S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第11話: 庭の小さな花壇

第1アーク · 3,486文字 · draft

——凛が初めて自分のやりたいことを見つける。

頼まれてもいないのに、私の手は土を掘っていた。

それが、怖いはずなのに……胸の奥が、くすぐったい。

庭の隅で見つけた薬草(やくそう)の匂いが、私を呼んだのだ。

エルザさんの家の裏庭は、思っていたより広かった。
 雑草交じりの地面に踏み固められた小道、低い果樹が何本か。奥で小川が細く流れる音がして、風が枝を揺らした。

私は、いつものように歩幅を小さくして、庭の端へ端へと逃げるみたいに歩いていた。
 誰かに見つかったら、何か言われるかもしれない。
 そうしたら、私はきっと「はい」と答えてしまうから。

けれど、今日は違った。
 違うと気づいたのは、足が止まったときだ。

低い(かき)の向こうに、整然と並んだ緑がある。
 野菜でも花でもない、少し尖った葉、丸い葉、銀色がかった葉。
 そして、土の匂いに混じって——私の記憶が、ひり、と疼いた。

「……カモミール……?」

口から出た言葉に、私自身が驚く。
 前の人生で、夜勤の休憩室に置いてあったティーバッグ。眠れない患者さんの枕元に、こっそり置いた香り。あの、甘くて草っぽい匂い。

私は垣を回り、薬草畑の中へ足を踏み入れた。
 許可を取る声が、喉の奥で形になりかけて——消えた。
 誰も、いない。
 誰も、私に「そこは入るな」と言わない。

しゃがむと、土の色が濃い。
 冬を越えた株がいくつもあって、その間に小さな芽が顔を出している。

指先が勝手に動く。
 葉に触れて、茎を確かめて、匂いを嗅ぐ。

これは、ラベンダーに似ている。鎮静、安眠……。
 これは、カレンデュラ。傷の手当、軟膏(なんこう)……。
 これは、ミント。胃の不快感、吐き気……。

知っている。
 覚えている。
 私は、ずっと他人の痛みのために覚えた。
 でも——今、胸の奥で跳ねるのは「役に立てる」じゃない。

ただ、懐かしい。
 そして、嬉しい。

薬草畑の端に、空いた場所があった。
 土だけが広がって、何も植わっていない。
 そこを見た瞬間、頭の中にひとつの形が浮かぶ。

円。
 小さな円を作って、真ん中に背の低い花を植える。
 周りを薬草で囲って、香りで守るみたいに。

私の両手が、もう土を掘りはじめていた。
 スコップなんてなくてもいい。指で、爪で、土を崩す。
 石が出てくれば避けて、固いところは少し湿らせる。

息が白い。
 でも、頬が熱い。

私は、何をしているのだろう。
 誰にも頼まれていない。
 命令も、祈願も、治癒(ちゆ)の依頼もない。

それなのに——止められない。


土を整えていると、背後で足音がした。
 重いのに静かな歩幅。土を踏んでも、音が暴れない。

振り返らなくても分かる。
 レオンだ。

私は、反射で立ち上がりかけて、膝を押さえて止まった。
 立ち上がったら、きっと言ってしまうから。
 「すみません、勝手に……」と。
 そして、やめてしまう。

レオンは私の横に来て、何も言わずにしゃがんだ。
 視線は、私が掘りかけた土の輪に落ちている。
 眉がほんの少し動いた。怒っているのか、分からない。

「……何をしてる」

短い問い。
 責める音ではなかった。ただ、確認するみたいな低さ。

私は土のついた指先を握りしめて、言葉を探す。
 説明をしようとすると、いつもの癖が首を出す。
 役に立つ理由。許される理由。褒められる理由。

でも、今の私は——

「……花壇(かだん)、作りたくて」

声が、少しだけ震えた。
 “作っていいですか”ではない。
 “作りたい”だ。
 自分の口から出たその形に、胸がきゅっと縮む。

レオンは一度、瞬きをした。
 それから、手袋を外して、土の中の石を拾い始めた。
 大きいものだけ、無言で。
 拾っては脇へ置く。拾っては置く。
 私の輪が崩れないように、指の先がすごく丁寧だった。

