S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第1話: 聖女の限界

第1アーク · 3,465文字 · draft

——「代わりの聖女は?」倒れた私に向けられたのは、心配じゃなかった。

視界が、白く滲む。

治癒の光が私の手のひらから溢れ出して、倒れていた子どもの傷を塞いでいく。骨が、筋肉が、皮膚が——繋がっていく感覚が、まるで自分の身体が削られていくように伝わってくる。息が、できない。でも、大丈夫。まだ動ける。まだ——

——柊木(ひいらぎ)さんなら、やってくれますよね?

ああ、また聞こえた。あの声が。


大神殿の広間は、血と消毒液の匂いで満ちていた。

昨夜、王都ルミエールの商業区で暴走した魔獣(まじゅう)が暴れ、三十人以上の重傷者が出た。朝から休みなく治癒を続けて——もう何人目だっけ。数えるのをやめてから、どれくらい経っただろう。

「聖女様、次の患者を」

侍女長マティルダの声が、遠くから聞こえる。まるで水の中にいるみたいだ。私は頷いて——頷いたつもりで——次の担架へと向かう。足元がふらつく。大丈夫、まだ立てる。立てるから、大丈夫。

翡翠色(ひすいいろ)の光が私の手から溢れ、傷ついた身体を包む。温かい光。でも、私の身体はどんどん冷えていく。生命力が、削られていく。

ああ、前と同じだ。


——柊木さん、今日も夜勤お願いできる? 鈴木さんが急に休んじゃって。

——柊木さんって本当に頼りになるよね。いつもありがとう。

——あれ、柊木さん、今日も休憩取ってないの? 大丈夫?

大丈夫です。

大丈夫ですから。

私はまだ、動けますから——


「聖女様!」

マティルダの叫び声で、意識が引き戻される。

気づけば私は膝をついていた。白い大理石の床が、目の前にある。いつの間に倒れたんだろう。身体が、言うことを聞かない。

「……大丈夫、です」

口が勝手に動く。この言葉だけは、どんなに辛くても出てくる。前世で何千回も言った言葉。今世でも、何千回も——

「リーネ様、もう限界でございます。お休みに——」

「大丈夫です。まだ、動けますから」

手を床についた。立ち上がろうとする。でも、腕が震えて力が入らない。視界が、また白く滲んでいく。

ああ、駄目だ。

身体が、もう——

「聖女様が倒れた! 誰か!」

「大神官様をお呼びしろ!」

騒ぎ声が遠くなる。私の意識は、薄れていく。

そして——聞こえた。

「……代わりの聖女は、いないのか?」

「リーネ様が倒れたら、治癒はどうなる」

「まだ患者が残っているんだぞ」

誰も、私の心配はしていない。

誰も、私の名前を呼ばない。

彼らにとって私は「聖女」という機能であって、「柊木(ひいらぎ)(りん)」という人間じゃない——

ああ、やっぱり前と同じだ。


前世の記憶が、走馬灯のように流れる。

小児科の白い廊下。子どもたちの笑い声。夜勤明けの、眩しすぎる朝日。

——柊木さんならやってくれる。

——柊木さんは頑張り屋さんだから。

——柊木さん、ありがとう。

ありがとう、ありがとうって、みんな言ってくれた。

だから私は、嬉しくて。必要とされることが嬉しくて。休むことができなくなって——

そして、二十七歳の冬。夜勤明けの朝。私は病院の廊下で倒れた。

最期に聞こえたのは、同僚の慌てた声。

——柊木さん! 大丈夫!?

大丈夫です、と答えようとした。でも、もう声が出なかった。

ああ、また。

また私は、「大丈夫」って嘘をつこうとしていた——


「……おい」

低い声が、耳元で聞こえた。

誰?

意識が薄れかけていた私を、その声が引き戻す。

「死ぬな」

短い、でも強い声。

次の瞬間、私の身体が宙に浮いた。誰かが、私を抱き上げたんだ。硬い胸板。黒い騎士服。見上げると、前髪の隙間から灰青色(はいあおいろ)の瞳が覗いていた。左頬から顎にかけて走る古い刀傷——

——レオンさん?

