——霜から薬草畑を守るため一晩中見守ったレオン。
白い息が、畑の上でほどけた。
夜の冷たさが、まだ土に残っている。
そして——私の薬草畑には、見覚えのない黒い外套が掛けられていた。
夜明け前の空は、薄い藍色だ。
東の端だけが、かすかに白んでいる。
私は肩をすぼめながら、畑の畦に足を踏み入れた。
土がきゅ、と鳴る。
霜が降りた朝の、硬い音。
だから、気づいたのだ。
畑の一角だけ、霜の白が薄い。
そこに張られている霜除けの布が、風に揺れている。
……布じゃない。
布の上に、黒い外套がもう一枚、そっと被せられていた。
私の知らない、でも——見覚えのある形。
「……レオン、さん……?」
指先で外套の端をつまむ。
ひやり、とした布の奥に、まだ温かさが残っていた。
焚き火の匂いと、少しだけ鉄の匂い。
人の体温の匂い。
外套の下、支柱が何本も立てられている。
枝を削って、紐で結んで、布が葉に触れないように工夫されていた。
霜が触れたらすぐ萎れる幼い苗だけ、丁寧に守られている。
私は息を止めた。
畑の端のほう、低い石垣の影に小さな火がある。
灰の中で、まだ赤い火種が呼吸していた。
その横に、レオンがいた。
外套を畑に掛けたせいで、彼は薄い上着一枚で、丸太にもたれて眠っている。
腕が組まれたまま、眉間に小さなしわ。
寝ていても、見張りの顔だ。
……一晩中。
ここで。
霜が降りる気配を、ずっと見ていた。
胸の奥が、ぎゅ、と音を立てる。
あまりに小さな音なのに、耳が痛い。
私の畑だ。
私が守るべきものだ。
私はいつも、そうやって自分に言い聞かせてきたのに。
また、先に——。
彼の指先を見てしまう。
革手袋は、片方だけ外されていた。
焚き火を起こすときに外したのだろう。
その手が少し赤い。
冷えて、乾いて、硬そうに見えた。
私は喉の奥に言葉を溜めた。
怒りたいのか、泣きたいのか、自分でもわからない。
だから、代わりに。
そっと、自分のマフラーの端をほどき、彼の首元へ掛けた。
触れた皮膚が冷たくて、指が震えた。
その震えで、彼のまつ毛が揺れる。
「……ん」
レオンが目を開けた。
ぼんやりした瞳が、火の赤を映して、ゆっくり私を捉える。
「……凛。早いな」
声が、少し掠れている。
眠りの底から引き上げられた声。
私は、唇を結んだまま頷いた。
頷くしか、できなかった。
レオンは状況を理解するのに数秒かかって、畑に掛けた自分の外套を見た。
それから、悪いことをした子どもみたいに視線を逸らす。
「……霜が降りそうだったから」
「だからって……」
言いかけて、途切れた。
“だからって、あなたが徹夜する理由にはならない”と続けたいのに、言葉が喉で絡まる。
レオンは立ち上がろうとして、膝を押さえた。
硬くなった足を、無理に動かしたような仕草。
私は反射的に、彼の腕を掴んだ。
「無茶、しないでください。……手、冷たい」
掴んだ腕の下で、筋肉が微かに強張る。
でも彼は、振りほどかない。
私の手のひらに、彼の冷たさが染みてくる。
「平気だ」
平気な顔で言うな、と言いたい。
でも、彼の言う“平気”は、いつだって本当の平気じゃない。
それを知ってしまったのは、私だ。
私は外套の端を指で押さえた。
畑の中の小さな芽たちは、霜の白から守られて、青く息をしている。
「……こんなこと、しなくても。私が、もっと早く気づけば……」
「気づけねえ」
レオンが、短く言った。
責める響きじゃない。
ただ、事実みたいな声。
「夜は冷える。霜は急に来る。……俺も、たまたま外に出ただけだ」
たまたま。
そう言って、自分の行動を小さくする。
いつもそうだ。
大事なことほど、何でもないふうに隠す。
私は、外套の布をぎゅっと握った。
「なぜ毎回、私より先に私の大事なものを……」
言った瞬間、胸の奥が熱くなった。
“畑”の話をしているはずなのに、別のものが溢れそうで怖い。
レオンは私を見た。
焚き火の残り火が、彼の瞳の奥で静かに揺れている。
いつもより近い。
近すぎて、逃げ場がない。
「……あんたの大事なもんが俺にも大事なだけだ」
その言葉が、朝の冷気を割って、まっすぐ胸に落ちてきた。
音じゃない。
