——辺境での静かな日常。
目覚めて、胸が痛くない。
それだけで、朝はもう祝福みたいだった。
隣から聞こえる寝息が、静かに私を現実へ繋いでくれる。
カーテンの隙間から、薄い光が差していた。
冬ほど尖っていない朝。春へ向かう途中の匂いがする。
薪の残り香と、干した薬草の甘い苦味。
私は音を立てないように上半身を起こして、足を床へ下ろした。
毛織りの靴下が、少し毛羽立っている。
こういう小さな粗さが、なぜか嬉しい。
「……起きた?」
背後から低い声。
まだ眠りの底にあるみたいに、言葉が短く丸い。
「はい。……起こしましたか?」
「起きてた」
レオンは上体を起こし、髪を指で掻いてから、私を見た。
濃い灰青の目が、朝の薄明かりでもはっきりしている。
その目が柔らかいときがあると知ってしまったのは、私の弱点だ。
「お湯、先に沸かしますね」
「俺がやる」
「……じゃあ、私は窓を開けます」
役割を押しつけ合うのではなく、譲り合って決まる朝。
神殿では、いつも「今日は何人治すの?」から始まった。
ここでは、「お湯」と「窓」だ。
診療所の戸を開けると、木の匂いがした。
レオンが作ってくれた看板は、風に揺れて軽く鳴る。
“診療所 凛”——墨の黒が、まだ新しい。
私はまず、入口に置いた桶の水を入れ替えた。
手洗い用の水。布。灰の小皿。
誰かの病は、目に見えないところから運ばれる。
だから私は、見える形にしておく。
薬草棚の扉を開けて、乾燥した葉の束を一本ずつ確かめる。
苦いセージ。甘いカモミール。鼻の奥を冷やすミント。
それぞれが、今日来る誰かの不安を少しだけ軽くする。
朝一番の患者は、いつも同じだ。
老いた手が、布に包んだ足を差し出す。
「凛ちゃん、これ、また……」
「見せてくださいね」
靴擦れ。
畑を歩く足は強いけれど、皮膚は正直だ。
温い湯で洗い、乾かし、薬草の軟膏を薄く塗る。
「痛みは、どれくらいですか?」
「朝が一番……」
「じゃあ、今日はこの布を変えて。家に戻ったら、少しだけ休んでください」
“休む”という言葉を、私はここで練習した。
患者に言うたび、自分にも言っている気がする。
診療所の端で、レオンが黙って椅子を直している。
背中だけがそこにある。
見張りのためじゃない。隣にいるための背中だ。
「レオン、ありがとう」
——いつからか、「さん」を落としていた。意識して変えたんじゃない。ただ、もう距離を測る言葉が要らなくなっただけだ。
「……何が」
「そこにいること」
レオンは一瞬だけ手を止め、視線を逸らしたまま頷いた。
それだけで、胸の奥がふっと温かくなる。
診療の合間に、机の端に封をした手紙が目に入った。
国境の向こうへの返信。「聖女を貸してほしい」——あの手紙への答え。
聖女はもういない。代わりに、手の洗い方と、記録のつけ方を知っている弟子を送ります。
そう書いた自分の字を見て、ふっと息が抜けた。
もう「私が行かなきゃ」と思わなくていい。それが、いちばんの変化だ。
昼前に、薬草畑へ出た。
土は昨日の雨をまだ少し含んでいて、踏むと柔らかい。
畝の端に並べた石が、日を浴びてぬるくなっていた。
私が屈むと、背後で同じように影が沈む。
レオンは何も言わず、私の籠に手を伸ばして、重いほうを持っていく。
「半分こ、しましょう」
「……今、あんたの半分でも重い」
「そんなことありません」
「ある」
短い押し問答。
私は笑ってしまって、負けを認める代わりに、籠の取っ手に指を残した。
二人で持てば、重さはただの現象になる。
苦しさじゃなくて、手触りになる。
葉の裏に小さな虫が隠れていないか見る。
蕾が固いものは残し、開ききった花は摘む。
乾かすための束を作りながら、私は気づく。
私の手は、まだ荒れている。
でも、その荒れはもう、命を削った跡だけじゃない。
土と水と、誰かの暮らしに触れた跡だ。
ふいに、遠くから高い声が飛んできた。
「りーん! あそぼ!」
声の主は、村の子どもたちだ。
畑の向こうで手を振っている。
まだ背が低くて、風に揺れる草に隠れたり、出たりする。
「今日は……仕事が終わったら」
私が言いかけたところで、レオンが小さく咳払いした。
咳払いなのに、すごく不器用に優しい。
「終わってるだろ」
「え?」
「今の分」
私は畑を見た。
確かに、今日の“最低限”はもう足りている。
足りているのに、私はいつも、余分に積み上げたくなる。
レオンは畑の端に立ち、子どもたちへ顎をしゃくって見せた。
それは「行け」という合図だった。
「……行ってきます」
「俺も行く」
広場の土は乾いていて、走ると小さな埃が舞う。
子どもたちは木の枝を剣にして、騎士ごっこを始めた。
「レオンみたいに、こう!」
「違う! レオンは、もっと……こう!」
