——レオンが見つけた歴代聖女の日記を凛が読む。
レオンが、重い表情をしていた。
灯りの下で見るその顔は、いつもより影が濃い。
まるで、言葉にした瞬間に崩れてしまうものを、唇の裏で支えているみたいだった。
「……これだ」
机の上に置かれたのは、布で巻かれた束。
紐の結び目が、指の跡を残して固く締まっている。
紙の匂いがした。
乾いた埃と、少しだけ鉄の匂い。
古い本の匂いじゃない。
誰かの息が何度も染みた匂いだ。
私は、その束を両手で受け取った。
思ったより重い。
紙の重さじゃない。
積み重ねられた「黙っていた時間」の重さだ。
「……日記、ですよね」
そう言った自分の声が、やけに遠い。
レオンは頷くだけで、何も言わなかった。
ただ、私から視線を逸らさない。
逃げ道を塞ぐためじゃなくて。
落ちていく私を、見失わないために。
結び目をほどく指が、少し震えた。
「怖い?」と聞かれたら、違うと言いたかった。
でも怖いのは、日記の中身じゃない。
そこに書かれた“私”が、私を見返してくることだ。
布をめくる。
何冊もある。
革の背表紙、布張り、木の板。
焼け焦げた角、濡れて波打った紙、端が欠けたページ。
私は一番上の、小さな冊子を手に取った。
表紙に名前はない。
でも、触れた瞬間にわかる。
誰かが、これを握りしめて眠っていた。
胸の上に置いて、祈りみたいに。
息を吸う。
紙が擦れる音が、夜に響いた。
最初のページを、めくる。
字が、古い。
けれど読みづらくはない。
丁寧で、静かな筆跡だった。
『本日も祈りを捧げました。皆様が無事でありますように』
その下に、小さく添えられている。
『私は大丈夫です』
……胸が、きゅ、と縮んだ。
次の冊子。
今度は荒い字。
墨が跳ねて、行が曲がっている。
息を切らしながら書いたみたいに。
『熱が下がらない子がいる。今夜も持ちこたえさせる』
『私なら平気です』
別の一冊は、女の子の字に見えた。
丸くて、可愛い。
けれど、内容が可愛くない。
『兵が門の外に倒れていた。治癒を使った』
『これで誰かが救われるなら』
違う時代。
違う言葉遣い。
違う暮らしの匂い。
なのに、最後に置かれる言葉だけが、同じ形で並ぶ。
大丈夫です。
私なら平気です。
これで誰かが救われるなら。
ページをめくるたび、私は何度も同じ場所に戻される。
大神殿の白い廊下。
祈りの間。
「聖女は笑っていなさい」と言われた日。
私が、笑った日。
大丈夫です、と言って。
紙は、正直だった。
“正直”なのに、そこには嘘が書かれていた。
自分を守る嘘じゃない。
他人を安心させるための嘘。
自分の痛みを、見えない場所へ追いやる嘘。
ある日記には、震える線で書かれていた。
『指先が痺れて、箸を落とした』
『それでも私は大丈夫です』
別のページには、墨が滲んでいる。
涙か、雨か、血か。
『眠ると、声がする』
『私なら平気です』
もっと古い日記は、文字が少なかった。
一行ずつ。
息をするみたいに。
『今日も誰かが救われた』
『だから私は大丈夫』
……違う。
大丈夫じゃない。
その行間が、叫んでいる。
私は、胸の奥の何かが、ひび割れていく音を聞いた。
「私と同じ……」
声が、勝手に漏れた。
私が口癖みたいに言ってきた言葉。
誰かに求められた瞬間、すぐに差し出した言葉。
差し出せば褒められて、差し出さなければ困らせる言葉。
その言葉で、彼女たちは生きてきた。
その言葉で、彼女たちは消えていった。
手が震えて、ページの角をうまく掴めない。
文字が、滲んでいく。
目が悪くなったわけじゃない。
涙が、勝手に溢れてくる。
おかしい。
私は、自分のことではあまり泣けない。
「つらい」と言えない代わりに、「大丈夫」と言ってきた。
泣きたいときほど笑ってきた。
なのに。
この日記の中の彼女たちの「大丈夫」は、胸の底に刺さった。
