——「王妃にする」。それは愛の言葉じゃなく、檻に戻す合図だった。
王太子の馬が、リンデン村の土を踏んだ。
護衛は、たった三人。
それがいちばん、この村に似合わなかった。
朝の冷えた空気に、蹄の音が混じる。
それだけで、村の呼吸が変わったのが分かった。
王都の人は、音が違う。
鎧の擦れる音も、馬具のきしみも、乾いている。
土の匂いに混じらない、金属の匂い。
畑仕事に出ていた人が手を止め、井戸のそばの女たちが顔を上げる。
子どもが、笑い声を途中で切った。
私は薬草の束を抱えたまま、家の門の内側で立ち尽くしていた。
指先が冷たくなるのは、風のせいだけじゃない。
「凛ちゃん」
背後から、エルザさんが呼ぶ。
名前で呼ばれるのは、もう当たり前になったはずなのに。
いまは、その二音がやけに胸の奥へ沈んだ。
「……来たんだね」
エルザさんの声は低い。
怒ってはいない。怯えてもいない。
ただ、現実をそのまま受け止める人の声だった。
私は頷く。
喉の奥に、昔の癖が湧いてくる。
戻らなきゃ。
私が行けば丸く収まる。
私が——。
でも、その続きが途中で止まった。
自分の中に、別の言葉が生まれている。
ここに、居場所がある。
私は薬草の束を台所の籠に置いた。
指先から、緑の匂いが離れていく。
代わりに、私は自分の手の重さを確かめた。
「行くのかい?」
エルザさんが訊ねる。
“行くな”でも、“行け”でもない。
選ぶのは私だ、という問い。
私は、息を吸って。
ゆっくり頷いた。
「……私の口で、言います」
村の入口に続く道は、霜で白い。
その上を、黒い馬がゆっくり踏んでいた。
王太子セドリック・レイ・ガルディア。
遠目でも分かるほど、整った姿勢。
旅装の外套に身を包んでいても、光が集まる場所を知っている人の歩き方だ。
護衛は三人。
村に押し入る人数じゃない。
だからこそ、逃げ道を塞ぐための“覚悟”に見えた。
村人たちが、半円を作る。
誰も武器を振り上げない。
ただ、立つ。
この村のやり方で、守る。
私はその輪の前に出た。
足が震えていないのに、自分で驚く。
怖いのに、逃げる方向を選ばない自分が、ちゃんといる。
セドリック殿下は馬から降り、外套の前を整えた。
笑顔を作るのは、相変わらず上手い。
けれど、その目の奥は焦っていた。
呼吸が少しだけ速い。
「リーネ、戻ってきてくれ。王妃の座を約束する」
名を呼ばれた。
——聖女名で。
村の風が、私の髪を揺らす。
この髪は、神殿の香の匂いじゃなく、薪の煙の匂いがする。
私は静かに、首を横に振った。
「……申し訳ありません。お断りします」
言葉は、丁寧に。
でも、曖昧にしない。
セドリック殿下の眉が、ほんの少しだけ動く。
理解できない、という表情。
それは昔と同じなのに、いまの私は揺れない。
「僕がいけなかった。でも君が必要なんだ」
必要。
その言葉は、私の胸の奥を昔みたいに縛ろうとした。
でも、縛り方が分かってしまった分だけ、ほどく手順も分かる。
私は一度まばたきをしてから、言った。
「……必要、ですか。私が、ではなく『聖女』が、ですよね」
風の音が、少しだけ大きくなる。
村の誰かが息を呑む気配。
けれど私は、続けた。
「殿下は、私を『国の宝』だと言いました」
「宝は……箱に入れられます。磨かれます。傷がつかないように」
「でも、宝は、息をしません」
私は自分の胸に手を当てる。
そこにあるのは、役目じゃない。
ただの、呼吸だ。
「私は、息をしたかったんです」
セドリック殿下の唇が開く。
「違う」と言いかけて、言葉が出ない。
違わないからだ。
私は、最後の一歩を踏み出した。
声を大きくしなくても、届く距離で。
「あなたは治癒が必要なとき以外、一度も私の名前を呼ばなかった」
……僕は。
その一言で、足元の土が抜けた気がした。
冷たい霜が、靴の底から這い上がってくる。
僕は、彼女の名前を呼んでいたはずだ。
リーネ、と。
何度も——。
脳裏に浮かんだのは、彼女の声じゃなく、書類の山だった。
治癒依頼の山。嘆願書。報告書。
そして、僕の口から出る言葉。
「聖女。急いでくれ」
「聖女リーネ殿、こちらへ」
「国の宝なんだ。君は分かってくれるだろう?」
——君。
僕は、“君”で済ませてきた。
笑って、撫でて、褒めて。
