S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第3話: 騎士の反逆

第1アーク · 5,386文字 · draft

——リンデン村外れの小屋で目覚めた凛は、レオンに連れ出された夜を思い出す。

「……ここは……?」

声が掠れて、自分の耳にも遠かった。

薄暗い天井。木の梁。古い藁の匂い。火のはぜる音は小さく、窓の外の虫の声が近い。

大神殿の金色じゃない。
石の冷たさじゃない。

痛みが残っているのに、胸の奥が——静かだった。

私は身体を起こそうとして、肋が軋んだ。息が止まりかけて、思わず唇を噛む。

「動くな」

短い声が飛んできた。

視線を向けると、部屋の隅。壁にもたれた黒い影が、火の揺らぎの中で輪郭を持つ。
黒い騎士服。外套。手袋を外した指先が、包帯の端を押さえている。

レオンさんだ。

「リンデン村の外れだ。空き小屋を借りた」

借りた、という言葉に、笑いそうになった。こんな夜更けに、誰に、どうやって。

「……神殿は」

「置いてきた」

置いてきた。
まるで荷物みたいに。

でも、その言い方が冷たいとは思わなかった。
私を荷物みたいに抱えて走った人の腕が、まだ背中に残っている。

私は喉の奥で迷って——結局、聞いてしまう。

「なぜここまで?」

言った途端、胸がきゅっと縮んだ。
この世界で、私はいつも「してもらう側」だった。されるのが当たり前で、感謝は言葉で済まされて、理由なんて訊かれない。
理由を訊くのは、怖い。答えが、私を捨てる理由に変わる気がするから。

レオンは、火のほうを見たまま、少しだけ首を傾けた。

「……理由がいるのか」

短い。
それで終わり。

でも、その一言が、私の胸の中に落ちて、熱を持った。

火のほうを向いたレオンの横顔に、揺らめく光が触れている。
いつも石みたいに硬い輪郭が、炎のせいか——少しだけ、やわらかく見えた。

言葉の続きを求めたくなるのに、同時に、これ以上は壊したくないとも思った。
その沈黙の形が、今までの“正しい言葉”と違いすぎて、息の仕方を忘れる。

「……追手は」

「まだ探してる。夜が明けるまで動かない」

そう言って、レオンは立ち上がった。
背が高い。壁の影が一緒に動く。
私のほうへ来る気配がして、反射的に肩がすくむ。

触れられるのが怖いわけじゃない。
怖いのは、触れられて、安心してしまうこと。

レオンの指が、私の額に触れる寸前で止まって、代わりに外套の端を持ち上げた。
私の肩に、そっと掛ける。
体温じゃなく、布の重さだけが落ちてくるのに、その“重さ”が守りみたいだった。