重みだ。
私は息を吸うのを忘れた。
喉が痛い。
目が熱い。
「……ずるいです」
声が震えて、自分の情けなさが嫌になる。
でも、止められない。
涙が、ふいに視界を滲ませた。
レオンが、困ったように眉を寄せる。
手を伸ばしかけて、途中で止める。
触れていいのか迷っているみたいに、宙で指が彷徨う。
だから私は、彼の迷いを許さないように、もう一度腕を掴んだ。
それだけで、十分だった。
彼の体温が、少しずつ戻っているとわかる。
「……泣くな。畑、守れた」
慰め方が、下手だ。
でも、その下手さが、今は痛いほど優しい。
私は首を横に振って、涙を拭った。
拭っても、頬がまだ濡れている。
「畑が、じゃなくて……」
続きは言えなかった。
言ったら、もっと違う名前で呼んでしまいそうで。
その名前を口に出したら、私の中の何かが変わってしまう気がした。
レオンは、答えない。
ただ、焚き火の灰を棒で崩し、残り火に息を通した。
ぱち、と小さな音がして、橙色が蘇る。
その明かりに照らされた横顔が、朝の空よりずっと近い。
やがて東の空が、金色にほどけはじめた。
畑の端の草が、光の粒を抱いて揺れる。
霜の白が、ゆっくり水へ変わっていく。
私たちは焚き火の前に並んで座った。
レオンは自分の外套がないことに気づいて、困ったように肩をすくめる。
私は代わりに、自分の外套の端を少しだけ広げた。
二人で入るには、足りない。
でも、肩が触れるくらいなら——足りた。
「……寒いか?」
「……いいえ」
本当は寒い。
でも、触れている場所だけ、変に熱い。
レオンが咳払いをひとつして、視線を空へ投げる。
朝日が彼の頬を撫で、眠れなかった影を隠していく。
私は畑を見つめた。
小さな芽が、ちゃんと生きている。
それだけで嬉しいはずなのに、胸の中は別のものでいっぱいだった。
焚き火のそばに、小さな薬缶が置かれているのに気づく。
昨夜、レオンが村の台所から借りてきたのだろう。
律儀に蓋がされ、雪みたいな霜が薄く貼りついていた。
私はそれを火の上へかけ直し、手のひらで湯気を待った。
湯が沸くまでの時間が、妙に落ち着かない。
言葉にする勇気はないのに、沈黙だけは増えていくから。
「……凛」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「俺、別に……」
“いい”と言いたいのだろう。
“こんなことしなくていい”と。
そういう断り方だけは、彼は上手い。
私は首を振った。
「あなたが一晩したことに比べたら、これくらい……」
言ってから、また胸が熱くなる。
比べるものじゃないのに、比べてしまう。
あなたがくれたものを、私も返したくて。
湯が小さく鳴いた。
私は布を折って簡単な鍋敷きを作り、薬缶を下ろす。
湯気が立ち上って、空気が少しだけ柔らかくなる。
レオンの手を取った。
迷いが減った分、心臓がうるさい。
「……熱くない程度に、温めます」
彼の指先に、自分の両手を重ねる。
焚き火の近くで温まった掌の熱が、彼の冷たさを押し返していく。
レオンは何も言わず、ただ、息を吐いた。
その息が私の髪を揺らして、距離の近さを思い出させる。
“あんたの大事なもんが俺にも大事”
それは、告白じゃない。
でも私の心は、そう受け取ってしまった。
受け取ってしまって、戻せない。
レオンの指先が、膝の上で少しだけ動く。
硬くなった手が、無意識に開いたり閉じたりする。
私は、その手を見てしまって。
次の瞬間、気づけば——指先で、そっと触れていた。
レオンがこちらを見た。
驚いたように、目が少しだけ見開かれる。
私は、逃げられなかった。
触れた指先の冷たさが、私の中の決意みたいに思えたから。
「……今日は、私が」
何を、とは言えない。
言えないけれど、伝えたい。
あなたがしてくれたみたいに。
レオンの手が、ゆっくり動いた。
私の指を、握り返そうとして——ためらう。
ためらいの間に、朝日が強くなった。
世界が明るくなるほど、二人の距離だけが、危うく近い。
私はその手を、逃がさないように握り直してしまい——
——次話「王太子の求婚」――次の一手が、運命を動かす。