——王都を襲う疫病。
また「大丈夫」って言わなきゃ……。
そう思った瞬間、喉がきゅっと縮んで、息の通り道が細くなった。
冬の朝の空気は冷たいのに、胸の奥だけが熱くて、痛い。
村の掲示板の前には、人が集まっていた。
いつもなら収穫祭の余韻や、畑の相談の声が混じる場所。
今日は、乾いた紙の擦れる音しか聞こえない。
貼り出された手紙は、王都からの早馬便。
封蝋の欠けた赤が、黒い文字の間で不気味に光っていた。
「……疫病」
誰かが読んだ一言が、霜みたいに空気に落ちる。
次の言葉は、耳に入ってこなかった。
入ってきたとしても、私の中で別の音にすり替わってしまう。
行かなきゃ。
行かなきゃ。
行かなきゃ——。
私は外套の袖の内側を、爪で押した。
布は厚いのに、手の甲が冷えていく。
息を吐くたび、白い靄が目の前に溜まって、視界が曇る。
「凛ちゃん?」
エルザさんの声が、背中から触れた。
私は振り向く前に、口が勝手に動いていた。
「だ、大丈夫です」
言い慣れた言葉。
その言葉が口から出るたび、私の体温が一度下がる気がする。
エルザさんは眉を少しだけ下げて、私の手元を見る。
袖の中で握りしめた拳が、ほどけないのが分かったのだと思う。
「……うちにおいで。まず、あったかいの飲も」
命令じゃない。
“当たり前”の誘い方。
それが、今の私には眩しい。
台所は、薪の匂いで満ちていた。
鍋の中で煮える根菜の甘い湯気が、鼻の奥を柔らかく撫でる。
指先に残っていた冷えが、器の陶器の温度に少しずつ溶けた。
でも、胸の奥の固さだけは、溶けない。
「王都……大変なんだろうね」
エルザさんが椅子に腰を下ろして、私の向かいに湯気の立つ茶を置いた。
指の節が赤い。
この人はいつも、温かいものを作る手で、自分を後回しにする。
それでも、私にだけは“頑張れ”と言わない。
私は茶を見つめたまま、言葉を探した。
探すほど、古い言葉が先に出てくる。
「……私が、行けば」
聖女として、できることがある。
そう言えば、全部片付く気がした。
誰かが褒めてくれるかもしれない。
誰かが許してくれるかもしれない。
そして私は、また自分を使い切って、空っぽになれる。
——それが、怖いのに。
「凛ちゃん」
エルザさんは、私の名をゆっくり呼んだ。
その速度は、私の心の暴走を止めるための速度だった。
「無理しなくていいんだよ」
その言葉が、器の温度より先に私の胸を温めた。
同時に、罪悪感が刺さる。
無理しなくていい。
そう言われるほど、私の中の“しなきゃ”が騒ぐ。
「でも……私、聖女で……」
口にした瞬間、自分の声が遠くなる。
聖女。
それは私の名前じゃない。
私の役割の札だ。
「うん。そうだね」
エルザさんは否定しなかった。
否定されないから、私の中の言い訳が崩れる。
「でもね、凛ちゃん。聖女でも、凛ちゃんでも」
彼女は息を吸って、言葉を置く場所を選ぶみたいに続けた。
「選んでいいんだよ。行かなくても、ここにいても。……あたしは、変わらず好きさね」
好き。
その音の柔らかさに、喉の奥が痛くなる。
好きは条件じゃない。
役に立ったときだけ貰える褒美じゃない。
私は、湯気の向こうで瞬きをした。
涙が落ちる前に、まぶたの裏へ押し込む癖が、まだ抜けない。
「……わかりません。私、どうしたら」
分からないと言いながら、私の頭の中では、もう答えが決まっているみたいに繰り返される。
行かなきゃ。
行かなきゃ。
その音が、私の心臓の鼓動と重なって、息が苦しくなる。
戸が鳴ったのは、昼前だった。
風が板壁を撫でる音に混じって、短いノックが二回。
エルザさんが立ち上がるより先に、私は反射で背筋を伸ばした。
誰かが“必要”と言ってくれるのを、待ってしまう癖。
扉が開いて、冷気と一緒にレオンが入ってくる。
肩に積もった粉雪を払う指が、無駄がない。
視線だけが一瞬、私の顔に止まって、すぐに逸れた。
「聞いた」
それだけ。
けれど、その短さが、逃げ道を作らない。
私は、椅子の背を握った。
指の関節が白くなる。
「……私が行けば、助かる人がいると思います」
口にしながら、胸が薄くなる。
“助かる”の向こうに、私が“消えていく”未来が見えたから。
エルザさんは黙って、台所の奥へ下がった。
鍋の火を弱めるふりをして、私たちの間に場所を作ってくれる。
見守り方が、あたたかい。
レオンは、私の前の椅子を引いた。
座った。
見下ろさない距離。
逃げない距離。
しばらく、薪の爆ぜる音だけがした。
私はその音に合わせて呼吸を整えようとして、うまくできない。
「凛」
呼ばれた瞬間、背中がぞくりとした。
いつもなら「レオンさん」と呼ぶ私が、今日は、彼に名前で呼ばれている。
名を呼ばれるのは、役割を呼ばれるのと違う。
レオンは、膝の上で指を組み直してから、言った。
「行くなとは言わない。でも聞く。'行かなきゃ'か、'行きたい'か」
その言葉は、刃じゃなかった。
でも、霧を切る。
私は息を止めた。
“行かなきゃ”は、私の中で簡単に言える。
言えば、みんなが安心する。
言えば、私はまた“聖女”になれる。
“行きたい”は——。
怖い。
自分の欲を、口にするのが怖い。
欲を選んで、誰かが傷ついたら?
