——大神殿を出た凛は、意識の底から神殿での“教育”を思い出す。
喉が、ひゅ、と鳴った。
まぶたの裏に光が滲んで、意識が水面へ押し上げられる。
揺れている。誰かの腕の中で。
「……起きたか」
低い声。短い言葉。
その声だけが、世界の輪郭を先に作った。
私は息を吸おうとして、胸が痛んだ。息が、細い。
「大丈夫、です……」
反射みたいに口が動いて、言い終えた瞬間、自分で自分が怖くなった。
大丈夫なわけがないのに。
「……言うな」
抱えている腕が少しだけ強くなる。
鎧の冷たさと、その奥の体温。男の匂い。外の風。
外――。
大神殿の石壁の匂いじゃない。
「レオン、さん……?」
「俺だ」
それだけ。
でも、その“それだけ”が、いつも私に与えられていた言葉と違った。
いつもは、もっと綺麗で、もっと正しくて、もっと……逃げ道のない言葉だった。
石畳を急ぐ足音が遠のくたび、頭の奥がずきりと疼いた。
痛みは、思い出の形をしていた。
あの日も、私は揺れていた。
小さな身体を抱えられて、神殿の門をくぐった日。
三歳の春だった。
「この子は“選ばれた”のです」
白い天井が高すぎて、首が痛くなった。
香の匂いが濃くて、息が苦しくて、でも泣くと迷惑だと分かっていた。
泣くと、嫌われる。捨てられる。
私はそういう“いい子”だった。
大神官ヴェルナー・クラウディウスは、私を見下ろして微笑んだ。
優しい顔。柔らかい声。
「リーネ。あなたは神の祝福を受けた花でございます」
花。
可愛い、と言われた。
特別、と言われた。
それだけで、胸の奥がふわりと軽くなるのを覚えた。
私は、褒められるのが好きだった。
褒められると、ここにいていい気がした。
「怖くはありません。痛みも、いつか喜びに変わります。あなたが民を救うのです」
“民を救う”。
その言葉は、後から私の骨にまで染みていった。
その日から、私の部屋は豪華だった。
絹の天蓋。磨かれた床。甘い菓子。
けれど窓の外は、格子越しにしか見えなかった。
外へ出る必要はありません、と言われた。
外へ出たいと思うのは、罪だと教えられた。
侍女長マティルダは、笑わなかった。
笑っても、形だけだった。
「聖女様はお身体を清潔に。姿勢を正しく。食事は残さず」
声は丁寧で、氷みたいに冷たい。
「外の者と話してはなりません。不要な感情は、穢れです」
感情。
泣きたいと思うのも。
怒りたいと思うのも。
寂しいと思うのも。
ぜんぶ、穢れ。
“いらないもの”。
だから私は、いらないものを捨てる練習をした。
笑う練習。
頷く練習。
「はい、聖女として、努めます」
言葉の練習。
「大丈夫です」
その一言があれば、誰も眉をひそめない。
その一言があれば、誰も困らない。
誰も、私のせいで止まらない。
私は止まってはいけない。
止まったら――捨てられる。
十五歳の冬、私は“第21代聖女”になった。
その日、ヴェルナーは私の手を取って祈った。
「あなたの命は、民のために——」
その言葉の途中で、私の指先が震えた。
震えを見せたらいけない。怖がったらいけない。
私は笑った。
「はい。光栄です」
光栄。
そう言えた自分が、少し誇らしかった。
褒められるだろうと思った。
案の定、ヴェルナーは満足げに頷いた。
「素晴らしい。聖女様は、神の御心を理解しておられる」
理解。
理解しているふりをするほど、私は褒められた。
褒められるほど、私は“役に立つ”と思えた。
役に立つなら、ここにいていい。
ここにいていいなら、痛くても大丈夫。
そんなふうに、考える癖がついた。
最初の聖癒は、戦場帰りの兵士だった。
血と鉄の匂いがする人。
私より大きくて、なのに子どもみたいに震えていた。
「頼む……母に、会わせてくれ……」
私は頷いて、祈りの言葉を紡いだ。
光が溢れて、傷が塞がっていく。
歓声。
拍手。
「聖女様、ありがとうございます!」
その瞬間だけ、私は“必要”だった。
嬉しかった。
胸が、熱くなった。
――そして。
世界が、少し暗くなった。
視界の端が欠けて、胃がひっくり返るように痛い。
膝が崩れて、床が近づく。
