収穫祭の翌朝、レンは踏み慣れた広場で片付けを手伝っていた。昨夜のかがり火の残り香が冷えた秋の空気に混じり、吐く息がうっすらと白い。
足元の枯れ葉を踏むと、乾いた音が鳴った。
その時——広場の外れに止まった馬車から、一人の影が降りてきた。
レンが想像していた人物とは、まるで違った。
厳めしい中年の学者か、白髪の魔術師を予想していた。魔法学院の調査官ならそれなりの年齢と威厳があるはずだ。
だが——降りてきたのは、小柄な少女だった。
身長は百五十五センチほど。薄い金髪がウェーブを描いて腰まで伸びている。丸眼鏡の奥に、淡いグリーンの瞳。白いローブには魔法学院の紋章が縫い込まれており、袖口にインクの染みが付いている。両腕に抱えた本が三冊。革鞄から更に本がはみ出している。
少女は馬車から降りた瞬間、足元の段差に躓いた。
「わっ——」
本が一冊落ちた。拾おうとして鞄から更に一冊落ちた。二冊を拾おうとしてバランスを崩し——残りの本も全部落ちた。
「…………」
レンは朝の広場でその光景を目撃した。
「大丈夫か?」
近づいて声をかけると、少女は地面にしゃがみ込んで本を拾いながら顔を上げた。
「あ、す、すみません。大丈夫です。ちょっと荷物が多くて——」
丁寧語。声は柔らかい。目の下にうっすらと隈がある。長旅の疲れが顔に出ている。
「手伝う」
レンが本を拾い始めた。タイトルが目に入る。
『魔法陣構造論・第三版』
『精霊召喚の理論と実践』
『固有スキル分類学——セントラリア王国魔法学院紀要』
全て学術書だ。しかも分厚い。この量を一人で抱えて旅をしてきたのか。
「ありがとうございます。あの、この村はヴィントヘルムで間違いないですか?」
「ああ。ここがヴィントヘルムだ」
「よかった……。王都を出てから十日ほどかかりました。途中の街道で馬を替えながら」
少女が本を受け取り、ようやく立ち上がった。ローブの裾についた土を払い、丸眼鏡の位置を直す。秋の朝風が金髪を揺らし、少女は小さく身震いした。
「わたし、セントラリア王都の魔法学院から参りました。メイラと申します。研究員——というか、まだ見習いなのですが」
「研究員」
レンの脳裏に、机の上に置いたままの羊皮紙がよぎった。魔法学院からの調査通知。
「もしかして——俺のスキルの調査?」
メイラの目が、一瞬で変わった。
おっとりした眼差しが鋭くなり、学者の目になった。レンの全身を上から下まで見る。観察している。だが同時に——その瞳の奥で、抑えきれない好奇心の炎がちらついているのが見えた。
「あなたが——レンハルト・コードさん、ですか」
「そうだが」
「固有スキル【生成AI】の保持者」
「……ああ」
メイラが一歩前に出た。
「あなたの術式について、学院で報告が上がっています。辺境でゴーレムを生成し、魔法陣を自動構築し、画像や動画の魔法投影を行っている、と」
「よく知ってるな」
「商人や旅人の情報が学院に集まるんです。辺境で前例のない魔法が使われていると聞けば、調査に来ないわけにはいきません」
メイラの声には、使命感と——好奇心が混じっていた。後者のほうが強い。頬がわずかに紅潮し、唇が微かに震えている。学術的興奮を必死に抑えている——そんな印象を受けた。
「レンさん」
「レンでいい」
「では、レンさん」
直らなかった。
「あなたの術式、既存の魔法理論では説明できません。もっと見せてください」
直球だった。挨拶もそこそこに、本題に入る。研究者気質だ。
レンは少し考えた。前世の感覚で言葉が出かけた。
(……ソースコードでも公開すればいいのか? いや、この世界にそのインフラはない)
頭の中で変換する。
「見せるのは構わない。だが、まず休んだらどうだ。十日も馬車で——」
「大丈夫です! 全然疲れてません!」
目の下の隈が反論していた。
***
村の集会所——レンが三回建てたあの集会所に、メイラを通した。
テーブルの上に、メイラの本が積み上がる。彼女は手帳とペンを取り出し、準備万端の姿勢でレンを見た。
