——「お断りします」。震える喉で、私は初めて自分を選んだ。
使者は、やはり村を出ていなかった。
広場から退いたはずなのに、朝の空気はまだ固い。
リンデンの煙の匂いに、王都の金属の匂いが混じっている。
エルザさんの家の台所で、私は湯気の立つカップを両手で抱えていた。
手が冷たいのは、冬のせいだけじゃない。
「……ほんとに、いるんだね」
窓の外。
村の入口へ続く道の少し手前に、黒と白の外套が見えた。
馬車はそのまま。騎士も数人。
村に泊まる場所なんて限られているのに、遠慮もせずに居座っている。
私の胸の奥で、古い札がざわつく。
戻らなきゃ。
その言葉が、息を吸うたびに喉の奥に貼りつく。
聖女は国のもの。
命令は絶対。
逆らえば、誰かが罰を受ける。
それを、何度も見てきた。
私が従えば丸く収まる。
私が我慢すれば、誰も……。
「凛ちゃん」
エルザさんの声が、ゆっくりと私を現実に引き戻した。
カップの縁から、指を離せないまま顔を上げる。
「……決めたかい?」
質問なのに、追い詰める音がない。
答えを急かさない。
ただ、隣で待っている。
私は口を開いて、閉じた。
決める。
その言葉が、私にはまだ重い。
“決める”なんて、今まで許されてこなかったから。
でも。
昨夜。
私はレオンに、初めて話した。
前世のこと。
頑張りすぎて倒れて、最後まで「大丈夫です」と言っていたこと。
ここに来ても、同じ癖が抜けないこと。
「戻らなきゃって思うの、止められない」
そう言った私に、レオンは、怒らなかった。
慰めもしなかった。
ただ。
「……それでも、あんたが決めろ」
その一言だけを、置いていった。
命令じゃない。
檻の鍵を、私の手のひらに戻す言葉。
私はカップの中の揺れる湯気を見た。
湯気は、形を持たない。
握りしめようとしても、すり抜ける。
それなのに。
今の私は、握りしめたい。
自分の答えを。
「……怖いんです」
声が小さくて、自分で自分の声が遠い。
「戻らなきゃって思うのも怖い。戻らないって言うのも怖い」
エルザさんは頷いた。
「怖いのは、生きてる証拠さね」
優しい声。
でも、そこに甘やかしはない。
私を赤ん坊扱いしない。
「凛ちゃん。あたしたちは、凛ちゃんを押さないよ」
押さない。
押し返さない。
引っ張らない。
その言葉が、胸に痛い。
痛いのに、温かい。
戸口の方で、足音が止まった。
レオンが立っていた。
いつものように無表情で、いつものように黒い。
ただ、今朝は外套を羽織っている。
村の風の中で、騎士の輪郭だけが浮く。
目が合いそうになって、私は反射で逸らしそうになった。
でも、逸らさなかった。
レオンは何も言わない。
それでも。
ここにいる。
その事実だけが、私の背中に板を当ててくれる。
崩れそうな骨を支えるみたいに。
外で、金属が鳴った。
使者が、わざとらしく馬の口輪を鳴らしたのだろう。
聞こえるように。
恐れを思い出させるために。
私はカップを置いた。
手のひらが、まだ震えている。
「……行きます」
言った瞬間、喉がきゅっと痛んだ。
行かなきゃ、じゃない。
行きます。
自分で言うと、言葉の重みが変わる。
エルザさんは笑った。
「うん。行こうかね」
レオンが一歩、近づいた。
隣に並ぶための一歩。
でも、私の前には出ない。
その距離が、ありがたい。
私の足で、前へ出る。
◇
村の中央。
井戸のある広場に、使者は立っていた。
夜露に濡れた外套が、場違いに光る。
村人たちは集まっている。
昨日よりも静かだ。
守る背中はある。
でも今日は、私の背中のために、前へ出ない。
それが、怖い。
そして、嬉しい。
使者の目が、私を見つけた。
「聖女リーネ」
その呼び名だけで、身体が一瞬、昔の形に戻りそうになる。
背筋が伸び、口角を作り、頷こうとして。
——止まる。
隣に、レオンがいる。
剣に手をかけるでもなく、ただ立っている。
黙って、私を見る。
「……凛」
私の名前を、短く。
それだけで、私の足は今の地面に縫い留められる。
使者は、外套の内側から巻物を取り出した。昨日から持っていたのだ。見せなかっただけで。
赤い封蝋が押されている。
金色の紋。
王都の印。
「正式な令状だ。王太子殿下の御前へ、直ちに出頭せよ」
出頭。
出頭。
その言葉は、人間に対する言い方じゃない。
「拒めば、反逆。隠匿した者は処罰対象となる」
村人たちの息が、わずかに揺れた。
私の胸の中で、「戻らなきゃ」が暴れた。
ほら。
言ったでしょう。
私が従わないと、誰かが。
私は唇を噛んだ。
噛まないと、勝手に「はい」が出てしまう。
でも……。
昨夜、レオンは言った。
“決めろ”。
エルザさんは言った。
“押さない”。
誰も私を動かさない。
