S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第17話: 侍女長の末路

第2アーク · 5,136文字 · draft

——凛を失った侍女長マティルダは、新たな聖女候補たちを「教育」しようとするが、当然の拒絶に連鎖して直面する。

「聖女候補様は、朝の祈りが終わるまで口を利いてはなりません」

白いローブの少女は、まばたき一つして私を見た。

「……それ、神官様からは聞いてません」

静かな否定だった。反抗でも、挑発でもない。ただの確認。
 けれど私の胸の内で、固い何かがきしんだ。

「神官は聖務(せいむ)を司ります。生活の規律は侍女長の管轄です」
 私は笑みの形だけを作り、手の甲を重ねる。
 凛が見ていたのと同じ姿勢。凛が黙ってうなずいた合図。

——凛なら、ここで「はい、マティルダ様」と返した。
 目を伏せ、肩をすぼめ、息を吸う音さえ小さく。
 私が与える「正しさ」を、彼女は飲み込むしかなかった。

だから私は、同じようにすればいいと思ったのだ。
 聖女は皆、同じ。迷い、怠け、間違える。
 だから、私が守らなければならない。

「あなたのためを思って申し上げています。口数は、心の散漫を生みますから」

少女——アリアは、少しだけ首を傾げた。
 その仕草に、従順の影がない。

「散漫になるのは、祈りの内容が分からない時です。私は質問したいです」
 「聖女候補様が質問など——」
 「質問していいって、大神官が言ってました」

大神官。
 その名前が、喉の奥に冷たい針を刺す。

「……祈りの後です」
 私は言い切って、歩みを促した。拒まれているのに、拒まれていないふりをする。
 凛には、それで効いた。凛は、私の「ふり」を現実に変える役目を果たした。

アリアは小さく息を吐き、歩き出す。
 だが、祈りの間。彼女は唇を結ぶ代わりに、背筋を伸ばして正面を見た。
 私の視線を受けても、縮まらない。

……なぜ。
 なぜ同じ聖女候補なのに、こんなにも違う。


次の候補は、ミナという名だった。
 まだ幼いが、目がよく動く。物の位置、人の距離、空気の変化を測る目だ。
 凛にも、似た目があった。けれど、凛は測った結果を口にしなかった。

「聖女候補様は、甘いものを控えなさい。食欲は欲望です」
 私は銀盆を取り上げる指先に力を込めた。
 砂糖菓子が載っている。軽い嗜好(しこう)の一つを奪うだけで、心は言うことを聞く。

——そう、凛はそうだった。
 一度、菓子を口にして叱った時、彼女は震えた。
 「ごめんなさい」と何度も言い、次から手を伸ばさなくなった。
 私はその沈黙を「成長」と呼んだ。

だがミナは、私の手元を見て、あっさりと笑った。

「じゃあ、いりません。代わりにパンを一つください」

「……は?」

「祈りって、お腹が減ります。倒れたら困りますよね」
 言い方は丁寧だった。私を責める響きはない。
 ただ、当然のことを当然に言っている。

「聖女候補様は、節制を——」
 「節制は、自分で決めます。大神官に、栄養を取れって言われました」

また、大神官。

私の背後で、他の侍女が目を泳がせた。
 いつもなら、私の言葉に合わせて頷く者たちが。
 今は視線を合わせない。盆の端を握りしめて、床の模様を見ている。

「……ミナ様。これは、規則です」
 「規則なら、書面を見せてください」

書面。
 あの子は、凛が一度も言わなかった言葉を、息をするように言う。

私は唇の裏を噛んだ。
 紙が必要なのではない。私の「声」だけでは足りない、と言われているのだ。
 それが、分からないはずがないのに。

「後で用意します」
 「はい。じゃあ今は、パンを」

ミナは引き下がらない。
 私は盆を持つ侍女に目を向けた。無言の命令。
 しかし侍女は、私の視線を受けて一瞬だけ固まり、すぐにミナの方を見た。

「……パンを、追加でお持ちしますね」

敬語は変わらないのに、主語が私ではない。
 私の胸の中で、何かが鈍く崩れた。


セシルは、祈りの後の回廊で私を呼び止めた。
 呼び止めた、のだ。凛は呼び止めない。凛は追いかけてこない。
 凛はいつも、追われる側だった。

「侍女長、ひとつ確認させてください」
 彼女は礼儀正しく頭を下げた。だが、その後に続く言葉が刃だ。
 「私たちの行動範囲は、どこまで許可されていますか?」

「聖女候補様は、神殿の外へ出てはなりません」
 即答した。私の中で、それは当然の枠だった。
 外は危険。誘惑。混乱。
 凛を閉じ込めた時も、同じ理屈を使った。

セシルは眉を上げる。

「庭もですか」
 「庭は——監督の下で」
 「監督って、侍女長ですか」

私は頷いた。これも当然。
 凛は、私が見ていれば安心した。……安心したように見えた。

セシルは、ふっと目を細めた。
 怒ってはいない。困っているようでもない。
 ただ、距離を測り直す目。

「私は、大神官から『息が詰まるなら庭へ出なさい』と」
 「息が詰まるなど、甘えです」
 言った瞬間、回廊の空気がわずかに硬くなる。
 近くの侍女たちが、足を止めずに通り過ぎた。通り過ぎるふりで、逃げた。