「では、基本的な生成をお見せする」
レンが手を翳した。テキスト生成の魔法陣が虚空に浮かぶ。光の文字列が回転し、構文が組み上がっていく。
「これは……」
メイラの目が見開かれた。
「魔法陣が——自動で構築されている? 詠唱なしで?」
「正確には、詠唱文を内部で組み立てて、それに基づいて魔法陣が生成される。手書きの工程を全てスキップしている」
メイラは身を乗り出し、浮遊する魔法陣に顔を近づけた。鼻先が光に触れるほどの距離。
「構文が……見たことのない配列です。従来の魔法陣は中心対称か放射状なのに、これは——非対称の入れ子構造? しかも各層が独立して回転している……」
手帳にペンが走る。尋常でない速度のメモ。
「レンさん、この魔法陣の理論的基盤は何ですか? セルシオ式? 旧ヴァルガント体系?」
「どちらでもない。俺のスキルが独自に生成する」
「独自——」
メイラのペンが止まった。
「つまり、既存のどの体系にも属さない、完全に新しい魔法陣構造ということですか」
「そうなる」
沈黙。
そして——メイラの頬が紅くなった。
興奮だ。学術的興奮。知的好奇心が臨界点を超える瞬間の、あの独特の高揚。前世でも、新しいアーキテクチャの論文を読んだ時に同じ感覚になったことがある。
「すごい……これはすごいです! 論文になります! いえ、論文どころか、魔法理論の教科書を書き直さなければ——」
丁寧語が崩れ始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください、もう一回見せて、いやもう三回くらい見せてほしいんですけど、あとこの構文の第三層、ここの回転速度が他の層と非同期なのはなぜですか、意図的ですか自動調整ですか——」
早口になった。息継ぎがない。目が爛々と光っている。丸眼鏡がずれ、ペンを持つ手が微かに震えている。学問に魂を奪われた人間の、純粋で真っ直ぐな姿だった。
「落ち着け」
「落ち着いてます!」
「落ち着いてない。呼吸しろ」
メイラが深呼吸した。眼鏡を直す手が、まだ震えている。
「……すみません。つい」
「いや、わかる。俺も前に——いや、なんでもない」
前世で同じことをやっていた、とは言えない。
「もう一つ見せる。今度はコード生成——魔法陣の自動構築だ」
レンが指を振ると、テーブルの上に複雑な魔法陣が展開された。火属性の防御陣。イグニスとのMCP接続を通じて精霊力を注ぎ込み、光の壁が立ち上がる。
「あっ——」
メイラが声を上げた。
「精霊接続と魔法陣生成が同時進行している……! 通常は別工程のはずです。召喚してから陣を書く、それが常識なのに——」
「MCPだ」
「えむしーぴー?」
「マジック・コンテクスト・プロトコル。精霊と術者の間に常時接続の窓口を開いておくことで、リアルタイムに精霊力を供給しながら魔法陣を構築できる」
メイラの手帳に新しいページが開かれた。ペンが走る。
「マジック・コンテクスト・プロトコル……常時接続……リアルタイム供給……」
一字一句書き留めている。
「これは——この接続方式だけで論文が一本書けます」
イグニスが人型化して、部屋の隅で腕を組んでいた。
「この俺様の力を媒介にしているのだから当然だ。眼鏡の嬢ちゃん、お前、精霊のことをどこまで知っている」
メイラがイグニスに振り返った。
「あ——火の上位精霊……! イグニスさんですか?」
「ああ。それにしても、最近の人間は精霊に会う機会が減っているな。だからお前たちの理論は古い」
「古い……!?」
「俺たちから見れば、お前たちの精霊理論は百年前の常識で止まっている」
メイラのペンがさらに加速した。精霊自身から直接語られる情報。学者にとってこれ以上の一次資料はない。
「レンさん、あなたの周囲は未知の塊です」
「そう言われると、なんか落ち着かないな」
「褒めています!」
メイラの目がきらきらと光っている。純粋な知的好奇心。それがレンに向けられているのは——彼の魔法に対して、だ。少なくとも今は。
