S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第12話: あの子を思い出す

第1アーク · 4,037文字 · draft

——村の少女が高熱で倒れる。

「凛ちゃん! ミラが……ミラが倒れたんだ!」

戸を叩く音が、冬の静けさを割った。

私は手にしていた木の器を落としそうになって、両手で抱え直す。胸の奥が、ひゅっと縮む。倒れた。熱。子ども。言葉が繋がるより先に、身体が動こうとして——

止まった。

もし、また——。

お願い、治して。聖女様なら。そう言われて、光を出して、命を削って。誰かのためにと笑って、倒れても「大丈夫です」と言って。

——代わりは?

あの声が、耳の内側に残っている。

「凛ちゃん!」

戸の外の男の声は切実で、嘘がない。私の足は一歩、前へ出た。けれどその一歩の先で、膝がふるえた。

私はまた、使われるのが怖い。

いや、もっと正確に言うなら——「使われても、断れない自分」が怖い。

戸の影が伸びて、黒い騎士服の肩が見えた。

「……行くのか」

レオンの短い声。責めるでも、急かすでもない。ただ、事実を置くみたいな声。

私は息を吸って、頷きかけて——そこで、台所の奥から、ゆっくりと足音がした。

「凛ちゃん」

エルザさんの声は、鍋の湯気みたいに温かかった。

「嫌なら、断っていいんだよ」

その一言が、私の中の縄をほどいた。

断っていい。
 断っていい、のに。

私はこれまで、断ったことがない。断るという選択肢そのものが、なかった。神殿では「できません」は罪で、「休みたい」は傲慢だった。前世でも同じだ。代わりはいるのに、代わりになってしまう癖だけが、私に残った。

だから今、胸が痛い。

断っていいと言われたのに、私は——

「……行きます」

口から出たのは、反射みたいな言葉だった。すぐに喉の奥が冷える。違う。違う、これじゃ——

私は自分の指を握り込んだ。爪が掌に食い込む痛みで、今ここに戻る。

「……違います」

声が揺れる。怖い。けれど、言わなきゃ。

「……お願いされたからじゃなくて」

私は、戸の向こうの声を待つ人へじゃない。
 誰かの命令へじゃない。
 自分の胸へ向かって、言った。

「……私が、助けたいです」

その瞬間、息が通った。

レオンが、ほんの少しだけ目を細めた。エルザさんは、何も言わずに私の背中を一度、ぽんと叩く。

「ほら、行っといで。凛ちゃんが“そうしたい”ならね」


ミラの家は村の端、薪小屋の隣にあった。

中に入った瞬間、熱と汗と、焦げた薬草の匂いが混ざって鼻を刺す。寝台の上で小さな身体が震えている。頬が赤いのに、唇は乾いて白い。

「お願い、凛ちゃん……! ミラが、朝からずっと……!」

母親が私の手を掴んだ。その手も冷えている。

私は反射で「大丈夫です」と言いかけて、飲み込む。今は、嘘をつかない。

「……見せてください」

私は寝台の脇に膝をつき、ミラの額に触れた。

熱い。呼吸が浅く、速い。胸の上下が小さく刻まれている。咳は——今は出ていないけれど、喉がひゅう、と鳴っている。寒気で縮こまった手足。汗で濡れた髪。目は開かない。

私の中で、前世の病室が重なった。

白い天井。小さな手。熱で焦点の合わない瞳。
 あの子の名前を呼んでも、返事が薄くなっていった夜。

私は目を閉じて、息を吐く。
 ここは神殿じゃない。私は命令されていない。今、私は——自分で選んでここにいる。

「凛ちゃん、治癒を……」

誰かが、言いかけた。母親だ。縋る声。

胸の奥が、きゅっと痛む。治せる。光を出せば、たぶん熱は引く。けれど、その代わりに私が削れる。——それだけじゃない。魔法は“全部”を奪ってしまう。家族が、自分たちで守る力を持つ機会を。