マティルダが私を支えた。
「聖女様、しっかり」
その声は優しさじゃない。
仕事が倒れるのを止める手つき。
私は笑って言った。
「大丈夫です……少し、ふらついただけです」
ヴェルナーは慈しむように目を細めた。
「よく耐えました。あなたの犠牲は尊い」
尊い。
その二文字が、私の痛みを正当化した。
痛みは悪じゃない。
痛みは価値。
価値があるなら、私は存在していい。
王城へ呼ばれたのは、聖女として名が広がってからだった。
白い広間。金の装飾。甘い香水。
王太子セドリック・レイ・ガルディアは、柔らかく微笑んだ。
「リーネ、君は国の宝だ。僕が守るよ」
守る。
その言葉は綺麗だった。
けれど、彼の視線は私の目ではなく、私の“肩書”に触れていた。
宝。
宝は、飾られる。
磨かれる。
そして、使われる。
「……ありがとうございます」
私は礼をして、背筋を伸ばした。
背筋を伸ばしている限り、倒れない。
倒れない限り、迷惑をかけない。
「無理はしないで。君が倒れたら、国が困るからね」
困る。
守ると言いながら、彼が守りたいのは国の仕組みだった。
私は、仕組みの部品。
壊れたら困る部品。
だから大切。
だから守る。
その優しさに、私は頷くしかなかった。
「はい。大丈夫です」
それからの日々は、濃縮された祈りと命だった。
病の流行。
魔獣の襲撃。
貴族の怪我。
民の熱。
私は呼ばれて、祈って、光を流して、崩れそうになったら立て直した。
マティルダは私の食事を管理し、睡眠を管理し、会話を管理した。
「聖女様は余計なことを考えてはなりません」
余計。
“自分のこと”は、いつも余計だった。
痛い。
眠い。
寒い。
怖い。
言うと、空気が止まる。
止まると、私が悪い。
だから言わない。
「大丈夫です」
それが、最適解になった。
私の喉は、最初にそれを選ぶようになった。
選んでいるつもりで、選ばされているのに。
前の聖女、リアナ様のことを思い出すのは、禁じられていた。
私が“次”だから。
前の花を思い出すのは、新しい花の価値を下げるから。
そう言われた。
けれど私は、夜になると耳を澄ませた。
廊下の向こう。
誰かが咳き込む音。
骨の中から削られるような、乾いた咳。
ある晩、私はこっそりと扉を開けた。
格子の影を踏まないように歩いた。
足音が怖くて、息を殺した。
あの部屋は、閉ざされていたはずなのに。
扉が、半分だけ開いていた。
光が漏れていた。
中には、リアナ様がいた。
細かった。
私よりも、ずっと。
白い寝台に沈んで、指先だけが布の上に出ていた。
その指先が、微かに動いて。
私を招いた。
「……リーネ?」
声が、糸みたいだった。
私は駆け寄りたいのに、足が言うことを聞かなかった。
「聖女様、いけません」
背後から、マティルダの声。
いつの間に。
彼女の手が私の肩に置かれて、爪が食い込む。
痛い。
でも私は言った。
「大丈夫です……少し、様子を……」
リアナ様は、私を見て、笑った。
笑おうとして、咳き込んだ。
枕が赤く染まる。
私は息を呑んだ。
リアナ様は、それでも言った。
「大丈夫……だよ。あなたは、いい子だから……」
いい子。
その言葉が、私の胸を締め付けた。
私が欲しかった言葉。
そして、私を縛る言葉。
「無理、しないで……ね」
言い終わる前に、リアナ様の目が閉じた。
閉じたまま、二度と開かなかった。
その瞬間、部屋の空気が冷たくなった。
マティルダは私の肩を掴み、引き剥がした。
「見てはなりません」
「でも……」
言い返したかった。
怖かった。
泣きたかった。
「聖女様は次代です。弱さは不要です」
不要。
私は唇を噛んだ。
そして、喉の奥で、言葉を折った。
「……大丈夫です」
あの夜から、私は“絶対に言う”ようになった。
大丈夫です、と言えば。
リアナ様みたいに、誰にも迷惑をかけずに消えられる。
それが“正しい終わり方”なのだと、教え込まれた。
「聖女様の犠牲は、神の御心でございます」
ヴェルナーは葬儀の壇上で、涙を流していた。
涙の粒は綺麗だった。
彼の声は優しかった。
