——眠れない夜、凛は日記に『前世の私へ』と書き出し、看護師として生きた自分へ手紙を綴る。
眠れない夜がある。
灯りを落とした部屋で、胸の奥だけが白く目を覚ましてしまう。
そんなとき、私は日記を開く。紙の匂いが、静かに泣いている気がする。
ページの真ん中に、まっすぐ書いた。
前世の私へ
あなたがこれを読む日は来ないのかもしれない。
けれど、書かないと今の私が崩れてしまう夜がある。
だから、これは私のための手紙。
でも、届くなら——届いてほしい。
あなたは、看護師だった。
白い靴で走って、白い廊下を何度も往復して。
ポケットにペンライトとハサミと、誰にも見せないため息を詰め込んでいた。
ナースコールの音が鳴るたび、心臓が跳ねた。
誰かの苦しさが、あなたの名前を呼ぶ。
あなたは「はい」と言って、走って、笑って、手を握った。
あの手は、よく冷えていたね。
点滴の管が光って、モニターの波が揺れて。
機械の規則正しい音の隙間で、人の命が小さく息をしていた。
「大丈夫ですからね」
あなたはそう言って、頷いて、背中をさすった。
本当は自分がいちばん大丈夫じゃなかったのに。
夜勤明けの窓は、白すぎた。
朝なのに、世界がまだ眠っているみたいで。
あなたの目だけが赤くて、まぶたが砂みたいに重くて。
それでも、帰らなかった。
帰れなかった。
帰ってしまったら、誰かが困る気がしたから。
あなたがいないと、何かが壊れてしまう気がしたから。
でもね。
本当はもう、そのときから壊れていたんだと思う。
あなたが壊れる音は、いつも小さくて、誰にも聞こえなかっただけで。
あなたは優しかった。
優しいから、痛かった。
優しいから、頑張れた。
優しいから、限界が分からなくなった。
思い出す。
家族に説明して、頭を下げて、謝って。
謝らなくていいことまで、先に謝ってしまう癖。
「私がもっと早く気づいていれば」
その言葉を、何度胸の中で繰り返しただろう。
救えなかった命がある。
助けられなかった時間がある。
あなたの手が届く前に、静かに終わってしまった呼吸がある。
たとえば、あの人。
あなたが「大丈夫」と言い続けた、窓際のベッドの人。
名前を呼ぶと、目尻だけで笑ってくれて。
酸素マスクの下で「君は優しいね」と、息みたいな声で言った。
あなたはその言葉が、嬉しくて、怖かった。
優しいと言われるたびに、もっと優しくしなきゃいけない気がしたから。
その人の「ありがとう」は、あなたの胸に小さな穴を開けて、そこから責任感が流れ込んできた。
面会時間ぎりぎりに来た家族へ、あなたは何度も頭を下げたね。
「今はお休みになっています」
「状態は……安定しています」
安定なんて言葉で、崩れそうなものを支えているふりをした。
本当は知っていた。
あの手の冷たさが、昨日より少しだけ増していたこと。
脈の強さが、ゆっくりほどけていくのを、指先が感じ取っていたこと。
それでもあなたは、笑って見送った。
そして、いちばん悔しい朝が来た。
カーテンの隙間から光が差して、床に薄い線を引いて。
あなたは夜勤の引き継ぎを終えたところだった。
最後に一度だけ、と病室へ向かい——
間に合わなかった。
ベッドの上は静かで、モニターの波は真っ直ぐだった。
あなたは立ち尽くして、呼吸の仕方を忘れた。
「ごめんなさい」
口から出たのは、その言葉だけ。
誰に謝っているのか分からないまま、あなたは謝った。
医者でもなく、神様でもなく、たぶん自分自身に。
「間に合わなかった私」を許せなくて、何度も何度も謝った。
帰り道、あなたは制服のポケットに手を突っ込んで、爪の跡が残るほど握りしめた。
掌の中に、小さな絆創膏の端があって。
それが、あの人の指に貼ったものだと気づいた瞬間、膝が折れた。
そのたびに、あなたは自分を責めた。
責めることで、次は間に合わせようとした。
そして「次」を繋ぐたびに、また別の「次」が来る。
終わりのない廊下を、ずっと走っていた。
あのときのあなたに、私はまず言いたい。
あなたは間違ってなかった。
患者さんを大事にしたこと。
怖がる人の手を握ったこと。
怒鳴られても、理不尽に耐えたこと。
泣きたい夜に泣かず、笑顔で朝を迎えたこと。
どれも、間違いじゃない。
あなたが誰かを守ろうとしたのは、正しかった。
その一瞬に救われた人が、確かにいた。
あなたが声をかけたから眠れた人が、確かにいた。
あなたが「ここにいます」と言ったから、孤独が薄れた人が、確かにいた。
だから、あなたの優しさは、無駄じゃない。
あなたの努力は、虚しいだけじゃない。
あなたの手は、空っぽじゃない。
でも。
でもね。
