——セドリック視点。
断られた——。
側近の声が、僕の執務室の空気を切った。
ペン先が止まり、黒いインクが紙に滲む。
「……今、何と言った?」
側近は一礼したまま、言葉を繰り返す。
「使者より帰還報告です。聖女リーネ殿は、王都への帰還要請を拒否されました」
拒否。
拒否、だと?
僕は椅子の背に身体を預け、指先で机を叩いた。
木の響きがやけに大きい。
「断られた? ……理解できない」
たしかに、拒否と言った。
けれど、それは言葉の選び方の問題ではないか。
使者が余計な感情を挟んだのではないか。
「彼女は、状況を理解していないんだろう。『国の宝』が外に出ていいはずがない」
側近は視線を上げずに答える。
「使者は丁重に伝えたとのことです。殿下のご意向、神殿の事情、王都の混乱、すべて」
丁重に。
それでも、拒否。
僕の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
軋みはすぐに理屈で塗り潰せるはずなのに、妙に残る。
「返答は?」
「『私はもう、戻りません』と。……さらに、『私はもう、あなたの道具じゃありません』と」
言葉が耳に刺さった。
道具。
彼女は自分を、そんなふうに思っていたのか?
いや、違う。
彼女は混乱しているだけだ。
彼女の“役目”は、彼女自身よりも重い。
「言い方の問題だね。感情的になっているだけだ。……すぐに説得の第二便を」
僕が言い終える前に、側近がわずかに息を吸った。
躊躇。だが、それも許容してやる。いまは。
「殿下。説得では、難しいかと」
「難しい? どうして」
側近はようやく顔を上げた。
その目は、報告書の数字を見るときの目だった。
人の心ではなく、欠損を数える目。
「使者は……村人に阻まれました。武装した騎士団でさえ、村の総出で」
「村人?」
僕は笑いかけて、失敗した。
口元が引きつる。
「辺境の、二百人程度の村人が? 王国騎士団を?」
……冗談だろう!
「はい。使者は撤退を余儀なくされました。令状を携えた正式な部隊編成が必要です」
——馬鹿げている。
けれど、報告は淡々と積み上がる。
馬鹿げているほど、現実の形をしている。
僕は机上の書類に視線を落とした。
治癒依頼の山。各領からの嘆願。貴族院からの圧力。
そして、三日後に迫った「隣国との会談」の予定表。
「……時間がない」
側近が頷く。
「はい。ゆえに、代替案を進めております」
代替案。
その響きは、安心のはずだった。
僕は最初から理解していた。
聖女はひとりではない。制度は連続している。
“次”は必ず用意されている——そういう仕組みでなければ、国家は運用できない。
「候補を出して」
側近が用意していた別紙を広げる。
そこには、少女たちの名前と経歴が整然と並んでいた。
「第一候補。神殿付属の治癒師見習い。資質は良好。ただし、出力は聖女リーネ殿の一割程度」
「一割?」
僕は眉を寄せた。
側近は続ける。
「第二候補。地方の修道院より。……聖印への反応なし。光は出ますが、傷が塞がりません」
「反応なし?」
「第三候補。貴族の家の私生児。資質はあると申告されましたが、測定では——虚偽でした」
紙の上の言葉が、冷たい。
数字と同じだ。嘘をつかない。
ただ、僕の予定だけを破壊する。
「……待ってくれ。聖女というのは、そんなものなのか? 神殿は何年も、何十年も制度を回してきたはずだ」
側近の返答は短い。
「はい。しかし、ここ数年は聖女リーネ殿の出力が突出しており、他の育成が……停滞していたと」
停滞。
それはつまり、僕の政治計算が“ひとり”に依存していたということだ。
「神殿は何をしていた」
言葉が強くなる。
側近は怯まない。怯む必要がない立場の者だけが持つ冷静さだ。
「殿下もご存じの通り、神殿は『効率』を重んじます。出力の高い資源があるなら、そこへ集中させる」
資源。
僕の頭の中で、同じ語が反響する。
資源は、管理される。
管理されている限り、離反しない。
「……彼女は、管理されていた。神殿で、王城で、僕の言葉で」
そうだ。
彼女は僕の求めに「はい」と答えてきた。
疲れていても、青白くても。
倒れそうでも。
それが役目だから、と。
だから拒否など、ありえない——はずだった。
「候補者の試験は続行して。結果が悪いなら、神具を使え。儀式を増やせ。何でもいい」
「殿下。神具の使用には代償が——」
「代償? 今さら何を言う。国のためだろう?」
言い放ってから、胸の奥がまた軋んだ。
代償という言葉が、唐突に“誰かの身体”を連れてくる。
僕はそれを追い払うように、机を指で鳴らす。
「報告を続けて」
側近は頷き、淡々と新しい紙を差し出した。
「貴族院より。『治癒の停滞により、冬季の疫病が広がる恐れ』。商会より。『街道の負傷者が増え、物流が停滞』」
紙の束は、重くない。
なのに、机が沈む錯覚がある。
「大神官は?」
「『聖女は巡礼中』という発表を維持しております。民の前では沈着ですが、内部は混乱しております」
混乱。
神殿が混乱するなど、許されない。
許されない、というより——利用できない。
僕は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
