——王都を襲った疫病。
咳が、街の角を曲がってくる。
乾いた咳。湿った咳。喉の奥を削る咳。
それに混じって、死の匂いがする。
王都の冬は、いつもなら香辛料と焼き菓子の甘さで満ちる。
だが今日は違った。
濡れた布と吐瀉、汗が冷えた酸っぱい臭いが、石畳の隙間にまで染みている。
道端の男が膝をつき、手のひらに赤黒い痰を吐いた。
隣の女は、子どもの額に手を当てたまま動かない。
目だけが、助けを探して彷徨っている。
「……神殿へ。神殿へ行けば、治してもらえる」
誰かが囁き、その言葉だけが、まだ信仰の形を保っていた。
大神殿の白い階段は、いまや病人の川だった。
毛布に包まれた者。
歩けず、板に縛られた者。
咳のたびに胸を押さえ、指の間から血を滲ませる者。
祈りの像の足元にまで、人が横たわる。
吐息が重なり、空気がぬるく、湿って、粘つく。
「順番だ! 押すな!」
神官見習いが叫ぶ。
だが声はすぐ、咳と呻きに飲み込まれた。
人々の視線が、神殿の扉へ突き刺さっている。
いつもなら、そこから“新聖女候補”が現れ、眩い治癒で奇跡を見せるはずだった。
けれど。
扉は開かない。
白い衣は、現れない。
代わりに出てきたのは、焦りで頬を強張らせた大神官ヴェルナーだった。
「静粛に! 神の御名のもと、治癒を——」
彼は手を掲げ、魔力を集める。
いつもなら温かな光が、病を押し流す。
だが、今日は。
淡い光が、指先でぱちりと弾けただけだった。
倒れた男の咳は止まらない。
女の子の唇は紫のまま。
ヴェルナーの額に汗が浮かぶ。
「なぜ……なぜ治癒魔法が効かない……!」
もう一度。
もう一度。
彼は詠唱を重ねた。
光は出る。確かに出る。
けれど、それは皮膚を撫でるだけの、無力な灯だった。
「お、おかしい……神の加護が……」
ヴェルナーは言い訳を探すように視線を泳がせる。
背後から、副神官が扉の影に顔を覗かせた。
「大神官様、祈祷を続けてください。民の不安を煽るわけには……」
声は小さい。
しかし、その声にも恐怖が滲んでいた。
列の先で、誰かが叫んだ。
「治ってない! 全然、治ってないじゃないか!」
「昨日、ここで金を払った! 神殿の水を飲んだ! なのに母が死んだ!」
「嘘だ……神殿は嘘つきだ……!」
不信の言葉が、吹き溜まりの雪のように積もっていく。
そして、その上に。
最も鋭い刃の問いが落ちた。
「聖女様がいれば……!」
「……聖女を追い出したのは、誰だ?」
ざわり、と列が波打つ。
病に濁った目が、別の色を帯びる。
怒りだ。
「神殿だろ!」
「王宮もだ!」
「大神官が、あの子を——」
ヴェルナーの喉が鳴った。
「ち、違う! 私は——私は、神の意思に従っただけだ!」
言った瞬間、彼は気づいた。
それが、いちばん人を怒らせる言葉だと。
王宮の回廊は、香が焚かれていた。
だが香りは、外から持ち込まれる腐臭を隠しきれない。
セドリックは窓際に立ち、手袋越しに指を噛んだ。
遠くの鐘の音が、いつもより低く聞こえる。
「報告します」
侍従が膝をついた。
「死者が増え続けています。今日だけで……昨夜の倍です。感染は下町から、商業区へ——」
“倍”。
その言葉が、セドリックの胃を掴んで捻じった。
神殿が治せない。
兵が封鎖しても、咳は壁を越える。
人は祈りに向かい、祈りが崩れた瞬間——怒りは統治へ向かう。
「神殿は?」
セドリックが問う。
侍従は、目を伏せた。
「……治癒は効きません。大神官ヴェルナーが現場で指揮を取っていますが、混乱しています」
混乱。
その二文字が、過去の光景を呼び起こす。
淡い金髪の少女。
怯えながらも、誰よりも必死に手を伸ばしていた。
あの手を。
自分たちは、叩き落とした。
「……彼女がいれば、救えたのか」
呟きは、喉の奥で血の味になった。
セドリックは踵を返し、大神官のもとへ向かう。
いま必要なのは、責任の所在ではない。
対策だ。
だが。
彼の胸の底で、別の声が蠢いていた。
“報いだ”。
それが自分の心にあると知った瞬間、セドリックは自分自身を嫌悪した。
大神官の執務室は、分厚い絨毯と金の装飾で、外の現実から隔絶されている。
