S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第2話: 使い潰される花

第1アーク · 4,835文字 · draft

——大神殿を出た凛は、意識の底から神殿での“教育”を思い出す。

喉が、ひゅ、と鳴った。

まぶたの裏に光が滲んで、意識が水面へ押し上げられる。

揺れている。誰かの腕の中で。

「……起きたか」

低い声。短い言葉。

その声だけが、世界の輪郭を先に作った。

私は息を吸おうとして、胸が痛んだ。息が、細い。

「大丈夫、です……」

反射みたいに口が動いて、言い終えた瞬間、自分で自分が怖くなった。

大丈夫なわけがないのに。

「……言うな」

抱えている腕が少しだけ強くなる。

鎧の冷たさと、その奥の体温。男の匂い。外の風。

外――。

大神殿(だいしんでん)の石壁の匂いじゃない。

「レオン、さん……?」

「俺だ」

それだけ。

でも、その“それだけ”が、いつも私に与えられていた言葉と違った。

いつもは、もっと綺麗で、もっと正しくて、もっと……逃げ道のない言葉だった。


石畳を急ぐ足音が遠のくたび、頭の奥がずきりと疼いた。

痛みは、思い出の形をしていた。

あの日も、私は揺れていた。

小さな身体を抱えられて、神殿の門をくぐった日。

三歳の春だった。

「この子は“選ばれた”のです」

白い天井が高すぎて、首が痛くなった。

香の匂いが濃くて、息が苦しくて、でも泣くと迷惑だと分かっていた。

泣くと、嫌われる。捨てられる。

私はそういう“いい子”だった。

大神官ヴェルナー・クラウディウスは、私を見下ろして微笑んだ。

優しい顔。柔らかい声。

「リーネ。あなたは神の祝福を受けた花でございます」

花。

可愛い、と言われた。

特別、と言われた。

それだけで、胸の奥がふわりと軽くなるのを覚えた。

私は、褒められるのが好きだった。

褒められると、ここにいていい気がした。

「怖くはありません。痛みも、いつか喜びに変わります。あなたが民を救うのです」

“民を救う”。

その言葉は、後から私の骨にまで染みていった。

その日から、私の部屋は豪華だった。

絹の天蓋。磨かれた床。甘い菓子。

けれど窓の外は、格子越しにしか見えなかった。

外へ出る必要はありません、と言われた。

外へ出たいと思うのは、罪だと教えられた。


侍女長マティルダは、笑わなかった。

笑っても、形だけだった。

「聖女様はお身体を清潔に。姿勢を正しく。食事は残さず」

声は丁寧で、氷みたいに冷たい。

「外の者と話してはなりません。不要な感情は、穢れです」

感情。

泣きたいと思うのも。

怒りたいと思うのも。

寂しいと思うのも。

ぜんぶ、穢れ。

“いらないもの”。

だから私は、いらないものを捨てる練習をした。

笑う練習。

頷く練習。

「はい、聖女(せいじょ)として、努めます」

言葉の練習。

「大丈夫です」

その一言があれば、誰も眉をひそめない。

その一言があれば、誰も困らない。

誰も、私のせいで止まらない。

私は止まってはいけない。

止まったら――捨てられる。


十五歳の冬、私は“第21代聖女”になった。

その日、ヴェルナーは私の手を取って祈った。

「あなたの命は、民のために——」

その言葉の途中で、私の指先が震えた。

震えを見せたらいけない。怖がったらいけない。

私は笑った。

「はい。光栄です」

光栄。

そう言えた自分が、少し誇らしかった。

褒められるだろうと思った。

案の定、ヴェルナーは満足げに頷いた。

「素晴らしい。聖女様は、神の御心を理解しておられる」

理解。

理解しているふりをするほど、私は褒められた。

褒められるほど、私は“役に立つ”と思えた。

役に立つなら、ここにいていい。

ここにいていいなら、痛くても大丈夫。

そんなふうに、考える癖がついた。


最初の聖癒(せいゆ)は、戦場帰りの兵士だった。

血と鉄の匂いがする人。

私より大きくて、なのに子どもみたいに震えていた。

「頼む……母に、会わせてくれ……」

私は頷いて、祈りの言葉を紡いだ。

光が溢れて、傷が塞がっていく。

歓声。

拍手。

「聖女様、ありがとうございます!」

その瞬間だけ、私は“必要”だった。

嬉しかった。

胸が、熱くなった。

――そして。