あなたは、あなた自身にも、手を伸ばしてよかった。
自分にも優しくしてよかったんだよ。
休憩室で、椅子に沈んでよかった。
甘い缶コーヒーを飲んで、喉を焼くみたいに温めてよかった。
「今日はもう無理です」と言って、誰かに渡してよかった。
泣きたいときは泣いて、涙で頬を冷やしてよかった。
責任感は、尊い。
だけど、尊さで自分を締め付けてしまったら、優しさはいつか刃になる。
あなたはそれを、薄々分かっていたはずなのに。
分かっている自分を、さらに責めてしまったね。
「私さえ頑張れば」
その言葉は、誰かを救う呪文みたいで。
同時に、あなたを縛る鎖だった。
あなたが倒れたら、救えるものまで救えなくなる。
あなたが笑えなくなったら、あの「大丈夫ですからね」は空洞になる。
あなたの心が死んだら、手は温かくても、言葉は届かなくなる。
だから、あなたが自分を守ることは、逃げじゃなかった。
誰かを大事にするために、自分も大事にする。
それは両立していい。
むしろ、それが本当の看護だったんだと思う。
ねえ、前世の私。
あなたは、きっと最後まで自分を許せなかった。
「足りなかった」と言い続けた。
足りない自分を叱りつけて、走らせて、また叱った。
でも今、私はあなたを抱きしめたい。
手のひらを重ねて、あなたの指の震えを確かめたい。
そして、言う。
もう、よく頑張ったね。
あなたが「頑張った」と言われるのが苦手なのも、知っている。
頑張ったと言われた瞬間、頑張れなかった日々が浮かぶから。
疲れて声が荒くなった夜。
イライラして、患者さんの呼びかけに一瞬遅れた瞬間。
同僚のミスに冷たくしてしまった朝。
あなたはそれを、全部覚えている。
良かったことより、出来なかったことだけを、きれいに並べる癖があった。
だから私は、ここに書く。
その「出来なかった」に気づけるあなたは、誠実だった。
後悔できるあなたは、人を雑に扱わなかった。
完璧じゃなくても、あなたは最後まで人を人として見ようとした。
それが、あなたの仕事だった。
誰かの命を背負う仕事は、いつだって重い。
それでもあなたは逃げなかった。
逃げないことが正義だと信じてしまった。
信じるしかなかった。
だって、あなたは怖かったんだ。
自分が逃げたら、世界が冷たくなる気がしたから。
あの頃のあなたが、誰にも言えなかった言葉を、私が代わりに言う。
怖かったね。
苦しかったね。
悔しかったね。
眠りたかったね。
あなたは弱かったんじゃない。
強すぎた。
強さを「当然」にしてしまった。
その強さを、誰かに頼って分けてもよかったんだよ。
そして——ごめんね。
今の私は、あなたが背負った分までちゃんと呼吸できている。
あなたが我慢していた「休む」を、私は少しずつ覚えた。
あなたが笑えなかった分、私は笑っている。
ここに来て、初めて分かったことがある。
あなたがあの世界で守ろうとしたのは、患者さんだけじゃなかった。
「優しい世界」を、守ろうとしていた。
痛い人が痛いと言えること。
怖い人が怖いと言えること。
そして、ひとりにならないこと。
でも、あなた自身が、ひとりになっていた。
助けを求める喉を、職業意識で押し潰していた。
それを「大人」と呼んで、平気な顔を作った。
私が今、こうして日記に手紙を書けるのは。
あなたが壊れながらも、最後まで誰かを見捨てなかったからだ。
その「見捨てない」が、形を変えて、私の中に残った。
だから私は、あなたを否定しない。
あなたの人生は、途中で途切れてしまったように見えても。
ちゃんと、私に繋がっている。
あなたが抱えた痛みも、あなたが流した涙も、無駄じゃない。
この世界では、白衣は着ていない。
でも、誰かの痛みを見過ごせないところは、あなたのままだ。
その「まま」が、今は誇らしい。
だって、私はもう、ひとりで走らないから。
隣にいてくれる人がいる。
手を引いてくれる人がいる。
「凛、今日はもう休め」と言ってくれる声がある。
私はそれを、受け取れるようになった。
あなたが欲しかった言葉を、今の私はもらっている。
あなたが欲しかった時間を、今の私は生きている。
今の私は幸せです。
だからあなたも、安らかに。
……そう書いた瞬間、インクがじわりと滲んだ。
胸の奥が、痛いほど軽くなる。
涙が落ちて、文字の端を少しだけ溶かした。
私は頁を閉じようとして、指を止めた。
紙の隅。
私が書いていない場所に、細い線が一本、いつの間にか引かれていた。
まるで、誰かが返事を書き始めたみたいに。
——「凛へ」
その三文字が、月明かりの中で、確かに増えていく。
——次話「私の答え」――二人の距離が、もう一段近づく。