S01-P26 「お前のことは忘れる」と婚約破棄した王子が、本当に令嬢の記憶だけを失ったら、残ったのは空っぽの日常だった

第1話: 忘却の空白

第1アーク · 8,398文字 · revised

……これは、誰が作った報告書だ?

ヴィルヘルム・フォン・シュテルンクローネ第一王子は、執務室の机の上に広がる書類の山を前に、固まっていた。

北方防衛線の配備計画。外交使節への返答草案。来月の税収見込みと財政調整案。

どれも完璧に整理されている。要点は色分けされ、論点は三つに絞られ、判断に必要な情報だけが過不足なく並べられている。

——誰が、これを作った?

ヴィルヘルムは自分の字で書かれたメモに目を落とした。

『Sに確認』

そう書いてある。自分の筆跡だ。間違いない。

Sとは——誰だ。

頭の中を探る。大臣の名前、補佐官の名前、文官の名前。Sで始まる人間は何人もいる。しかしどの名前も、このメモの「S」とは違う気がした。

違うのだ。もっと近い——もっと隣にいた——。

ヴィルヘルムは、ふと隣の机に目をやった。

執務室には机が二つ並んでいる。一つは自分のもの。もう一つは——空だ。書類も、筆記具も、何もない。しかし椅子は引き出されたままで、座面にはまだ温もりが残っているような気がした。

なぜ、二つある?

ヴィルヘルムは眉を寄せた。この部屋は自分の執務室だ。机が二つある理由がわからない。しかし一つを撤去しようという気にもならない。

——ここに、誰かが座っていた。

その確信だけがある。名前も、顔も、声も、何一つ思い出せないのに。

窓から差し込む朝日が、空っぽの机を白く照らしていた。


それは昨夜のことだった。

王宮の一室に、冷たい声が響いた。

「お前は退屈な女だ」

ヴィルヘルム第一王子は、婚約者の前に立ち、腕を組んでいた。

その視線の先にいるのは、シャルロッテ・フォン・モルゲンシュテルン。モルゲンシュテルン公爵家の長女にして、九年間ヴィルヘルムの婚約者であり続けた女性。

「華やかさの欠片もない。社交界では空気のように透明で、会話は報告書のように事務的だ。俺の隣にいるべき女は、お前のような——」

ヴィルヘルムは一度言葉を切り、冷ややかに宣告した。

「お前のことは忘れる」

その瞬間——空気が震えた。

シャルロッテだけが気づいた。古い魔法(まほう)の気配。王家の血に刻まれた、五百年前の呪いが目を覚ます音。

忘却の呪い《ヴェアゲッセンハイト》。

王家に伝わる古文書を読み漁ったシャルロッテは、その存在を知っていた。王族の血を引く者が「忘れる」と宣言したとき、対象の人物に関する記憶が——本当に消える。古い文献に一例だけ記録がある。約二百年前、同じ呪いを受けた貴族が——すべての人間関係を失ったという。

言霊(ことだま)が現実になる。

ヴィルヘルムは気づいていない。自分が何を起動させたのか。明日の朝、目が覚めたとき、隣にいたはずの人間の全てが——消えていることを。

シャルロッテは微笑んだ。

泣かなかった。怒りもしなかった。

九年間。十二歳からこの人を支え続けた。税制改革案を書いた。三カ国との貿易協定の草案を練った。北方防衛線の再編を提案した。宮廷の人事を最適化し、飢饉対策の穀物備蓄制度を設計した。

全てはヴィルヘルムの名前で発表された。「天才王子」の評判を支えていたのは、この地味で退屈な婚約者だった。

でも——もういい。

「どうぞお忘れになって」

シャルロッテはそう言って、深く一礼した。

声は震えなかった。瞳は乾いていた。

九年分の仕事を、九年分の献身を、「退屈」の一言で切り捨てた男に、これ以上差し出すものは何もない。

背を向けて、王宮を去る。

振り返らなかった。


翌朝から、ヴィルヘルムの日常は崩壊を始めた。

最初の異変は、外交文書だった。

「殿下、ヴァルデン王国からの親書の返答について——」

補佐官が差し出した文書を、ヴィルヘルムは受け取った。

三カ国語を操れるはずだった。ヴァルデン語の文法も、慣用表現も、外交上の定型句も——知識としては頭にある。

しかし翻訳の手順が、思い出せない。

いつもなら自然にできていたはずだ。文書を読み、要点を抽出し、返答の方向性を決め、草案を——。

——草案を。

誰かが、隣で草案を書いていた。

誰だ?

