——レオンの告白を聞いた凛は、彼もまた自分と同じように傷を抱え、嘘をついてきたことに気づく。
翌日の夜。私の熱が引いて、自分の足で歩けるようになった。
診療所の中にいると息が詰まって、レオンさんに頼んで裏手に出た。
彼が焚き火を起こしてくれた。無言で。いつものように。
焚き火のはぜる音だけが、夜の空気を繋いでいた。
レオンさんは、昨夜の告白を抱えたまま動かなかった。
あの最後の一言が、まだ彼の喉の奥に残っているみたいに。
私は息を吸って、吐く。
胸の内側が痛いのに、痛みの正体がはっきりしているぶん、逃げずにいられた。
彼の過去は暗い。
でも、暗いのは過去だけじゃない。今の彼の「生き方」そのものが、ずっと闇に手を伸ばしていた。
誰かを守るために、いつも自分を削って。
それを誇りみたいに掲げて。
「平気だ」と言いながら、誰にも触らせない。
私は、喉の奥に引っかかった言葉をそのまま出した。
「あなたも、"大丈夫"って嘘をついてきたんですね」
レオンさんの肩が、小さく揺れた。
怒ったのではない。刺さったのだ。
見抜かれた、というより——自分でも見ないようにしてきたものを、光に引きずり出されたみたいに。
「……嘘、か」
「はい。優しい嘘です。けれど……痛い嘘です」
私は両手を膝の上で重ねる。
いつもなら、ここで「ごめんなさい」と言ってしまう。
相手の痛みに触れたことを謝って、引き下がって、また「大丈夫」を渡す。
でも、今は引かない。
レオンさんの告白は、引いてほしくない種類の言葉だった。
「私も、同じです」
「……凛が?」
「はい。神殿でも、前の世界でも……私は、ずっと言ってきました。大丈夫、と」
大丈夫。
私なら平気です。
それで誰かが救われるなら。
口にすればするほど、言葉は上手になっていった。
上手になればなるほど、自分の本音は下手になっていった。
「本当は、怖かったです」
焚き火の向こうで、レオンさんの目がわずかに揺れる。
「休みたかった。逃げたかった。……それを言ったら、誰かが困ると思って」
「……」
「困らせたくなくて。嫌われたくなくて。役に立たないって思われたくなくて」
最後の言葉は、胸の奥の深いところから出た。
自分でも触れたくない傷口を、指先でそっと開いたみたいに。
レオンさんが、低い声で言った。
「俺も同じだ」
短い言葉。
それだけで、夜の冷たさが少しだけ薄くなった。
レオンさんは、焚き火を見ない。
私も、彼の目を無理に追わない。
視線を合わせるのは、時々でいい。逃げ場を残すことも、優しさだ。
それでも私は、彼の手だけは見てしまった。
膝の上に置かれた指が、ほんの少し震えている。
震えを隠すみたいに、指が強く組まれ、骨の白さが火の光で浮いた。
強い人の手じゃない。
強く見せるために、ずっと握りしめてきた人の手だ。
思い出す。
あの束になった日記のページ。
助けを求める言葉の隣に、必ず置かれていた蓋の言葉。
『私は大丈夫です』
その一文が、祈りでも誓いでもなく。
「痛い」と言えないまま生きるための、細い鎖だったことを、私は知ってしまった。
レオンさんの「平気だ」も、同じ鎖だ。
自分を縛って、他人を安心させて、最後に自分だけを置き去りにする。
私の胸の奥に、熱いものが溜まる。
怒りじゃない。哀しみでもない。
「分かってしまう」痛みだ。
私は薪を一本、火の近くへ足で寄せた。
乾いた木が、ぱち、と小さく鳴く。
その音に、レオンさんの肩が反射みたいに僅かに強張った。
——怖いのは、火じゃない。
誰かに気づかれることだ。
弱さに触れられて、逃げられなくなることだ。
私も同じだった。
気づかれたら、きっと嫌われると思っていた。
大事にされたら、返せないと思っていた。
だから先に、差し出す側に回っていた。
でも。
差し出し続けた先に残るのは、空っぽの手だけだ。
その空っぽを、彼に渡したくない。
焚き火が小さくなって、薪の端が赤く崩れた。
闇が一歩近づく。
でも怖くない。今は、レオンさんが闇の側にいる人ではなく、闇に触れ過ぎて傷ついた人だと分かるから。