私の身体に刺さったんじゃない。
私の“見ないふり”に刺さった。
さらにページを繰ると、季節の名前が変わっていく。
雪の記述の次は、砂嵐。
次は、海の塩。
次は、焦げた麦の匂い。
『祈りの光が弱い。夜が長い。怖い』
『それでも大丈夫です』
『腕が上がらない。治癒のあと、息が白い』
『私なら平気です』
『笑うと、唇が裂ける』
『これで誰かが救われるなら』
——どれも、助けを求める言葉のすぐ隣に、蓋をする言葉が置かれている。
蓋をして、鍵をかけて、笑って、祈って。
そうして“聖女”が出来上がっていく。
私はその仕組みの中で、何度も「大丈夫」を磨いた。
角を丸めて、血が見えないように布で包んで。
渡しやすい形にして、誰かの手のひらへ置いた。
あの人たちは、きっと、私より上手に嘘をついた。
私より長く、嘘で誰かを守った。
私より静かに、嘘で自分を壊した。
それが、誇らしいなんて思えない。
誇りなんかじゃない。
それは、ただの——孤独だ。
「……ごめんなさい」
小さく言っても、紙は返事をしない。
返事をしないことが、いちばん苦しい。
「ごめんなさい……気づいてあげられなくて……」
声が崩れた。
息がつかえて、喉が痛い。
私は日記を抱きしめた。
紙が折れるのも構わずに。
抱きしめたところで、彼女たちは戻らないのに。
でも、手放したら、二度と触れられない気がした。
泣き崩れた。
床に落ちた涙が、古い紙の匂いと混ざって、胸をえぐる。
「私……ずっと、自分だけが……って思ってた」
苦しいのは私だけだと。
つらいのは私だけだと。
だから、誰にも言えないのだと。
違った。
私の前に、何十人、何百人もの“私”がいた。
同じ役目、同じ言葉、同じ沈黙。
それを、私は知らないまま、同じ道を踏んでいた。
音がした。
椅子が引かれる音。
レオンが、私の隣に座った。
何も言わない。
肩に手を置くこともしない。
ただ、そこにいる。
その沈黙が、冷たくない。
壁じゃない。
床だ。
崩れた私を受け止める、動かない床。
私は泣きながら、日記の束を見た。
束の端から、一枚だけ紙片が覗いている。
誰かが挟んだ、しおり代わりの紙だ。
引き抜くと、短い文字が書かれていた。
震える字で。
でも、最後だけは整っている。
『いつか、誰かが嘘をやめてくれますように』
私は息を止めた。
この人は、知っていた。
自分の「大丈夫」が嘘だって。
嘘をつき続けることが、祈りじゃなくて、呪いになるって。
そのうえで、誰かに託した。
未来に。
知らない誰かに。
……私に。
涙が、また落ちた。
自分のためじゃない。
彼女たちのために、落ちた。
「凛」
レオンが、ようやく名前だけを呼んだ。
それだけで、胸の奥の糸が切れたみたいに、私は息を吐いた。
私は袖で目元を拭う。
拭っても、止まらない。
「レオン……私、嫌なんです」
声が掠れる。
それでも、言葉は止めない。
止めたら、また“いつもの嘘”に戻る。
「私が……私だけが耐えて、誰かが救われるならって」
「そうやって……自分を消して」
「それを、美談みたいにされるのが」
日記の束に、指をかける。
紙の角が、少し痛い。
その痛みが、今はありがたい。
「この人たち、みんな……私だった」
私の過去じゃない。
私の未来でもない。
私の“構造”だ。
役目を与えられて、言葉を選べなくなっていく構造。
優しさが、逃げ道を塞いでいく構造。
私は、膝の上で拳を握った。
震えが、指先に残っている。
「だから……もう、終わりにします」
レオンは何も言わない。
でも、隣で呼吸をしている。
私の言葉が、空中で消えないように、重しみたいに。
私は顔を上げた。
「この人たちのためにも……もう、『大丈夫』の嘘は終わりにする」
声はまだ泣き声だった。
でも、嘘じゃなかった。
——次話「命を削らない方法」――次の一手が、運命を動かす。