——凛が初めて自分のやりたいことを見つける。
頼まれてもいないのに、私の手は土を掘っていた。
それが、怖いはずなのに……胸の奥が、くすぐったい。
庭の隅で見つけた薬草の匂いが、私を呼んだのだ。
エルザさんの家の裏庭は、思っていたより広かった。
雑草交じりの地面に踏み固められた小道、低い果樹が何本か。奥で小川が細く流れる音がして、風が枝を揺らした。
私は、いつものように歩幅を小さくして、庭の端へ端へと逃げるみたいに歩いていた。
誰かに見つかったら、何か言われるかもしれない。
そうしたら、私はきっと「はい」と答えてしまうから。
けれど、今日は違った。
違うと気づいたのは、足が止まったときだ。
低い垣の向こうに、整然と並んだ緑がある。
野菜でも花でもない、少し尖った葉、丸い葉、銀色がかった葉。
そして、土の匂いに混じって——私の記憶が、ひり、と疼いた。
「……カモミール……?」
口から出た言葉に、私自身が驚く。
前の人生で、夜勤の休憩室に置いてあったティーバッグ。眠れない患者さんの枕元に、こっそり置いた香り。あの、甘くて草っぽい匂い。
私は垣を回り、薬草畑の中へ足を踏み入れた。
許可を取る声が、喉の奥で形になりかけて——消えた。
誰も、いない。
誰も、私に「そこは入るな」と言わない。
しゃがむと、土の色が濃い。
冬を越えた株がいくつもあって、その間に小さな芽が顔を出している。
指先が勝手に動く。
葉に触れて、茎を確かめて、匂いを嗅ぐ。
これは、ラベンダーに似ている。鎮静、安眠……。
これは、カレンデュラ。傷の手当、軟膏……。
これは、ミント。胃の不快感、吐き気……。
知っている。
覚えている。
私は、ずっと他人の痛みのために覚えた。
でも——今、胸の奥で跳ねるのは「役に立てる」じゃない。
ただ、懐かしい。
そして、嬉しい。
薬草畑の端に、空いた場所があった。
土だけが広がって、何も植わっていない。
そこを見た瞬間、頭の中にひとつの形が浮かぶ。
円。
小さな円を作って、真ん中に背の低い花を植える。
周りを薬草で囲って、香りで守るみたいに。
私の両手が、もう土を掘りはじめていた。
スコップなんてなくてもいい。指で、爪で、土を崩す。
石が出てくれば避けて、固いところは少し湿らせる。
息が白い。
でも、頬が熱い。
私は、何をしているのだろう。
誰にも頼まれていない。
命令も、祈願も、治癒の依頼もない。
それなのに——止められない。
土を整えていると、背後で足音がした。
重いのに静かな歩幅。土を踏んでも、音が暴れない。
振り返らなくても分かる。
レオンだ。
私は、反射で立ち上がりかけて、膝を押さえて止まった。
立ち上がったら、きっと言ってしまうから。
「すみません、勝手に……」と。
そして、やめてしまう。
レオンは私の横に来て、何も言わずにしゃがんだ。
視線は、私が掘りかけた土の輪に落ちている。
眉がほんの少し動いた。怒っているのか、分からない。
「……何をしてる」
短い問い。
責める音ではなかった。ただ、確認するみたいな低さ。
私は土のついた指先を握りしめて、言葉を探す。
説明をしようとすると、いつもの癖が首を出す。
役に立つ理由。許される理由。褒められる理由。
でも、今の私は——
「……花壇、作りたくて」
声が、少しだけ震えた。
“作っていいですか”ではない。
“作りたい”だ。
自分の口から出たその形に、胸がきゅっと縮む。
レオンは一度、瞬きをした。
それから、手袋を外して、土の中の石を拾い始めた。
大きいものだけ、無言で。
拾っては脇へ置く。拾っては置く。
私の輪が崩れないように、指の先がすごく丁寧だった。
私は、それが不思議で、怖くて、でも嬉しくて。
喉の奥が熱くなった。
「……薬草の……匂いが」
言いかけて、言葉が詰まる。
“前の人生で”という一言が、いつも私の中でひっかかる。
ここでそれを言っていいのか、分からない。
レオンは、石をひとつ置きながら言った。
「分かる。……落ち着く匂いだ」
それだけ。
理解したふりじゃない。
私の言葉を急がせない、待ち方。
私は息を吐いて、続けた。
「……これ、カモミールに似てる。眠れないとき……助けになる」
「こっちは、傷の……」
言いながら、自分が“教える”側に立っていることに気づく。
教えろと言われたわけでもないのに。
