S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第14話: 歴代聖女の日記

第2アーク · 3,972文字 · draft

——レオンが旧修道院で発見したのは、百年分の「大丈夫です」だった。

「……大丈夫です」

(かす)れたインクが、闇の中でまだ濡れているみたいに見えた。
 石の冷たさより先に、その四文字が俺の喉を凍らせる。

指先が震えて、紙が鳴った。


夜明け前のリンデン村は、音が少ない。

家々の煙突から細い煙が上がる前。
 (にわとり)が鳴く前。
 寝息だけが世界を支えている時間だ。

俺は外套の留め具を静かに締め、扉の軋みを殺して外へ出た。
 背中のほうから、布が擦れる微かな音がした気がして、足を止める。

——起きたか。

振り返らない。
 振り返ったら、言わなきゃいけなくなる。
 “どこへ”と聞かれたら、嘘をつく。
 それだけは、したくない。

だから、黙って出る。
 俺の卑怯さは、今更だ。

(しも)を踏む音が、やけに大きい。
 昨夜の祭りの火の匂いが、まだ外套に残っている。

あんたは笑っていた。
 火の輪の中で、ちゃんと息をしていた。

——明日、見せたいもんがある。

口から出たのは、あの場で言える限界の言葉だった。
 本当は、“見せたい”じゃない。
 “見せなきゃいけない”かもしれない。

でも。

あんたの目が、またあの言葉を探しにいく前に。
 俺が先に、掴んでおきたかった。

「……」

息を吐くと白くなる。
 冷えた空気が肺に刺さって、頭が冴えた。

旧修道院(きゅうしゅうどういん)は、村から半刻ほど。
 子どもの頃、肝試しで近づいて、エルザに耳を引っ張られた場所だ。

“神の場所に近づくな”

あの言葉の裏に、何があったのか。
 今なら分かる。


森を抜けると、石の影が見えた。

崩れかけた尖塔(せんとう)
 (こけ)に覆われた壁。
 風が穴だらけの窓を通り抜けて、(うめ)くみたいな音を立てる。

鳥の声すら、遠い。

扉は半分落ちていた。
 中へ入ると、空気が変わる。
 湿った土と、古い木と、冷えた鉄の匂い。
 そして——紙が死ぬ匂い。

俺は足元の瓦礫(がれき)を避けながら進む。
 崩れた礼拝堂の奥。
 床の一部が、奇妙に沈んでいた。

昔、ここに地下室があると聞いたことがある。
 神官たちが“触れるな”と村に言い残した、(ふう)じられた場所だ。

膝をついて、石の隙間を探る。
 指先に、冷たい金具が当たった。

「……あった」

言葉は、石に吸われて消えた。

()びた輪を引く。
 重い。
 腕の筋が軋む。
 それでも引く。

ぎ、と鈍い音がして、床が口を開けた。
 下から、冷気が吹き上がる。

燭台(しょくだい)に火を入れ、階段を降りた。
 一段ごとに、木がきしむ。
 壁が近い。
 石が濡れている。
 (しずく)が、一定のリズムで落ちる。

地下は、崩れていた。
 天井の一部が落ち、土砂が半分を埋めている。
 それでも、奥に小さな部屋の形が残っていた。

その隅に。

(ほこり)を被った木箱があった。
 手のひら二つ分の大きさ。
 金具の留め具。
 そして、薄く残る聖印(せいいん)の刻印。

胸の奥が、嫌な音を立てた。
 ここまで来て、引き返せない。

俺は短剣を抜き、留め具の隙間に差し込む。
 木が鳴った。
 乾いた音だ。

——まるで、骨が折れるみたいな。

「……っ」

力を入れると、留め具が外れた。
 蓋が、ほんの少しだけ浮く。

その隙間から、古い紙の匂いが溢れ出した。

俺は息を止めて、箱を開けた。

中には、布に包まれた冊子が何冊も積まれていた。
 革表紙。
 布表紙。
 角が擦り切れ、背が割れかけている。
 それでも、丁寧に扱われてきた痕がある。

——誰かが、隠した。
 ——誰かが、守った。

誰から?

