S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第24話: 大神官の仮面

第2アーク · 3,244文字 · draft

——百年分の「大丈夫です」が、大神官の仮面を引き剥がす。

大神官の仮面が、玉座(ぎょくざ)の前で揺れた。

その下から漏れた息は、祈りの形をしていなかった。

王の手には、歴代聖女の日記の束がある。


謁見(えっけん)の間は、今日はやけに広く感じた。
 絨毯(じゅうたん)の赤が、血の色じゃなく裁きの色に見える。

レオンが一歩前へ出る。
 布に包んだ束を、両手で差し出した。

「陛下。これが、聖女(せいじょ)たちの記録です」

王は受け取らない。
 まず、重みだけを目で測った。
 そして、静かに頷く。

侍従が膝を滑らせ、束を受け取って王へ運ぶ。
 布が解かれた瞬間、古い紙の匂いが空気に立った。
 墨と(ほこり)と、涙の乾いた匂い。

王は最初の一冊を開く。
 (ページ)(めく)る指が、二枚目で止まった。

文字を追う目が、硬くなる。
 頬の筋が張り、口角が下がっていく。

次の一冊。
 次の一冊。

読み進めるほどに、王の顔から色が消えた。
 怒りのために、白くなる。

「……これは本物か?」

場が凍った。
 問いはレオンへ向けられているのに、刃は全員へ向いている。

レオンは一歩も引かずに答えた。
 「歴代聖女の筆跡です」

私は、息を殺した。
 日記は物だ。紙だ。けれど今は剣になっている。
 聖女たちが黙って握りしめたまま、死んでいった剣。

王が頁を叩く。
 乾いた音が、石の床に跳ねた。

「『祈りは痛い。祈りは削る。祈りをやめたら、私ではなくなると言われた』」
 「『笑えと言われた。感謝しろと言われた。泣けば神を疑うと罵られた』」

読み上げる声が震えている。
 憐れみじゃない。怒りが震えさせている。

その怒りに、誰かが割り込もうとした。
 絨毯を踏む、軽い足音。

仮面の大神官ヴェルナーが、胸に手を当てて進み出る。
 儀礼の(めん)は白く、慈悲の顔を刻んでいる。
 けれど、その仮面の奥の目だけが、獣みたいに乾いていた。

「それは——」

王が顔を上げた。
 視線だけで、ヴェルナーの声を床へ押しつける。

「大神官ヴェルナー。お前はこれを知っていたのか?」

仮面の口元は微笑んだままだ。
 だが、喉が鳴った。(つば)を飲み込む音。
 それは“神の代弁者”の音じゃない。
 追い詰められた男の音だ。

「陛下。聖女の務めは、古より定められた()
 「犠牲は尊い。聖女は選ばれし器。ゆえに、聖女の犠牲は神の御心——」

王の拳が、玉座の肘掛けを叩き割りそうな勢いで落ちた。

「黙れ! これが神の御心だと!?」

()える声が、天井にぶつかって返ってくる。
 貴族たちが肩を跳ねさせ、神官たちが顔を伏せた。
 誰も、ヴェルナーを守れない。
 いや、守ろうとした者ほど、守れなくなっている。

王は日記を掲げた。
 ただの紙束が、王笏(おうしゃく)より重いものに見えた。

「これは、王国の恥だ」
 「民から奪い、聖女から奪い、神の名で塗り潰した」
 「恥を作った者を、王は許さない」

ヴェルナーが一歩、下がる。
 仮面の笑みが、ひび割れた。
 目が、泳ぐ。

「陛下、誤解です。私は、私はただ、秩序を」
 「秩序?」
 「民が救われるために! 信仰が揺らがぬために! 聖女が光であり続けるために!」

最後の言葉は、ほとんど悲鳴だった。
 自分が信じてきた台詞に(すが)り、足場にしようとする。
 けれどその台詞は、日記の文字の前で砂になった。

王が言い捨てる。
 「それは光ではない。火だ。燃やして、灰にして、何も残さない火だ」

「くっ」

私の胸の奥が痛んだ。
 過去の聖女たちの痛みが、文字を通して戻ってくる。
 痛みは訴えだ。黙って死ぬためのものじゃない。

王は、侍従長に視線を投げた。
 「王立記録官を呼べ。神殿の文書庫を封鎖し、帳簿を押収する」
 「聖女の名で集めた寄進は、民と聖女のために戻す。私腹を肥やした者の家も調べろ」

