S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第23話: 前世の知恵

第2アーク · 4,019文字 · draft

——王都の病棟で疫病が広がる。

王都の病棟(びょうとう)は、祈りと悲鳴の境目みたいな音で満ちていた。
 咳(せき)が壁を叩き、吐息が床を這う。
 治癒の光が一度でも灯れば、皆がそれだけに縋(すが)りつく。
 だからこそ、私は最初に「光」を消した。

「まず全員、手を洗ってください」

私の声は、忙しさに溺れかけた空気を切った。
 桶(おけ)の水が一つ。布切れが数枚。石鹸(せっけん)は少ない。
 それでも、最初にやるべきは決まっている。

「洗う場所を入口に作ります。ここから先に入る人は、必ず手を洗って」
 「水が冷たいなら、灰(はい)でもいい。爪の間、指の股(また)まで。短く、強く」

看護役の女が戸惑いながら頷いた。
 しかし、その横で、治癒師(ちゆし)の男が眉を吊り上げる。

「聖女がいるというのに、手洗いだと?」
 「魔法を使わないとは何事か。患者は今、苦しんでいる」

視線が私に刺さる。
 “奇跡”を求める目。慣れている。慣れてしまっている。

私は息を吸って、指揮官の声を選んだ。

「苦しんでいるからこそ、広げない。治すより先に、増やさない」
 「……増やす?」

「病は、目に見えない“種”で移ります。咳の飛沫(ひまつ)、吐瀉物(としゃぶつ)、汚れた手。特に手です」
 「手は、いちばん働く。いちばん触れる。いちばん運ぶ」

治癒師は鼻で笑った。
 「目に見えぬ種など……」

「見えないから厄介なんです」

私は視線を逸らさず、続ける。

「次。煮沸(しゃふつ)した水以外、飲まないで」
 「患者にも看護にも同じ。水桶は全部、使い分けます。飲み水用、手洗い用、汚物処理用。混ぜない」

「煮沸など、時間の無駄だ。聖水がある」
 「聖水も、沸かします」

ざわり、と騒ぎが大きくなる。
 神殿の者が顔を赤くした。

「冒涜(ぼうとく)だぞ!」

私は首を横に振った。
 冒涜ではない。むしろ、信仰を守るための手段だ。

「神を信じるなら、神が与えた火も信じてください。水は沸かせば安全になります。病の種は熱に弱い」
 「……根拠は?」

「前世で学んだ方法です。信じてください」

私がそう言った瞬間、空気が一瞬だけ静まった。
 “前世”という言葉は、ここでは切り札だ。
 私はそれを乱用しない。
 けれど今日は、乱用してでも止める必要がある。

「そして、いちばん大事。患者を分けて隔離(かくり)します」

私は病棟の奥を指した。
 狭い一室に咳の者も、熱の者も、下痢の者も、ただ怯えるだけの者も混ざっている。
 混ざれば増える。増えれば死ぬ。

「熱と咳がある人は右の部屋。下痢や嘔吐(おうと)がある人は左。症状のない付き添いは、ここから先に入れない」
 「そんなことをしたら、不安で暴れるぞ!」

「暴れるのは、生きたいからです。なら、生きるための形を与える」
 「隔離は罰じゃない。保護です」

言いながら、私は布を裂いて腕章(わんしょう)を作らせた。
 赤は“汚染区域”。白は“清潔区域”。青は“搬送”。
 看護役に配置を決め、動線(どうせん)を引く。
 床に灰で線を引き、ここから先は赤、と決める。
 赤を踏んだ靴で白に戻らない。

「……そんな線で病が止まるものか」

治癒師が呟く。
 私は即答した。

「線が止めるんじゃない。人の動きが止めるんです」

彼の目が揺れた。
 “奇跡”ではなく“仕組み”だと、理解し始めた目だった。


釜(かま)の火は、午後になっても消えなかった。
 沸いた湯がぽこぽこと音を立て、蒸気が天井の梁(はり)に溜まる。
 鍋は二つ。布は足りない。石鹸はもっと足りない。
 足りないなら、決める。
 優先順位を決めて、守る。

「包帯は煮てから使います。使い回しはしない。どうしても足りないなら、煮て干して、煮てから」
 「タオルも。患者の顔を拭く布と、床を拭く布を同じにしないで」

看護役たちは最初、顔をしかめた。
 そんな細かいことを、今この状況で。
 その気持ちはわかる。前世でも、私は何度も聞いた。
 「忙しいんだから仕方ない」と。

けれど、仕方ないで増えるのが感染だ。
 “忙しい”は免罪符にならない。

「凛、物資だ」

入り口のほうで、低い声がした。
 振り向くと、レオンが汗と埃(ほこり)にまみれて立っている。
 背後には荷車(にぐるま)。樽(たる)、薪、粗い布、縄。
 そして数名の騎士が、怯える民を押しとどめていた。

「外で揉(も)めてる。『聖女に触れさせろ』だの『薬を寄こせ』だの。門前で押し合いになりかけた」
 「怪我人は?」
 「出してない。……まだな」

“まだ”の意味がわかる。
 暴力は感染より早いことがある。

「ありがとう、レオン。次は桶を増やしたい。手洗い用と飲み水用。あと、石鹸か、代わりになる油と灰」
 「手洗いを、ここまで徹底するのか」

「手は、武器です。救う武器にも、殺す武器にもなる」
 「……わかった」

レオンは短く頷き、騎士に指示を飛ばした。
 言葉が早い。迷いがない。
 私が線を引けば、彼は柵(さく)を立てる。

「それと、隔離の部屋に見張りが要る。逃げる人を責めないで。戻れなくなるのが怖いだけ」
 「戻れると保証できるのか」
 「保証はできない。でも、戻れる可能性を上げられる」