世界が、少し暗くなった。

視界の端が欠けて、胃がひっくり返るように痛い。

膝が崩れて、床が近づく。

マティルダが私を支えた。

「聖女様、しっかり」

その声は優しさじゃない。

仕事が倒れるのを止める手つき。

私は笑って言った。

「大丈夫です……少し、ふらついただけです」

ヴェルナーは慈しむように目を細めた。

「よく耐えました。あなたの犠牲は尊い」

尊い。

その二文字が、私の痛みを正当化した。

痛みは悪じゃない。

痛みは価値。

価値があるなら、私は存在していい。


王城へ呼ばれたのは、聖女として名が広がってからだった。

白い広間。金の装飾。甘い香水。

王太子セドリック・レイ・ガルディアは、柔らかく微笑んだ。

「リーネ、君は国の宝だ。僕が守るよ」

守る。

その言葉は綺麗だった。

けれど、彼の視線は私の目ではなく、私の“肩書”に触れていた。

宝。

宝は、飾られる。

磨かれる。

そして、使われる。

「……ありがとうございます」

私は礼をして、背筋を伸ばした。

背筋を伸ばしている限り、倒れない。

倒れない限り、迷惑をかけない。

「無理はしないで。君が倒れたら、国が困るからね」

困る。

守ると言いながら、彼が守りたいのは国の仕組みだった。

私は、仕組みの部品。

壊れたら困る部品。

だから大切。

だから守る。

その優しさに、私は頷くしかなかった。

「はい。大丈夫です」


それからの日々は、濃縮された祈りと命だった。

病の流行。

魔獣の襲撃。

貴族の怪我。

民の熱。

私は呼ばれて、祈って、光を流して、崩れそうになったら立て直した。

マティルダは私の食事を管理し、睡眠を管理し、会話を管理した。

「聖女様は余計なことを考えてはなりません」

余計。

“自分のこと”は、いつも余計だった。

痛い。

眠い。

寒い。

怖い。

言うと、空気が止まる。

止まると、私が悪い。

だから言わない。

「大丈夫です」

それが、最適解になった。

私の喉は、最初にそれを選ぶようになった。

選んでいるつもりで、選ばされているのに。


前の聖女、リアナ様のことを思い出すのは、禁じられていた。

私が“次”だから。

前の花を思い出すのは、新しい花の価値を下げるから。

そう言われた。

けれど私は、夜になると耳を澄ませた。

廊下の向こう。

誰かが咳き込む音。

骨の中から削られるような、乾いた咳。

ある晩、私はこっそりと扉を開けた。

格子の影を踏まないように歩いた。

足音が怖くて、息を殺した。

あの部屋は、閉ざされていたはずなのに。

扉が、半分だけ開いていた。

光が漏れていた。

中には、リアナ様がいた。

細かった。

私よりも、ずっと。

白い寝台に沈んで、指先だけが布の上に出ていた。

その指先が、微かに動いて。

私を招いた。

「……リーネ?」

声が、糸みたいだった。

私は駆け寄りたいのに、足が言うことを聞かなかった。

「聖女様、いけません」

背後から、マティルダの声。

いつの間に。

彼女の手が私の肩に置かれて、爪が食い込む。

痛い。

でも私は言った。

「大丈夫です……少し、様子を……」

リアナ様は、私を見て、笑った。

笑おうとして、咳き込んだ。

枕が赤く染まる。

私は息を呑んだ。

リアナ様は、それでも言った。

「大丈夫……だよ。あなたは、いい子だから……」

いい子。

その言葉が、私の胸を締め付けた。

私が欲しかった言葉。

そして、私を縛る言葉。

「無理、しないで……ね」

言い終わる前に、リアナ様の目が閉じた。

閉じたまま、二度と開かなかった。

その瞬間、部屋の空気が冷たくなった。

マティルダは私の肩を掴み、引き剥がした。

「見てはなりません」

「でも……」

言い返したかった。

怖かった。

泣きたかった。

「聖女様は次代です。弱さは不要です」

不要。

私は唇を噛んだ。

そして、喉の奥で、言葉を折った。

「……大丈夫です」

あの夜から、私は“絶対に言う”ようになった。

大丈夫です、と言えば。

リアナ様みたいに、誰にも迷惑をかけずに消えられる。

それが“正しい終わり方”なのだと、教え込まれた。


「聖女様の犠牲は、神の御心でございます」

ヴェルナーは葬儀の壇上で、涙を流していた。

涙の粒は綺麗だった。

彼の声は優しかった。

