——村の祭りの夜。
火の輪の中に、私の名前が落ちてきた。
「凛ちゃん、こっち!」
逃げるはずの足が、今夜は——笑い声のほうへ引っ張られる。
あの夜の足音は、ミラの熱が下がったと聞きつけた村の女たちだった。
鍋を抱えた隣家のおばさんと、毛布を持ったハンスさん。
レオンが張り詰めた肩を降ろすのを見て、私はやっと、息を吐けた。
それから何日かが過ぎて——
リンデン村の冬至祭は、夕暮れの匂いから始まった。
畑の土の湿り気が、昼のあたたかさを少しだけ残していて。
そこへ、焼いた麦と甘い果実酒の香りが混ざる。
薪の煙が髪に絡んで、頬の冷たさがほどけていく。
広場の真ん中には、大きな篝火。
炎が揺れるたび、村人たちの影が踊った。
太鼓の音が、心臓のリズムと重なる。
笛の高い音が、空の青を夜へ塗り替える。
笑い声が、あちこちで弾けて、足元の土まで柔らかくなる。
私は広場の端に立って、外套の襟を指でつまんだ。
熱に近づきすぎたら、焦げてしまう気がして。
でも離れすぎたら、今度は、また凍えてしまう気がして。
「凛ちゃん、寒くないかい?」
エルザさんが、籠から丸いパンを取り出しながら言った。
焼きたての表面が、火の光でつやつやしている。
「だ、大丈夫です。……あ、いえ。ありがとうございます」
いつもの言葉が喉まで来て、少しだけ形を変えて落ちた。
それだけで胸が騒いで、私は自分の手を見つめる。
手の甲が、いつもより白くない。
この村に来てから、血の色が少し戻ってきたのだと思った。
「無理して端っこで固まってなくていいんだよ」
そう言って、エルザさんは私の肩をぽん、と叩く。
叩く力は弱いのに、言葉は強い。
“許可”じゃない。
“命令”でもない。
ただ、当たり前みたいに、私を輪の中へ戻そうとする手だ。
私は口を開いた。
「でも——」と言いかけて、声が消える。
理由を探す癖が、まだ残っている。
すると。
背中のほうから、子どもの手が二つ、三つ。
私の袖を掴んだ。
「凛ちゃん、踊ろう!」
「ねえ、凛ちゃんも!」
子どもたちの目は、篝火みたいにまっすぐで。
断り方を知らない目をしていた。
「え……わ、私……」
足がすくむ。
祭りの輪に入ることなんて、大神殿では一度もなかった。
聖女は“見られる側”で、“混ざる側”じゃない。
混ざってしまったら、汚れる。
汚れたら、役に立たなくなる。
そう教え込まれた。
でも、掴まれた袖は、優しかった。
引く力が、強引じゃない。
「おいで」と言っているだけ。
私が迷っている間にも、太鼓の音は止まらない。
笛の音も止まらない。
世界は私の許可を待たないのに、置いていかない。
「凛ちゃん、楽しんでおいで」
エルザさんが、笑う。
その笑い方は、私の“頑張り”に褒美をくれる笑いじゃない。
ただ、今夜の火を一緒に見るための笑いだ。
——楽しむ。
その言葉が、怖い。
でも、少しだけ、羨ましい。
私は小さく息を吸って、頷いた。
頷き方が、自分でも驚くほど遅かった。
「……少しだけ。少しだけ、なら」
その途端、子どもたちが「やった!」と叫んで、私の手を引いた。
熱の輪の中へ。
笑い声の渦の中へ。
輪の中は、思っていたより足元が安定していた。
誰かの肩がぶつかる。
誰かの掌が一瞬触れる。
でも、それは押しのける触れ方じゃなくて、支える触れ方だ。
「こう、こう!」
子どもが真似をして見せる。
右、左、くるり。
周りの大人たちが笑って、同じ動きを繰り返した。
私は動きを覚えるのが遅い。
でも遅いからといって、誰もため息をつかない。
誰も「迷惑」と言わない。
「凛ちゃん、上手上手」
上手じゃない。
ただ、間違えただけ。
なのに、その言葉は嘘じゃなくて。
“今ここにいる私”を、丸ごと肯定してしまう。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
笑っていいのか分からなくて、唇の形が迷子になる。
それでも。
太鼓の音に背中を押されて。
火の光に頬を撫でられて。
私は、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑った。
大神殿では一度もできなかった笑い方で。
「——」
輪の外。
火の光が届くぎりぎりの場所に、黒い影があった。
レオン。
腕を組んで、いつもの無表情で立っている。
でも、私が見た瞬間。
ほんのわずかに、目が細くなった気がした。
——気のせいじゃない。
彼の口元が、ほんの少しだけ緩んで。
それを誤魔化すみたいに、視線が空へ逸れていく。
胸の奥で、何かがふわりとほどけた。
私はもう一度、笑ってしまう。
笑ったせいで、目の奥が熱くなって。
慌てて瞬きをして、涙を落とさないようにした。
“ここで泣いたら、台無しだ”
そう思ったのに。