俺は一冊、手に取った。
 表紙に小さく書かれた文字。

《聖女日誌》

喉が鳴る。
 指が、紙に触れるのを拒むみたいに固い。

それでも、開いた。


最初のページ。
 文字は丸い。子どもみたいな筆跡だった。

第十五代聖女(せいじょ) ミレイユ 記】

「きょうは、はじめて“だいしんでん”のひとたちに、ほめられました。
  わたしは、やくにたてたみたいです。
  うれしいです。
  でも、すこしだけ、くらくらします。
  大丈夫です」

俺の指が止まる。

ページをめくる。

「きょうも、なおしました。
  まえより、くらくらします。
  でも、だいじょうぶです。
  わたしは、せいじょだから」

次のページも。
 次のページも。

大丈夫です。
 大丈夫です。
 大丈夫です。

文字が、(のろ)いみたいに増えていく。

もう一冊は、紙が黄ばみ、(ふち)が波打っていた。
 一頁(いちページ)目に、震えるほど古い日付がある。

第十代聖女(せいじょ) エリシア 記(約百年前)】

「本日、村より負傷者十六名。
  神官らは『まだ居る』と()かす。
  胸の内、息が浅い。
  だが聖女は、弱音を口にせぬものと教えられた。
  大丈夫です」

弱音を口にせぬもの。

教えられた。

俺は別の冊子を掴む。
 革の表紙。整った字。祈りの文句が並ぶ。

第十三代聖女(せいじょ) アナスタシア 記】

「本日、治癒儀式(ちゆぎしき)十二回。
  神官長より『よく耐えた』とお言葉を(たまわ)る。
  眩暈(めまい)と微熱。指先の冷え。
  しかし、聖女として当然の代価。
  大丈夫です」

当然。
 代価。
 大丈夫です。

紙の上で、息が整っている。
 整いすぎて、怖い。
 痛みが、文章に押し込められて見えない。

もう一冊。
 布表紙。文字が乱れている。滲んでいる。途中で何度も筆が止まった跡。

第十八代聖女(せいじょ) サラ 記】

「今日、(せき)が止まらない。
  血が少し出た。
  布で(ぬぐ)ったら赤い。
  神官様は『祈りが足りない』と言った。
  私は頷いた。
  大丈夫です」

頷いた。
 頷いた、と書いてある。
 それだけで、胸が焼ける。

紙の端に、小さな字が残っていた。
 押し殺したみたいな走り書き。

「ほんとは、こわい」

その次の行。

「でも、大丈夫です」

俺はページを閉じて、息を吐いた。
 吐いたはずなのに、肺が苦しい。

……百年分。

箱の中には、まだ何冊もある。
 重なった背表紙が、俺を見ている。
 見ろ、と言っている。
 逃げるな、と言っている。

指が勝手に、次の一冊を引き出した。

黒い革。角が擦り切れて、手垢(てあか)が残っている。
 ——知っている。
 この匂いを。
 この紙の厚さを。

喉が、きゅっと縮む。

第二十代聖女(せいじょ) リアナ 記】

「レオンは、今日も黙っていた。
  でも、私が立ち上がるときだけ、手が伸びる。
  あの手は優しい。
  優しいのに、私は怖い。
  優しい手まで、神殿に汚される気がするから」

視界が揺れた。
 燭台の火が、滲んで二つになる。

次のページ。

「今日、倒れた。
  起き上がった。
  『大丈夫です』と言った。
  レオンが(まゆ)を寄せた。
  だから、笑った。
  笑ったら、もっと大丈夫になれる気がした」