本人がいるのに、勝手に型を作られていく。
レオンは困った顔をしない。
困った顔ができない。
その代わり、眉がほんの少しだけ動く。
私は薬草を入れるための小袋を持ったまま、子どもたちの輪の外に立った。
輪の中へ入るのが、まだ少し怖い。
前世でも、仕事の輪の外に立つと、置き去りにされる気がしたから。
でも、ここでは——
「凛も!」
小さな手が、私の袖を掴んだ。
引っ張る力は弱いのに、断れない力がある。
それは義務じゃない。誘いだ。
「……私、剣は苦手ですよ」
「じゃあ、まほう!」
「魔法……」
子どもたちの“魔法”は、光じゃなくて、石ころと草花だ。
私はポケットからミントの葉を一枚取り出して、指先でくるりと回した。
香りが立つ。
「はい、勇気が出る魔法です」
「すげー!」
「俺にも!」
次々と手が伸びてくる。
私は笑って、一枚ずつ配った。
ミントは万能じゃない。けれど、香りで深呼吸はできる。
深呼吸ができれば、泣きそうな気持ちが一歩だけ遠ざかる。
レオンは子どもたちの相手をしながら、私のほうを見ていた。
その視線は、監視の目じゃない。
私が楽しめているか確かめる目だ。
「……凛」
呼ばれて、胸が跳ねた。
名前が短くなるだけで、距離が変わる。
「はい」
「笑ってる」
「……見てました?」
「見てた」
短い会話。
それだけで私は、輪の中へ一歩入れた気がした。
夕方、家へ戻ると、裏庭で薪割りの音がしていた。
乾いた木が割れる音は、驚くほど気持ちいい。
それは破壊じゃなく、暮らしを支える音だ。
レオンの腕が振り下ろされるたび、筋がしなり、刃が木に吸い込まれる。
強いのに、乱暴じゃない。
必要なだけで止まる手だ。
「危ないので、離れてください」
「はいはい」
そう言いながら私は、わざと少し遠い場所で鍋を洗う。
水に指を浸すと、昼の土が落ちていく。
その落ちていく感覚が、今日の終わりを教えてくれる。
台所では、刻んだ根菜の匂いが立った。
玉ねぎに似た甘い香り。干し肉の塩気。
薬草棚からローリエを一枚。スープに落とす。
「味、どうだ」
薪割りを終えたレオンが、手を洗いながら聞いた。
桶の水に指を入れて、爪の間まで丁寧に。
最初は照れくさそうだったのに、今は当たり前みたいにやる。
「……おいしいです。ちゃんと、家の味がします」
「家の味?」
「はい。誰かのためじゃなくて、今日の私たちのための味」
レオンは言葉を探すみたいに、少しだけ目を伏せた。
それから、ぽつりと。
「それでいい」
その四文字が、私の背中の力を抜いた。
誰かに許されたからじゃない。
ただ、ここでは、それが自然だから。
食事のあと、皿を洗って、布巾を干して。
火を落とした部屋は、少しだけ暗くて、あたたかい。
窓の外に、夕日が残っているのが見えた。
「外、出ますか?」
「行く」
二人で、家の裏の小さな丘へ登る。
草が足首をくすぐる。
遠くで、牛の鈴が鳴った。
夕日は、思ったよりゆっくり沈む。
王都の塔の影のように急かすものが、ここにはない。
ただ光が、山の稜線に沿って静かに薄くなる。
レオンが隣に立つ。
肩が触れない距離。触れないのに、離れない距離。
私は、言葉を選ばずに口を開いた。
今日のことを、評価するみたいに。
でも、点数をつけるためじゃなくて、確かめるために。
「特別なことは何もない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ怖くなった。
特別じゃないなら、いつでも奪われる気がして。
前世の私は、特別な役割の上でしか生きられなかったから。
レオンは、夕日を見たまま言う。
いつもの短さで。けれど、その短さに、揺るがない重みがある。
「何もないなら、守りやすい」
私は息を止めて、それから笑ってしまった。
守る対象が、偉大な使命じゃなくて。
お湯と窓と、手洗いの桶と、畑の土と。
子どもたちの笑い声と、薪が割れる音と。
それだけでいいと言われたみたいで。
私は夕日へ向けて、ゆっくり言う。
今度は怖くならないように、手のひらで温度を確かめるみたいに。
「でも、これが幸せです」
レオンの指が、私の指先に触れた。
握りしめない。引っ張らない。
ただ、そこにいることを伝えるだけの触れ方。
夕日が、山の向こうへ落ちた。
残った光が、雲の縁を薄い金にする。
その金色の中で、レオンが私のほうを見た。
「明日も、起きたら言え」
「何をですか?」
「……幸せだって」
胸の奥が熱くなって、私は頷いた。
頷きながら、なぜか喉がきゅっと締まる。
明日。
きっと私は、別の涙を知る。
悲しみでも、義務でもない——
嬉しさだけの涙を。
——次話「初めて自分のために泣きました」――次の一手が、運命を動かす。