——レオンは初めて凛に、前任の聖女リアナを見殺しにした過去を語る。
診療所を開いて数日。患者が増えるたび、凛は薬草と手当てで対処してきた。
だが昨夜、高熱の老人が担ぎ込まれた。手当てだけでは間に合わず、凛はほんの少しだけ治癒魔法を使った。
ほんの少しで、膝が折れた。
凛の「大丈夫です」が、俺の胸を裂いた。
診療所の灯りは温かいのに、指先だけが冷える。
五年前の白い廊下が、ここに重なった。
薬草を煮た匂い。煮沸した布の、乾いた清潔さ。
木の床板は新しく、昼に打った釘の金属臭がまだ残っている。
寝台の上で、凛が浅く呼吸している。
頬は赤いのに、唇の色が薄い。
俺は椅子に座ったまま、背を伸ばせない。
立てば距離ができる。距離ができれば、また間に合わなくなる気がした。
凛の手首に指を当てる。
細い脈が、弱く、けれど確かに打っていた。
その拍動だけが、俺を現実に縫い付ける。
凛がまぶたを震わせた。
喉が鳴って、小さく息を吸う。
「……だいじょ……ぶです」
言いかけた。
反射みたいに。
自分を守るためじゃない。他人を安心させるための、優しい嘘。
俺の腹の底が、冷水を浴びたみたいに縮む。
口の中が鉄の味になる。
——やめろ。
その言葉が喉まで来て、引っかかったまま落ちない。
「……大丈夫じゃない」
やっと出た声は、情けないほど掠れていた。
凛は目を開け、申し訳なさそうに笑う。
笑いながら、痛みに蓋をする顔だ。
その表情が、別の女を連れてくる。
白い髪。淡い金の睫毛。
二十三歳で止まった笑み。
聖女リアナ。
俺が二十歳だった頃、俺の隣にいた人。
視界の端で、診療所の灯りが揺れた。
揺れが、白い廊下の反響に変わる。
大神殿の祈祷室は、いつも白かった。
白い壁。白い床。白い衣。
血の色も、汗の色も、そこでは「汚れ」にされる。
疫病の冬。
民は倒れ、貴族は怯え、神殿は「奇跡」を求められた。
求められた分だけ、聖女は削られた。
リアナは祭壇の前に立っていた。
祈りの光は柔らかいのに、彼女の肩は細く、影が濃い。
指先は赤く、爪の根元が白い。
「……次です、聖女殿」
神官の声は丁寧だった。
丁寧だから、命令が命令に見えない。
丁寧だから、拒む方が悪者になる。
リアナは小さく頷いた。
俺を見る。
困らせない笑みを作ってから、言う。
「大丈夫です、レオン様」
その瞬間、俺の腹の底が凍った。
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う。
凛と同じだ。
俺は一歩踏み出す。
彼女の肩に手を置けば、倒れる前に支えられる。
口を開けば、止められる。
「リアナ様、今日は——」
言いかけた声を、背後から切られた。
「レオン」
騎士団の上官。
鎧の擦れる音が、祈祷室の静けさを裂いた。
彼は俺の肩を掴み、耳元で低く言った。
「任務を忘れるな。護衛は護衛だ。判断をするな」
「ですが、限界です」
「限界でも、国が求める。神殿が命じる。お前は従え」
従え。
その一言が、鎖みたいに首に掛かった。
リアナは祈りの姿勢を取る。
膝をつき、手を組む。
吐く息が、かすかに震えている。
俺は見ていた。
見てしまっていた。
彼女の呼吸が浅くなり、肩甲骨が浮き、背中が細く折れていくのを。
でも俺は、口の中で呟いた。
自分を黙らせるための呪文を。
——命令だから。
——命令だから。
祈りの光が立ち上がる。
次の患者へ向けた治癒の奇跡。
そのたびに、リアナの頬の血色がひとつずつ抜けていく。
光が消えた。
リアナは、ほんの一歩だけ前に倒れた。
踏みとどまろうとして、足がもつれた。
俺は腕を伸ばした。
今度こそ、と。
だが——上官の手が、俺の腕を押さえた。
骨が鳴るほど強く。
「……下がれ」
「見えませんか。倒れる」
「倒れたら運べ。だが、止めるな。止めれば騒ぎになる。国が揺れる」
揺れるのは国じゃない。
今、揺れているのはリアナの身体だ。
リアナが、床に膝をついた。
白い床に、汗が落ちる。
汗が落ちるだけで、そこでは「罪」になるみたいだった。
俺は喉の奥で血を噛んだ。
金属の味がした。
それでも、俺は繰り返す。
——命令だから。
リアナが顔を上げる。
目が合った。
その目は、怒っていなかった。
責めてもいなかった。
ただ、俺を安心させようとしていた。
「……大丈夫です」
声が細い。
それでも、笑った。
笑って、言葉を足した。
「レオン様は……悪くありません」
悪い。
悪いに決まっている。
俺が止めないから、彼女は立っている。