貴族たちの喉が鳴った。
 自分の屋敷の飾り、宴の皿、神殿から回ってきた“祝福”の包み。
 それが何の上に積まれていたのか、ようやく想像してしまった顔だ。

セドリックが前へ出て、王に跪く。
 「陛下。証拠は十分です。公示(こうじ)の許可を」

王は頷いた。
 そして、最も王らしい声で命じる。

「本日より、歴代聖女の日記を王立文庫に収める」
 「写本を作り、王都の広場へ掲示し、全国へ通達せよ」
 「民が知るべき真実を、神殿の扉の内側に閉じ込めるな」

ざわめきが、怒号に変わりかけた。
 貴族の驚愕(きょうがく)、神官の恐怖、騎士の緊張。
 そして、場の端で私だけが、静かに息を吸った。
 隠されていたものが、ようやく光に出る。

王の目が、ヴェルナーへ戻る。
 刃のように冷たい。

「大神官ヴェルナー・クラウディウス。官位を剥奪(はくだつ)する」
 「王国に対する背信、聖女に対する暴虐、民に対する欺瞞(ぎまん)
 「牢へ」

近衛(このえ)が、即座に動いた。
 腕を掴まれたヴェルナーが、初めて仮面の“役”を失う。

「放せ! 私は神に仕える者だ! 王といえど、神に逆らえば罰が下る!」

言葉が続かない。
 王は視線を逸らさなかった。
 その視線が、ヴェルナーの背骨を折る。

近衛の手が、仮面の(ひも)に掛かった。
 儀礼の仮面が引き剥がされる。

そこにあったのは、慈悲の顔ではない。
 汗で濡れた額、引きつった頬、血の気のない唇。
 笑みを刻んだ面の下で、ただの男が震えていた。

場に、低い笑いが落ちた。
 誰かが堪えきれず、鼻で吹いた。
 それが伝染(でんせん)していく。
 あれほど高く見えた大神官が、今は情けなく小さく見える。

ヴェルナーは、助けを求めるように周囲を見回した。
 神官たちは目を逸らす。
 貴族たちは距離を取る。
 信仰の衣を着た仲間でさえ、もう触れたくない汚れを見る目だ。

「違う、私は、私は違う」

その声は、祈りにならない。
 言い訳にもならない。
 ただ、転げ落ちる音だ。


その日の夕刻、王都の広場は人で埋まった。
 掲示板に張り出された写本の前で、文字を読める者が声に出す。
 読めない者は、声だけで理解する。
 理解した瞬間、顔が(ゆが)む。

「聖女様を、道具にしてたってのか」
 「祈りで救う? ふざけるな。奪ってただけじゃないか」
 「大神官は神様の代理だって? 仮面だ。仮面だったんだ」

読み上げる声が途中で詰まる。
 泣きそうになるのを堪えて、次の行を読む。
 その背中を、周りの誰かが黙って支える。
 怒りと悲しみが同じ形で混ざる夜だった。

怒りは熱を持って流れ、路地を満たし、神殿へ向かって押し寄せた。
 神官たちは門を閉め、内側から鍵を掛ける。
 だが閉めたのは扉だけで、外の声は閉められない。

「返せ!」
 「聖女を返せ!」
 「嘘を返せ!」

夜になっても、火は消えなかった。
 松明(たいまつ)の明かりが揺れて、神殿の白壁を赤く染める。
 私は離れた窓から、その光景を見た。
 民衆の怒りは怖い。
 でも、それは“正しい方向へ向かう怖さ”だ。


牢へ向かう馬車は、王宮の裏門から出された。
 それでも、噂は速い。
 石畳の角ごとに人が立ち、仮面を失った男を見下ろした。

鉄格子の奥で、ヴェルナーは縮こまっていた。
 袖口の刺繍(ししゅう)は泥で汚れ、髪は乱れ、喉は乾いているのに唾を飲む音ばかりが響く。

誰かが野菜屑(やさいくず)を投げた。
 硬い音が馬車に当たり、腐った汁が飛び散った。

ヴェルナーが身を(すく)める。
 あの堂々とした演説の声は、どこにもない。
 彼はただ、罰を受けるための肉に戻った。

窓の外で、子どもが笑った。
 大人が笑うのを見て、理由も分からず真似をする。
 その無邪気さが、いちばん残酷に効いたのか。
 ヴェルナーは唇を震わせ、声にならない音を漏らした。

私は日記を抱えたまま、廊下を歩いていた。
 護衛の騎士が「見なくていい」と言ったけれど、私は首を振った。
 見る。
 見て、終わらせる。
 終わらせないと、同じ仮面がまた別の顔に貼り付く。

王立文庫の静けさの中で、私は束の一冊を開いた。
 頁の端に、違う筆跡が挟まっている。
 聖女の字ではない。

短い、走り書き。
 そこには、ヴェルナー以外の名があった。
 “仮面”を作らせた者の名。

私は日記を胸に押し当てる。
 声は小さく、でも折れない。

「……私は、誰にもそんな嘘を強いさせない」

——次話「あなたの手は温かい」――二人の距離が、もう一段近づく。

文字数: 3,244