S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第39話: 初めて自分のために泣きました

第3アーク · 4,121文字 · draft

——今日、私は「聖女」じゃなく「凛」として泣く。

鏡の中にいる私は、知らない人みたいだった。

白い布が、胸元から柔らかく広がっている。肩に落ちるレースは、光を透かして、朝の窓辺を少しだけ眩しくした。
 神殿の白とは違う。あれは“役目”の白で、これは——誰かのためじゃない白だ。

指先が震えて、髪飾りに触れられない。
 鏡の前の椅子に腰かけたまま、私はただ自分を見つめる。

頬を、温かいものが伝った。

「あ……」

声が、薄く割れた。
 涙だと理解するより先に、ぽたぽたと落ちる音が耳に届いて、胸の奥がきゅっと縮む。

泣き方なら知っている。
 痛い子どもを抱きしめたとき。助けられなかった命を思い出した夜。歴代の聖女の日記を読んだとき。
 私は何度も泣いた。泣けた。泣いてきた。

でも、それはいつだって——誰かのための涙だった。
 同情。悔しさ。怒り。祈り。義務の余り。
 自分の胸の痛みを“正当な理由”に変えられるときだけ、私は涙を許してきた。

だから今、鏡の中の私は、困っている。
 涙の理由が、見つからない。
 あるのは、ただ——胸がいっぱいになる感覚だけ。

「……綺麗」

誰に言うでもなく、呟いた。
 自分に向かって“綺麗”なんて言ったことがなかった。
 言ってはいけない気がしていた。そんな言葉は、頑張ったご褒美みたいで。私は、ご褒美をもらうほどのことをしていないと、ずっと思っていたから。

なのに。
 白いドレスの(すそ)が、膝の上で小さく揺れるだけで、心臓が跳ねる。
 この身体が、もう"使い潰すため"にあるんじゃないんだと、やっと実感してしまう。

ふと、机の上の手帳が目に入った。
 あの夜、前世の自分へ書いた手紙。その隅に浮かんだ、細い返事の文字。
 ——「凛へ」
 今なら、その先が分かる気がした。
 おめでとう。やっと、自分のために泣けたね——きっと、そう書いてある。

涙が、止まらない。
 苦くない。冷たくない。喉の奥に引っかからない。
 ただ、熱くて、軽い。

扉が、控えめに二度ノックされた。
 次の瞬間、木が軋む音と一緒に、低い足音が部屋に入ってくる。

「……凛」

呼ばれる。
 名前を呼ばれるだけで、涙が増えるなんて、ずるい。

背後の鏡越しに、黒い騎士服の影が映った。
 いつもの人なのに、今日はいつもより静かに見える。たぶん、私が壊れないようにしているのだ。

レオンは、私の肩越しに鏡を見て、それから直接こちらへ視線を移した。
 眉が、ほんの少しだけ動く。

「泣いてるのか?」

私は、笑おうとして、うまくいかなかった。
 頬に指を当てる。濡れている。確かに、泣いている。

隠したい、と思わなかった。
 「大丈夫です」と言って誤魔化したいとも、思わなかった。

だから、正直に頷いた。

「……うん。嬉しくて」

声にした瞬間、胸の奥の“許可”が外れる音がした気がした。
 今までは、どこかに錠前があって、幸せだけは鍵をかけていた。
 嬉しいときほど、息を殺していた。
 嬉しいことを受け取ったら、次の瞬間に奪われる気がして。