俺が止めないから、彼女は倒れる。
俺が止めないから——。
「リアナ様、もう——」
今度こそ言おうとした瞬間。
リアナの身体が、ふっと軽くなった。
糸が切れたみたいに。
倒れる。
俺は掴んだ。
掴んだのに、間に合っていない。
腕の中の彼女は、熱い。
熱いのに、指先が冷たい。
冷たい指先が、俺の手袋の上からでも分かった。
「医務室へ!」
誰かが叫ぶ。
神官たちが動く。
上官が、俺の背中を押した。
「運べ。迅速に。余計なことは考えるな」
余計なこと。
それはきっと、人が人を守ろうとすることだ。
医務室の扉は、白い布で仕切られていた。
中の匂いは薬草よりも濃い血の匂いで。
吐き気がした。
吐き気がしても、俺は吐けなかった。
寝台にリアナを寝かせる。
神官が祈りを口にする。
医師が脈を取る。
リアナは目を開けた。
焦点が合わないまま、俺の方を探す。
俺は一歩近づき、膝をついた。
「……レオン様」
名を呼ばれた瞬間、俺の喉が詰まった。
謝れない。
止められなかった、と言えない。
命令だった、と言ってしまえば、彼女の死を国のせいにできる。
だが、そうした瞬間、俺は永遠に自分を許せなくなる。
リアナは、薄く笑った。
涙が出ていないのに、泣き顔みたいな笑みだった。
「……大丈夫です」
それが、最後だった。
その言葉が落ちた瞬間、彼女の呼吸が止まった。
音が消えるのは、こんなにもはっきり分かる。
俺はその場で、何も言えなかった。
ただ、命令の形をした鎖を握りしめて。
握りしめた手の中で、誰かの命がほどけていくのを見ていた。
俺は、診療所の灯りに戻っていた。
凛の寝台の脇。
木の天井。
薬草の匂い。
さっきまで夢みたいに遠かった過去が、まだ皮膚の内側に残っている。
凛は起きていた。
起き上がろうとして、ふらついて、すぐに俺の視線に気づいて止まる。
「……ごめんなさい。起こしちゃいましたか」
「違う」
短い否定。
それだけじゃ足りない。
でも、どう言えばいい。
凛は掛布を胸まで引き上げた。
弱さを隠す仕草なのに、こちらに気を遣う癖が染みている。
「私……平気です」
言った。
言ってしまった。
言った瞬間、凛の目が揺れた。
自分でも嘘だと分かっている揺れだ。
俺の身体が固まる。
リアナの最後の声が、耳の内側で擦れる。
「大丈夫です」
「……言うな」
「え……?」
凛が瞬きする。
困ったみたいに笑って、いつもの逃げ道を探す顔になる。
「ごめんなさい。つい、癖で……大丈夫です、って言うと」
「周りが安心する。だから言う」
凛は黙って頷いた。
頷く角度が、リアナと同じだった。
その一致が、俺を痛めつける。
「……俺は、その言葉が嫌いだ」
凛が目を見開く。
俺は視線を外した。
外さないと、今、吐いてしまう。
指先が、凛の手を探してしまう。
けれど触れるのが怖い。
触れたら、守れなかった手の感触がよみがえる。
「ごめんなさい……」
「謝るな」
凛は唇を噛んだ。
泣かないように。
泣いてしまえば、また俺を安心させようとするから。
沈黙が、診療所の壁に溜まる。
外は冬だ。隙間風が木を鳴らす。
俺は、息を吸った。
薬草の匂いが、肺の奥に刺さる。
五年前の血の匂いが、そこに混ざった気がした。
「……話がある」
「はい」
凛は、逃げなかった。
頷き方が怖いくらいまっすぐで。
だから、俺も逃げられなくなる。
「五年前、俺は聖女護衛だった」
凛の肩が小さく揺れる。
「前任の聖女……リアナ様」
その名を出すだけで、舌が重くなる。
俺の喉は、ずっとそこで塞がっていた。
「リアナ様は、いつも言った。大丈夫です、って」
凛の目が伏せられる。
自分の癖と重ねてしまった顔だ。
「俺は気づいてた。限界だって」
言葉が途切れる。
息が詰まる。
それでも続けるしかない。
「……でも、止めなかった。命令に従った」
命令。
その二文字が、俺の口の中で砂みたいに乾く。
そして、ようやく分かる。
乾いたのは言葉じゃない。
俺の心だ。
凛が小さく息を吸った。
「……レオンさん」
その呼び方が、俺の最後の鎧を剥がす。
「凛」
初めて、名前で呼んだ。
胸の奥が裂けた。
裂けたところから、黒いものが溢れてくる。
「あのとき俺は命令に従って——リアナ様を殺した」
凛の指が、掛布の上で震えた。
それでも彼女は、逃げない。
受け止めようとする。
俺は喉の奥を押し開けるみたいに、最後を吐き出した。
「……俺が、殺した」
——次話「同じ傷を持つ人」――次の一手が、運命を動かす。