「殿下?」

「……ああ。少し、時間をくれ」

ヴィルヘルムは補佐官を下がらせた。

外交文書を前に、一人で腕を組む。こんなことは初めてだった。いや——初めてではない気がする。初めてではないが、いつも隣に——。

隣に——。

思考がそこで途切れる。ダッシュの先に何もない空白。手を伸ばしても届かない記憶の残骸。

結局、返答草案の作成に丸一日を費やした。以前は半日もかからなかったはずだ。完成した草案を読み返すと、要点がぼやけ、論点が散漫で、とても使えるものではなかった。


三日後。

宮廷の定例会議で、ヴィルヘルムは内務大臣と衝突した。

「殿下、北部三州の減税措置について、先月お約束いただいた件ですが——」

「約束? 何の話だ」

大臣の顔が強張った。

「先月の非公式会談で、殿下から直接お言葉をいただいたのですが……」

ヴィルヘルムは記憶を探った。先月、内務大臣と非公式に会談した記録は——ある。しかしその会談で何を話したのか、なぜ減税を約束したのか、その判断の根拠が——空白だ。

誰かが、事前に資料をまとめてくれていたはずだ。誰かが、根回しの手順を組み立ててくれていたはずだ。

誰が?

「……確認する。少し待て」

会議室を出たヴィルヘルムに、老臣の一人が声をかけた。

「殿下。婚約者様にお伝えしましょうか? いつも殿下の会議資料は、あの方がまとめてくださっていたかと存じますが」

ヴィルヘルムは足を止めた。

「……婚約者?」

老臣が目を見開いた。

「殿下……? シャルロッテ様のことですが——」

「シャルロッテ?」

名前を聞いても、何も浮かばない。顔も、声も、姿も。

ただ——胸の奥で、何かがきしんだ。空洞に風が吹き込むような、冷たい痛み。

「……知らない名だ」

老臣の顔が、蒼白になった。


一週間が経つ頃には、ヴィルヘルムの生活は至るところに「穴」が空いていた。

食事が運ばれる。しかし自分の好みがわからない。

甘いものは好きだったか? 辛いものは? 苦手な食材は?

厨房の料理長に尋ねると、困惑した顔でこう言われた。

「殿下のお食事は、いつもあの方が献立をお決めになっていました。殿下のお好みを全て把握しておられて——」

「あの方とは?」

「シャルロッテ様です」

また——その名前だ。二度目だった。知らない名前のはずなのに、聞くたびに胸の奥が軋む。まるで体だけが覚えているかのように。

ヴィルヘルムは食卓に目をやった。

椅子が二つ並んでいる。自分の席と、もう一つ。皿も二人分が用意されている。使用人たちが「いつも通り」に支度したのだろう。しかしヴィルヘルムには、なぜ二人分なのかがわからない。

空いた椅子を見つめる。

——ここに、誰かが座っていた。

温かい食事を一緒に摂っていた。何かを話しながら。何かを笑いながら。

——何を、笑っていた?

