——王都の病棟で疫病が広がる。
王都の病棟は、祈りと悲鳴の境目みたいな音で満ちていた。
咳が壁を叩き、吐息が床を這う。
治癒の光が一度でも灯れば、皆がそれだけに縋りつく。
だからこそ、私は最初に「光」を消した。
「まず全員、手を洗ってください」
私の声は、忙しさに溺れかけた空気を切った。
桶の水が一つ。布切れが数枚。石鹸は少ない。
それでも、最初にやるべきは決まっている。
「洗う場所を入口に作ります。ここから先に入る人は、必ず手を洗って」
「水が冷たいなら、灰でもいい。爪の間、指の股まで。短く、強く」
看護役の女が戸惑いながら頷いた。
しかし、その横で、治癒師の男が眉を吊り上げる。
「聖女がいるというのに、手洗いだと?」
「魔法を使わないとは何事か。患者は今、苦しんでいる」
視線が私に刺さる。
“奇跡”を求める目。慣れている。慣れてしまっている。
私は息を吸って、指揮官の声を選んだ。
「苦しんでいるからこそ、広げない。治すより先に、増やさない」
「……増やす?」
「病は、目に見えない“種”で移ります。咳の飛沫、吐瀉物、汚れた手。特に手です」
「手は、いちばん働く。いちばん触れる。いちばん運ぶ」
治癒師は鼻で笑った。
「目に見えぬ種など……」
「見えないから厄介なんです」
私は視線を逸らさず、続ける。
「次。煮沸した水以外、飲まないで」
「患者にも看護にも同じ。水桶は全部、使い分けます。飲み水用、手洗い用、汚物処理用。混ぜない」
「煮沸など、時間の無駄だ。聖水がある」
「聖水も、沸かします」
ざわり、と騒ぎが大きくなる。
神殿の者が顔を赤くした。
「冒涜だぞ!」
私は首を横に振った。
冒涜ではない。むしろ、信仰を守るための手段だ。
「神を信じるなら、神が与えた火も信じてください。水は沸かせば安全になります。病の種は熱に弱い」
「……根拠は?」
「前世で学んだ方法です。信じてください」
私がそう言った瞬間、空気が一瞬だけ静まった。
“前世”という言葉は、ここでは切り札だ。
私はそれを乱用しない。
けれど今日は、乱用してでも止める必要がある。
「そして、いちばん大事。患者を分けて隔離します」
私は病棟の奥を指した。
狭い一室に咳の者も、熱の者も、下痢の者も、ただ怯えるだけの者も混ざっている。
混ざれば増える。増えれば死ぬ。
「熱と咳がある人は右の部屋。下痢や嘔吐がある人は左。症状のない付き添いは、ここから先に入れない」
「そんなことをしたら、不安で暴れるぞ!」
「暴れるのは、生きたいからです。なら、生きるための形を与える」
「隔離は罰じゃない。保護です」
言いながら、私は布を裂いて腕章を作らせた。
赤は“汚染区域”。白は“清潔区域”。青は“搬送”。
看護役に配置を決め、動線を引く。
床に灰で線を引き、ここから先は赤、と決める。
赤を踏んだ靴で白に戻らない。
「……そんな線で病が止まるものか」
治癒師が呟く。
私は即答した。
「線が止めるんじゃない。人の動きが止めるんです」
彼の目が揺れた。
“奇跡”ではなく“仕組み”だと、理解し始めた目だった。
釜の火は、午後になっても消えなかった。
沸いた湯がぽこぽこと音を立て、蒸気が天井の梁に溜まる。
鍋は二つ。布は足りない。石鹸はもっと足りない。
足りないなら、決める。
優先順位を決めて、守る。
「包帯は煮てから使います。使い回しはしない。どうしても足りないなら、煮て干して、煮てから」
「タオルも。患者の顔を拭く布と、床を拭く布を同じにしないで」
看護役たちは最初、顔をしかめた。
そんな細かいことを、今この状況で。
その気持ちはわかる。前世でも、私は何度も聞いた。
「忙しいんだから仕方ない」と。
けれど、仕方ないで増えるのが感染だ。
“忙しい”は免罪符にならない。
「凛、物資だ」
入り口のほうで、低い声がした。
振り向くと、レオンが汗と埃にまみれて立っている。
背後には荷車。樽、薪、粗い布、縄。
そして数名の騎士が、怯える民を押しとどめていた。
「外で揉めてる。『聖女に触れさせろ』だの『薬を寄こせ』だの。門前で押し合いになりかけた」
「怪我人は?」
「出してない。……まだな」
“まだ”の意味がわかる。
暴力は感染より早いことがある。
「ありがとう、レオン。次は桶を増やしたい。手洗い用と飲み水用。あと、石鹸か、代わりになる油と灰」
「手洗いを、ここまで徹底するのか」
「手は、武器です。救う武器にも、殺す武器にもなる」
「……わかった」
レオンは短く頷き、騎士に指示を飛ばした。
言葉が早い。迷いがない。
私が線を引けば、彼は柵を立てる。
「それと、隔離の部屋に見張りが要る。逃げる人を責めないで。戻れなくなるのが怖いだけ」
「戻れると保証できるのか」
「保証はできない。でも、戻れる可能性を上げられる」
私は胸の内で、別の言葉を飲み込んだ。
“治癒魔法で全部治せば早い”という声。
