——凛はレオンに返事をする。
返事は、言葉じゃなくて——覚悟だ。
薬草畑の匂いが、胸の奥をきゅっと締めつける。
それでも私は、ここで待つ。レオンさんの足音を。
夕暮れは薄い金色で、葉の縁が静かに光っている。
畝の間を抜ける風が、乾きかけた草の苦味を運んだ。
私は籠を地面に置き、両手を胸の前で組んだ。
指先が冷たい。土の冷たさじゃない。私の中の緊張だ。
昨日——いや、正確には「返事を待つ」と言われたのは、もっと前の気がする。
けれど、レオンさんの告白はまだ新しい。
耳の奥に残っている。
『俺はあんたを守りたかったんじゃない。あんたの隣にいたかった』
その一行が、私の世界を変えた。
逃げ道を塞いだんじゃない。
扉を、開けてくれた。
返事をするなら、ここがいいと思った。
いつも二人で土を触って、言葉より先に呼吸が揃う場所。
私の「日常」を取り戻してくれた場所。
足音が、畑の外から近づいてくる。
砂利の上で一度、止まって。
次の瞬間、土を踏む音がした。
私は顔を上げる。
夕日の中に、黒い影が一つ。
レオンさんだ。
鎧の縁が橙に光って、横顔はいつも通り硬いのに。
その姿を見るだけで、胸の奥がほどけていく。
——来てくれた。
約束したから、じゃない。
私のために、来てくれた。
喉が、からからになる。
息を吸うだけで、心臓が痛いほど跳ねた。
「……凛」
名前を呼ばれる。
それだけで、返事はもう半分終わってしまいそうだった。
私は一歩、畝の間から出た。
足元の土が柔らかく沈む。
逃げない、って自分に言い聞かせるみたいに、しっかり踏む。
「レオンさん」
彼の視線が私に来る。
濃い色の瞳が、夕暮れの光を飲み込む。
いつもなら怖いはずのその目が、今日は——優しい。
私は唇を開いた。
でも、言葉はすぐには出てこない。
出した瞬間、もう戻れないから。
レオンさんは、急かさない。
ただ、ここにいてくれる。
私が私でいられる距離で、黙って待ってくれる。
その沈黙が、怖くない。
むしろ、嬉しい。
私は、胸の前で組んでいた手をほどいた。
拳にしてしまうと、泣いてしまいそうだったから。
「あの……返事、いいですか」
声が震える。
情けないくらいに。
でも、レオンさんは眉一つ動かさない。
私の震えごと受け止めるみたいに、真っすぐ見てくれる。
言った瞬間、空気が変わった。
薬草の葉が一斉に揺れて、ざわ、と音を立てる。
まるで畑そのものが、息を吸ったみたいに。
レオンさんの喉が、こくりと動く。
短い沈黙のあと、彼は小さく頷いた。
「……ああ」
それだけ。
なのに、胸が熱くなって、目の奥が痛む。
私は、自分の足元を一瞬だけ見た。
二人の影が、土の上に並んでいる。
少しだけ、肩のあたりが触れそうな距離。
——この影の並びを、私はもう当たり前にしてしまった。
当たり前にしたい、と願ってしまった。
顔を上げる。
レオンさんは、逃げない。
逃げられないくらい真剣な顔で、私を待っている。
だから、私は言う。
回り道をしないで。
逃げ道を作らないで。
「あなたの隣がいいです」
声は思ったより、まっすぐ出た。
空に投げた言葉が、落ちていかない。
私の胸の真ん中で、ちゃんと立っている。
レオンさんの目が、大きく見開かれる。
そして、ほんの僅か——息が止まったのが分かった。
私は、もう一度、言い切る。
今度は、私の未来として。
「——ずっと」
たった二文字なのに、体温が全部そこに集まったみたいだった。
怖い。
でも、それ以上に——幸せだ。
レオンさんの肩が、少しだけ落ちた。
鎧の中の胸が、深く息を吐く気配。
張り詰めていた糸が、音を立てずに緩む。
彼は一歩、近づいた。
畝の間の距離が、消える。
私の前に立った彼は、何か言おうとして、言葉を探すみたいに口を開き。
そのまま閉じた。
そして——
彼の口元が、少しだけ上がった。
見間違いじゃない。光のせいでもない。