でも、もう——奪われない。
 奪わせない。
 守られるだけじゃない。私も、守る。私の(しあわ)せを。

私は涙で濡れたままの目で、レオンを見上げた。

「初めて、自分のために泣いてます」

言えた。
 言ってもいいと思えた。
 言った途端に、胸が痛くなるんじゃなくて、胸がほどけていく。

レオンは、目を伏せた。
 それから、ゆっくりと私の前に膝をつく。
 鎧のときみたいな硬い音じゃない。布が擦れる、穏やかな音。

「……そうか」

それだけ言って、彼は親指で、私の頬をそっと拭った。
 触れ方が、不器用なのに優しい。
 涙を止めるためじゃなく、涙が“ここにあっていい”と確かめるみたいに。

「綺麗だ」

短い一言だった。
 私が鏡に向かって言ったのと同じ言葉が、今度はレオンから返ってくる。
 胸が、またいっぱいになって、私はこくりと頷いた。

「……ありがとう」
 「礼は、式が終わってから言え」
 「いま、言いたいんです」

私がそう言うと、レオンは少しだけ困った顔をして、視線を逸らした。
 それがいつものレオンで、泣きながら笑ってしまう。

「……泣き顔も、嫌いじゃない」
 「それ、褒めてます?」
 「褒めてる」

短く言い切るところまで、いつも通りで。
 私は笑って、涙を流して、息をした。
 ちゃんと自分のために。


リンデン村の朝は、パンの匂いから始まる。
 今日はそこに、花の匂いが混ざっていた。

広場へ続く道に、村の子どもたちが野花を並べている。
 白、黄色、薄い桃色。名前の分からない小さな花も、誰かが大切に摘んできたのだろう。

「凛ちゃん、寒くないかい?」

腕を組んでくれる手があった。
 エルザさんの手は大きくて、いつだって温かい。
 その温かさに触れるたび、私は“聖女様”じゃない自分に戻っていける。

「大丈夫です……じゃなくて」
 私の口が、いつもの癖を探しにいくのを、私は途中で止めた。
 ちゃんと、今日の言葉を選ぶ。
 「……平気です。あったかいので」

エルザさんは、笑った。
 その笑い方が、泣きそうな人の笑い方で、私は慌てて彼女の顔を見る。

目尻に、きらりと光るもの。

「エルザさん……」
 「だってねぇ」

エルザさんは、私の頬に触れないように気をつけながら、襟元(えりもと)の布を整える。
 まるで小さな子に服を着せるみたいに、丁寧に。

「よかったねぇ、凛ちゃん」

その一言で、喉が熱くなった。
 “よかったね”なんて、私はずっと誰かに言う側だった。
 怪我が治った人に。助かった命に。涙を堪えている子に。
 けれど、私自身が言われたことは、ほとんどなかった。

「……はい」

返事が、掠れた。
 でも、逃げなかった。
 私の口から出た“はい”は、義務の頷きじゃない。
 祝福(しゅくふく)を受け取るための“はい”だ。

鐘の音がした。
 村の古い礼拝堂(れいはいどう)の小さな鐘。誰かが紐を引いたのだろう。
 高くはない音なのに、空にまっすぐ伸びていく。

広場に集まった村人たちが、ぱっとこちらを見る。
 二百人ほどの小さな村の、ほとんど全員がいる気がした。
 畑の人も、羊飼いも、鍛冶屋も、薬草を分けてくれたおばさんも。