役割じゃないのに。
私は、薬草の苗をそっと掘り起こして、空いた場所の外側へ移した。
根が細い。切らないように、土ごと抱える。
レオンが、私の指先の動きを見ている。
何かを盗むみたいに見るのではなく、ただ、目を離さない。
その視線が、背中をあたためた。
私は小さな花の苗を探して、畑の隅に生えていた白い花を選んだ。
名前は知らない。
でも、花びらが薄くて、光を抱くみたいだった。
輪の中心に、穴を掘る。
土の中は少し冷たくて、湿っていて、生きている。
苗を置き、土を寄せる。
手のひらで、そっと押さえる。
その瞬間、治癒の魔法が、指先に集まった。
いつもなら、誰かの傷口に向けて流れる光。
今は、根に向かって、あたたかく染みていく。
——違う。
これは、命令じゃない。
誰かを救うためじゃない。
私が、この苗をここに根づかせたいから。
光は淡く、すぐ消えた。
それで十分だと、なぜか思えた。
レオンが、ふ、と息を吐く音がした。
笑ったのかもしれない。声にはならないくらいの。
「……上手いな」
褒められた、というより。
私の手の動きが、ここにあっていいと言われた気がした。
私は、土を払う。
手は汚れている。爪の間に黒い線が入っている。
神殿なら、すぐ叱られた。
“聖女様の手が汚れる”と。
でも今、汚れが誇らしい。
自分がここに触れた証拠みたいで。
「……楽しい」
言ってから、慌てて口を押さえそうになる。
楽しいなんて、口にしていいの?
そんな言葉、私は持っていなかったはずなのに。
レオンは石を片づける手を止めないまま、低く言った。
「それでいい」
その四文字が、胸の奥の固いところを、静かにほどいた。
私は、もう一度、花壇を見た。
小さな円。中心の白。周りの緑。香りの壁。
まだ整っていない。雑で、歪で、土もこぼれている。
でも——
私が作った。
頼まれたわけじゃないのに。
「これ、頼まれたわけじゃないのに……楽しい」
今度は、ちゃんと声に出した。
言葉が風にさらわれていく。
消えるのに、怖くない。
レオンが、拾った石を最後にひとつ置き、立ち上がった。
そして、自分の水筒を差し出してきた。
「飲め。……手、冷えてる」
私が受け取ろうとすると、レオンは視線を逸らしたまま、ほんの少しだけ距離を詰めた。
指が触れないぎりぎり。
触れたら何かが変わると分かっていて、変えないようにする、ぎりぎり。
水筒はあたたかかった。
喉を通る白湯が、身体の内側に灯をつける。
私は返そうとして、気づく。
レオンの手袋が、私の横に置かれている。
外したまま、土で汚れてもいいと言っているみたいに。
私は小さく首を振った。
自分に言い聞かせるみたいに。
大丈夫。
汚れても、いい。
楽しくても、いい。
花壇を仕上げる間、私たちはほとんど話さなかった。
でも沈黙は、大神殿のそれと違う。
縛る沈黙じゃない。
隣に置かれている沈黙だ。
土をならす音。
葉を揺らす風。
水を撒くときの、ぽとり、という音。
その全部が、私の心臓のリズムと重なっていく。
いつの間にか、空の色が変わっていた。
夕暮れ。
金色が庭の端から滲んで、影が長く伸びる。
花壇の中心の白い花が、最後の光を受けて、薄く透けた。
私は、立ち上がって、膝についた土を払う。
腕が少し疲れている。でも、それが嬉しい。
生きている疲れだ。
レオンが、私の少し後ろに立つ。
同じ花壇を見ているはずなのに、視線が肩に触れる気配がした。
振り向けば、目が合うかもしれない。
合ったら——何かが始まってしまう気がして、私は正面を向いたまま息を飲んだ。
「……明日も」
レオンの声が、夕焼けの中で低く響いた。
続きがあるはずなのに、そこで一度途切れる。
言葉を探している沈黙。
私は花壇の土の輪を見つめながら、指先でそっと自分の掌を握った。
ここに根を張るのは、花だけじゃない。
私も——きっと。
「……うん」
短く返事をした瞬間、レオンの肩がわずかに緩むのが分かった。
夕日が沈む。
私たちの影が、同じ方向へ長く伸びて、花壇の縁で重なった。
レオンが、何か言いかける気配がした。
私の名前を呼ぶのか、それとも——。
その一音が落ちる前に、風が花の匂いを運び、私は胸の奥が甘く痛くなるのを感じた。
——次話「あの子を思い出す」――次の一手が、運命を動かす。