思い出せない。何も。空白だけが広がる。

説明のつかない喪失感が、胸の底に沈んでいく。失ったものの輪郭すらわからないのに、失ったことだけは確かだった。


シャルロッテ・フォン・モルゲンシュテルンは、ユリウス第二王子の領地にいた。

王宮を去って十日。モルゲンシュテルン公爵家に戻るのではなく、以前から交流のあったユリウスの招きに応じて、辺境の小さな領地に身を寄せていた。

「兄上の『才能』の正体を、僕はずっと見ていました」

ユリウスはシャルロッテにそう言った。

くすんだ銀色の髪に灰色がかった青い瞳。兄とは対照的に穏やかで控えめな青年だった。

「宮廷の会議で、あなたの書いた報告書を何度も見ました。あの精度、あの構成力——兄上のものではないと、すぐにわかりました」

「……お恥ずかしい限りです」

「恥ずかしい?」

ユリウスは少し驚いたように首を傾げた。

「あなたの力は、兄上のものではありません。あなた自身のものです」

シャルロッテは、その言葉に息を詰めた。

九年間、一度も言われたことのない言葉だった。

ヴィルヘルムの隣で、ヴィルヘルムの名前で、ヴィルヘルムの才能として——それが当然だと思っていた。自分は影であり、表に出るべきではないと。

「ここでは、あなたの名前で仕事をしてください」

ユリウスが差し出したのは、領地の財政報告書だった。

「領地の財政改革に、あなたの力を貸していただけませんか。報酬は正式にお支払いします。そして成果は——あなたの名前で記録します」

シャルロッテは報告書を受け取った。

手が、かすかに震えていた。

「私などに務まるかどうか……」

口をついて出たのは、いつもの卑下だった。九年間染みついた癖。しかしユリウスは首を横に振った。

「あなた以上の適任はいません」

「……ありがとうございます」

声は小さかったが、初めて——自分のために「ありがとう」と言った気がした。

窓の外には穏やかな田園風景が広がっている。王宮の重苦しい石壁とは違う、風の通る景色。

ここなら——息ができる。

時折、ヴィルヘルムのことを思い出す。

覚えていらっしゃるだろうか——いいえ。覚えていないのだ。あの呪いは不可逆。どれほどの魔法を使っても、失われた記憶は戻らない。

九年間の全てが、あの人の中から消えた。

不思議と、悲しみよりも解放感のほうが大きかった。もう支える必要がない。もう影でいる必要がない。

ただ——ほんの少しだけ、胸の奥がきしむ。

あの人は、「退屈」だと言った。九年間を、たった一言で。

でも、もういい。


ヴィルヘルムが自分の「空白」の正体を追い始めたのは、二週間が過ぎた頃だった。

きっかけは、書斎の引き出しから見つかった一冊のノートだった。

自分の字ではない、繊細で几帳面な筆跡。外交交渉の要点、各国の要人の性格分析、貿易協定の利害関係図——全てが精密に記されている。

表紙には何も書かれていない。しかしページの端に、小さな文字で注釈が入っていた。

『殿下が判断しやすいよう、三つの選択肢にまとめました——S』

S。

また、この文字。

ヴィルヘルムは近衛を呼んだ。

「この筆跡の主を調べろ。宮廷の記録を全て洗え。俺に最も影響を与えた人物——その人間を見つけ出せ」

調査は難航した。

なぜなら、シャルロッテの仕事は徹底的に「裏方」だったからだ。公式記録にはヴィルヘルムの名前しか残っていない。しかし非公式の文書、走り書きのメモ、補佐官たちの証言を重ねていくと、一つの名前が浮かび上がった。

シャルロッテ・フォン・モルゲンシュテルン。

モルゲンシュテルン公爵令嬢。元婚約者。

——婚約者。

その言葉を聞いても、ヴィルヘルムの記憶には何も浮かばない。

しかし補佐官たちが語る「シャルロッテ様」の仕事は、驚くべきものだった。

「税制改革案を立案されたのはシャルロッテ様です」

「三カ国貿易協定の草案も」

「北方防衛線の再編計画も」

「人事の最適化も」

「飢饉対策の穀物備蓄制度も」

——全て?

「殿下がこの九年間で成し遂げられた政策の大半は、シャルロッテ様の立案です。殿下はそれを知った上で、ご自身の名前で発表されていたのだと、我々は理解しておりましたが……」

補佐官の言葉が、ヴィルヘルムの胸に突き刺さった。

知った上で?

いや——知らなかった。知らなかったのか、それとも知っていたが忘れたのか。どちらが真実なのかすら、今のヴィルヘルムにはわからない。

わかるのは一つだけだ。

「天才王子」と呼ばれた自分の才覚は——この女性のものだった。

ヴィルヘルムはノートを握りしめた。

繊細な筆跡。几帳面に整理された情報。ページの端の、控えめな注釈。

——この人は、九年間、俺の隣にいた。

なのに俺は、名前すら思い出せない。


ユリウスの領地を訪れたのは、それからさらに三日後のことだった。

秋の陽光が降り注ぐ領主館の庭で、ヴィルヘルムはその女性を見つけた。

銀灰色の髪を実用的な編み込みにした、控えめな佇まいの女性。淡い紫の瞳は穏やかで、知的な光を湛えている。隣にはユリウスが立ち、二人は書類を広げて何かを相談していた。