笑ったら、大丈夫になれる。
 そんなわけがない。
 そんなの——

指先が、紙を掴んで(しわ)を作った。
 破りそうになって、慌てて力を抜く。

壊すな。
 これを壊したら、あいつが本当に消える。

ページの奥のほうは、文字が少ない。
 線が細い。
 力がない。

「息が、苦しい。
  でも、まだ祈れる。
  まだ治せる。
  大丈夫です」

「手が冷たい。
  でも、レオンが外套(がいとう)をかけてくれた。
  あったかい。
  大丈夫です」

「今日は、星がきれいだった。
  神殿の窓は高いから、空が小さい。
  それでも、光は届く。
  大丈夫です」

最後のページ。
 日付の欄が空白になっている。
 文字が、震えている。

「——大丈夫です」

たったそれだけ。

俺の手が、止まった。
 指が、勝手に紙を()でる。
 撫でても、温度は戻らない。
 戻らないのに、胸の奥だけが熱い。

「……っ」

声にならなかった。
 喉の奥で、鉄の味がした。

怒りが、遅れて来る。
 熱いのに冷たい。
 腹の底から、静かに湧いて、全身の骨を()む。

“聖女は尊い”
 “国のため”
 “神の御心(みこころ)

そう言えば、誰もが頷く。
 頷かせるために、こういう言葉が作られた。

そして、聖女たちは——頷いた。
 日記の中でまで、頷き続けた。
 最期の最期まで、“大丈夫です”で自分を縛った。

俺は、噛みしめていた歯を緩めないまま、息を吐いた。
 吐くたびに、胸が痛い。

剣の(つか)に手が伸びる。
 抜いたって、ここには誰もいない。
 斬ったって、遅い。

それでも、手が伸びる。

——壊したい。
 ——全部。
 ——あの場所も、あの連中も、あの仕組みも。

でも、俺が欲しいのは破壊じゃない。
 あんたが、もう「大丈夫です」と言わなくていい世界だ。

そのために、これは必要だ。
 証拠だ。
 声だ。
 百年分の、押し殺された叫びだ。

「……持って帰る」

箱に戻すとき、手がまた震えた。
 布で丁寧に包み直し、蓋を閉める。
 留め具はもう壊れている。
 だから外套の内側に、箱を抱え込むように押し当てた。

心臓の音が、箱の木に伝わる。
 まるで、死んだ紙に血を流しているみたいだった。


地上へ戻る階段が、やけに長い。

冷気が背中にまとわりつく。
 滴の音が追ってくる。
 俺の足音に重なって、誰かの足音みたいに聞こえた。

——聖女。
 ——大丈夫です。

耳の奥で、何度も繰り返される。

地上に出ると、朝の光が眩しかった。
 森の匂いがする。
 生きている匂いだ。

旧修道院(きゅうしゅうどういん)の影を背に、村への道を歩く。
 霜の上に、俺の足跡が増えていく。

遠くで、誰かが笑った気がした。
 祭りの残り香みたいな、あんたの笑い声。

胸の奥が、きしむ。
 ——見せたいもんがある。
 昨日、そう言った。

でも、これは。

今のあんたに見せたら、またあんたは頷く。
 「私も大丈夫です」って、彼女たちの隣へ座ろうとする。
 そういう顔を、あんたはする。

だから。

「……まだだ」

俺は箱を抱える腕に、力を込めた。
 木がきゅ、と鳴る。

これは、あんたのための(やいば)になる。
 けど、今、あんたを傷つける刃にもなる。

俺は、まだ。
 あんたの涙を、これで引き出したくない。

村の屋根が見えた。
 煙が上がり始めている。
 朝が動き出している。

俺は歩幅を変えずに、ただ決める。

——あんたが「大丈夫です」と言いかけた、その瞬間に。
 ——俺は、この箱を開ける。
 ——百年分の嘘を、あんたの前で終わらせる。

その日のために。
 今は、隠す。

——次話「あの人たちも私だった」――次の一手が、運命を動かす。

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