私は、それが不思議で、怖くて、でも嬉しくて。
 喉の奥が熱くなった。

「……薬草の……匂いが」

言いかけて、言葉が詰まる。
 “前の人生で”という一言が、いつも私の中でひっかかる。
 ここでそれを言っていいのか、分からない。

レオンは、石をひとつ置きながら言った。

「分かる。……落ち着く匂いだ」

それだけ。
 理解したふりじゃない。
 私の言葉を急がせない、待ち方。

私は息を吐いて、続けた。

「……これ、カモミールに似てる。眠れないとき……助けになる」
 「こっちは、傷の……」

言いながら、自分が“教える”側に立っていることに気づく。
 教えろと言われたわけでもないのに。
 役割じゃないのに。

私は、薬草の苗をそっと掘り起こして、空いた場所の外側へ移した。
 根が細い。切らないように、土ごと抱える。

レオンが、私の指先の動きを見ている。
 何かを盗むみたいに見るのではなく、ただ、目を離さない。

その視線が、背中をあたためた。

私は小さな花の苗を探して、畑の隅に生えていた白い花を選んだ。
 名前は知らない。
 でも、花びらが薄くて、光を抱くみたいだった。

輪の中心に、穴を掘る。
 土の中は少し冷たくて、湿っていて、生きている。

苗を置き、土を寄せる。
 手のひらで、そっと押さえる。

その瞬間、治癒(ちゆ)魔法(まほう)が、指先に集まった。
 いつもなら、誰かの傷口に向けて流れる光。
 今は、根に向かって、あたたかく染みていく。

——違う。
 これは、命令じゃない。
 誰かを救うためじゃない。
 私が、この苗をここに根づかせたいから。

光は淡く、すぐ消えた。
 それで十分だと、なぜか思えた。

レオンが、ふ、と息を吐く音がした。
 笑ったのかもしれない。声にはならないくらいの。

「……上手いな」

褒められた、というより。
 私の手の動きが、ここにあっていいと言われた気がした。

私は、土を払う。
 手は汚れている。爪の間に黒い線が入っている。
 神殿なら、すぐ叱られた。
 “聖女様の手が汚れる”と。

でも今、汚れが誇らしい。
 自分がここに触れた証拠みたいで。

「……楽しい」

言ってから、慌てて口を押さえそうになる。
 楽しいなんて、口にしていいの?
 そんな言葉、私は持っていなかったはずなのに。

レオンは石を片づける手を止めないまま、低く言った。

「それでいい」

その四文字が、胸の奥の固いところを、静かにほどいた。

私は、もう一度、花壇を見た。
 小さな円。中心の白。周りの緑。香りの壁。
 まだ整っていない。雑で、(いびつ)で、土もこぼれている。

でも——
 私が作った。
 頼まれたわけじゃないのに。

「これ、頼まれたわけじゃないのに……楽しい」

今度は、ちゃんと声に出した。
 言葉が風にさらわれていく。
 消えるのに、怖くない。

レオンが、拾った石を最後にひとつ置き、立ち上がった。
 そして、自分の水筒を差し出してきた。

「飲め。……手、冷えてる」

私が受け取ろうとすると、レオンは視線を逸らしたまま、ほんの少しだけ距離を詰めた。
 指が触れないぎりぎり。
 触れたら何かが変わると分かっていて、変えないようにする、ぎりぎり。

水筒はあたたかかった。
 喉を通る白湯(さゆ)が、身体の内側に灯をつける。

私は返そうとして、気づく。
 レオンの手袋が、私の横に置かれている。
 外したまま、土で汚れてもいいと言っているみたいに。

私は小さく首を振った。
 自分に言い聞かせるみたいに。

大丈夫。
 汚れても、いい。
 楽しくても、いい。

花壇を仕上げる間、私たちはほとんど話さなかった。
 でも沈黙(ちんもく)は、大神殿(だいしんでん)のそれと違う。
 縛る沈黙じゃない。
 隣に置かれている沈黙だ。

土をならす音。
 葉を揺らす風。
 水を()くときの、ぽとり、という音。
 その全部が、私の心臓のリズムと重なっていく。

いつの間にか、空の色が変わっていた。

夕暮れ。
 金色が庭の端から(にじ)んで、影が長く伸びる。
 花壇の中心の白い花が、最後の光を受けて、薄く透けた。

私は、立ち上がって、膝についた土を払う。
 腕が少し疲れている。でも、それが嬉しい。
 生きている疲れだ。

レオンが、私の少し後ろに立つ。
 同じ花壇を見ているはずなのに、視線が肩に触れる気配がした。
 振り向けば、目が合うかもしれない。
 合ったら——何かが始まってしまう気がして、私は正面を向いたまま息を飲んだ。

「……明日も」

レオンの声が、夕焼けの中で低く響いた。
 続きがあるはずなのに、そこで一度途切れる。
 言葉を探している沈黙。

私は花壇の土の輪を見つめながら、指先でそっと自分の(てのひら)を握った。
 ここに根を張るのは、花だけじゃない。
 私も——きっと。

「……うん」

短く返事をした瞬間、レオンの肩がわずかに緩むのが分かった。

夕日が沈む。
 私たちの影が、同じ方向へ長く伸びて、花壇の縁で重なった。

レオンが、何か言いかける気配がした。
 私の名前を呼ぶのか、それとも——。

その一音が落ちる前に、風が花の匂いを運び、私は胸の奥が甘く痛くなるのを感じた。

——次話「あの子を思い出す」――次の一手が、運命を動かす。

文字数: 3,486