***
昼前。
エルナがパンの差し入れを持って集会所に来た。
「あんた、朝から何やって——」
エルナは扉を開け、中の光景を見て固まった。
テーブルの上に魔法陣が展開している。光の文字が回転し、レンとメイラが並んでそれを覗き込んでいる。メイラがレンの腕を引っ張り、「ここ、ここを見てください!」と興奮している。レンが「ああ、第四層の連結部分が——」と応じている。
二人の距離が、近い。
学術的な議論に夢中で、物理的な距離を気にしていない——それだけのことだが。
「……お邪魔?」
エルナの声。
レンが振り返った。
「エルナ。いや、邪魔じゃない。パンか? ありがたい」
「そう」
エルナはパンの入った籠をテーブルの端に置いた。メイラに目が行く。
「あたしはエルナ。パン屋です」
「あ、初めまして! メイラです。王都の魔法学院から参りました」
メイラがぺこりと頭を下げた。
エルナがメイラを見る。小柄で、華奢で、知的な雰囲気。白いローブに学院の紋章。レンと同じ「魔法」の世界にいる人間。
「……そう。大変ね、遠くから」
「いえ、全然! むしろレンさんの魔法を見られて感激で——あ、このパン、いただいていいですか?」
「どうぞ」
メイラがパンを一口かじった。
「おいしい……! 王都のパンとは全然違います。小麦の味が濃くて——」
「……ありがと」
エルナの返事は短かった。
レンは気づいていない。メイラの学術的な興奮にも、エルナの微妙な空気にも。ただ魔法陣の構成を見直すことに集中している。
エルナは集会所を出た。
扉を閉め、秋の冷たい風を頬に受けた。広場に散った紅葉が、靴先にまとわりつく。
数歩歩いたところで——ハンナと鉢合わせた。
「エルナ! なんか馬車で女の子が来たって聞いたけど——」
「魔法学院の研究者だって」
「へぇ〜! どんな子?」
「小さくて、眼鏡で、金髪で、頭が良さそうで、レンの魔法に興味があるんだって」
エルナの声は平坦だった。
「ふーん。で、レン君とは?」
「何が」
「仲良さそう?」
エルナが足を止めた。
「……合いそうよね、あの人とレンは。魔法の話で盛り上がってたし。あたしじゃわかんない話ばっかり」
「えっ、ちょっと待って。それ、嫉妬?」
「嫉妬じゃない」
「嫉妬だ」
「違う」
「エルナ、目が怖い」
エルナは大きく息を吐いた。
「嫉妬じゃなくて——なんていうの。あたし、魔法とか全然わかんないでしょ。レンが何やってるかも半分以上わかんない。でもあの研究者の子は全部わかってて、レンと同じ言葉で話せてて——」
「うんうん」
「……それだけ」
「それだけじゃないでしょ」
「それだけだって言ってるでしょ!」
ハンナが両手を挙げた。降参のポーズ。だが目は笑っている。
「まあまあ。でもエルナ、安心しなよ。レン君、魔法の話してる時のあの研究者さんの顔、全然見てなかったでしょ」
「……そうだっけ」
「あたしは見てた。レン君、魔法陣のほうしか見てなかった。相手が誰でも同じだと思うよ」
「それはそれで問題なんだけど」
エルナは呟いた。
ハンナが肘でつついた。
「素直になりなさいよー」
「何に?」
「自分の気持ちに」
「意味わかんない」
エルナは足早に工房に向かった。ハンナが後ろから「待ってよー!」と追いかけてくる。
——レンが集会所の窓から、何気なく外を見た時だった。エルナとハンナが広場を横切っていくのが目に入った。ハンナが何か言って、エルナが足を速めている。いつもの二人だ。
なぜかエルナの歩き方が、いつもより少しだけ硬い気がした。
「……何だろ」
レンは首を傾げたが、メイラが「レンさん、この第三層なんですけど!」と呼ぶ声に引き戻され、すぐに魔法陣に意識を戻した。
***
午後。
メイラの調査は続いていた。レンの魔法陣のスケッチが、手帳の三十ページを埋め尽くしている。
「レンさん、最後に一つだけお聞きしたいのですが」
「何だ」