その声に、私は何度も殺されかけた。
私の奇跡は有限だ。
そして、奇跡がある世界でも、病は仕組みで広がる。
なら、仕組みで止めるべきだ。
三日目。
病棟の記録板に、新しい印が減り始めた。
初日は、線を引いても、桶を置いても、混乱が勝った。
手を洗わずに入ろうとする者がいて、怒鳴り合いになり。
隔離を嫌がって暴れた患者がいて、騎士が押さえつけ。
その騒ぎの中で、私は何度も叫んだ。
「洗って!」
「戻らないで!」
「その布は赤です、白に持ち込まない!」
喉が枯れた。
でも、枯れたぶんだけ、仕組みは人の身体に染み込む。
二日目には、看護役が看護役を叱り。
三日目には、患者の付き添いが自分から手を洗った。
「……不思議だな」
治癒師が、隔離室の扉の前で呟いた。
彼はもう、私に噛みつく顔をしていない。
「新しい患者が、昨日より少ない」
「不思議じゃないです」
私は板に指を滑らせた。
熱、咳、下痢、嘔吐。
数が減っている。特に、病棟に入ってから発症する者が減っている。
つまり、病棟内の感染が止まり始めた。
「ここは“治す場所”である前に、“うつさない場所”でなきゃいけない」
「……魔法より、効くのか」
私は首を振る。
魔法が効かないとは言わない。
ただ、魔法は“点”だ。ここで一人を救う光。
私がやっているのは“面”だ。街全体を救う形。
「魔法が勝つこともあります。でも、魔法は枯れます。手洗いは枯れない」
「……聖女の言葉とは思えない」
「聖女だから言うんです。枯れた人間を、もう増やしたくないから」
私の声は自分の耳にも硬かった。
けれど、硬い言葉が必要な日がある。
優しさは、仕組みの上にしか立てない。
夕方、病棟の外で歓声が上がった。
「聖女様の奇跡だ!」
「病が引いていく! やはり聖女様は本物だ!」
私は扉の隙間から、その騒ぎを見た。
群衆の顔は明るい。救われたい顔だ。
だからこそ、言うべき言葉がある。
私は外に出て、階段の上に立った。
レオンが半歩後ろに立ち、騎士が左右に広がって道を作る。
「皆さん」
ざわめきが、波のように引いた。
幾百の目が私を射抜く。祈りの矢だ。
「奇跡じゃありません」
最初の一言で、空気が固まる。
怒りが来る前に、私は続けた。
「これは知恵です。手洗い、隔離、煮沸。誰にでもできます」
「聖女様がやったから——」
「私がやったのは、指示です。皆さんの手が、皆さんの家族を守りました」
誰かが口を開きかける。
私はそれを待たず、言葉を積む。
「お願いがあります。今日から、家でも同じことをしてください」
「井戸水は沸かしてから。食器は熱い湯で。看病の前後は手を洗う。咳が出る人は、人から離れて休む」
「病の人を責めないで。責めると隠します。隠すと広がります」
群衆の中で、年配の女が涙を拭いた。
若い男が唇を噛み、頷いた。
理解は、祈りより遅い。
けれど、一度届けば強い。
レオンが小さく言った。
「……外での混乱は抑えられる。今の言い方なら、真似できると皆が思う」
「思わせるのが目的です」
「奇跡を否定して、怖くならないのか」
「怖いです」
私は正直に言った。
奇跡を求められるのは怖い。
奇跡を否定して失望されるのも怖い。
でも、怖さの種類を選ぶなら。
「でも、奇跡だと思われたら終わりです。次も、私が燃える」
レオンの目が、少しだけ柔らかくなった。
そして、いつもの不器用な声で言う。
「燃やさせない。物資も、人も、俺が回す」
「じゃあ私は、仕組みを回す」
それでいい。
英雄は一人で立つものじゃない。
役割が噛み合えば、街は救える。
夜。
病棟の灯りは、昨日より少しだけ静かだった。
咳の音はまだある。熱にうなされる声もある。
それでも——新しい悲鳴が減っている。
私は記録板の前で、指先を握ったり開いたりした。
前世の癖だ。数字が減ると、身体が先に反応する。
夜勤を回し、動線を整え、消毒を徹底し、感染を減らす。
当たり前の積み重ね。
当たり前が、いちばん難しい。
「……止まる」
呟くと、隣で看護役の女が頷いた。
「ええ。止まります。……聖女様が、奇跡じゃなくて、やり方を残してくださるから」
私は首を振る。
残すのは“私”じゃない。
この病棟で手を洗い続けた人たちだ。
隔離を守った人たちだ。
湯を沸かし続けた人たちだ。
「明日から、病棟だけじゃ足りません」
「街へ、ですか」
「はい。市場と酒場。井戸と共同便所。そこに“病の種”は落ちます」
前世の知恵は、魔法ではない。
だから、信じるだけでは足りない。
やるしかない。
扉の向こうで、レオンの足音が止まった。
彼が短く報告する。
「外の咳は、減ってきてる。今夜は暴動の気配もない」
私は頷いた。
胸の奥の硬い塊が、少しだけほどける。
疫病の勢いは、確かに——収まり始めていた。
——次話「大神官の仮面」――ざまぁの歯車が、さらに加速する。