——凛なら、ここで笑った。
 怯えた笑い。許しを乞う笑い。
 「ごめんなさい、私が悪いです」
 そう言って、自分の胸を押さえ、息苦しさを罪に変えた。

それが異常だと、私は考えない。
 異常なのは、今の目の前だ。

「侍女長。私は聖女候補です。囚人ではありません」

言葉は穏やかだった。
 その穏やかさが、私の足元を崩す。
 囚人。私が、凛に与えた日々の名前。

「……あなたのためです。外は、あなたを壊します」
 「壊れるかどうかは、私が決めます」

セシルは深く礼をして、去っていった。
 残されたのは、私の掌の汗と、回廊に残る自分の声。

「壊します」だなんて。
 私が、そんな言葉を口にする側だなんて。
 ……それでも、私は間違っていない。
 間違っていないのに、なぜ誰も頷かない。


侍女たちは、私の周りを避け始めた。
 視線が合うと、仕事があるふりをする。布を畳む手が急に忙しくなる。
 廊下の角で話していた声が、私を見ると消える。

凛がいた頃は違った。
 私が廊下に立てば、空気が整った。
 侍女たちは私の背中に従い、凛はその先に押し込められた。
 私の言葉は規則になり、規則は正義になった。

正義は、こんなに(もろ)いものだったか。

私は執務室に戻り、過去の「指導記録」を開いた。
 凛の文字。震えているのに、丁寧に書かれた反省文。
 「私は未熟です」「ご迷惑をおかけしました」「次からは——」

紙が、私を落ち着かせるはずだった。
 けれど、今は違う。
 反省文は、私の手の中で軽すぎる。
 この軽さは、何だ。
 凛の「はい」が軽かったのか。私の言葉が軽かったのか。

机の引き出しに、聖具(せいぐ)の小さな札がある。
 聖女の部屋へ出入りを許可する札。以前は私の名で通った。
 私はそれを握って立ち上がった。
 部屋へ行けば、整う。空気が。私が。——そう信じた。


聖女の部屋の扉は、閉じていた。
 白い扉に刻まれた紋が、淡く光っている。

私は札をかざす。
 いつもの手順。いつもの権限。いつもの私。

紋が、冷たく瞬いた。

——拒絶。
 光が、私の指先を押し返す。
 まるで、魔法(まほう)が「違う」と言っているみたいに。

「……なぜ」

札を、もう一度。
 もう一度、もう一度。
 光は同じ反応を返すだけだった。

背後で、足音。
 振り向くと、大神官ヴェルナーが立っていた。
 長い外套。灰色の瞳。表情の動かない顔。
 彼の前では、私の言葉がいつも少し遅れる。

「侍女長。そこは、現在封印区画だ」
 「封印……? 私は侍女長です。管理のために——」
 「管理のために、か」

ヴェルナーは私の手元の札を見た。
 見ただけで、私の胸が縮む。

「新しい候補のために、環境を整えねばなりません。規律がなければ、聖女は——」
 「規律?」
 声は低い。問いではなく、刈り取る刃。

私は言葉を継ぐ。正しい言葉を、正しい順番で。
 いつもそうしてきた。
 凛を、倒れないように。倒れても起き上がるように。
 起き上がったら、また祈れるように。
 祈れるなら、役に立つ。役に立つなら——存在できる。

「聖女候補様は、弱いのです。外の刺激、甘え、欲望。放置すれば——」
 「放置?」
 ヴェルナーは一歩、私に近づいた。
 「君は、彼女たちを『放置』していないと言うのか」

一瞬、言葉が止まった。
 放置していない。放置していないから、私がいる。
 私は必要だ。必要でなければ——

「私は、あなたのためを思って——」
 口をついて出た。凛に何百回も言った言葉。
 言えば、相手が黙った言葉。
 言えば、相手が自分を悪者にした言葉。

しかしヴェルナーは、黙らない。

「その言葉を、凛に何度言った」

名を出された瞬間、胃が反射で縮んだ。
 凛。いなくなったはずの聖女。
 いないのに、私を縛る名。

「……凛様は、特別に未熟で」
 「特別?」
 「はい。だから私は——」
 「君が作った『特別』だ」

胸の内がざわつく。
 否定したい。だが言葉がすぐに形にならない。
 私が作った? そんなはずはない。
 私はただ、正しく導いた。
 聖女が道を外れないように、外れたら戻るように。