その思い方が、どこか懐かしくて、可笑しくて。
私は笑いながら、ちゃんと息を吐いた。
許可を取らずに。
怒られる心配をせずに。
祭りがひと段落すると、輪は自然にほどけていった。
皆がそれぞれに、肉の串を手にしたり、酒杯を回したり、子どもを膝に乗せたりする。
篝火の前は、座れる場所が増える。
木の丸太が並べられて、そこに人が腰を下ろす。
私は熱のそばに座るのが怖くて、少し離れた丸太を選んだ。
すると、隣の影が静かに落ちる。
レオンが、何も言わずに腰を下ろした。
近い。
近いのに、息が苦しくならない距離。
彼の外套の端が、私の袖に触れた。
その触れ方も、さっきの輪と同じ——支える触れ方だった。
レオンは、串を一本、私のほうへ差し出した。
焼いた芋に、塩がきらきらしている。
「……食え」
たった二音の命令形なのに、怖くない。
むしろ、頼られているみたいで、胸が少しだけ軽くなる。
「……いただきます」
私は受け取って、一口。
熱い。甘い。
土の味がするのに、幸せの味がする。
「……踊ってたな」
ぽつり、とレオンが言った。
褒めているのか、確認しているのか分からない声。
私は口の中の芋を飲み込んで、頷く。
「はい。……手を引かれて、気づいたら」
気づいたら笑っていて。
気づいたら、名前を呼ばれていて。
言葉にすると壊れそうで、私は視線を炎へ逃がした。
炎は、空へ伸びながら、何度も形を変える。
形を変えても、火であることは変わらない。
私は、何にでもなってきた。
聖女。
道具。
国の宝。
役に立つ人形。
でも、今夜の私は。
ただ、凛ちゃん、と呼ばれている。
その事実が、胸の奥を静かに満たしていく。
満たされるのが怖いのに、離したくない。
私は息を吸って、言葉を探した。
いつもの台詞じゃない言葉。
謝罪でも、報告でも、祈りでもない言葉。
「……レオンさん」
呼びかけると、レオンの視線が一瞬だけこちらへ向く。
炎の光が、その灰青の瞳に揺れた。
私の喉がきゅっと鳴る。
言っていいのか分からない。
言ったら、また奪われる気がする。
でも、言わなかったら、私の中に閉じ込めたままだ。
「……ここにいてもいいんでしょうか」
声が震えた。
自分で自分が情けなくなるくらい、小さな声。
レオンはすぐには答えなかった。
一度、炎を見つめる。
それから、まるで決めていたみたいに、短く言った。
「ここが、あんたの場所だ」
胸の奥の、固いところが音を立てて割れた。
“場所”。
役割じゃない。
檻じゃない。
戻らなきゃいけない場所じゃない。
居ていい、と言われた場所。
私は息を呑んで、視界が滲むのを感じた。
でも今夜は、無理に止めなかった。
落ちてもいい。
落ちても、誰も怒らない。
誰も「迷惑」と言わない。
「……ありがとう、ございます」
言った瞬間、私は自分の言葉が少し遠い気がして。
首を振った。
違う。
今の私は、もっと短い言葉でいい。
「……ありがとう。レオン」
“さん”が落ちた。
落ちたのに、怖くない。
むしろ、胸の奥にすとん、と収まる。
レオンの肩が、ほんのわずかに揺れた。
驚いたのか、照れたのか。
彼はいつものように視線を逸らして、短く息を吐いた。
「……ああ」
それだけ。
それだけで、十分だった。
篝火がぱちり、と音を立てて弾ける。
火の粉が星みたいに舞って、夜空へ消えた。
私は炎を見ながら、心の中でそっと呟く。
——帰る場所が、できた。
宴が終わる頃、広場は静かに片づけの音に変わっていった。
子どもたちは眠そうに瞼を擦り、大人たちは笑いながら残った串を分け合う。
エルザさんは「ほら凛ちゃん、冷えるよ」と私の肩に毛布をかけてくれて、何も言わずにレオンのほうを見た。
レオンは咳払いをひとつして、私の歩幅に合わせて歩き出す。
その歩幅が、今夜は少しだけ、ゆっくりだった。
家の前まで来たとき、レオンが立ち止まる。
「……明日」
その一言だけで、胸がざわついた。
“明日”は、今まで何度も私を縛った言葉だ。
明日も治癒。
明日も祈り。
明日も、頑張る。
でも今、レオンの声は違う。
「……見せたいもんがある」
言い終えた瞬間、彼はまた視線を逸らした。
照れたみたいに、言葉が途切れる。
私は毛布の端を握って、頷く。
「……はい。楽しみに、しています」
言ってから気づく。
“楽しみ”なんて言葉を、自分が使えるなんて。
レオンは何も答えず、ただ踵を返した。
闇へ溶けていく背中に、祭りの火の匂いがまだ残っている。
私は戸を閉める前に、もう一度だけ夜空を見上げた。
煙の向こう、星がたくさん瞬いている。
その下で、私は今夜、ちゃんとここにいた。
そして明日——レオンが見せたいと言った“何か”が、私の知らない扉を開ける気がした。
——次話「歴代聖女の日記」――隠してきた真実が、扉を開く。