私は胸の内で、別の言葉を飲み込んだ。
 “治癒魔法で全部治せば早い”という声。
 その声に、私は何度も殺されかけた。

私の奇跡は有限だ。
 そして、奇跡がある世界でも、病は仕組みで広がる。
 なら、仕組みで止めるべきだ。


三日目。
 病棟の記録板(きろくばん)に、新しい印が減り始めた。

初日は、線を引いても、桶を置いても、混乱が勝った。
 手を洗わずに入ろうとする者がいて、怒鳴り合いになり。
 隔離を嫌がって暴れた患者がいて、騎士が押さえつけ。
 その騒ぎの中で、私は何度も叫んだ。

「洗って!」
 「戻らないで!」
 「その布は赤です、白に持ち込まない!」

喉が枯れた。
 でも、枯れたぶんだけ、仕組みは人の身体に染み込む。
 二日目には、看護役が看護役を叱り。
 三日目には、患者の付き添いが自分から手を洗った。

「……不思議だな」

治癒師が、隔離室の扉の前で呟いた。
 彼はもう、私に噛みつく顔をしていない。

「新しい患者が、昨日より少ない」
 「不思議じゃないです」

私は板に指を滑らせた。
 熱、咳、下痢、嘔吐。
 数が減っている。特に、病棟に入ってから発症する者が減っている。
 つまり、病棟内の感染が止まり始めた。

「ここは“治す場所”である前に、“うつさない場所”でなきゃいけない」
 「……魔法より、効くのか」

私は首を振る。
 魔法が効かないとは言わない。
 ただ、魔法は“点”だ。ここで一人を救う光。
 私がやっているのは“面”だ。街全体を救う形。

「魔法が勝つこともあります。でも、魔法は枯れます。手洗いは枯れない」
 「……聖女の言葉とは思えない」

「聖女だから言うんです。枯れた人間を、もう増やしたくないから」

私の声は自分の耳にも硬かった。
 けれど、硬い言葉が必要な日がある。
 優しさは、仕組みの上にしか立てない。


夕方、病棟の外で歓声が上がった。

「聖女様の奇跡だ!」
 「病が引いていく! やはり聖女様は本物だ!」

私は扉の隙間から、その騒ぎを見た。
 群衆の顔は明るい。救われたい顔だ。
 だからこそ、言うべき言葉がある。

私は外に出て、階段の上に立った。
 レオンが半歩後ろに立ち、騎士が左右に広がって道を作る。

「皆さん」

ざわめきが、波のように引いた。
 幾百の目が私を射抜く。祈りの矢だ。

「奇跡じゃありません」

最初の一言で、空気が固まる。
 怒りが来る前に、私は続けた。

「これは知恵です。手洗い、隔離、煮沸。誰にでもできます」
 「聖女様がやったから——」
 「私がやったのは、指示です。皆さんの手が、皆さんの家族を守りました」

誰かが口を開きかける。
 私はそれを待たず、言葉を積む。

「お願いがあります。今日から、家でも同じことをしてください」
 「井戸水は沸かしてから。食器は熱い湯で。看病の前後は手を洗う。咳が出る人は、人から離れて休む」
 「病の人を責めないで。責めると隠します。隠すと広がります」

群衆の中で、年配の女が涙を拭(ぬぐ)いた。
 若い男が唇を噛み、頷いた。
 理解は、祈りより遅い。
 けれど、一度届けば強い。

レオンが小さく言った。
 「……外での混乱は抑えられる。今の言い方なら、真似できると皆が思う」
 「思わせるのが目的です」
 「奇跡を否定して、怖くならないのか」
 「怖いです」

私は正直に言った。
 奇跡を求められるのは怖い。
 奇跡を否定して失望されるのも怖い。
 でも、怖さの種類を選ぶなら。

「でも、奇跡だと思われたら終わりです。次も、私が燃える」

レオンの目が、少しだけ柔らかくなった。
 そして、いつもの不器用な声で言う。

「燃やさせない。物資も、人も、俺が回す」
 「じゃあ私は、仕組みを回す」

それでいい。
 英雄(えいゆう)は一人で立つものじゃない。
 役割が噛み合えば、街は救える。


夜。
 病棟の灯(あか)りは、昨日より少しだけ静かだった。
 咳の音はまだある。熱にうなされる声もある。
 それでも——新しい悲鳴が減っている。

私は記録板の前で、指先を握ったり開いたりした。
 前世の癖だ。数字が減ると、身体が先に反応する。
 夜勤を回し、動線を整え、消毒を徹底し、感染を減らす。
 当たり前の積み重ね。
 当たり前が、いちばん難しい。

「……止まる」

呟くと、隣で看護役の女が頷いた。

「ええ。止まります。……聖女様が、奇跡じゃなくて、やり方を残してくださるから」

私は首を振る。
 残すのは“私”じゃない。
 この病棟で手を洗い続けた人たちだ。
 隔離を守った人たちだ。
 湯を沸かし続けた人たちだ。

「明日から、病棟だけじゃ足りません」
 「街へ、ですか」
 「はい。市場と酒場。井戸と共同便所(きょうどうべんじょ)。そこに“病の種”は落ちます」

前世の知恵は、魔法ではない。
 だから、信じるだけでは足りない。
 やるしかない。

扉の向こうで、レオンの足音が止まった。
 彼が短く報告する。

「外の咳は、減ってきてる。今夜は暴動の気配もない」

私は頷いた。
 胸の奥の硬い塊が、少しだけほどける。

疫病の勢いは、確かに——収まり始めていた。

——次話「大神官の仮面」――ざまぁの歯車が、さらに加速する。

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