王都ルミエールの屋根が冬の光に鈍く光っている。
あの街は、彼女の光で保ってきた。
僕は、その光を“持っている”と思っていた。
「……持っている、と思っていた?」
その疑問が、喉に引っかかる。
答えはまだ出さない。
出したら、何かが崩れる気がした。
午後、外交部からの使者が来た。
僕の執務室は、今日は人が途切れない。
誰もが「殿下」と言いながら、僕の時間を奪っていく。
「隣国の使節団が、明後日に到着します」
外交官の声は丁寧だ。
だが、その丁寧さが危険信号でもある。
丁寧な者ほど、内心で最悪を数えている。
「予定通りだね」
僕は笑顔を作った。
作れる。僕はそういう訓練を受けている。
「問題は、会談の“演出”です。隣国は、今年の国境紛争で負傷者を抱えております。彼らは治癒魔法の提供を条件に、鉱山の利権を——」
要するに、こうだ。
聖女の力を見せれば、交渉は優位に進む。
見せられなければ、こちらの弱みを嗅がれる。
「聖女の同席は?」
外交官は一瞬だけ言葉を選んだ。
選ぶ時間があるのが、逆に答えだ。
「……現状では、確約できません」
僕の胃が、きり、と鳴った気がした。
胃が鳴るなど、子どもみたいだ。
けれど身体は正直だ。盤面が崩れる音を、先に聞いている。
「確約できない、では困る。聖女は国の象徴だ。国境の問題は、聖光神教の加護を示せば——」
「隣国は、聖光神教を国教としておりません。ゆえに、彼らは『加護』を信じません」
外交官は淡々と言う。
そして淡々と、致命的な一文を足した。
「信じるのは、力です。目の前で、腕が再生するほどの力」
リーネの光。
あの、誰もが息を呑むほどの白さ。
治癒の瞬間に、貴族たちが“涙を流すふり”をする、あの場面。
僕はいつも、その反応を当然のものとして見ていた。
聖女がいるから、彼らは頭を垂れる。
聖女がいるから、僕の言葉に重みが乗る。
——聖女がいないなら?
想像しただけで、背中が冷える。
それは恐怖ではなく、権威の欠損だ。
僕の手元から、最も便利な札が抜け落ちた状態。
「代替の演出を準備して。神官の祈祷でも、聖具でも」
「殿下。隣国は、我が国の噂をすでに掴み始めております。『聖女が王都を離れた』と」
噂。
嗅ぎつけられた。
大神官の言葉が脳裏をよぎる。隣国が嗅ぎつける、と。
僕は机の端を指で掴んだ。
力が入る。
木が軋む。
「……噂は潰せ」
「はい。しかし、治癒が止まれば止まるほど、民の口は塞げません。病人は増えます。葬列は隠せません」
葬列。
その単語は、僕の耳に馴染まない。
王城の窓から見る王都は、常に整然としているべきだ。
そこに、死の列が続くなど。
「殿下。会談は、聖女の同席が前提で組まれております。彼らが求めるのは条文ではなく、即時の“治癒提供”です」
僕は外交官を退室させた。
必要な言葉はすべて受け取った。
これ以上聞けば、僕の中で“計算”が追いつかなくなる。
扉が閉まったあと、執務室に残ったのは側近だけだった。
「殿下」
「分かっている。……分かっているよ」
僕は笑顔を作ろうとして、作れなかった。
喉の奥が乾く。
胸の奥がざらつく。
「彼女は、戻る。戻させる。令状を出せばいい。騎士団を出せばいい。村人など——」
言葉が途中で切れる。
側近が、こちらを見ている。
その視線が、僕の焦りを“報告対象”として測っている。
僕は息を整える。
王太子は、取り乱してはならない。
取り乱せば、周囲がもっと混乱する。
混乱は、権威を削る。
——それでも。
「……なぜ、彼女は拒否した?」
側近が静かに答えた。
「殿下。聖女も人です」
その一言は、僕の頭の中の前提を揺らした。
人。人だ。
分かっている。分かっているはずだ。
彼女は笑う。泣く。倒れる。震える。
それでも僕は、最後に“人”として扱っただろうか。
僕は机の引き出しを開け、薄い箱を取り出した。
婚約の印として用意させた指輪。
贈ったとき、彼女は「ありがとうございます」と言った。
目は、どこか遠かった。
僕はそれを、恥ずかしいとは思わなかった。
“役目”だから、受け取ったのだと理解していた。
理解していた——つもりだった。
指輪の冷たさが、指先に染みる。
冷たいのは金属だけではない。
僕の計算も、僕の言葉も。
側近が小さく言う。
「殿下。会談まで、残り二日です」
二日。
たった二日で、国の札を取り戻せるのか。
村人を排除して、聖女を連れ戻して、神殿を再稼働させて、隣国に“力”を見せる。
そんな芸当が、できると本気で思っているのか?
僕は思っている、と言いかけて、飲み込んだ。
喉の奥で、別の言葉が膨らむ。
リーネ。
彼女の名だけが、なぜか重い。
いつもは便利な呼称のはずなのに。
僕は指輪を箱に戻し、蓋を閉めた。
閉めた瞬間、音がやけに大きく響いた。
「……リーネは、僕のものだ」
そう言い切れば、落ち着くはずだった。
いつものように。
なのに胸の軋みは消えない。
むしろ、細い亀裂が広がっていく。
僕の唇から、堪えきれずに漏れた言葉は、命令ではなかった。
計算でもなかった。
「リーネ……君がいないと、僕は……」
——次話「庭の小さな花壇」――小さな安らぎが、運命を変えていく。