私の護衛騎士。百八十五の長身に鍛え上げられた体躯、装飾のない実戦仕様の黒い騎士服。感情の読めない目。無口で、表情が乏しくて、いつも少し離れたところから私を見守っている人。今まで一度も、必要以上に近づいてこなかった人。

「レオン、何をする」

マティルダの声。

「連れて行く」

「聖女様はまだ治癒の途中です。患者が——」

「知るか」

レオンの声に、初めて感情が混じった。怒り——いや、違う。もっと深い、何か。

「こいつは、もう限界だ」

「ですが——」

「退け」

硬い声。マティルダが息を呑む気配がした。

レオンが歩き出す。私を抱えたまま。広間の出口へ向かって。

「待て、護衛騎士! 聖女様を勝手に——」

「うるせえ」

レオンの腕の中で、私の意識はまた薄れかけていた。でも、不思議と安心する。温かい。

前世でも、今世でも——こんなふうに誰かに守られたことなんて、なかった。

「……どこ、へ」

か細い声で尋ねた。レオンは答えない。ただ、私を抱く腕に少しだけ力を込める。

そして——

「……こんな場所に、いる必要はない」

そう、呟いた。


大神殿の廊下を、レオンは私を抱えたまま歩いていく。

すれ違う神官たちが驚いた顔でこちらを見る。でも、レオンは誰にも止まらない。まっすぐに、出口へ向かって。

「レオン……殿が、怒り……ます」

王太子セドリック。私の——形式上の、婚約者。彼は私を「国の宝」と呼ぶけれど、本当に大切にしてくれているわけじゃない。政治の道具。それが私の立場だ。

「構わん」

短い返事。レオンの足は止まらない。

「……大神官様も……」

「あいつもだ」

大神官ヴェルナー。私を「神に選ばれた特別な存在」と言い続けた人。でもその笑顔の奥に、何があるのか——私にはわからない。わかりたくもない。

「リーネ」

え?

レオンが、初めて私の名前を呼んだ。聖女名の「リーネ」だけど——それでも、初めてだ。いつも「聖女様」としか呼ばれなかったから。

「……はい」

「もう大丈夫って、嘘つくな」

胸が、ぎゅっと締め付けられた。

嘘? 私が?

——いや、わかってる。わかってるんだ。

「大丈夫です」は、嘘だ。

本当は大丈夫じゃない。辛くて、苦しくて、もう限界で——でも、それを言えない。言ったら、必要とされなくなる。捨てられる。だから、嘘をつく。

——大丈夫です。

——まだ動けます。

——私にできることがあるなら、何でもします。

全部、嘘だ。

本当は——

——助けて。

そう言いたかった。前世でも、今世でも。

でも、言えなかった。一度も。

「……ごめん、なさい」

涙が、零れた。止まらない。レオンの騎士服が、私の涙で濡れていく。

「謝るな」

レオンの声が、少しだけ柔らかくなった。

「あんたは、何も悪くない」

——え?

「悪いのは……こんな使い方をしてきた、俺たちだ」

レオンの腕が、私をもう一度抱き直す。今度は、もっと優しく。
 さっきまでと力の入れ方が違う。"運ぶ"腕じゃない。鎧越しなのに、温かかった。

「もう少しだけ、我慢しろ」

どこへ行くつもりなんだろう。

でも、もういい。

どこでもいい。

このまま、ここから——


「待て! レオン・アッシュフォード!」

背後から、威厳のある声が響いた。

大神官ヴェルナーだ。

レオンの足が止まる。でも、私を降ろそうとはしない。

「聖女様を、どこへ連れて行くつもりか」

「……」

レオンは答えない。ただ、ヴェルナーを振り返りもせずに立ち尽くしている。

「聖女様はまだ治癒の任務の途中だ。民が苦しんでいる。それを見捨てるというのか」

「見捨ててるのは、あんたたちだろ」

レオンの声に、鋭い刃が混じった。

「こいつの命を、何だと思ってる」

「聖女様の犠牲は、神の——」

「黙れ」

レオンの声が、大神殿の廊下に響いた。

ヴェルナーが、息を呑む。

「これ以上、この聖女を使い潰すってんなら——俺が、あんたたち全員を敵に回す」

静寂。

神殿中が、固まったように静まり返った。

レオンは、私を抱えたまま、再び歩き出す。今度は誰も止めない。止められない。

回廊を曲がり、また曲がる。祈りの間から遠ざかるたびに、血と消毒液の匂いが薄くなる。

レオンは大扉のほうへは向かわなかった。
 脇廊下を抜けて、使われていない控えの間に滑り込む。

扉が閉まる。
 静かだった。

硬い長椅子の上に、そっと降ろされる。外套が掛けられた。
 レオンの体温が離れて、急に寒くなる。

「……どこ、へ」

「夜になったら動く」

短い声。でも、迷いはなかった。

もう、戻れないかもしれない。

いや——戻りたくない。

「……ありがとう、ございます」

小さく呟いた。レオンには聞こえなかったかもしれない。

でも、壁にもたれて腕を組んだレオンの横顔が、ほんの少しだけ緩んだ——気がした。

意識が、遠のいていく。

でも今度は、怖くない。

レオンの気配が、すぐそばにある。
 それだけで——

——少しだけ、楽になった気がした。

——次話「使い潰される花」――次の一手が、運命を動かす。

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