「……寝ろ」

命令みたいに言うのに、声は低くて、柔らかい。

私は頷いて——頷きかけて、やめた。

眠る前に、思い出してしまったから。
あの夜の空気を。
鐘の音を。
私を抱えて走る、鎧のきしみを。


大神殿の回廊は、夜になると音が反響する。

昼の祈りの声が消えたあと、残るのは自分の足音と、遠くで燃える蝋燭の匂いだけ。
あまりに静かで、息をしただけで罪になる気がした。

「目を閉じろ」

レオンの声が、耳のすぐ上で鳴った。
私は返事をする余裕もなく、瞼を落とす。

暗くなる。
でも暗闇の中で、鎧の胸当てが私の頬に触れて、冷たいはずなのに、なぜか温かい。

廊下を曲がるたびに、身体が揺れる。
揺れるたびに、腕が締まる。
落とさない。絶対に。
そう言葉にしないまま、腕が言っていた。

角を曲がった先で、低い声がした。

「——護衛騎士。そこにいるのは」

神官の声。続けて、甲冑の擦れる音。夜番の騎士。

レオンの足が止まる。
私の身体が、腕の内側に押し込められる。外套が深く被せられて、月明かりが遮られた。

視界は布。
でも、音だけで分かる。
レオンが一歩、前に出た。

「通す」

「許可証は」

金属が鳴る。
剣の柄に手が置かれた音。

一拍。

次の瞬間、硬い音がして、息が詰まる。
誰かが壁に叩きつけられた。

「……っ」

私の喉が鳴りそうになって、歯で噛んで止めた。

レオンは何も言わない。
ただ、再び歩き出す。
躊躇のない足取りで、石の回廊を切り裂いていく。

私は、布の内側で震えながら思った。
ああ、この人は——反逆している。
神殿にも、命令にも。
“聖女”を縛る全てに。

「レオン、さん……」

名前が、勝手にこぼれた。
返事はない。けれど腕が、ほんの少しだけ強くなる。
それが返事みたいで、胸が痛む。


大神殿の裏手には、倉庫と厩舎が並んでいる。
昼間は奉納品の荷車が行き交い、夜は見張りが鈍る——はずだった。

今夜は違う。
誰かが、早くからざわめいている。
灯りが、いつもより多い。

「聖女様が消えた!」

遠くで叫び声。
私の背中が粟立つ。

“消えた”。
名前じゃない。
いつもの通りだ。
機能が無くなった、という言い方。

レオンは厩舎の影に身を滑らせた。
壁沿いに歩き、戸口の前で止まる。
扉に手を伸ばす前に——一度だけ、私を見る。

外套の隙間から、目が合った。
月明かりが薄く差して、灰色の瞳が刃みたいに冷えているのに、底が揺れていた。

怖い、と思うより先に。
守られている、と思ってしまった。

レオンは何も言わず、扉を開けた。

馬の匂いが濃くなる。
馬が、鼻を鳴らす。
鎖が鳴る。

「乗れるか」

初めて、私に“できるか”を問う声だった。
出来るかどうかを、私に委ねる声。

私は、頷くしかなかった。

レオンは私を下ろすと、すぐに背中へ手を添えた。
支える手は強いのに、押しつけない。
その距離の取り方が、妙に苦しくて、胸が熱い。

厩舎の奥から、黒い馬を引き出す。
鞍はない。手綱だけ。

「しがみつけ」

私が馬に跨がると、レオンは一息で後ろに乗った。
腰に腕が回り、手綱を取る指が私の指先に触れた。
冷たい手袋越しでも、指の硬さが分かる。

「……っ」

息が漏れそうになって、飲み込む。

馬が走り出す。


裏門を抜ける瞬間、鐘が鳴った。

一つ。
二つ。
三つ。

夜の空気を割る音。
逃げる人間に貼られる“罪”の音。

「止めろ! 門を閉めろ!」

背後で叫ぶ声。
足音が増える。
金属が鳴る。

馬の蹄が石を叩き、火花が散る。
風が顔を打つ。
涙が勝手に滲むのに、寒いのか怖いのか、分からない。

レオンの腕が、私の身体ごと馬を制御する。
曲がるとき、私の肩が彼の胸に押しつけられて、鎧がきしむ。

「……ッ」

背後から、矢が飛んできた。
空気を裂く音。

レオンの腕が瞬間的に引き寄せ、私の身体が低く沈む。
矢は頭の上をかすめて、路地の壁に刺さった。

息が止まる。

「見張りがいる……!」

誰かの声。
それが、私を連れ戻すための声だと分かって、胃がねじれる。

レオンは路地へ馬を滑り込ませた。
市場の裏。夜更けでも、酒場の灯りが漏れている。
笑い声が、遠くで揺れている。

こんなふうに、世界は普通に回っているのに。
私は“聖女”として、世界の外に閉じ込められていた。

レオンの指が、私の肋のあたりに一瞬だけ触れた。
押さえる。痛みの場所を知っているみたいに。
その触れ方が、優しさなのか、機能確認なのか、分からない。
分からないのに、胸が跳ねる。