誰も“聖女様”とは呼ばない。
 「凛ちゃん」「凛」「花嫁(はなよめ)さん」——そんな声が、笑いながら飛んでくる。

私の足が、震えた。
 怖いからじゃない。
 嬉しさが、身体に収まりきらないからだ。

レオンが、広場の奥に立っていた。
 黒い騎士服はいつも通りなのに、胸に小さな白い花を挿している。
 その不器用な飾り方が、彼らしくて、胸がきゅっとなる。

彼と目が合った瞬間、レオンの肩が少しだけ下がった。
 戦うときの彼じゃない。
 ここにいるのは、ただの——私の隣にいたい人だ。


式は、驚くほど静かに始まった。

派手な儀式も、豪奢(ごうしゃ)な祈りもない。
 村の長老が短く言葉を述べ、聖光神(せいこうしん)への感謝を唱える。
 それから、私たちは向かい合った。

レオンの手が、差し出される。
 その手は、剣を握ってきた手で、薬草を掘ってきた手で、私の熱を確かめてきた手で。
 ——そして今日、指輪(ゆびわ)をはめる手だ。

私は、そっとその手を取る。
 指先が触れ合っただけで、心臓が鳴った。
 大丈夫、なんて言わなくても、私はここに立っていられる。

長老が問う。
 互いに誓うか、と。

レオンは一度だけ息を吸い、短く答えた。
 「誓う」
 それだけで、十分だった。
 この人の言葉はいつも少ない。でも、少ないぶんだけ逃げない。

次に、私の番が来る。
 唇が震えた。けれど、声は出た。
 出せた。

「……誓います」

役目に縛られた誓いじゃない。
 誰かに“こう言え”と教えられた誓いでもない。
 私は、私の言葉で言った。

指輪が、私の指に通る。
 冷たい金属が、肌の熱で少しずつ温まっていく。
 それが、これからの時間みたいだと思った。
 ゆっくりでいい。温めていけばいい。

長老が、最後に告げる。
 「祝福を」

その瞬間、村人たちの拍手が一斉に弾けた。
 声が上がる。
 笑い声が混ざる。
 エルザさんが、両手で顔を押さえて、肩を揺らしているのが見える。

私の目にも、また熱いものが溜まった。
 けれど、それは朝の“ひとりの涙”とは少し違う。
 これは、みんなと分け合う涙だ。
 分け合っても減らない、嬉しさの水だ。

レオンが、ほんの少しだけ私に近づいて、低い声で言った。
 「……倒れるなよ」
 「倒れません」
 「無理はするな」
 「……うん」

“うん”が自然に出ることが、嬉しい。
 昔の私なら、敬語で壁を作って、頷きながら自分を押し殺した。
 でもいまの私は、頷いて、頼って、笑える。


式のあとは、広場の長机に料理が並んだ。
 焼きたてのパン。煮込み。果実酒。甘い焼き菓子。
 誰かが弾く小さな楽器の音に、子どもたちの足音が重なる。

「花嫁さん、こっちこっち!」
 「レオン、顔がこわいよ!」

村人たちに囲まれて、レオンが珍しく居場所に困っている。
 その様子に、私は笑ってしまった。
 笑うと、胸が痛くならない。
 笑ったぶんだけ、身体が軽くなる。

エルザさんが私の隣に座り、(うつわ)を押しつけてくる。
 「食べなさい。今日くらい、いっぱい食べていいんだよ」
 「今日くらい、じゃなくて……これからも、ですね」
 私が言うと、エルザさんは目を丸くして、それからまた泣いた。
 「そうだねぇ……そうだよ」

“これからも”。
 その言葉が、こんなに自然に出てくる日が来るなんて。

私はふと、自分の手を見る。
 昔の私の手は、治すためだけにあった。
 光を灯し、命を削り、笑顔を作り、倒れるまで動いて——それでも“足りない”と言われる手だった。

でも今の私の手は。
 パンをちぎって、湯気を受け止めて。
 子どもの頭を撫でて。
 薬草を束ねて、弟子に教えて。
 そして、隣の人の手を握る。

それだけで、ちゃんと“生きている”。

夕方、宴の喧騒が少し落ち着いたころ。
 私は広場の端へ抜けて、冷たい空気を吸った。
 空は淡い紫で、山の輪郭が柔らかい。

足音が近づく。
 振り向かなくても分かる。

「ここにいたのか」
 「……はい。ちょっとだけ」

レオンが隣に立つ。
 肩が触れそうなくらい近いのに、息が苦しくない。
 逃げ場を探さなくてもいい距離。

私は、空を見上げた。
 胸の奥に残っていた最後の硬さが、夜風みたいに抜けていく。

「レオン」
 「……なんだ」

私は彼の方を向いて、ちゃんと目を見た。
 泣く理由を探さなくてもいい。
 頑張った証明を並べなくてもいい。

ただ、言いたいから言う。

「幸せです。本当に」

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