私は首を横に振った。ゆっくり、はっきりと。

「……今日は、魔法は使いません」

母親の目が大きく揺れた。拒絶に見える。怖い。嫌われる。必要とされなくなる。——その恐怖が、私の喉を締める。

でも私は、言い直した。

「使わない、じゃなくて……私が、別の方法で助けたいんです」

指先が震える。けれど、その震えは逃げたい震えじゃない。踏ん張る震えだ。

「手を洗ってください。桶に湯を。布は……煮て、清潔に。部屋は少し、空気を入れ替えましょう」

「え、煮るのかい?」

(きん)……悪い小さいものが、布に残ります。熱で、殺せます」

説明がこの世界の言葉になっているか不安で、でも止まらない。私は水を沸かす鍋を指さし、母親に塩と蜂蜜を頼んだ。

「ぬるい湯に、ほんの少しの塩と、蜂蜜を溶かして。少しずつ飲ませます。喉が乾いているから」

「凛ちゃん、こんなときに甘いものを……」

「今は、身体の水を戻すほうが大事です。吐いたら中止。無理に飲ませないで、唇を濡らすだけでも」

私はミラの身体を横向きにする。嘔吐したとき、喉に詰まらないように。背中に丸めた布を当て、呼吸が楽になる姿勢を作る。

自分の手が、自然に動くのがわかった。

私の“聖女”じゃない手。
 柊木(ひいらぎ)凛の手。

「……レオンさん」

戸口に立った影へ、声を投げる。まだ呼び方が揺れるけれど、今はそれでいい。

「薬草を煮るなら、薪が要ります。あと、雪を——外の雪を少し、布に包んで持ってきてください。熱が高いので、脇と首を冷やします」

レオンは一度頷いただけで、すぐに外へ出た。

——言い訳しないで動いてくれる。
 そのことが、胸の奥を静かに温めた。

私はミラの額の汗を拭き、乾いた唇を濡らし、呼吸の音を聞き続ける。

夜が深くなるにつれて、家の中の音は減った。

鍋の湯の沸く音。薪が爆ぜる音。布の擦れる音。
 その合間に、ミラの苦しそうな息。

私は何度も思った。
 魔法なら、早いのに。

でも、早さだけが救いじゃない。
 私はここで、奪うんじゃなく、手渡したい。命令じゃなく、意思で。自分の寿命を差し出すんじゃなく、知識と手で。

その選択を、私は自分で肯定したかった。


夜明け前、ミラの呼吸が変わった。

浅く刻んでいた息が、少しずつ長くなる。喉のひゅう、という音が弱まる。汗が増えて、熱が身体の外へ逃げているのがわかる。

私は布を替え、濡れた髪を結び直し、首筋を拭いた。

そのとき。

ミラのまつげが震えた。

「……みず……」

かすれた声。生きている声。

私は慌てず、でも胸の奥で何かが弾けるのを感じながら、塩と蜂蜜の湯を小さな匙で唇に触れさせた。

「少しずつ。……うん、上手」

口から出たのは、看護師の頃の癖みたいな褒め方だった。

ミラは苦しそうに眉を寄せながらも、少しだけ飲み込む。喉が動く。胸が上下する。

母親が、声にならない声を漏らして私の肩にしがみついた。

「凛ちゃん……!」

「……まだ油断はできません。でも、山は越えました」

私はそう言って、初めて、頬が熱くなった。泣きそうになるのを堪える。今は、やることがある。

ミラの目が、ゆっくり開いた。
 焦点の合わない瞳が、私の顔を探して——見つけた瞬間、小さな手が私の指を掴んだ。

「……りん……ねえちゃん……」

その呼び方に、胸の奥が痛くなる。
 聖女様、じゃない。
 役割、じゃない。
 私が、ここにいる“私”のまま。

ミラは掠れた声で、息を整えながら言った。

「……ありがとう」

たったそれだけ。
 なのに、その二文字は、今まで聞いてきたどんな「ありがとう」と違っていた。

神殿で浴びせられた「ありがとう」は、次の命令の前置きだった。
 前世で言われた「ありがとう」は、次の夜勤の依頼の合図だった。

でも今の「ありがとう」は、何も要求していない。
 ただ、私の手がそこにあったことを、受け取っている。

私は、息ができなくなった。

胸の奥の硬いものが、ゆっくり、ひび割れていく。

——間に合った。

その言葉が、遅れて降りてきた。

私は笑おうとして、唇が震えた。

「……よかった」

声が掠れる。涙が滲む。ミラは弱々しく笑って、また眠りに落ちた。今度は、穏やかな寝息だ。

母親が何度も頭を下げる。私はそれを止めることができなかった。ただ、手を握って、頷いた。

ありがとう、が。
 私の中に、落ちた。


静かになった部屋の隅で、私は壁に背を預けた。

熱い湯気の匂いが、前世の病院の消毒の匂いに変わる。
 白い天井が、見える気がする。

あの子は、七歳だった。
 肺炎(はいえん)が悪化して、呼吸が苦しくて、酸素の管をつけても、顔色が戻らなかった。

私は夜勤で、ベッドの横にいた。
 小さな手が、私の指を探して、握ってきた。

『ねえ、りんさん。ぼく、なおる?』

私は、笑って言った。
『大丈夫だよ。先生も、みんなも、いるからね』

本当は怖かった。
 呼吸の音が、すでに“危ない音”だったから。
 もっと早く気づいていたら。もっと早く、医師に強く伝えていたら。もっと早く、親御さんに——。

でも私は、優しい嘘を選んだ。
 自分が泣かないために。
 子どもが怖がらないように、という言い訳を持って。

朝、交代の看護師が来た頃には、その子の手は冷たくなっていた。

『ありがとうございました』

泣きながら言う母親に、私はただ頭を下げた。
 ありがとう、を受け取れなかった。
 受け取ったら、私の中の罪が暴れてしまうから。

——あの子は、もう戻らない。
 私がどれだけ悔いても、やり直せない。

だからずっと、私は「助ける」ことでしか生きられなかった。
 救えなかった穴を、別の誰かで埋めようとして。
 埋まらないのに。

でも。

今、ミラは生きている。
 私が命を削ったからじゃない。
 私が自分で選んで、手を伸ばしたから。

この違いが、胸を焼いた。

ごめんね。
 間に合わなくて、ごめんね。

それでも——

「……今回は、間に合ったよ」

誰に言うでもない声が、床に落ちた。

次の瞬間、堪えていたものが溢れた。

声を殺して、涙だけが頬を伝う。熱い。痛い。苦しい。なのに、どこか、救われるような痛みだった。

背中に、そっと重みが触れた。

レオンの手だ。大きくて、無言で、逃げ道を塞がない手。

「……泣け」

短い言葉。命令じゃない。
 許可でもない。
 ただ、隣にいるという宣言みたいだった。

私は小さく頷いて、涙を続けた。

そのとき、外で——硬い音がした。

雪を踏む、複数の足音。
 規則正しく、迷いのない歩幅。

レオンの手が、背中で止まる。
 呼吸が変わるのがわかった。

「……来た」

私の涙が、喉の奥で凍りついた。

——次話「居場所」――小さな安らぎが、運命を変えていく。

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