「実は、魔法陣の調査はわたしの来訪目的の一つに過ぎません」
「一つ?」
「もう一つの目的があります」
メイラが本の山の中から、一冊を取り出した。表紙が擦り切れた古い本。タイトルは——
『伝統魔法陣の系譜——グレン・ヴァイスハール技師の仕事』
「この村に、伝統魔法陣の大家がいると聞いてきたのですが——」
レンは目を瞬いた。
「大家? この村に?」
「はい。かつて大陸最高の魔法陣技師と称された方です。グレン・ヴァイスハール。引退後、辺境の村に隠棲していると——」
「グレン……」
レンは記憶を辿った。村にグレンという名前の老人がいただろうか。
「白髪に白い髭、がっしりした体格の老人で、手に火傷の跡がたくさんある——」
「あっ」
カイルが集会所の窓から顔を出した。いつからいたのか。
「それ、村の東のはずれに住んでるじいさんだろ。畑仕事してるの見かけたぞ。すげえ分厚い手をしてた」
「知ってるのか?」
「知ってるっつーか、パンを届けに行った時に会った。エルナちゃんに頼まれて」
メイラの目が輝いた。
「本当ですか!? あの方がこの村に——!」
「待ってくれ。俺はその人が魔法陣技師だとは聞いてない」
「隠棲されているのですから、名乗っていないのかもしれません。でも——」
メイラは本を胸に抱えた。その手がまた震えている。だが今度は、さっきの学術的興奮とは少し違う。尊敬と畏怖が混じった、憧れの対象に近づく緊張の震えだった。
「グレン師の伝統魔法陣と、レンさんの生成魔法陣。もし二つを比較研究できたら——魔法陣理論の歴史が塗り替わるかもしれません」
レンは考えた。
村の東のはずれ。確かに、畑仕事をしている老人を見かけたことはある。白髪白髭。がっしりした体。挨拶をすると「おう」と短く返すだけの寡黙な人だった。
あの人が——大陸最高の魔法陣技師?
「……会いに行ってみるか」
「ぜひ!」
「ただし、いきなり押しかけたら迷惑だ。まず俺が挨拶してくる」
「わ、わかりました。では、わたしはここで待っています」
メイラは椅子に座り直し、手帳を開いた。待っている間もレンの魔法陣のスケッチを見返している。学者の集中力というやつだ。
イグニスが、ふと呟いた。
「グレン・ヴァイスハール——」
「知ってるのか?」
「名前だけは。数十年前、精霊界でも噂になった人間がいた。手書きの魔法陣だけで上位精霊の召喚に成功した男。確か——そいつの名がグレンだった」
レンの背筋が伸びた。
「手書きだけで上位精霊の召喚?」
「ああ。普通は不可能だ。上位精霊を呼ぶには精霊力の増幅装置か、複数の術者の合力が必要になる。それを——一人の人間が、手と筆だけでやってのけた」
「……それが、この村にいる」
「いるかもしれん。確かめる価値はある」
レンは集会所を出た。
午後の日差しが秋色に傾き、畑の向こうに見える木々は赤と金に染まっている。風が吹くたびに枯れ葉が舞い、乾いた土の匂いを運んできた。東のはずれに向かって歩き出す。
背後で、カイルの声が聞こえた。
「おーい、メイラ。パン食うか?」
「あ、いただきます。ありがとうございます、えっと——」
「カイルだ! よろしくな!」
「カイルくん。よろしくお願いします」
賑やかになっていく集会所を背に、レンは歩いた。
辺境の村に、一人、また一人と人が集まり始めている。脳筋の戦士。知的な研究者。気難しい精霊。そして——まだ名前しか知らない、伝統魔法陣の大家。
レンは小さく笑った。
「……チームが勝手に出来上がっていくな」
前世のスタートアップと同じだ。最初は一人で始めて、気がつけば人が集まっている。
ただし——前世と違うのは、ここにいる誰一人として、レンが「採用」したわけではないということだ。
全員、勝手に来た。
村の東の道を歩く。畑が広がり、その向こうに小さな石造りの家が見えた。煙突から、細い煙が上がっている。晩秋の空を背景に、その煙がゆっくりと溶けていく。
レンは足を速めた。
新しい出会いが、もう一つ——この村で待っている。