固い横顔に、初めて「温度」が宿る。
レオンさんが、笑った。
それは派手じゃなくて、静かで。
でも、私の胸の奥を一瞬で満たしてしまうほど、眩しかった。
「……凛」
名前が、柔らかい。
その柔らかさに、私は泣きそうになってしまう。
「はい」
返事をする声が、少しだけ掠れた。
レオンさんの手が、ゆっくり伸びてくる。
剣を取るときみたいに迷いがないのに、触れる直前で、ほんの一度だけ躊躇した。
私の顔色を窺うみたいに。
私は首を振った。
大丈夫、じゃない。
——来て、っていう合図。
彼の指先が、私の手を包む。
手袋越しじゃない、素手の温度。
思っていたより熱くて、思っていたより確かだ。
ぎゅ、と握られる。
痛くない。むしろ、心の奥がほどけていく。
「……いいのか」
低い声が、少しだけ震えていた。
この人も怖かったんだ、と初めて知る。
強い人だからじゃない。
私を大事にしたいから、怖かったんだ。
私は頷いて、指を絡めた。
握り返す。
逃げない、と形にする。
「いいです」
そして、もう一度だけ。
彼に届くように、息を込めて。
「私が、選びました」
レオンさんの喉が鳴る。
次の瞬間、彼は私を引き寄せた。
鎧が少し当たって、硬いはずなのに。
その中にある体温が、私の体温と重なる。
抱きしめられた腕が、怖いくらい丁寧で、優しい。
私は、彼の胸元に額を寄せた。
聞こえる。心臓の音。
速い。私と同じだ。
「……凛」
もう一度、名前。
今度は、確かめるみたいに。
私は顔を上げた。
近すぎて、彼の息が頬に触れる。
目を逸らしたら、もったいない気がした。
「これからも」
私は言う。
いつもの畑を思い浮かべて。
干し棚の匂いも、薬草束の重さも、夕暮れの色も。
「隣で、笑ってもいいですか」
レオンさんは、また僅かに笑った。
今度は、さっきより分かりやすく。
私の胸が、きゅっと甘く痛む。
「笑え」
不器用な言い方。
でも、その言葉の奥に、守りたい未来が詰まっている。
私は、小さく笑った。
涙が一粒だけ、こぼれた。
レオンさんの指が、親指で私の頬を拭う。
触れたところが熱くて、恥ずかしくて。
でも、逃げたくない。
「凛」
呼ばれるたび、胸の奥が柔らかくなる。
私は、もう一度だけ確かめたくて、言葉を選んだ。
「私、怖いんです」
正直に言うと、喉が痛んだ。
弱さを見せたら、嫌われると思っていた癖が、まだ残っている。
「誰かの期待に応えるために生きるのが、ずっと怖かった」
聖女、と呼ばれて、笑えと言われて、役に立てと言われて。
私はそれに慣れたふりをして、いつもどこかで息を止めていた。
「だから……隣にいることまで、役目にしたくない」
震えるのは、さっきよりもはっきり自分で分かった。
好き、という言葉は甘いのに、未来の話は重い。
重いからこそ、逃げずに言いたい。
レオンさんは、私の手を離さない。
指を絡めたまま、ぎゅっともう一度、確かめるように握った。
「役目にしない」
短い断言。
剣の抜き方みたいに迷いがなくて、心がほどける。
「凛が歩けない日は、俺が歩幅を合わせる」
「泣く日は、泣いていい場所を作る」
「笑える日は……一緒に笑う」
一つひとつが、未来の形だった。
明日も、明後日も、その先も。
畑の土の匂いの中で、薬草束を抱えながら。
私は息を吸って、頷く。
怖さが消えるわけじゃない。
でも、怖さごと抱えて、ここにいたい。
「じゃあ……約束してください」
「私が立ち止まっても、あなたが隣にいるって」
「私が迷っても、あなたが手を離さないって」
言い切った瞬間、レオンさんの眉がほんの少しだけ下がった。
それは困った顔じゃない。
大切なものを抱くときの顔だ。
彼は、私の額に自分の額をそっと寄せた。
鎧の冷たさじゃなくて、呼吸の温度が近い。
「ああ。ずっとだ」
——次話「聖女のいらない国」――次の一手が、運命を動かす。