「……凛」
彼が私の名前を呼ぶ。
呼び方が、いつもより遅い。
「俺は、守るって言いながら……結局、自分を捨ててきただけだ」
「捨てて、きた」
「自分の命も、価値も。……そうすれば、楽だった。考えなくて済む」
私は頷いた。
責めるためじゃない。分かる、と伝えるために。
「自分を後回しにすると……他のことが上手く回っているように見えますよね」
「……ああ」
「それで、褒められたりもします。便利な人、って」
便利。
その二文字は、優しい仮面になる。
誰かの役に立っている間だけ、存在していいと錯覚できるから。
レオンさんは焚き火を見つめたまま、唇を噛んだ。
火の光が、頬の傷跡の影を深くする。
「……あんたは俺を責めないのか」
ようやくこちらを見た目は、怯えていた。
責められる準備をずっとしてきた人の目。
責められたら、それで終われると思っている目。
私は、首を横に振る。
「責める理由がありません」
言い切ると、レオンさんは一瞬、息を止めた。
まるで、肺に入るはずの空気を忘れてしまったみたいに。
「……どうしてだ」
「だって、あなたは……生きるのが下手なだけです」
言ってから、少しだけ笑ってしまった。
ひどい言い方なのに、優しい言い方でもあると思ったから。
「私も下手です。上手く生きるより、先に上手く死ぬ練習をしてきました」
「……やめろ」
「やめたいです。だから、言います」
言葉にしなければ、変えられない。
沈黙の中で耐える癖は、私たちの傷を深くするだけだ。
「私たち、似ていますね」
「……ああ」
短い返事が、胸に落ちた。
受け入れる音だった。
否定しない音だった。
「似ているから……あなたのことが、分かります」
「分かるな。そんなもん」
「分かります」
私は、ゆっくりと言葉を重ねる。
彼の怒りも、拒絶も、全部「怖さ」から来ていると知っているから。
「あなたが自分を捨ててきたのは、誰かを守りたかったからです。自分の痛みより、他人の痛みを優先したから」
「……優しい言い方をするな」
「優しいのは、あなたです」
そう言うと、レオンさんの目がわずかに細くなった。
笑っていない。泣きそうな目だ。
「……凛は、俺を——許すのか」
「許す、というより……一緒に、悔やみましょう」
悔やむ。
責めるのではなく、やり直すために。
もう同じやり方でしか生きられないと決めつけないために。
風が吹いた。
火が揺れて、影が踊る。
レオンさんの手は、膝の上で拳になっていた。
剣を握るための手。
誰かを守るために、誰かを倒すために、何度も固くなってきた手。
私は、その拳にそっと近づける。
急に触れたら、彼はきっと反射で引く。
だから、逃げ道を残したまま、手の甲に指先を置いた。
……温かい。
でも、温かさの中に、冷えた時間が混じっている気がした。
「大丈夫」の裏に押し込めた痛みの温度。
レオンさんの指が、かすかに動く。
拒む動きじゃない。確かめる動きだ。
私は手のひらを返して、彼の拳を包んだ。
ほどくように、祈るように。
「ねえ、レオンさん」
「……なんだ」
「今日、言ってくれてありがとうございます。……あの告白は、あなたの弱さじゃなくて、勇気です」
言葉にすると、自分の喉が熱くなる。
私自身がずっと欲しかった言葉を、今、彼に渡しているからだ。
レオンさんは、苦しそうに眉間を寄せた。
それでも、手を引かなかった。
私の掌の中で、拳が少しだけ緩む。
「凛。俺は……怖い」
「はい」
「また、同じことをする。自分を捨てて——それで、誰かを守った顔をする」
「はい。きっと、すぐには治りません」
治らない。
その言葉は冷たいはずなのに、今は現実的な温かさを持っていた。
焦らせない。急かさない。置いていかない。
私は、彼の手を握ったまま、目を上げる。
闇の中に、彼の瞳だけが静かに光っている。
落ちていく光じゃない。繋ぎとめる光だ。
「だから、ここからです」
言いながら、指を少しだけ絡める。
握りしめるんじゃない。支える形。
「一緒に、治していきましょう」
——次話「弟子たち」――次の一手が、運命を動かす。