セドリックが扉を開けると、大神官は既に言葉を用意していた。
「これは神の試練——」
「試練で済む数ではありません」
セドリックが遮る。
大神官の眉がわずかに動いた。
「王太子殿下。民は弱い。恐れれば、秩序を失う。ゆえに、神殿は“意味”を与える必要が——」
「意味より、薬と隔離と、水です」
セドリックの声が硬くなる。
大神官は、口元だけで笑った。
「治癒が効かぬのは、信仰が薄れたからだ。民が悔い改めれば——」
その瞬間。
窓の外から、怒号が突き刺さった。
「嘘をつくな!」
「神のせいにするな!」
「聖女様を返せ!」
セドリックは窓へ駆け寄る。
広場に、黒い人の塊が渦を巻いていた。
松明の煙が、冬空を灰色に染める。
先頭の男が、布で口を押さえながら叫ぶ。
「俺の子は死んだ! 神殿の階段で、誰にも触れられないまま!」
「金を取ったくせに、何も治せない!」
「“新聖女候補”だの、神の器だの——結局、必要なのはあの人だったんだ!」
あの人。
名前が出ないのに、誰のことか分かってしまう。
大神官の顔色が変わる。
「兵を出せ。鎮圧しろ」
「鎮圧して、病が止まるのですか」
セドリックが言う。
大神官の視線が冷たく刺さる。
「殿下。責任を問われるのは神殿だけではない。王宮も同じだ」
脅し。
セドリックは歯を食いしばる。
外では、石が飛んだ。
神殿の紋章が刻まれた門に当たり、乾いた音が鳴る。
人々は笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
「ざまあみろ!」
その言葉が、冬の空気を割った。
病に苦しみながら。
それでも。
自分たちを見下していた者が、震えているのを見て——胸の奥が少しだけ温まる。
それが、群れの感情だった。
神殿前。
ヴェルナーは、階段の上で立ち尽くしていた。
治癒は効かない。
祈りは届かない。
列は、もう列ではなかった。
押し合い、奪い合い、倒れた者を踏む。
「離れろ! 秩序を守れ!」
ヴェルナーが叫ぶ。
返ってきたのは、咳と怒りと、罵声だった。
「秩序? 俺たちの秩序はどこにあった!」
「お前らが追い出したんだろ!」
「聖女様は、どこだ!」
ヴェルナーの脳裏に、少女の顔が浮かぶ。
淡い金の髪。
痩せた肩。
手のひらの光。
“必要なのは彼女だった”。
その事実が、喉に刺さった棘みたいに抜けない。
だが、彼はそれを飲み込む。
「……神が、神がそうお望みだった!」
言い切った瞬間。
群衆の目が、一斉に冷える。
「神のせいにするな」
誰かの声が低く落ちた。
その次の瞬間、汚れた雪玉が飛んできて、ヴェルナーの頬を叩いた。
冷たさより、屈辱が熱い。
「……っ!」
神官たちが盾を構える。
だが盾は、病からは守ってくれない。
咳は近づき、熱は広がり、恐怖は伝染する。
ヴェルナーは足を一歩引いた。
階段の端。
そこに転がっていたのは、金の杯だった。
施しの水を入れるために用意したもの。
空だ。
空っぽで、冷たい。
神殿の“象徴”みたいに。
王都から数日。
リンデン村へ続く街道の宿で、旅商人が囁いた。
「王都が病で埋まってる。咳ひとつで倒れるってよ」
酒場の空気が、ひゅっと細くなる。
「神殿は?」
誰かが訊いた。
旅商人は、肩をすくめた。
「治せねえってさ。……聖女を追い出した罰だって、皆が言ってる」
罰。
その言葉は、娯楽みたいに転がり、やがて不安の底へ沈む。
「じゃあ、こっちにも来るのか?」
「風向き次第だ。荷も人も動く。病も動く」
旅商人は、暖炉の火を見つめた。
「王都は封鎖したらしい。けど、封鎖ってのは遅いんだ。咳は先に旅をする」
店の隅で、粗末な外套を着た若い男が黙って立ち上がった。
視線は、窓の外——雪の向こうを見ている。
丘の向こう。
村の外れに、一軒の家がある。
傷ついた者を癒す手が、そこにいる。
人々はまだ、その価値を知らない。
だが。
王都の疫病の影が、白い息となって街道を渡り——いま、確実に村へ近づいていた。
——次話「選ぶのは私」――次の一手が、運命を動かす。