ヴィルヘルムの足が止まった。

——この人だ。

なぜそう思うのかわからない。記憶はない。名前も、声も、共に過ごした時間も——何も覚えていない。

しかし胸の奥で、空洞が叫んでいた。ここにいたはずの人だ、と。

「お会いしたことが——ありませんが」

ヴィルヘルムは、自分でも驚くほど不安定な声で言った。

「あなたが——シャルロッテ・フォン・モルゲンシュテルン殿ですか」

シャルロッテは書類から顔を上げた。

一瞬、その紫の瞳が揺れた。しかしすぐに穏やかな表情を取り戻し、静かに一礼した。

「お初にお目にかかります、ヴィルヘルム殿下」

お初に——お目にかかる。

その言葉が、正しいのだ。ヴィルヘルムにとって、この女性は初対面なのだから。

しかし隣のユリウスの表情は、複雑だった。

「兄上」

弟は静かに言った。

「何の御用ですか」

「……この人のことを、聞きたい」

ヴィルヘルムは自分の言葉の不確かさに狼狽した。「この人」としか言えない。名前は聞いた。しかしその名前が、記憶の中で何の像も結ばない。

「俺の——婚約者だったと聞いた。九年間、俺の全ての仕事を支えていたと。しかし俺には、何一つ記憶がない」

シャルロッテは微笑んだ。

悲しみでも怒りでもない。諦めと、わずかな安堵が混じった微笑みだった。

「殿下。あなたはご自分で仰ったのですよ。『お前のことは忘れる』と」

「俺が——?」

「忘却の呪い。王家に伝わる古い言霊の魔法です。『忘れる』と宣言したとき、対象の人物に関する記憶は真に失われる」

ヴィルヘルムの顔から血の気が引いた。

「俺が、自分で——」

「ええ」

シャルロッテの声は穏やかだった。責めてもいなかった。

「あなたは私を『退屈な女だ』と仰いました。そして『お前のことは忘れる』と」

ユリウスが口を開いた。

「兄上。あなたはご自分でお望みになったのですよ。——忘れると」

その一言が、ヴィルヘルムの全てを砕いた。

自分で望んだ。自分の言葉が、自分を罰した。

九年間、隣にいてくれた人の記憶を——自分の傲慢さで、消した。

「俺は——」

ヴィルヘルムは声を絞り出した。

「俺は、何も——できなかったのか? 一人では、何も……」

シャルロッテは答えなかった。

ただ静かに、秋の風に髪を揺らしていた。

ヴィルヘルムは目の前の女性を見つめた。書類に書かれた政策の数々。補佐官たちの証言。ノートの繊細な筆跡。全てを為したのが、この人だ。

しかし——何も思い出せない。

隣にいた温もりも。一緒に食べた食事も。交わした言葉も。

目の前にいるのに、手の届かない人。

「……あなたは、誰ですか」

ヴィルヘルムの唇から、掠れた言葉が漏れた。

問いかけではなかった。悲鳴だった。

記憶にない人間に、こんなにも胸が痛む。なぜだ。この空洞は何だ。名前も顔も知らないのに、なぜ——こんなにも、失ったものが大きいとわかる。

シャルロッテは静かに目を伏せた。

「……私は、あなたの隣にいた者です。もう忘れてしまわれましたけれど」


ヴィルヘルムは王宮に戻った。

馬車の中で、一度も口を開かなかった。

執務室に入る。二つ並んだ机。空の椅子。窓から差し込む光が、変わらず空白を照らしている。

引き出しからノートを取り出した。

繊細な筆跡。控えめな注釈。

『殿下が判断しやすいよう——S』

Sの意味を、今は知っている。シャルロッテの頭文字だ。

しかし——「知っている」だけだ。記憶ではない。事実だ。

九年間の温もりを、九年間の隣にいた人を——事実としては知ることができる。しかし思い出すことは、永遠にできない。

ヴィルヘルムは椅子に座り、空のもう一つの机を見つめた。

謝ることすらできない。

記憶にない相手に、何を謝ればいい。「忘れてしまって申し訳ない」——その言葉に何の重みがある。九年間を知らない人間が口にする謝罪など、空っぽの器でしかない。

メモを手に取った。

『Sに確認』

消さなかった。

意味はわかった。でも消してはいけない気がした。

これは——自分が、誰かに支えられていた証だ。

その誰かの名前を、もう永遠に思い出すことはできないけれど。