「右だ」

レオンが低く言う。

私は頷く暇もなく、馬が角を曲がった。
その拍子に身体が傾いて、レオンの腕がすぐに支える。
落ちない。
落とさない。

追手の足音が近い。
路地の石畳を蹴る音。鎧の金属音。犬の吠える声。

「……聖女は必ず取り戻せ!」

命令。
いつも聞いてきた、命令。

その言葉に、反射みたいに「はい」と言いそうになって——喉が締まる。

レオンの呼吸が背中に当たる。
速い。でも乱れていない。
私の背に回された腕だけが、少しだけ硬い。

逃げることが、彼にとって日常みたいに正確だった。
だからこそ、思う。
この人は、何を背負ってきたんだろう。


城門が見えた。

夜の門は、昼ほど厳しくない。それでも、灯りがある。見張りがいる。
追手が近い。門を閉められたら終わりだ。

レオンは馬の首を叩いて速度を上げた。
風が、耳を持っていく。

「止まれ!」

門番の怒号。

レオンは止まらない。
門の直前で、馬を横へずらす。
門の脇、修理用の足場——木組みの影へ。

馬が跳ぶ。
私は声も出せず、ただ歯を食いしばる。
次の瞬間、身体が浮いた。

木の柵を越え、土の斜面へ。
夜露の草が頬を濡らす。
背後で怒鳴り声と足音が入り混じる。
門の内側で灯りが乱れた。

レオンは馬を降り、私を抱え上げる。
その動きに迷いがない。
馬を手放すのも、迷いがない。
必要なものだけを選び取る手つき。

「走れるか」

また、問われる。

私は、頷く。
頷くしかない。

レオンは私の手首を取って、引いた。

握るのではなく、逃げないように“確かめる”ような掴み方。
痛くない。
でも、離れられない。


森に入ると、街の灯りが背後で小さくなる。

枝が顔をかすめ、土が靴を引く。
息が白い。
自分の呼吸がうるさい。

追手の気配は、まだ遠い。
けれど犬の声が、森の縁をなぞるように聞こえる。

「……犬、ですか」

掠れた声で言うと、レオンは短く頷いた。

「匂いを追わせてる」

私の身体は、神殿の香の匂いが染みついている。どこへ行っても、見つけられる。
その事実が、冷たい針みたいに刺さった。

レオンは立ち止まり、私を木の影へ押し入れる。

「ここ」

私が息を整える間もなく、彼は自分の外套を脱いで、地面に擦りつけた。
泥と草の匂いを擦り付ける。
そして、それを私の肩に掛けた。

香を潰すために。
私を隠すために。

言葉じゃなく、手が全部言っている。

追手の声が近づく。
犬の鼻を鳴らす音が、木々の隙間で生々しい。

レオンは私の前に立った。
剣を抜かない。抜けば光が出る。月明かりが刃に映る。
代わりに、短剣を逆手に持つ。
影のまま、殺意だけを固める。

私の喉が鳴りそうになって、息を止めた。

犬が、私たちの前を通り過ぎた。
一歩。二歩。三歩。

背後で、誰かが舌打ちをする。

「……こっちじゃないのか?」

「匂いが薄い。川へ向かったか」

レオンが、息を吐いた。
私の肩が、勝手に震える。

震えを隠そうとして、指先に力を入れた。

その瞬間、レオンの手が私の指先に触れた。
握らない。ただ、指を押さえる。
震えを止める、支点を作るみたいに。

手袋を外していた。さっき外套を私に掛けたとき、脱いだのだろう。
硬い指。剣だこの感触。なのに触れ方だけが、信じられないくらい慎重だった。

目が合う。
彼の目は、相変わらず冷たい。
でも、私の震えを見て、眉がほんの少しだけ動いた。

「……すまない」

それが、何に対しての謝罪なのか分からない。
怖がらせたことか。
巻き込んだことか。
それとも——もっと前の、別の誰かに対してか。

聞けなかった。
聞いたら、今夜の逃走が崩れる気がした。


夜明け前、森を抜けて、小さな村が見えた。

灯りは少ない。畑の匂い。家畜の匂い。
遠くの犬の声は、もう追手のものじゃない。

「リンデン村」

レオンがそれだけ言った。

村の外れ、壊れかけた小屋へ入る。
扉は軋む。中は埃だらけで、でも雨は凌げる。

レオンは火を起こし、水袋を開けた。
私の唇に水を当てる。その距離が近すぎて、私は目を逸らした。

「飲め」

命令みたいな声。
でも手は、溺れる人に浮き輪を渡すみたいに慎重だった。

水が喉を通る。
生きている、と思った。

生きているのに、神殿の外にいる。
それだけで、怖い。
怖いのに——少しだけ、胸が軽い。

私は火の揺らぎを見つめながら、喉の奥で言葉を探した。
訊けば、何かが崩れる気がした。

だから私は、何も言わないまま息を吐いて、目を閉じた。

暗闇が来た。


「……起きてるか」

呼びかけに、私は現実へ戻る。

リンデン村外れの小屋。
小さな火。
夜の虫の声。

レオンが、私のほうを見ている。
その視線が、見張りみたいで、でも檻みたいじゃない。

私は外套の端を握った。
握ると、布の皺が立つ。それが、今の私の生き方みたいで、少し笑いたくなる。

「……レオンさん、手」

彼の指先に、乾いた血がついていた。新しい傷じゃない。でも、今夜のもの。
言うと、レオンはわずかに眉をひそめて、手を引っ込めようとした。

隠す。
当たり前みたいに。

私は、無意識に前へ伸びた。触れてしまう前に、止まる。触れていいのか分からない。
触れたら、この距離が変わってしまう気がして。

レオンが、先に動いた。
私の手首を取って、引き寄せる。けれど強くはない。
“触れるなら、ここまでだ”と線を引くみたいに、私の指を自分の手の甲へ置いた。

固い皮膚。剣だこ。
温度。

「平気だ」

その言葉が、「大丈夫です」と違って聞こえた。
平気だ、と言いながら、平気じゃない痛みを隠している。
誰にも頼らない癖が、骨になっている人の言い方だ。

私は、息を吸って、訊きかけた。
どうして、そんなふうに生きるの。

代わりに、口から出たのは——別の疑問だった。

「……私を、連れ出したら。あなたは、処罰されるんでしょう?」

レオンは黙った。
火のほうへ視線を落とす。その横顔は、石みたいに硬い。

沈黙が長くなる。
私はその沈黙を、また“捨てられる前触れ”にしてしまいそうで、喉が痛い。

「……昔、守れなかった」

レオンが、ぽつりと呟いた。

それだけ。
主語がない。
誰を、とは言わない。

でも、その声は、刃じゃなく、傷の音だった。

火がぱち、と鳴って、影が揺れる。

レオンの唇が、もう一度だけ動いた。

「リアナ……」

名前。
初めて、彼の口から出た“誰かの名前”。

次の瞬間、レオンはそれを飲み込むみたいに口を閉ざし、立ち上がった。

「寝ろ。明けたら移動する」

背中を向ける。
私に見せるのは、鎧の硬さだけ。

でも、その背中が、今夜も私の前に立つのだと分かってしまう。

私は外套を胸まで引き上げ、微かに残る鉄の匂いを吸い込んだ。

リアナ、という名前だけが、胸の中で鳴り続けていた。

——次話「何もしなくていい朝」――小さな安らぎが、運命を変えていく。

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