——百年分の「大丈夫です」が、大神官の仮面を引き剥がす。
大神官の仮面が、玉座の前で揺れた。
その下から漏れた息は、祈りの形をしていなかった。
王の手には、歴代聖女の日記の束がある。
謁見の間は、今日はやけに広く感じた。
絨毯の赤が、血の色じゃなく裁きの色に見える。
レオンが一歩前へ出る。
布に包んだ束を、両手で差し出した。
「陛下。これが、聖女たちの記録です」
王は受け取らない。
まず、重みだけを目で測った。
そして、静かに頷く。
侍従が膝を滑らせ、束を受け取って王へ運ぶ。
布が解かれた瞬間、古い紙の匂いが空気に立った。
墨と埃と、涙の乾いた匂い。
王は最初の一冊を開く。
頁を捲る指が、二枚目で止まった。
文字を追う目が、硬くなる。
頬の筋が張り、口角が下がっていく。
次の一冊。
次の一冊。
読み進めるほどに、王の顔から色が消えた。
怒りのために、白くなる。
「……これは本物か?」
場が凍った。
問いはレオンへ向けられているのに、刃は全員へ向いている。
レオンは一歩も引かずに答えた。
「歴代聖女の筆跡です」
私は、息を殺した。
日記は物だ。紙だ。けれど今は剣になっている。
聖女たちが黙って握りしめたまま、死んでいった剣。
王が頁を叩く。
乾いた音が、石の床に跳ねた。
「『祈りは痛い。祈りは削る。祈りをやめたら、私ではなくなると言われた』」
「『笑えと言われた。感謝しろと言われた。泣けば神を疑うと罵られた』」
読み上げる声が震えている。
憐れみじゃない。怒りが震えさせている。
その怒りに、誰かが割り込もうとした。
絨毯を踏む、軽い足音。
仮面の大神官ヴェルナーが、胸に手を当てて進み出る。
儀礼の面は白く、慈悲の顔を刻んでいる。
けれど、その仮面の奥の目だけが、獣みたいに乾いていた。
「それは——」
王が顔を上げた。
視線だけで、ヴェルナーの声を床へ押しつける。
「大神官ヴェルナー。お前はこれを知っていたのか?」
仮面の口元は微笑んだままだ。
だが、喉が鳴った。唾を飲み込む音。
それは“神の代弁者”の音じゃない。
追い詰められた男の音だ。
「陛下。聖女の務めは、古より定められた儀」
「犠牲は尊い。聖女は選ばれし器。ゆえに、聖女の犠牲は神の御心——」
王の拳が、玉座の肘掛けを叩き割りそうな勢いで落ちた。
「黙れ! これが神の御心だと!?」
吼える声が、天井にぶつかって返ってくる。
貴族たちが肩を跳ねさせ、神官たちが顔を伏せた。
誰も、ヴェルナーを守れない。
いや、守ろうとした者ほど、守れなくなっている。
王は日記を掲げた。
ただの紙束が、王笏より重いものに見えた。
「これは、王国の恥だ」
「民から奪い、聖女から奪い、神の名で塗り潰した」
「恥を作った者を、王は許さない」
ヴェルナーが一歩、下がる。
仮面の笑みが、ひび割れた。
目が、泳ぐ。
「陛下、誤解です。私は、私はただ、秩序を」
「秩序?」
「民が救われるために! 信仰が揺らがぬために! 聖女が光であり続けるために!」
最後の言葉は、ほとんど悲鳴だった。
自分が信じてきた台詞に縋り、足場にしようとする。
けれどその台詞は、日記の文字の前で砂になった。
王が言い捨てる。
「それは光ではない。火だ。燃やして、灰にして、何も残さない火だ」
「くっ」
私の胸の奥が痛んだ。
過去の聖女たちの痛みが、文字を通して戻ってくる。
痛みは訴えだ。黙って死ぬためのものじゃない。
王は、侍従長に視線を投げた。
「王立記録官を呼べ。神殿の文書庫を封鎖し、帳簿を押収する」
「聖女の名で集めた寄進は、民と聖女のために戻す。私腹を肥やした者の家も調べろ」
貴族たちの喉が鳴った。
自分の屋敷の飾り、宴の皿、神殿から回ってきた“祝福”の包み。
それが何の上に積まれていたのか、ようやく想像してしまった顔だ。
セドリックが前へ出て、王に跪く。
「陛下。証拠は十分です。公示の許可を」
王は頷いた。
そして、最も王らしい声で命じる。