ヴェルナーは扉の紋に手をかざした。
 淡い光が彼の指に吸い付くように集まり、紋が静かに沈む。

「この区画への出入りは、大神官権限に限定した」
 「……なぜ、そこまで」
 「君が、候補たちに同じことを始めたからだ」

私の背中に、冷たい汗が流れた。
 見られている。把握されている。
 今まで、凛だけが私を見ていたはずなのに。

「私は神殿の秩序を守っているだけです」
 「秩序は、聖女を壊す免罪符ではない」

壊す。
 さっき自分が口にした言葉が、今度は私の頭上から落ちてくる。

「……私が、壊したと?」
 声が震えた。怒りではない。恐怖でもない。
 理解が追いつかない時の、あの空白の震え。

ヴェルナーは表情を変えないまま、告げた。

「侍女長マティルダ・ヘンドリクス。君は、候補への直接指導から外れる」

耳が、音を拒んだ。
 外れる? 私が?
 なら、私は何をする。
 誰のために、何を整える。
 整える相手がいなければ、私は——

「待ってください。私は必要です。彼女たちは、まだ——」
 「まだ、何だ」
 「……まだ、従い方を知らない」

言ってしまった。
 口の中が、鉄みたいな味になった。

ヴェルナーは、ほんの少しだけ目を細めた。
 怒りではない。哀れみでもない。
 ただの、確定。

「従わせる仕事は、もう終わりだ」


その日の夕刻、侍女詰所は私の足音に沈黙した。
 誰も、顔を上げない。
 敬礼も、応答も、ない。

私は机に手をついて、立ったまま言った。
 「明日からの候補の予定表を——」

「大神官から新しい指示が来ています」
 若い侍女が、紙束を胸に抱いたまま言う。
 丁寧な声。丁寧な拒絶。

紙束の一番上に、大神官の封蝋が見えた。
 私の名前は、そこになかった。

「……私の承認は」
 「必要ありません、と」

侍女は視線を落とした。罪悪感の動きではない。
 ただ、これ以上踏み込まないという線引き。
 彼女の肩が、凛のように縮まないことが、私を苛立たせる。

「あなたたちは、誰のお給金で——」
 口にしかけて、飲み込んだ。
 凛に言ったことはない言葉だ。ここで言えば、私が汚れる。
 汚れるのが怖い。正しさだけが、私の服だ。

私は踵を返した。
 背中に、誰も追ってこない気配がした。
 かつて凛が、私の背中を追ってきたようには。


夜。
 私は、封印区画の前に立っていた。
 昼に拒まれた扉。
 誰にも見られない時間なら、光は私を通すのではないか。
 ——そんな理屈のない期待に、縋っている自分が嫌だった。

札をかざす。
 光が冷たく瞬く。
 拒絶は、昼と同じ。

扉の向こうは、静かだ。
 凛がいた頃は、呼吸の気配があった。
 小さく「はい」と返す声が、壁越しに滲んでいた。
 私はその声で、自分が必要だと確認できた。

今は、何もない。
 私の手の中で、札がただの木片みたいに軽い。

「……なぜ、言うことを聞かないの……!」

声が漏れた。闇に吸われて、返ってこない。

「私は……あなたのために——」

言い終える前に、空気が冷えた。
 答える相手がいない言葉は、こんなにも惨めなのか。

私は扉に額を寄せた。
 石の冷たさが、頭の熱を奪っていく。
 すると不意に、思い出が刺さる。
 凛が扉の内側で、同じように壁に寄りかかっていた姿。
 私が近づくと、彼女は反射で背筋を伸ばした。
 私が「聖女様は泣いてはなりません」と言えば、涙を引っ込めた。
 引っ込められない時は、謝った。
 謝るほど、私の言葉は強くなった。

強くなって、何を守った。
 誰を守った。

——違う。
 私は守った。守ったから、ここまで来た。
 私が間違っているなら、私は何だった。

背後で、紙が擦れる音がした。
 振り向くと、廊下の端に誰かが立っている。
 侍女か。神官か。
 暗くて顔が見えない。
 だが手元の白い封筒だけが、やけに目立つ。

大神官の封蝋だ。

その人物は、こちらへ歩き出す。
 封筒を差し出す距離が、どんどん縮まる。
 私は息を止めた。
 私の名がそこに書かれているのか、いないのか。
 次の一行で、私の役目が、終わるのか。

封筒が、指先に触れた。
 冷たい蝋の感触が、告げている。

——まだ、終わっていない。
 終わっていないのに、もう戻れない。

——次話「不器用な告白」――二人の距離が、もう一段近づく。

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