——戻るのは聖女としてじゃない。命を削る治癒は、もう二度としない。
王宮の扉は、開く音さえ威圧する。
けれど今日は、飲み込まれない。
私は“連れ戻され”に来たんじゃない。自分の意思で、ここへ来た。
謁見の間は、冬の井戸の底みたいに冷たかった。
赤い絨毯の先に玉座。左右に並ぶ貴族の視線。
私は一歩前へ出る。
背後に、黒い影が寄り添った。
レオンは何も言わない。
ただ、そこに立つだけで、「凛を押さえつけるなら覚悟しろ」と場に刻む。
「……聖女殿」
セドリックが目を見開き、ヴェルナーが息を呑んだ。
騎士団長と大神官。私を“使う側”だった二人が、今は“助けてくれ”という顔をしている。
「戻ってきてくれたのか!」
ヴェルナーの声が弾む。嬉しさより、安堵が先にある。
私は笑わない。
笑えばまた、“いい子の聖女”に戻される。
「戻りました。ただし、条件があります」
空気がざわめいた。
セドリックが一拍置き、背筋を伸ばしたまま言う。
「条件を聞こう」
私は玉座の王へ視線を上げた。
王は無言のまま、続きを促す。
「命は削りません」
「な——」
ヴェルナーの声が割れた。
「治癒魔法は使いません。今回の疫病には」
胸の奥がひりつく。
光を出せば、目の前は“綺麗”になる。けれど、私は削れて、倒れて、また言われる。
代わりは? と。
もう、繰り返さない。
「私のやり方でやります」
言い切ると、レオンの気配が一段重くなった。
無言の圧が、私の言葉を“交渉の札”にする。
「嫌なら今すぐ、村に帰ります」
その一言で、貴族の背筋が揃った。
“聖女”が席を立つという意味を、全員が知っている。
ヴェルナーが踏み出す。
「何を言って——! 聖女殿、貴女は——」
「黙れ」
低い声が、間を切った。
王が片手を上げるだけで、ヴェルナーは言葉を飲み込む。
「聖女殿の条件を聞こう」
王の視線は、値踏みではない。
私を“相手”として扱う目だ。
セドリックが頷いた。
「承諾する。聖女殿の条件を受け入れる」
ヴェルナーが信じられない顔で叫ぶ。
「セドリック! 疫病だぞ! 治癒なしで——」
「だからだ」
セドリックは短く切った。
「治せば終わると思った。結果はこの有様だ」
私は息を吸って、言葉を置く。
「では始めます。まず必要なのは——石鹸と清潔な布です」
沈黙が落ちた。
次に、困惑のざわめき。
「石鹸……?」
ヴェルナーが呆けたように繰り返す。
「手を洗うためです」
私は淡々と言った。
「布は拭くため。洗って、煮沸して、干して、また使う。共有の桶は廃止。飲み水と洗い水を分ける」
「そんなことで——」
「変わります」
私は遮った。
「疫病は、祈りより先に“触れる”で広がる。なら、触れ方を変える」
言い切ると、レオンの背後の静けさが、さらに深くなる。
誰も私を笑えない空気。
私は続けた。
「症状が出た者は隔離。看病する者は固定。出入り口は一つ。出るときに手と靴を洗う場所を作る。記録係を置いて、接触を追う」
私は、先に刺す。
「貴族の屋敷も例外にしない。王族も例外にしない。従えないなら、私は帰ります」
凍りつくほど静まり返る。
その静寂の中心で、王が頷いた。
「良い。聖女殿の条件を受け入れる」
玉座の言葉が、命令になる。
セドリックが深く頭を下げた。
「物資と人員を動かす。聖女殿の指示に従う」
ヴェルナーは唇を噛み、遅れて頷いた。
「……承知、した」
私は一度だけ息を吐く。これは勝ち負けじゃない。私のやり方を、私の条件で通しただけだ。
謁見の間を出た廊下で、指先の震えに気づいた。
怖かった。けれど、怖いまま言えた。
隣を歩くレオンが、ぽつりと言う。
「折れなかったな」
「折れたら、また元に戻る。……それだけは嫌です」
レオンは短く頷く。
「まず病舎を見ます」
私は言った。
「入口、洗い場、隔離の区画。今日中に作る。石鹸は工房へ。なければ作ります。油と灰があればいい」
「護衛をつける」
「要りません」
私は首を振る。
「必要なのは運び屋です。布と水と薪を運べる人を。命を救うのは、光じゃない。手と道具です」
レオンの口元がわずかに動いた。
「了解だ。……聖女殿」
私は一度だけ足を止め、言った。
「呼ぶなら、凛でいいです」
その瞬間、胸の奥が熱くなる。
鎖だった肩書きが、今日はただの札になった。
曲がり角の先から、薬草と汗の匂いが流れてきた。
咳が、重なって聞こえる。
私は病舎の扉に手をかける。
ここから先は、私の奇跡の領分だ。
——石鹸と、清潔な布。
扉を押し開けた瞬間、王都の疫病対策が始動した。
——次話「前世の知恵」――王都を揺らす決断が始まる。