それで十分だと思っていた。
相手は宝だ。宝に名前を呼んで“許可”をもらう必要はない。
必要なのは、光だけだ。
必要なのは——。
「……君は、僕の婚約者だった」
喉が震える。
言い訳みたいに聞こえてしまうのが嫌で、言葉が細くなる。
彼女の目は、僕の顔を映しているのに。
そこには、期待がない。
怯えもない。
ただ、確定した答えがある。
僕は、そのとき初めて気づいた。
彼女が、僕の前で“人”として立っていることに。
そして同時に、僕が今まで彼女を“人”として見ていなかったことに。
セドリック殿下は、言葉を探しているようだった。
けれど、探す場所が違う。
政治の引き出しを開けても、ここには答えがない。
私は、そのことが不思議じゃなかった。
殿下はずっと、そういう人だった。
悪意がないまま、痛みを踏む人。
「殿下」
私が呼ぶと、殿下の瞳がわずかに揺れた。
その揺れは、迷いに見えた。
でも、迷いは“変わる”とは限らない。
「私は……聖女として、殿下の役に立ったのでしょう」
「けれど、私が倒れた夜——」
記憶が刺さる。
白い部屋。光の残像。喉の渇き。
そして、耳に届いた言葉。
『代わりは? 』
私は、その続きを口にしなかった。
ここでそれを言う必要はない。
私がいま言いたいのは、恨みじゃなくて、別れだ。
「私は、ここで暮らしています」
「土に触れて、匂いを嗅いで、笑って——眠れます」
エルザさんの家の台所。
村の子どもたちの手。
レオンの、黙って隣にしゃがむ背中。
それらが、私を“生きている”ほうへ引っ張ってくれた。
「もう戻りません。ここに私の居場所がありますから」
セドリック殿下が、唇を噛む。
悔しそうで、悲しそうで——でも、そのどちらも自分のための顔だ。
「……リーネ」
呼ばれた。
たぶん、今日ここへ来るまでに一番“本気”の声だった。
私は小さく、首を振った。
否定は怒りではなく、確認だ。
「私は凛です」
殿下の目が見開かれる。
——そう。殿下は、知らない。
私の本当の名前を。
「覚えなくていいです。もう、必要ありませんから」
言い切ると、胸の奥が静かになった。
勝った、という熱じゃない。
ただ、終わった、という静けさ。
護衛騎士のひとりが、殿下の耳元で何かを囁く。
殿下は一瞬だけ迷って、それから、村人たちに視線を巡らせた。
この村の輪は、崩れない。
殿下が持っているものでは、ほどけない。
セドリック殿下は深く息を吐いた。
そして、いつものように外套の前を整え、王太子としての顔を作る。
「……分かった。今日は退くよ」
「だが、君が必要になる日が来る。必ずだ」
必要。
その言葉は、もう鎖にならない。
私は微笑んで、答えた。
「その日が来ても——選ぶのは、私です」
殿下の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
それが謝罪なのか、敗北なのか、私には分からない。
でも、どちらでもよかった。
殿下は馬に乗り、来た道を戻っていく。
蹄の音が遠ざかるにつれて、金属の匂いも薄れていった。
村の空気が、ゆっくりと元に戻っていく。
誰かが息を吐き、誰かが小さく笑い、子どもが走り出す。
生活の音が、また近づく。
「凛ちゃん」
エルザさんが、私の肩に手を置く。
私はその手の温度で、ようやく自分の指先が冷えていたことに気づいた。
「……大丈夫です」
口癖が出て、私は一瞬だけ固まる。
そして、言い直した。
「……ううん。大丈夫」
エルザさんが、しわだらけの目を細める。
それだけで、胸がほどけていく。
道の向こう。
木立の影が、ひとつ動いた。
黒い外套。
目立たないように立っていたのに、私には分かる。
レオンが、そこにいた。
最初から、ずっと。
私が自分で選べるように、距離を保ったまま。
私が視線を向けると、レオンは短く頷いた。
それだけで、十分だった。
——たぶん、これで終わりじゃない。
王都は、動く。
神殿も、きっと。
それでも。
私の隣には、村がある。
そして、あの人がいる。
レオンは、去っていく王太子の背を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……次は、俺が前に出る」
——次話「疫病の影」――王都を揺らす決断が始まる。