欲を選んで、失敗したら?
その責任を、私は一人で抱えられるの?
それでも。
私は、王都の石畳の冷たさを思い出した。
大神殿の白い壁の眩しさ。
祈り《いのり》の間で、誰にも触れられない孤独。
そして——追い出された夜の、凍える手。
今の私は、ここで温かい茶を飲んでいる。
エルザさんの「好き」を知っている。
畑の土の匂いを知っている。
眠っていい夜を、知ってしまった。
だから、戻るのが怖い。
怖いからこそ、私は気づく。
私がいま一番怖いのは、“戻ること”じゃない。
“選ばずに戻ること”だ。
息を吐いた。
白い靄が、いつもより少しだけ薄い。
「……行かなきゃ、って言えば楽です」
声が震えた。
恥ずかしい震えじゃない。
長い間、閉めていた扉の蝶番が軋む震え。
「でも、それだと……また、私が私じゃなくなる」
レオンは何も言わない。
頷きもしない。
ただ、逃げずに見ている。
その視線が、私に“選べ”と命じない。
選ぶのは私だと、静かに返してくる。
私は唇を噛んで、言葉の形を作った。
口に出すのが怖いほど、そこに自分がいる。
「……行きたい、です。私のやり方で」
言った瞬間。
胸の奥の固い塊が、ふっと軽くなった。
体の中に、空気の通る道ができる。
息が、入る。
ちゃんと、入る。
しばらく、薪の音だけが続いた。
レオンは目を伏せて、ひとつ息を吐いた。
それから、短く言う。
「なら俺も行く。あんたのやり方を、見届ける」
“守る”じゃない。
“連れていく”でもない。
見届ける。
その言葉が、私の背中に手を置くみたいだった。
押さない。
引かない。
ただ、そこにいる。
「……レオン」
呼び捨てにした自分に、少し驚いた。
でも、その驚きは嫌じゃなかった。
口元が、痛いくらいに緩む。
エルザさんが、台所の奥から戻ってきた。
目が少し赤いのに、笑っている。
「決まったんだね。……凛ちゃん」
私は頷いた。
頷きは、前より速い。
迷いが消えたわけじゃない。
怖さがなくなったわけでもない。
それでも、私の中に一本、芯が立った。
「はい。……でも、無理はしません。私のやり方で、やります」
“しなきゃ”じゃなくて、“する”。
言い換えただけなのに、指先が温かい。
「それでいいさね」
エルザさんは私の頭を撫でた。
手のひらが、あったかい。
その温度は、私の決意を溶かさない。
守るみたいに、包むだけだ。
準備は、思っていたより現実的だった。
外套のほつれを縫い直す針の感触。
乾燥させた薬草の匂い。
水袋の革が軋む音。
荷物を分けるたび、私は自分の体の重さを確かめる。
“全部背負わない”ために、分ける。
誰かに預ける。
一人で抱えない。
それが、私のやり方。
レオンは無駄なものを持たない人なのに、今回は包みをひとつ増やした。
中身を聞くと、短く言う。
「手が冷えるだろ」
差し出されたのは、指先まで覆う厚手の手袋。
毛糸の編み目が少し不揃いで、たぶん村の誰かの手。
私はそれを受け取って、指で撫でた。
ざらりとして、優しい。
「……ありがとうございます」
礼を言う声は、前よりも自分のものだ。
窓の外で、風が鳴った。
遠い空の色が、薄い鉛みたいに沈んでいる。
あの向こうに、王都がある。
そこに、今、誰かの“行かなきゃ”が積もっている。
私は荷物の紐を結びながら、最後に心の中で確かめた。
行かなきゃ、じゃない。
行きたい。
私が、私として。
「明日の朝、出る」
レオンの声が、薪の火みたいに低く響いた。
命令じゃない。
決めた私に、合わせる段取り。
私は頷く。
外套の内側で、手袋を握りしめる。
その温度が、まだここにある居場所を覚えている。
だから、戻ってこれる気がした。
夜更け。
村の鐘が一度だけ鳴った。
風の向きが変わって、遠くの空気が、わずかに鉄の匂いを運んでくる。
王都で、何かが待っている。
祈り《いのり》の声が、裂けるような夜が——。
それでも私は、布団の中で目を閉じた。
逃げるためじゃない。
明日、自分の足で歩くために。
——次話「聖女の帰還——条件付き」――王都を揺らす決断が始まる。