼けした大きな手。
「この本、構造が全然整理されてない。なんで魔法の原理がどこにも書いてないんですか」
「魔法は学ぶものじゃない。感じるものだ」
「……ドキュメントがない。解説書がない。ベストプラクティスが口伝。なんて非効率な文明だ」
「ほっほ。変わった子だなあ」
村長はいつもそう言って笑った。レンハルトの独り言は、この世界の誰にも通じない。
十歳。レンハルトは村一番の変わり者として定着していた。
「あの子、水汲みひとつ任せても何か独り言を言ってるわ」
「計算は大人より早いのに、鍬の使い方は村一番の下手」
「でも、悪いやつじゃない」
村人たちの囁き声は、レンハルトの耳にも届いていた。
水汲みがデイリータスクとか、RPGかよ。
この畑のレイアウト、最適化の余地しかないんだが。
なんで牛の乳搾りにマニュアルがないんだ。
誰にも通じないツッコミを十年間続けた結果、村での評価は「変だけど悪いやつじゃない」に落ち着いた。
十二歳。遠くの街から来た商人が、王都の魔法学院の話をしてくれた。高度な魔法陣——手書きの紋様で魔法を構造化する技術——が研究されているという。
レンハルトの目が輝いた。魔法陣。構造で魔法を記述できるということだ。それなら——同じ要領で扱えるかもしれない。
ただし、魔法陣を手で描いて発動させるには膨大な魔力が必要だった。手書きの紋様は冗長で、発動するだけで大量の魔力を消費する。レンハルトの魔力では、最も初歩的な陣すら起動できなかった。
スペック不足。前世と違って、ハードウェアは自力ではアップグレードできない。
***
十四歳の秋だった。
パン工房の前を通るたび、焼きたてのパンの匂いが鼻先をくすぐった。甘く、香ばしく、どこか懐かしい——前世の日本のパン屋ともコンビニとも違う、小麦と薪火が絡み合った、この世界だけの香り。
レンハルトは足を止めた。
窓の向こうで、少女が生地をこねている。小麦色のゆるいウェーブの髪。エプロンのついた素朴なワンピース。手のひらが白い生地を押し、畳み、また押す。迷いのないリズム。
パン屋の孫娘がいるらしい——そんな噂は、村で何度か耳にしていた。祖母と二人で工房を回していて、村一番のパンを焼くのだと。
話しかけたことはない。
向こうがこちらを認識しているかも、わからない。レンハルトはいつも窓の外を通り過ぎるだけで、少女はいつもかまどの前にいた。
工房から漂う香りを吸い込むたび、コンビニの棚に並んでいた袋パンの記憶がかすんでいく。
——いい匂いだな。
そんなことをぼんやり思いながら、レンハルトは通り過ぎた。名前も知らない少女の横顔が、焼き窯の赤い光に照らされて、妙に印象に残った。
***
そして——十五歳の朝が来た。
村の入口から見渡す風景は、いつもと変わらない。石造りの家々の煙突から白い煙が立ち上り、畑の向こうには青い山脈が霞んでいる。井戸の滑車がきしむ音。牛の鳴き声。朝露に濡れた草の匂いが、冷たい空気に混じっている。
アルケーディアでは、十五歳が成人だ。成人の儀式で、魔法適性が鑑定される。大抵は「火の適性:微」とか「農業の才能:並」とか、地味な結果が出る。ごく稀に、通常の適性とは異なる『固有スキル』が発現することもあるが——辺境の村からそんな人材が出たことは、百年ない。
レンハルトは期待していなかった。
魔力は十年間ずっと平均以下。才能ゼロ。期待値が低ければ失望もない。合理的だ。
「緊張してる?」
エルナが朝のパンを持ってきた。もはや日課だ。今日のパンは少し大きい。焼き色がいつもより丁寧で、表面に粉が薄く残っている。
「しない。期待値が低ければ——」
「つまんない考え方」
「最後まで聞け」
「つまんないのは聞かなくてもわかる。あたし耳いいから」
溜息をつき、パンをかじった。うまい。今日もうまい。
村の広場。祭壇に据えられた鑑定の水晶が、朝日を受けて静かに光っている。透き通った結晶の内部に、虹色の光の粒が漂う。
村長が祝詞を読み上げる。低く響く声が、広場を満たした。集まった村人たちの顔に、期待と不安が半々に浮かんでいる。レンハルトは水晶の前に立った。
何が出るか。
何も出ないかもしれない。
手を、置いた。
冷たい。水晶の表面は氷のように冷えていて、指先から腕へ、微かな痺れが走った。
水晶が——光った。
白い光が広場全体を包む。村人たちが目を細める。子供が歓声を上げた。
レンハルトの視界に、半透明のウィンドウが浮かんだ。ステータス画面だ。名前、年齢、魔力値——そして、固有スキル欄。
文字が浮かび上がる。
目を見開いた。
二度見した。
三度見した。
固有スキル欄に表示されていたのは——
【生成AI】
「——え、ChatGPT?」
レンハルトの声が、村の広場に響いた。
当然、誰一人として意味がわからなかった。
だが、レンハルトの心臓は早鐘を打っていた。
もしこれが、前世で触り倒したあの技術と同じものだとしたら——。
とんでもないことになる。