「本日より、歴代聖女の日記を王立文庫に収める」
「写本を作り、王都の広場へ掲示し、全国へ通達せよ」
「民が知るべき真実を、神殿の扉の内側に閉じ込めるな」
ざわめきが、怒号に変わりかけた。
貴族の驚愕、神官の恐怖、騎士の緊張。
そして、場の端で私だけが、静かに息を吸った。
隠されていたものが、ようやく光に出る。
王の目が、ヴェルナーへ戻る。
刃のように冷たい。
「大神官ヴェルナー・クラウディウス。官位を剥奪する」
「王国に対する背信、聖女に対する暴虐、民に対する欺瞞」
「牢へ」
近衛が、即座に動いた。
腕を掴まれたヴェルナーが、初めて仮面の“役”を失う。
「放せ! 私は神に仕える者だ! 王といえど、神に逆らえば罰が下る!」
言葉が続かない。
王は視線を逸らさなかった。
その視線が、ヴェルナーの背骨を折る。
近衛の手が、仮面の紐に掛かった。
儀礼の仮面が引き剥がされる。
そこにあったのは、慈悲の顔ではない。
汗で濡れた額、引きつった頬、血の気のない唇。
笑みを刻んだ面の下で、ただの男が震えていた。
場に、低い笑いが落ちた。
誰かが堪えきれず、鼻で吹いた。
それが伝染していく。
あれほど高く見えた大神官が、今は情けなく小さく見える。
ヴェルナーは、助けを求めるように周囲を見回した。
神官たちは目を逸らす。
貴族たちは距離を取る。
信仰の衣を着た仲間でさえ、もう触れたくない汚れを見る目だ。
「違う、私は、私は違う」
その声は、祈りにならない。
言い訳にもならない。
ただ、転げ落ちる音だ。
その日の夕刻、王都の広場は人で埋まった。
掲示板に張り出された写本の前で、文字を読める者が声に出す。
読めない者は、声だけで理解する。
理解した瞬間、顔が歪む。
「聖女様を、道具にしてたってのか」
「祈りで救う? ふざけるな。奪ってただけじゃないか」
「大神官は神様の代理だって? 仮面だ。仮面だったんだ」
読み上げる声が途中で詰まる。
泣きそうになるのを堪えて、次の行を読む。
その背中を、周りの誰かが黙って支える。
怒りと悲しみが同じ形で混ざる夜だった。
怒りは熱を持って流れ、路地を満たし、神殿へ向かって押し寄せた。
神官たちは門を閉め、内側から鍵を掛ける。
だが閉めたのは扉だけで、外の声は閉められない。
「返せ!」
「聖女を返せ!」
「嘘を返せ!」
夜になっても、火は消えなかった。
松明の明かりが揺れて、神殿の白壁を赤く染める。
私は離れた窓から、その光景を見た。
民衆の怒りは怖い。
でも、それは“正しい方向へ向かう怖さ”だ。
牢へ向かう馬車は、王宮の裏門から出された。
それでも、噂は速い。
石畳の角ごとに人が立ち、仮面を失った男を見下ろした。
鉄格子の奥で、ヴェルナーは縮こまっていた。
袖口の刺繍は泥で汚れ、髪は乱れ、喉は乾いているのに唾を飲む音ばかりが響く。
誰かが野菜屑を投げた。
硬い音が馬車に当たり、腐った汁が飛び散った。
ヴェルナーが身を竦める。
あの堂々とした演説の声は、どこにもない。
彼はただ、罰を受けるための肉に戻った。
窓の外で、子どもが笑った。
大人が笑うのを見て、理由も分からず真似をする。
その無邪気さが、いちばん残酷に効いたのか。
ヴェルナーは唇を震わせ、声にならない音を漏らした。
私は日記を抱えたまま、廊下を歩いていた。
護衛の騎士が「見なくていい」と言ったけれど、私は首を振った。
見る。
見て、終わらせる。
終わらせないと、同じ仮面がまた別の顔に貼り付く。
王立文庫の静けさの中で、私は束の一冊を開いた。
頁の端に、違う筆跡が挟まっている。
聖女の字ではない。
短い、走り書き。
そこには、ヴェルナー以外の名があった。
“仮面”を作らせた者の名。
私は日記を胸に押し当てる。
声は小さく、でも折れない。
「……私は、誰にもそんな嘘を強いさせない」
——次話「あなたの手は温かい」――二人の距離が、もう一段近づく。