だからこそ、気づけなかった。

その涙が、リアナ様のためではないことに。

次の計算をしていることに。

“空席”を埋める段取りを、もう終えていることに。

私は白い花を手に持ち、頭を下げた。

花の匂いが、甘くて、吐き気がした。

その日から、聖癒の依頼は増えた。

国は困っていた。

だから私が、もっと頑張らなければならなかった。

「リーネ。あなたならできます」

「国のために」

「神のために」

「民のために」

言葉が、私の背中を押す。

押すというより、壁に縫い付ける。

逃げ道を塞ぐ。

私は頷いて、笑って、言った。

「大丈夫です」

その言葉の裏に、何が隠れているかも分からないまま。


「……あんた、震えてる」

今の声が、思い出の中の声を裂いた。

私ははっとして、目を開いた。

空が近い。

灰色の雲が流れている。

大神殿の天井じゃない。

格子もない。

風が頬を撫でて、冷たいのに、泣きたくなるほど気持ちよかった。

レオンの腕の中で、私は小さく息を吐いた。

「……私、今……」

言葉が続かない。

続けたら、また“いつもの”を言ってしまう。

大丈夫です、と。

それを言ったら、レオンの腕の力が緩む気がした。

私が“戻ってしまう”気がした。

「無理に喋るな」

「でも……」

「今は、呼吸しろ」

命令みたいで、でも嫌じゃなかった。

誰かに“私のため”の指示をされたことが、ほとんどなかったから。

私は頷いて、息を吸った。

胸が痛い。

身体の奥が、空っぽみたいに冷たい。

それでも。

――外の空気が入ってくる。

私は生きている。

生きて、しまっている。

その事実に、罪悪感が波みたいに押し寄せた。

リアナ様は死んだ。

私は生きている。

私だけが、外にいる。

「……俺のせいで、怖いか」

レオンの声が少しだけ揺れた。

怖い。

怖いのは、彼じゃない。

怖いのは、戻されること。

戻って、また笑って、また削って、また……。

「……怖い、です」

私は正直に言ってしまった。

言った瞬間、喉が熱くなった。

“正直”は穢れだと教わってきたのに。

レオンは、黙って歩き続けた。

そして、短く言った。

「……大丈夫だ。俺がいる」

その声が、鎧の振動を通して、胸に届いた。

守る。

あの王太子の言葉と似ているのに、全然違う。

セドリック殿下の"守る"は、宝石箱に鍵をかける音だった。
この人の"俺がいる"は——扉を開けたまま、隣に立ってくれる音。

私が逃げてもいい場所が、そこにある。

――そう思ってしまって。

胸の奥に溜めていたものが、じわりと溶けた。

泣きたい。

でも泣いたら、歩けない。

歩けないと迷惑をかける。

また“いつもの”が顔を出す。

私は唇を噛んだ。

「大丈夫です」と言いかけて、言葉を噛み砕いた。

代わりに、息を吐いた。

「……すみません」

「謝るな」

即答。

それだけで、涙が滲んだ。


どれくらい歩いたのか分からない。

揺れが変わった。

布の匂い。木の匂い。馬のいななき。

荷台か、馬車か。

身体が横たえられて、視界が天井に変わる。

布が掛けられた。

温かい。

「眠れ」

レオンの声が近い。

私は頷いたつもりだった。

でも首が動かない。

まぶたが重い。

意識が、また沈む。

沈む直前、思った。

“頑張らなければ”が、私の骨になっている。

その骨を、外に持ち出してしまった。

この先、私はどうすればいい。

頑張らないで生きる方法を、私は知らない。

知らないまま、どこへ連れて行かれるの。

その答えを聞く前に、暗闇が来た。


どこかで、水の音がする。

遠くで、火がはぜる音。

人の気配が、少ない。

静か。

静かすぎて、怖い。

私は飛び起きようとして、身体が軋んだ。

痛い。

痛いのに――。

「大丈夫です」が、喉まで来て、止まった。

私は、息を吸って、周りを見ようとした。

薄暗い天井。

知らない木目。

窓から月明かり。

大神殿の金色じゃない。

私の部屋の絹でもない。

指先が震える。

怖い。

でも、怖いのに。

胸のどこかが、少しだけ軽い。

私は掠れた声で、問いかけた。

「……ここは……?」

——次話「騎士の反逆」――二人の距離が、もう一段近づく。

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