だからこそ、気づけなかった。
その涙が、リアナ様のためではないことに。
次の計算をしていることに。
“空席”を埋める段取りを、もう終えていることに。
私は白い花を手に持ち、頭を下げた。
花の匂いが、甘くて、吐き気がした。
その日から、聖癒の依頼は増えた。
国は困っていた。
だから私が、もっと頑張らなければならなかった。
「リーネ。あなたならできます」
「国のために」
「神のために」
「民のために」
言葉が、私の背中を押す。
押すというより、壁に縫い付ける。
逃げ道を塞ぐ。
私は頷いて、笑って、言った。
「大丈夫です」
その言葉の裏に、何が隠れているかも分からないまま。
「……あんた、震えてる」
今の声が、思い出の中の声を裂いた。
私ははっとして、目を開いた。
空が近い。
灰色の雲が流れている。
大神殿の天井じゃない。
格子もない。
風が頬を撫でて、冷たいのに、泣きたくなるほど気持ちよかった。
レオンの腕の中で、私は小さく息を吐いた。
「……私、今……」
言葉が続かない。
続けたら、また“いつもの”を言ってしまう。
大丈夫です、と。
それを言ったら、レオンの腕の力が緩む気がした。
私が“戻ってしまう”気がした。
「無理に喋るな」
「でも……」
「今は、呼吸しろ」
命令みたいで、でも嫌じゃなかった。
誰かに“私のため”の指示をされたことが、ほとんどなかったから。
私は頷いて、息を吸った。
胸が痛い。
身体の奥が、空っぽみたいに冷たい。
それでも。
――外の空気が入ってくる。
私は生きている。
生きて、しまっている。
その事実に、罪悪感が波みたいに押し寄せた。
リアナ様は死んだ。
私は生きている。
私だけが、外にいる。
「……俺のせいで、怖いか」
レオンの声が少しだけ揺れた。
怖い。
怖いのは、彼じゃない。
怖いのは、戻されること。
戻って、また笑って、また削って、また……。
「……怖い、です」
私は正直に言ってしまった。
言った瞬間、喉が熱くなった。
“正直”は穢れだと教わってきたのに。
レオンは、黙って歩き続けた。
そして、短く言った。
「……大丈夫だ。俺がいる」
その声が、鎧の振動を通して、胸に届いた。
守る。
あの王太子の言葉と似ているのに、全然違う。
セドリック殿下の"守る"は、宝石箱に鍵をかける音だった。
この人の"俺がいる"は——扉を開けたまま、隣に立ってくれる音。
私が逃げてもいい場所が、そこにある。
――そう思ってしまって。
胸の奥に溜めていたものが、じわりと溶けた。
泣きたい。
でも泣いたら、歩けない。
歩けないと迷惑をかける。
また“いつもの”が顔を出す。
私は唇を噛んだ。
「大丈夫です」と言いかけて、言葉を噛み砕いた。
代わりに、息を吐いた。
「……すみません」
「謝るな」
即答。
それだけで、涙が滲んだ。
どれくらい歩いたのか分からない。
揺れが変わった。
布の匂い。木の匂い。馬のいななき。
荷台か、馬車か。
身体が横たえられて、視界が天井に変わる。
布が掛けられた。
温かい。
「眠れ」
レオンの声が近い。
私は頷いたつもりだった。
でも首が動かない。
まぶたが重い。
意識が、また沈む。
沈む直前、思った。
“頑張らなければ”が、私の骨になっている。
その骨を、外に持ち出してしまった。
この先、私はどうすればいい。
頑張らないで生きる方法を、私は知らない。
知らないまま、どこへ連れて行かれるの。
その答えを聞く前に、暗闇が来た。
どこかで、水の音がする。
遠くで、火がはぜる音。
人の気配が、少ない。
静か。
静かすぎて、怖い。
私は飛び起きようとして、身体が軋んだ。
痛い。
痛いのに――。
「大丈夫です」が、喉まで来て、止まった。
私は、息を吸って、周りを見ようとした。
薄暗い天井。
知らない木目。
窓から月明かり。
大神殿の金色じゃない。
私の部屋の絹でもない。
指先が震える。
怖い。
でも、怖いのに。
胸のどこかが、少しだけ軽い。
私は掠れた声で、問いかけた。
「……ここは……?」
——次話「騎士の反逆」――二人の距離が、もう一段近づく。