シュテルンクローネ領の夕暮れは、穏やかだった。

領主館の窓辺で、シャルロッテは書類に目を通していた。ユリウスの領地の財政改革案。自分の名前で提出される、初めての仕事。

「兄上のこと」

ユリウスが紅茶を置きながら、静かに言った。

「まだ、気にかけていますか」

シャルロッテはペンを置いた。

窓の外には、赤と金に染まった空が広がっている。遠くの丘の向こうに、王都の塔がかすかに見えた。

「覚えていないのなら——」

シャルロッテは静かに言った。

「——それは、最初からなかったのと同じですわ」

言葉は冷静だった。

しかしその最後の一音に、ほんのわずかな震えがあった。

九年間。十二歳から二十一歳まで。少女から大人になる全ての時間を、あの人の隣で過ごした。

報告書を書いた。外交の草案を練った。会議の準備をした。食事の献立を考えた。体調を気にかけた。怒りを宥め、判断を支え、失敗を繕った。

その全てが——あの人の中から消えた。

最初から、なかったことになった。

ユリウスはシャルロッテの震えに気づいていた。

何も言わず、そっと温かい紅茶を差し出した。

「僕は覚えています」

静かな、しかし揺るぎない声だった。

「あなたが為したこと。全て。税制改革も、貿易協定も、防衛計画も——あなたの仕事でした。兄上が忘れても、僕は知っています」

シャルロッテは目を伏せた。

涙が、一筋だけ頬を伝った。

九年間——泣かなかった。ヴィルヘルムの隣にいた九年間、一度も泣かなかった。婚約破棄の夜も、王宮を去る朝も。

でも今——「覚えている」と言ってくれる人の前で、初めて、涙が出た。

「……ありがとうございます」

声は小さかった。しかしその一言には、九年分の重さがあった。

ユリウスは微笑んだ。穏やかで、温かくて、何も求めない笑み。

「ここにいてください。あなたの仕事を、あなたの名前で」

窓の外、夕日が二人の影を長く伸ばしていた。

二人分の影。寄り添うように、しかし無理に重ならない距離で。

忘れられても——消えはしない。

九年間の仕事は記録に残り、助けた人々の暮らしは続き、整えた制度は動き続ける。

記憶から消えても、存在は消えない。

そのことだけが——確かだった。

遠い王宮の執務室で、空の机の隣に座る男が、今日も「Sに確認」のメモを見つめているのだろう。

意味を思い出すことは、もう永遠にない。

でも——消さずにいてくれるなら。

それだけで、十分だった。


【あとがき】

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今作は「静かな離脱型・記憶消去」のストーリーです。婚約破棄ざまぁの手法としてはかなり変わり種で、令嬢が仕返しをするのではなく、王子が自分の言葉によって自分を罰するという構造になっています。「忘却の呪い」は王家の古い魔法で、「忘れる」と宣言した相手の記憶が本当に消えるのですが、ポイントは「その人がいたから得られた成果や能力は残る」というところ。だから王子は「なぜ自分がこれほど恵まれているのか」がわからなくなる。空白だけが残るんです。

この話で書きたかったのは「忘れられること」が罰になるという構造です。殴られたり、地位を奪われたりする派手なざまぁではなく、ただ「空白」があるだけ。メモに残った「S」の文字、二つ並んだ机の片方が空、食卓の二人分の椅子——記憶にないのに痕跡だけが残っている不気味さ。物理的には何も壊れていないのに、全てが機能しなくなる。それが「存在を忘れる」ということの本当の怖さだと思います。ヴィルヘルム視点の「——」で途切れる思考の演出、楽しんでいただけたでしょうか。

ユリウスという存在は、このお話にとって不可欠でした。「覚えている人がいる」というだけで、シャルロッテの九年間は無駄にならない。白馬の王子様ではなく「正しく見ている人」として書きました。シャルロッテが初めて泣いたのがユリウスの前だったこと——あれがこのお話の本当のクライマックスだと僕は思っています。

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