動くなら、私の足。
私は一歩、前へ出た。
膝が笑う。
足首がぐらつく。
指先が氷みたいに冷える。
それでも、前へ。
「……私が、答えます」
声が震えて、情けない。
聖女様の声じゃない。
でも。
これが、私の声だ。
使者が眉をひそめた。
「当然だ。聖女は国に帰る。分かっているだろう」
分かっている。
分かっているから、苦しかった。
分かっているから、今日まで笑って従ってきた。
私は息を吸った。
胸が痛い。
胃がきしむ。
怖い。
でも。
怖いままでも、言える。
私は、口を開いた。
「お断りします。私はもう、あなたたちの道具じゃありません」
言った。
言ってしまった。
言葉が、空気を切って落ちる。
その瞬間。
世界が終わると思った。
怒鳴られる。
殴られる。
村が焼かれる。
レオンが連れていかれる。
いくつもの想像が、頭の中を駆ける。
でも。
起きなかった。
使者の顔が、固まっている。
「……は?」
返ってきたのは、間抜けな音だった。
私は喉を押さえたくなるのを我慢した。
声が出ている。
まだ、出せる。
「私は凛です。リンデン村で生きています」
敬語が崩れるのが分かる。
でも、戻さない。
戻したらまた、あの檻の言葉になる。
使者は一歩、詰め寄った。
「聖女が拒むなどあり得ない! 殿下の慈悲だぞ? 理解しているのか?」
問いかけの形。
でも、答えは一つしか許していない。
昔の私は、そこに頷いた。
“ありがたい”と笑った。
私は、首を横に振った。
小さく。
でも、はっきり。
「慈悲じゃない。支配です」
言ってしまった。
言った瞬間、胸が熱くなった。
自分の中の何かが、ずっと言いたかった。
ずっと。
ずっと。
使者の目が揺れた。
怒りと困惑と、恐れ。
恐れ?
そんなもの、あなたにもあるの?
「……アッシュフォード! 貴様もだ。騎士が命令に逆らうのか」
使者はレオンに矛先を向けた。
レオンは、返事をしなかった。
ただ。
私の隣に、半歩、並んだ。
それだけで、空気が変わる。
剣を抜かないのに、抜いたみたいに。
レオンの視線が、使者を刺す。
沈黙が、私の背中を覆う。
言葉じゃなくて。
壁じゃなくて。
“隣”という形の支持。
レオンが、低く言った。
「……俺がいる」
短い。
それだけ。
でも私は、泣きそうになった。
使者の喉が動く。
巻物を握る手が、わずかに震えた。
「……村ごと処罰されても、いいのだな」
脅し。
昨日なら、その言葉で私は崩れた。
でも。
今日の私は。
私は後ろを見た。
村人たちは、ただ立っている。
顔は怖い。
でも、押しつけない。
エルザさんが、うん、と小さく頷いた。
“凛ちゃんが決めな”。
その頷きが、言葉に見えた。
私は使者を見た。
「罰は、あなたたちが決めるんですか」
声がまだ震えている。
でも、逃げない。
「……罰を与える側の言葉で、私を動かさないでください」
言った。
言えた。
使者は唇を噛んだ。
村人の数。
レオン。
そして、私。
計算する目。
昨日と同じ。
でも昨日と違うのは。
私が、逃げていない。
「……分かった」
使者の声が、低く落ちた。
「今日のところは退く。だが、次は違う」
違う。
その一言が、刃になる。
「王都は黙ってはいない。聖女を国に戻す。必ずだ」
言い捨てて、使者は踵を返した。
騎士たちが慌てて従う。
馬車が軋み、蹄の音が広場から遠ざかる。
本当に。
退いた。
世界は、壊れなかった。
私は足の力が抜けて、その場で膝をつきそうになった。
レオンの手が、私の背に触れる。
触れて、支える。
強くは掴まない。
私が倒れない分だけ。
その温度で、やっと息ができた。
「……言えた」
自分の声が、かすれている。
言えた。
たった三文字のことなのに。
二十年分の鎖が、一本ずつ外れていくみたいだった。
涙が落ちた。
悔しい涙じゃない。
怖い涙でもない。
初めて。
“自分で選んだ”ことが、胸の奥に落ちる涙。
エルザさんが、私の前まで来て、そっと肩を抱いた。
「よく言ったよ、凛ちゃん」
褒め言葉が、痛いくらいに沁みる。
私は声を出して泣いた。
今までみたいに、静かに壊れないように泣くんじゃなくて。
ちゃんと。
生きている人みたいに。
レオンは何も言わない。
でも、隣にいる。
その沈黙が、いちばん優しい。
◇
村の外れ。
使者は馬を急がせながら、何度も後ろを振り返った。
あり得ない。
聖女が拒むなど。
しかも、あの目。
あの声。
「……王都に報告だ」
かすれた声で呟き、使者は胸元の封蝋に指を当てた。
次は、令状だけでは済まない。
王太子が。
大神殿が。
“聖女を取り戻す”ために、動く。
蹄の音が、雪のない道を切り裂いていった。
——次話「王太子の焦燥」――次の一手が、運命を動かす。